最終更新日 2025-10-28

増田長盛
 ~和睦進言平和もまた勇なり理性譚~

増田長盛の「平和もまた勇なり」逸話を徹底分析。関ヶ原後の和睦進言の真意と、内通者としての側面、そして後世に創作された理性譚が持つ歴史的意味合いを考察する。

増田長盛の理性譚 ―「平和もまた勇なり」という逸話の深層分析

序章:凶報、大坂城を揺るかす ― 慶長五年九月十五日の絶望

慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原。天下分け目と称されたこの決戦は、わずか一日で徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。この報せは、同日深夜から翌十六日の未明にかけて、敗残兵の口から断片的に、しかし絶望的な現実として、西軍の総本山である大坂城にもたらされた。石田三成、小西行長、宇喜多秀家ら西軍の中核を成した諸将の部隊は壊滅し、当の三成もまた伊吹山中へと敗走したという。豊臣秀頼公とその母・淀殿を擁し、鉄壁を誇ったはずの大坂城は、一日にして存亡の危機に立たされたのである。

当時、大坂城には西軍総大将として毛利輝元がその本営を置き、彼を補佐する形で、豊臣政権の最高実務機関である五奉行の一人、増田長盛も詰めていた 1 。長盛は、秀吉の天下統一事業において検地や兵站管理といった内政・財務面で卓越した手腕を発揮し、大和郡山に20万石の所領を与えられた重臣である 3 。彼の立場は、単に戦場で采配を振るう武将ではなく、豊臣家の屋台骨を支える官僚機構の要であった。それゆえに、この未曾有の国難に際して彼が下す判断は、豊臣家の、そして彼自身の運命を左右する極めて重い意味を持っていた。

この時点での大坂城は、毛利輝元が率いる兵力がほぼ無傷で温存されており、軍事的には依然として強大な抵抗能力を有していた。即時降伏が唯一の選択肢ではなかったことは確かである。しかし、西軍を「義軍」たらしめていた政治的指導者・石田三成の敗走は、豊臣家を守るという大義名分を著しく色褪せさせ、城内に集う諸将の結束を根底から揺るがした。軍事的な余力と、政治的な統率力の崩壊。この致命的な乖離こそが、続く城内評定における激しい意見対立の源泉となり、増田長盛に、歴史の岐路に立つ決断を迫ることになるのである。

第一章:大坂城内の評定 ― 抗戦か、和睦か。二つの「正義」の相克

関ヶ原からの凶報が錯綜する中、大坂城内では毛利輝元を中心に緊急の軍議(評定)が開かれたと推察される。この評定の直接的な議事録は現存しない。しかし、城内にいた諸将の立場やその後の行動から、そこでの議論を蓋然性の高いものとして再構築することは可能である。評定は、二つの相容れない「正義」が激しく衝突する場となったであろう。

一方には、豊臣家への忠義を貫き、秀頼公のために城を枕に討ち死にする覚悟で徹底抗戦を叫ぶ主戦論があった。彼らにとって、戦わずして降伏することは武士としての名誉を汚す許されざる裏切りであり、たとえ勝ち目がなくとも一矢報いることこそが、亡き太閤秀吉への恩義に報いる道であると考えた。

もう一方には、これ以上の抗戦は無益な血を流し、大坂の町を焦土と化すだけであり、何よりも豊臣家の血脈を絶やさぬことこそが真の忠義であるとする和睦論があった。彼らにとって、現実を無視した玉砕は自己満足に過ぎず、徳川家康との交渉によって豊臣家の存続という最低限の条件を確保することこそが、責任ある重臣の果たすべき務めであった。

この緊迫した議論の渦中にあって、増田長盛は極めて複雑な立場に置かれていた。彼の行動を理解するためには、その二重性を認識することが不可欠である。

表向きの長盛は、石田三成ら他の奉行と共に、家康の専横を弾劾する『内府違いの条々』に連署し、西軍の蜂起に公式に加担した豊臣政権の重鎮であった 1。彼は西軍の一員として、家康と敵対する立場にあった。

しかし、その水面下では、開戦前から徳川家康に対し、石田三成の挙兵計画をはじめとする西軍の内部情報を密告する内通者として暗躍していたことが、複数の史料によって強く示唆されている 6。

この事実を踏まえるならば、長盛が評定で和睦を強く主張したであろう動機は、単なる「理性的判断」や「平和主義」といった高潔な理念からのみ発せられたとは考え難い。彼にとって、内通先である家康の勝利が確定した今、抗戦を長引かせることは、自らの内通の功績を無に帰し、敗軍の将として処断されるリスクを高めるだけの愚行であった。彼の和睦進言は、豊臣家の存続という大義名分を掲げつつも、その実、内通者としての任務を完遂し、家康からの赦免を確実にするための、極めて現実的かつ自己保身を懸けた政治的計算に基づいていた可能性が極めて高い。

後世に語られる「平和もまた勇なり」という理性譚は、この増田長盛の「内通」という、豊臣家臣としては不名誉極まりない行為を覆い隠し、彼の行動を「敗戦の混乱の中で冷静に平和を説いた賢臣の勇気」として美化・正当化する機能を持っていたのではないか。彼の和睦への動きは、豊臣家のためであると同時に、内通者としての自身の立場を確定させるための、最後の仕上げであったと解釈することができるのである。

第二章:和睦への道程 ― 水面下の交渉と大坂城開城

大坂城内の評定が和睦へと傾く中、次なる課題は、いかにして徳川家康との交渉を開始し、城を明け渡すかという具体的な手続きであった。ここで、かねてより家康と水面下で通じていた増田長盛の存在が、決定的な役割を果たすこととなる。一連の交渉プロセスは、史料の断片を繋ぎ合わせることで、その緊迫した実態を時系列に沿って追うことができる。

交渉が具体的に動き出したのは、関ヶ原の戦いから六日後のことであった。『関原始末記』によれば、慶長五年九月二十一日、西軍総大将の毛利輝元と増田長盛は連名で、徳川家康に和睦を申し入れる使者を派遣した 5 。この交渉の仲介役として白羽の矢が立てられたのは、東軍に属しながらも豊臣恩顧の大名であり西軍諸将とも繋がりが深い黒田長政と、徳川四天王の一人として家康の絶対的な信頼を得ていた井伊直政であった。この人選は、西軍総大将としての輝元の面子を保ちつつ、家康の真意を確実に探るための、周到に計算されたものであったことが窺える。この和睦申し入れが、長盛個人の独断ではなく、総大将・輝元との公式な連名で行われたという事実は、この行動が西軍首脳部の総意であったことを物語っている。

家康はこの申し出を受け入れ、交渉は速やかに進展した。その後の動向は以下の表の通りである。

表1:関ヶ原敗戦後の大坂城における主要人物の動向(慶長五年九月十五日~二十七日)

日付 (慶長五年)

増田長盛の行動

毛利輝元の行動

徳川家康方の対応

関連史料

九月十五日

大坂城にて敗報に接する。

大坂城にて敗報に接し、城内の動揺を鎮める。

関ヶ原にて戦後処理を開始。

-

九月十六日~二十日

城内評定にて和睦を主張か。内通者として事態の収拾を図る。

評定を主宰。抗戦か和睦かで苦慮。

大津城経由で大坂へ向けて進軍。

6

九月二十一日

毛利輝元と連名で、黒田長政・井伊直政を介し和睦を申し入れる。

増田長盛と連名で、和睦を申し入れる。

家康、和睦の申し出を受け入れる。

5

九月二十三日

大坂城を退去し、居城・大和郡山城に蟄居。

-

-

5

九月二十五日

-

大坂城西の丸を退去。

家康、輝元に所領安堵の意向を伝える(後に反故)。

9

九月二十七日

大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され、 改易・高野山蟄居 となる。

-

家康、大坂城に入城。豊臣秀頼と対面。

1

この時系列が示すように、和睦交渉の口火を切るという大役を果たした長盛は、合意成立の見通しがついた九月二十三日には早々に大坂城を退去し、自身の居城である大和郡山城での蟄居に入っている 5 。これは、彼の政治的役割がここで一旦終了したことを意味する。

そして九月二十七日、大坂城に入った家康によって戦後処理の沙汰が下される。増田長盛は、西軍に与した罪を問われ、大和郡山20万石の所領をすべて没収される「改易」処分となり、高野山での蟄居を命じられた 1 。内通の功績によって死罪こそ免れたものの、彼は大名としての地位と栄華のすべてを失った。この処遇は、家康が長盛の内通を評価しつつも、一度は敵対した豊臣の奉行を完全に許すことはなかったという、冷徹な政治判断の結果であった。

第三章:逸話の誕生 ―「平和もまた勇なり」という言葉の源流と真実性

増田長盛が関ヶ原の敗戦後、大坂城の無血開城に重要な役割を果たしたことは史実である。しかし、彼がその際に「平和もまた勇なり」と語ったとされる理性譚は、果たしてどこまで真実なのであろうか。この言葉の源流と史料的価値を検証することは、本報告の核心である。

結論から言えば、慶長年間の同時代史料、例えば『当代記』のような信頼性の高い記録や、関ヶ原の戦いに関する一次史料群の中に、増田長盛が「平和もまた勇なり」という趣旨の発言をしたという記述は一切見出すことができない。この言葉は、同時代に記録されたものではないのである。

では、この逸話はどこで生まれたのか。この種の武将の言行に関する教訓的な逸話の多くは、戦乱の記憶が遠くなった江戸時代中期から後期にかけて編纂された、いわゆる「武将言行録」の類にその源泉を求めることができる。増田長盛のこの逸話もまた、幕末の館林藩士・岡谷繁実が十数年の歳月をかけて編纂した大著**『名将言行録』**に収録されているものが、その原典である可能性が極めて高い 10

『名将言行録』は、戦国武将から江戸中期の大名に至るまで、数多くの人物の逸話を集めた貴重な文献ではあるが、その史料的価値については慎重な吟味が必要である。この書物の編纂意図は、歴史的事実を客観的に記録することよりも、過去の武将たちの言行を後世の武士たちが学ぶべき「修身の教科書」として提示することにあった 11 。そのため、編纂にあたっては信頼性の高い史料だけでなく、巷間で流布していた俗説や、編纂者自身の解釈に基づく創作も少なからず含まれている。このことから、現代の歴史学界では、史実を正確に伝えた一次史料とは見なされず、その信頼性には限界がある「俗書」として扱われることが多い 11

こうした『名将言行録』の性格を考慮すると、「平和もまた勇なり」という逸話が創出された背景が見えてくる。

第一に、そこには江戸時代の価値観が色濃く投影されている。二百数十年におよぶ泰平の世を築いた徳川幕府の下では、武士に求められる資質は、戦場での個人的な武勇よりも、組織を円滑に治めるための理性、忍耐、そして平和を維持する統治能力へと変化していた。この逸話は、そうした江戸時代の理想の武士像を戦国武将である増田長盛に投影し、彼を「武」だけでなく「文」にも通じた、先見性のある理想的な官僚として再解釈したものである。

第二に、物語としての単純化という側面がある。前章で詳述したように、実際の大坂城開城は、毛利輝元の苦悩、諸将の思惑、そして長盛自身の内通と自己保身といった、複雑な政治的力学が絡み合った結果であった。この複雑な現実を、「一人の賢臣の勇気ある進言が、無益な争いを防ぎ平和をもたらした」という、分かりやすく感動的な物語へと単純化・純化することで、教訓として語り継ぎやすい形に整えたのである。

したがって、この逸話は、増田長盛という「史実の人物」と、彼が行った「和睦交渉」という史実を核としながらも、その人格や動機は、後世の道徳観に基づいて再構築された「文学的キャラクター」であると言える。「平和もまた勇なり」という名言は、長盛が実際に口にした言葉ではなく、『名将言行録』の編纂者が、長盛の「行動」を高く評価し、その行動に相応しい象徴的なキャッチフレーズとして創作したものである可能性が濃厚である。これは、歴史的事実が後世の価値観によって解釈され、新たな「物語」として生まれ変わっていく、典型的な一例なのである。

終章:理性譚の裏にある現実 ― 増田長盛の選択とその悲劇的結末

増田長盛が関ヶ原の敗戦後に取った行動は、「平和もまた勇なり」という理想論に彩られた勇気ある行動というよりは、敗戦という冷徹な現実を受け入れ、その中で豊臣家と、そして何よりも自己の保身にとっての「最善の次善策」を模索した、官僚的リアリズムの極致であったと評価できる。彼は血気にはやる主戦論を抑え、無益な籠城戦を回避することで、結果的に豊臣秀頼の身の安全と大坂の町の平和を守った。しかし、その現実的な選択は、彼のその後の人生に複雑な影を落とすことになる。

改易処分を受けた長盛は、高野山での蟄居を経て、武蔵国岩槻城主・高力清長の預かりとなり、静かな余生を送っていた 1 。かつて豊臣政権の中枢で権勢を振るった大名としての栄華は、もはや過去のものであった。

しかし、歴史は彼に平穏な死を許さなかった。関ヶ原の戦いから十五年後の慶長二十年(1615年)、豊臣家と徳川家の最後の決戦である大坂夏の陣が勃発する。この時、尾張藩主・徳川義直に仕えていた長盛の息子・増田盛次が、徳川家を出奔して豊臣方として大坂城に入城するという事件が起きた 1 。盛次にとって、それは父が果たせなかった豊臣家への忠義を貫くための決断であったのかもしれない。だが、この息子の行動は、蟄居中の父に致命的な結果をもたらした。戦後、徳川幕府は盛次の離反の責任を父である長盛に問い、自刃を命じたのである。元和元年五月二十七日、増田長盛は自らの命を絶った。享年71 4

関ヶ原において、豊臣家への忠義よりも現実的な生き残りの道を選んだ父が、十五年の時を経て、豊臣家への忠義を貫こうとした息子の行動によって死に追いやられる。この結末は、歴史の持つ深い皮肉を感じさせる。長盛の「理性的」で「現実的」な判断は、彼個人の一時的な延命には成功した。しかし、それは豊臣家臣としての「不忠」という拭い難い評価と隣り合わせであり、徳川の世においても完全に信頼される立場を築くことはできなかった。最終的に、彼の築いた現実主義の土台は、息子の抱いた旧主への忠義という情念によって突き崩され、一族の安泰を保障するには至らなかったのである。

「平和もまた勇なり」という後世に創られた美しい理性譚の裏には、このように裏切りと忠誠、合理性と情念が渦巻く、極めて人間的な葛藤と悲劇が隠されている。この単純化できない複雑さこそが、増田長盛という一人の武将の選択と、戦国から江戸へと移行する時代の現実を、我々に生々しく伝えているのである。

引用文献

  1. (増田長盛と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/47/
  2. 関ヶ原の戦い|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents3_01/
  3. 増田長盛 https://www.city.yamatokoriyama.lg.jp/section/rekisi/src/history_data/h_033.html
  4. 増田長盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%9B
  5. 歴史の目的をめぐって 増田長盛 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-31-mashita-nagamori.html
  6. 石田三成はじめ有能ぞろい!豊臣政権を支えた5人の家臣「五奉行」の各奉行を一挙ご紹介【どうする家康】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 4 https://mag.japaaan.com/archives/209034/4
  7. 関ヶ原の戦いで西軍についた武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka-history/sekigahara-west/
  8. 増田長盛黒印状 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/508800
  9. 「関ケ原の戦い」 ₋ 最新の研究から - 横浜歴史研究会 https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2024/07/M%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%9E%E9%96%A2%E3%82%B1%E5%8E%9FV%EF%BC%94-20240710.pdf
  10. 滋賀県出身の織豊期の武将で豊臣五奉行の一人、増田長盛の生涯・軍功や検地などの業績について書かれた書籍... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000287003&page=ref_view
  11. 名将言行録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%B0%86%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2