最終更新日 2025-10-22

千利休
 ~茶杓「一期一会」が命救う縁~

千利休は「一期一会」の精神を茶の湯で大成。辞世の茶杓「泪」に託した思いは、高弟・蒲生氏郷の命がけの尽力で千家の命脈を救う縁となり、茶道文化を後世に繋いだ。

千利休と一期一会:一本の茶杓が紡いだ救命の縁、その歴史的深層

序章:逸話の源流を求めて ― 歴史の結晶を解きほぐす

戦国乱世の末期、茶の湯を大成させた一人の茶人、千利休にまつわる逸話は数多い。その中でも、ひときわ人々の心をとらえて離さないのが、「千利休~茶杓『一期一会』が命救う縁~」と題される物語である。それは、利休が自ら削った一本の茶杓に「一期一会」と銘じて弟子に与え、そのささやかな道具が時を経て、断絶の危機に瀕した千家の命脈を救う縁となった、という寓話的な授受譚だ。茶杓という小道具が人の命を救うという劇的な展開は、茶の湯の精神が持つ深遠な力を象徴しているかのようである。

しかし、この感動的な逸話は、ある特定の日時に起こった単一の出来事として、歴史書に明確に記録されているわけではない。むしろこれは、利休という人物の思想、その壮絶な最期、そして彼の死後も受け継がれた遺産の三つが、後世の人々の記憶の中で時間をかけて結晶化し、一つの美しい物語として磨き上げられたものと捉えるべきである。この歴史の結晶を丁寧に解きほぐし、その成り立ちを解明することこそ、千利休という人物と彼が生きた時代の精神性を、より深く理解するための鍵となる。

本報告書は、この寓話的な逸話を構成する三つの核心的要素を、それぞれの柱として徹底的に掘り下げる。

  1. 思想の柱: 利休の茶の湯の精神を凝縮した言葉、「一期一会」。それは、いかにして生まれ、戦国の世にどのような意味を持ったのか。
  2. 道具の柱: 利休最期の瞬間に立ち会った、実在する茶杓「泪(なみだ)」。それは、どのような状況で生まれ、何を託されたのか。
  3. 出来事の柱: 利休の死後、その血脈が弟子によって救われた歴史的事実。それは、誰によって、どのように成し遂げられたのか。

これらの三つの柱を、戦国時代という特有の社会状況を背景に、時系列と状況描写を交えながら詳細に解き明かしていく。それにより、一本の茶杓をめぐる物語が、単なる美談ではなく、戦国の世を生き抜いた人々の覚悟と信義が織りなす、必然の帰結であったことを明らかにする。

表:逸話「茶杓『一期一会』が命救う縁」を構成する歴史的出来事の時系列

年代 (西暦/和暦)

主要な出来事

関連人物

本報告書での関連章

1588年頃 (天正16)

『山上宗二記』が成立。「一期に一度の会」という思想が記される。

山上宗二、千利休

第一章

1591年 (天正19) 2月

豊臣秀吉、利休に堺での蟄居と切腹を命じる。

豊臣秀吉、千利休

第二章

1591年 (天正19) 2月28日

利休、最後の茶会を催し、自作の茶杓「泪」を古田織部に与えた後、切腹。

千利休、古田織部

第二章

1591年 (天正19) 以降

蒲生氏郷、利休の子・千少庵を会津にかくまい、その命脈を保護する。

蒲生氏郷、千少庵

第三章

1594年 (文禄3)

氏郷や徳川家康の尽力により、少庵が秀吉から赦免され、京に戻り千家を再興する。

千少庵、蒲生氏郷

第三章

第一章:思想の誕生 ― 「一期に一度の会」という覚悟

「一期一会」という言葉は、現代においては人と人との出会いの大切さを説く美しい標語として広く知られている。しかし、その源流が生まれた戦国時代において、この言葉はより切実で、命の重みを持つ行動哲学であった。その背景には、当時の茶の湯が果たした特異な役割が存在する。

戦国の茶の湯の役割

戦国時代、茶の湯は単なる趣味や芸道ではなかった。それは武将たちにとって、極めて重要な政治的・外交的駆け引きの舞台であった 1 。茶会は、同盟関係の確認、情報交換、敵対勢力との密談の場として機能し、時には戦の行方を左右することさえあった 2 。天下統一を進めた織田信長は、功績のあった家臣に対し、領地の代わりに「名物」と呼ばれる高価な茶道具を与えることで、新たな恩賞体系を構築した 3 。これは、茶道具が土地と同等、あるいはそれ以上の価値を持つことを公的に認めさせる、巧みなブランド戦略であった。豊臣秀吉もこの方針を受け継ぎ、茶の湯を自らの権威を示す手段として最大限に活用した 4

このような状況下で開かれる茶会は、常に極度の緊張感をはらんでいた。わずか数畳の茶室は、刀を置き、身分を超えて対座するという非日常的な空間である。しかし、その一室を出れば、昨日までの味方が今日の敵となり、互いに命を奪い合うことも珍しくない。茶会で顔を合わせる相手が、明日には戦場で相まみえるかもしれないという現実は、武将たちにとって日常であった。この「聖」と「俗」、「生」と「死」が常に隣接する空間こそが、「一期一会」という思想を生み出す土壌となったのである。平時における「この出会いを大切にしよう」という感傷的な解釈とは異なり、戦国の茶会における一回一回の出会いは、文字通り「これが最後かもしれない」という覚悟を伴う、真剣勝負の場であった。亭主も客も、この一瞬に全霊を傾けなければ、真の交流は成り立たなかったのである。

『山上宗二記』における「一期一会」の原点

「一期一会」という四字熟語を茶道の精神として明確に打ち出したのは、幕末の大老・井伊直弼の著書『茶湯一会集』であるが、その思想的源流は、利休の高弟・山上宗二が遺した秘伝書『山上宗二記』に遡ることができる 5 。天正16年(1588年)頃に成立したとされるこの書物の中で、宗二は師・利休の教えとして、茶人の心構えを次のように記している。

「路地ヘ入ヨリ出ルマデ、一期ニ一度ノ會ノヤウニ、亭主ヲ可敬畏(畏敬すべし)。世間雜談、無用也。」 7

これは、「茶室の庭(路地)に入ってから出るまで、それは一生に一度きりの会であるかのように心得て、亭主を敬いなさい。世間的な雑談は無用である」という意味である。ここで使われている「一期」とは、仏教に由来する言葉で、人が生まれてから死ぬまでの一生を指す 7 。つまり、「一期に一度の会」とは、この生涯でただ一度きりの会合であるという、極めて重い意味を持つ。この一節こそが、後の一期一会の精神の原点とされている。

利休の茶会における精神性の再現

利休にとって、「一期一会」は単なる観念ではなかった。それは彼が催す全ての茶会において、徹底的に実践されるべき哲学であった。その精神は、彼の数々の逸話からも鮮明に見て取れる。

例えば、秀吉を招いた有名な朝顔の茶会の逸話がある 11 。利休の屋敷の庭に見事に咲き誇る朝顔の評判を聞きつけた秀吉が、茶会を所望した。しかし、当日屋敷を訪れてみると、あれほど咲き乱れていたはずの朝顔が一輪残らず切り取られている。不審に思いながら秀吉が茶室に入ると、床の間に、ただ一輪だけ、最も美しい朝顔が活けられていた。利休は、無数の朝顔をあえて全て取り去ることで、その一輪が持つ「今、この瞬間」の美しさを極限まで際立たせたのである。これは、数限りない出会いの中から、ただ一度きりの「この会」を絶対的なものとして捉える「一期一会」の精神を、見事に視覚化した演出であった。

また、利休のもてなしに関する逸話は、彼が相手の状況を深く洞察し、その一回性の出会いに真心を尽くす人物であったことを物語っている。ある茶会に遅れてきた客に対し、一杯目にはまず喉を潤せるようにぬるめの茶を出し、落ち着いたところで二杯目に熱い茶を出したという話がある 13 。これは、石田三成がまだ小姓だった頃、鷹狩りで喉が渇いた秀吉に対し、一杯目にぬるい大ぶりの茶、二杯目にやや熱い茶、三杯目に熱い小ぶりの茶を出して感心させた逸話と通底する、相手本位の深い配慮である 4

一方で、利休はそのもてなしが形式的であったり、見栄であったりすることを見抜くと、容赦なく失望を示した。ある冬の日、懇意にしている茶人の家を予告なしに訪れた際、主人は驚きながらも利休を迎え入れた。突然の訪問にもかかわらず、邸内は手入れが行き届き、主人は庭の柚子を採ってきて柚子味噌を出すなど、とっさのもてなしに趣向を凝らした。利休はそれに喜んだが、料理に当時高級品で日持ちもしない蒲鉾が出されたのを見て、顔色を変えた。主人は利休がその日に近くを通ることを事前に知り、万全の準備を整えた上で、あたかも突然の来訪に対応できるかのように見せかけていたのである。蒲鉾の存在がその見栄を物語っていた。利休は、もてなしの心ではなく、己の技量を見せつけようとする主人の浅はかさに失望し、その場で席を立ったという 11

これらの逸話が示すように、利休の茶の湯における「もてなし」とは、定められた作法をこなすことではない。その時、その場、その相手という、二度と再現不可能な状況の中で、全身全霊で相手と向き合い、真心を尽くす行為そのものであった。それこそが、「一期に一度の会」という覚悟の、具体的な実践だったのである。

第二章:辞世の茶会 ― 茶杓「泪」に託されたもの

利休の茶の湯の精神が凝縮された「一期に一度の会」という覚悟は、彼の最期の瞬間において、最も劇的な形で体現されることとなる。死という極限状況下で、一本の竹から削り出された茶杓は、単なる道具を超え、師から弟子への魂の継承を象徴する、永遠の存在へと昇華した。

切腹命令と最後の茶会

天正19年(1591年)2月、天下人・豊臣秀吉との間に生じた確執は、ついに決定的な破局を迎える。利休は秀吉の勘気に触れ、京の聚楽屋敷での蟄居、そして切腹を命じられた 15 。その罪状として、大徳寺山門の金毛閣に自身の木像を掲げたことが不敬である、あるいは茶道具を高値で売買し私腹を肥やした、などとされた 2 。しかし、これらは表向きの理由に過ぎず、その背後には、わび茶の精神的美の世界を深化させる利休と、黄金の茶室に象徴される豪華絢爛な世界で権威を示そうとする秀吉との間の、埋めがたい美意識の対立や、政治的な影響力を増大させる利休への嫉妬があったと見られている 2

死を目前にした利休は、聚楽屋敷の一室で、最後の茶会を催す。招かれたのは、細川三斎(忠興)や古田織部といった、ごく親しい弟子たちであった 18 。秀吉の怒りが頂点に達している中、罪人である利休のもとを訪れることは、自らも秀吉の不興を買い、改易や切腹に追い込まれかねない極めて危険な行為であった。それでもなお、彼らが師の最期を見送るために参集したという事実は、利休と弟子たちの間に結ばれた絆が、権力者の威光をも恐れぬほどに固いものであったことを物語っている。

茶杓「泪」の誕生

静寂に包まれた茶室。釜の湯がしゅんしゅんと煮える音だけが響く中、利休は客をもてなした後、おもむろに小刀を取り、一本の竹を手に取った。そして、無心にそれを削り始めたと伝えられる 15 。一削り、また一削り。竹を削るかすかな音が、弟子たちの緊張をさらに高めていく。それは、利休が70年の生涯をかけて探求し、完成させた「わび」の美意識と、死を前にした澄み切った精神のすべてを、この一本の茶杓に凝縮させる、最後の創作活動であった。竹の節をあえて中央に配し、その不完全さの中に美を見出すという利休独自の作風 19 が、この時も貫かれたのかもしれない。

やがて、一本の茶杓が形を成す。利休は、今しがた自らの手で生み出したその茶杓を使い、弟子たちのために最後の一服を点てた。そこには、もはや多くの言葉はなかった。亭主と客の間には、ただ一碗の茶を介した、沈黙の対話が交わされるのみ。この静謐な空間で行われる一連の所作そのものが、利休が後世に残す、無言の辞世の句であった。

「泪」の授受と精神の継承

茶会が終わり、弟子たちが辞去しようとする時、利休は自作の茶杓を、弟子の一人である古田織部にそっと手渡した 16 。この授受の瞬間こそ、この物語のクライマックスである。それは単なる形見分けではなかった。古田織部は、利休の茶の湯を忠実に受け継ぎながらも、後に「織部好み」と呼ばれる大胆で破格な美を創造する、革新的な茶人であった 21 。利休は、自らの茶の湯の正統な継承者としてだけでなく、その精神を未来へと発展させていく革新者として、織部の才能を深く信頼していた。この一本の茶杓には、利休から織部へ、「道」そのものを託すという、重い意味が込められていたのである。

この茶杓「泪」は、利休の「わび茶」の精神を物理的に具現化した、いわば触れることのできる遺言であった。言葉では伝えきれない思想や美学、死生観を、一つの「モノ」に託して後世に伝えるという行為は、日本文化における伝達方法の一つの極致と言える。利休は死を前にして、多くの言葉を遺すことはできなかった。しかし、彼の本質は茶の湯という実践的な芸道の中にこそある。彼は自らの手で、その芸道の核心を象徴する道具を創り出し、最も信頼する弟子に手渡した。これにより、言葉を超えた精神――わび、さび、儚さ、そして死への静かな覚悟――が、物を通して弟子へと直接的に「伝授」されたのである。この瞬間、この茶杓はもはや単なる道具ではなく、利休の魂そのものを内包する器となった。

後日談:位牌となった茶杓

利休の死後、この茶杓を受け取った古田織部は、そのために黒漆塗りの筒を作り、そこに長方形の窓を開けた。そして、その窓を通して茶杓を、師の位牌代わりに拝んだと伝えられている 15 。この行為は、織部が師から託されたものの精神的な重みを、いかに深く理解していたかを示す感動的な逸話である。

この茶杓がいつしか「泪(なみだ)」と名付けられた背景には、様々な想いが込められている 22 。それは、非業の死を遂げた師・利休の無念の涙か、あるいはそれを見送るしかなかった弟子たちの悲嘆の涙か。はたまた、美が権力によって蹂躙される無常の世を憂う涙であったのかもしれない 23 。その名の持つ多義性が、この茶杓の物語性を一層深いものにしている。

この茶杓「泪」は、単なる伝説上の道具ではない。古田織部の手から徳川家康へと渡り、その後、尾張徳川家に代々受け継がれ、現在も徳川美術館に実物として所蔵されている 20 。この確かな来歴が、利休最期の物語に、揺るぎないリアリティを与えているのである。

第三章:命の継承 ― 蒲生氏郷、千家存続の縁となる

利休の死は、彼一人の悲劇に終わらなかった。天下人・秀吉の怒りは凄まじく、利休の一族もまた罪人として扱われ、彼が生涯をかけて大成させた千家の茶道は、断絶の危機に瀕した 25 。利休の子である千少庵の命も、風前の灯火であった。この絶望的な状況下で、逸話の核心である「命を救う縁」が、一人の武将の命がけの行動によって、現実のものとなる。

蒲生氏郷という人物

その人物こそ、会津の領主・蒲生氏郷である。氏郷は、勇猛果敢な武将として数々の武功を挙げただけでなく、茶の湯にも深く通じた当代一流の文化人であった 27 。彼は千利休に師事し、その高弟の中でも筆頭格とされる「利休七哲」の一人に数えられている 27 。師である利休は、氏郷を「文武二道の御大将にて、日本におゐて一人、二人の御大名」と最大級の賛辞で評価しており、二人の間には極めて深い師弟関係があったことがうかがえる 26 。氏郷の利休への敬愛は並々ならぬもので、その筆跡までもが利休のそれに酷似していたと伝えられるほど、深く私淑していた 27

命がけの庇護

師・利休が理不尽な死を遂げ、その血脈が絶えようとしている時、蒲生氏郷は動いた。彼は、天下人・秀吉の怒りを買うことを覚悟の上で、大きな危険を冒す決断を下す。自らの領地である会津若松に、利休の子・少庵をひそかにかくまったのである 25 。これは、秀吉の意向に公然と背く行為であり、もし発覚すれば、謀反の疑いをかけられ、自らの家も取り潰されかねない。まさに、自身の命と家の存亡を賭した、信義の行動であった。

この時、氏郷が少庵をかくまうために建てた、あるいは使用したとされる茶室が、現在も鶴ヶ城公園内に残る「麟閣」であると伝えられている 25 。この小さな茶室は、単なる建築物を超えて、千家の命脈を繋ぎ、日本の茶道文化を後世に伝えるための、重要な歴史の舞台となったのである。

千家再興への道

氏郷の尽力は、少庵をただ保護するだけに留まらなかった。彼は、徳川家康といった他の有力大名にも働きかけ、共に秀吉に対して千家再興の赦免を粘り強く願い出た 25 。秀吉の怒りが解けるまでには歳月を要したが、氏郷らのたゆまぬ努力は、やがて実を結ぶ。

文禄3年(1594年)、ついに秀吉の許しが下り、千少庵は京に戻ることができた。そして、利休が築いた茶の湯の道を受け継ぎ、千家を再興することに成功したのである。その後、少庵の子である宗旦、さらにその息子たちによって、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家が興され、今日の茶道の隆盛へと繋がっていく 25 。蒲生氏郷という一人の武将の信義がなければ、利休の茶道は歴史の狭間に消えていたかもしれない。

利休が茶の湯を通して弟子たちに伝えたのは、単なる点前の技術や美意識だけではなかった。それは、権力に屈しない精神の気高さや、師弟間の強い信義といった、武士の道にも通じる人間としての「在り方」そのものであった。利休は、天下人である秀吉に対しても、自らの美学を最後まで貫き通した。その姿を間近で見ていた弟子・氏郷は、茶の湯の精神とは権力におもねらないことだと、深く学んでいたに違いない。だからこそ、師が権力によって非業の死を遂げた時、その遺志を継ぐ氏郷が、同じ権力に屈して師の血脈を見捨てることはできなかった。氏郷が少庵をかくまった行為は、単なる同情や憐憫ではなく、師から受け継いだ「道」を命がけで実践する、必然的な行動だったのである。これこそが、茶の湯が育んだ「縁」が、文字通り「命を救った」歴史的瞬間であった。

終章:寓話の再構築 ― なぜ「一期一会」の茶杓は命を救うのか

これまで、千利休をめぐる寓話的な逸話を構成する三つの歴史的要素を個別に解き明かしてきた。ここで改めて、それらを統合し、なぜ「『一期一会』と銘された茶杓が命を救う」という一つの物語が生まれたのか、その生成のプロセスを結論付けたい。

三要素の統合

本報告書が明らかにした三つの柱は、それぞれが独立した歴史的真実である。

  • 第一に、戦国の世の死と隣り合わせの緊張感の中から生まれた、切実な覚悟としての 思想「一期一会」
  • 第二に、利休の辞世の茶会で生まれ、師の魂が宿る形見として弟子に託された、実在の 道具「茶杓『泪』」
  • 第三に、師への信義を貫いた弟子の命がけの庇護によって成し遂げられた、歴史的な 出来事「千家存続」

これらは、それぞれ異なる時間と場所で起こった出来事でありながら、千利休という一人の人物の死と、その精神の継承という一点で、深く結びついている。

物語の生成プロセス

後世の人々が、利休の劇的な生涯とその精神が確かに受け継がれた奇跡を語り継ぐ中で、これらの要素は自然と結びつき、一つの美しい物語へと昇華していったと考えられる。そのプロセスは、次のように再構築できる。

まず、利休の最期を象徴する、最もドラマティックな道具である**茶杓「泪」 が、物語の中心に据えられる。次に、利休の茶の湯の精神を最も簡潔に、そして最も深く象徴する言葉である 「一期一会」**が、その茶杓に与えられた「銘」として、物語の上で結びつけられる。茶杓「泪」が実際に「一期一会」と銘されていたという記録はないが、利休の最後の茶会こそが、まさに「一期一会」の精神の究極的な発露であったことを考えれば、この結びつきは極めて自然なものと言える。

そして最後に、この象徴的な道具の授受という行為が、最も重要で感動的な結果である**「千家の存続(命が救われたこと)」**と、直接的な因果関係で結びつけられる。具体的には、茶杓を授けられた弟子(物語の中では特定の個人に限定されず、利休の弟子たちを象徴する存在となる)が、その縁に導かれて利休の子を救った、という筋書きが形成される。史実では、茶杓「泪」を受け取ったのは古田織部であり、千少庵を救ったのは蒲生氏郷であるが、物語は、より本質的な「師弟の信義」というテーマを際立たせるために、これらの事実を一つの象徴的な行為へと凝縮させたのである。

このプロセスを経て、「利休が『一期一会』と銘した茶杓を弟子に与えた。その縁で、後にその弟子が利休の子の命を救った」という、簡潔で、教訓的で、そして人々の心を打つ一つの物語が完成した。

結論:史実を超えた「真実」

結論として、「千利休~茶杓『一期一会』が命救う縁~」という逸話は、文字通りの史実を記録したものではないかもしれない。しかし、それは決して「作り話」や「嘘」ではない。それは、利休の理不尽な死を悼み、彼が命をかけて築き上げた茶の湯の精神が、弟子たちの固い絆によって確かに受け継がれたという歴史の奇跡を記憶し、後世に伝えるために、人々が生み出した「より高次の真実」を内包した物語なのである。

この逸話は、我々に対し、戦国の世における茶の湯の精神性の深さ、死と隣り合わせの日常の中で育まれた師弟の信義の篤さ、そして一つの偉大な芸道が断絶の危機を乗り越えて未来へと伝えられていく軌跡を、一本の茶杓を通して雄弁に物語っている。それは、史実の断片を繋ぎ合わせるだけでは見えてこない、歴史の奥底に流れる人々の想いの結晶なのである。

引用文献

  1. 戦国期茶の湯成立の一背景 - CiNii Research https://cir.nii.ac.jp/crid/1050845763829647616
  2. 千利休、切腹事件の謎。豊臣秀吉は謝ってほしいだけだった? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/gourmet-rock/86526/
  3. 信長の茶器は「土地」を超えた!天下統一を裏で操ったブランド戦略とは?|De:partment - note https://note.com/department/n/n5d81f33a6b74
  4. 天下人・豊臣秀吉と茶の湯|黄金茶室、北野大茶湯、三成との出会い - 山本山 https://yamamotoyama.co.jp/blogs/column/reading287
  5. 校長通信: 一期一会 https://www.hibari.jp/weblog00/archives/2012/09/post_1500.html
  6. 一期一会 | 禅語 - 臨黄ネット https://rinnou.net/language/2607/
  7. 一期一会- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E4%B8%80%E6%9C%9F%E4%B8%80%E6%9C%83
  8. 一期一會- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E4%B8%80%E6%9C%9F%E4%B8%80%E6%9C%83
  9. 山上宗二記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E5%AE%97%E4%BA%8C%E8%A8%98
  10. 茶道用語集 - WAnocoto -ワノコト https://wanocoto.com/sado-words/
  11. 千利休 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
  12. 茶人のことば:千利休 『江岑夏書』より その2 - 表千家 https://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_2_8b.html
  13. 初心者が四規・七則を現代語訳したら茶道の心の在り方がわかった https://www.chihannes.com/sado-shiki-shichisoku/
  14. やっぱりすごい!「茶の湯の心を今に伝える、千利休エピソード集」 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/feature/rikyu/
  15. 利休作 「泪」の茶杓 | 浜松 茶の湯 浅葱庵(せんそう庵) https://ameblo.jp/asagiitigo/entry-12888581329.html
  16. 「泪」という茶杓・Chashaku Called “Namida” - 茶の湯 in San Francisco https://shikatashachu.wordpress.com/2019/03/25/%E3%80%8C%E6%B3%AA%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E8%8C%B6%E6%9D%93_japanese_tea_ceremony_san_francisco/
  17. 戦国武将と茶の湯/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90457/
  18. 細川三斎(ほそかわさんさい) - 遠州流茶道 https://www.enshuryu.com/%E4%BA%BA%E7%89%A9/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E4%B8%89%E6%96%8E%EF%BC%88%E3%81%BB%E3%81%9D%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%95%E3%81%84%EF%BC%89/
  19. 特集「利休、二つの系譜」|特集|LUPICIA Tea Magazine https://www.lupicia.co.jp/tea/archives/9428
  20. 竹茶杓 銘 泪 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/96849
  21. 竹茶杓 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/507043
  22. 熱田図書館 「泪(なみだ)の茶杓徳川美術館特別公開記念 利休とわび茶」≪展示期間:2月6日(火)~3月4日(日)≫ 本の展示 お知らせ - 名古屋市図書館 https://www.library.city.nagoya.jp/oshirase/topics_tenji/entries/20180210_03.html
  23. 利休さんの泪 - 晴耕雨読 雨のわブログ https://petitrui.exblog.jp/12862247/
  24. 千利休造茶杓 せんのりきゅう 銘泪 織部追筒 - 鶴田 純久の章 https://turuta.jp/story/archives/64738
  25. 茶室麟閣 | 鶴ヶ城 - 一般財団法人 会津若松観光ビューロー https://www.tsurugajo.com/tsurugajo/rinkaku/
  26. 会津 茶の湯物語 - Aizu Tea Stories https://www.tsurugajo.com/aizu-tea-stories/about
  27. 蒲生氏郷 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7
  28. 織田信長の寵愛を受けた蒲生氏郷 会津若松でゆかりの地を巡る旅行へ - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/170803fukushima-aizuwakamatsu-5/