最終更新日 2025-10-17

増田長盛
 ~評定で和睦唱え和田長盛と揶揄~

増田長盛は関ヶ原評定で和睦を唱え「和田長盛」と揶揄された。この逸話は、西軍の内部分裂と、実務官僚としての彼の現実的な判断を象徴する。

増田長盛「和田長盛」揶揄の逸話に関する徹底分析

序章:語呂合わせに秘められた人物評価と西軍の亀裂

戦国時代の数多の逸話の中に、人物の本質や歴史の岐路における緊張を、あたかも凝縮したかのように伝えるものが存在する。豊臣政権五奉行の一人、増田長盛にまつわる「評定で誰より先に『和睦』を唱えたため『和田長盛』と冷やかされた」という語呂合わせの笑談は、その典型例である。一見すれば、単なる言葉遊びに過ぎないこの逸話は、しかし、その表層を剥がしていくと、関ヶ原前夜における西軍指導部の深刻な内部分裂、増田長盛という実務官僚の本質、そして歴史的評価が如何にして形成されるかという、重層的な構造を内包している。

本報告書は、この一見単純な揶揄を徹底的に解剖し、それが単なる嘲笑ではなく、一個人の運命と天下分け目の戦いの行方を暗示する、極めて象徴的な出来事であったことを論証するものである。分析は三つの視点から構成される。第一に、逸話の舞台となった慶長五年(1600年)七月の大坂城における軍事評定の状況を、史料に基づき可能な限り再現し、長盛が「和睦」を口にした背景を深く理解する。第二に、「和田長盛」という揶揄が持つ、音韻、歴史的暗喩、語源的含意という三重の意味を解読し、その言葉の刃がいかに鋭く、痛烈であったかを明らかにする。そして第三に、この逸話自体の史料的価値を検証し、それが歴史的事実として以上に、「敗者の物語」を構築する上で果たした歴史的機能を考察する。この三つの柱を通じて、我々は語呂合わせの奥底に秘められた、戦国末期の権力闘争の真実に迫ることを目的とする。

第一部:評定前夜―慶長五年、大坂城の沸点

「和田長盛」の逸話が生まれたとされる評定の瞬間を理解するためには、まずその舞台となった慶長五年七月の大坂城が、いかに極度の政治的緊張状態にあったかを把握せねばならない。それは、豊臣秀吉という絶対的な権力者が不在となった後の、権力の真空状態が生み出した必然的な帰結であった。

1-1. 権力の真空と徳川家康の「恣之働」

慶長三年(1598年)八月、天下人・豊臣秀吉がその生涯を閉じると、彼が築き上げた政権は巨大な重しを失った 1 。幼い秀頼を補佐するべく定められた五大老・五奉行制度は、当初こそ機能するかに見えたが、筆頭大老である徳川家康の存在感が日増しに強まる中で、その均衡は急速に崩壊していく。家康は、秀吉が生前に大名たちに誓わせた「御置目」や「誓紙」を次々と反故にし始めた 2 。大名間の無断婚姻を仲介し、豊臣家の蔵入地を自らの裁量で分配するなど、その行動は他の大老や奉行たちにとって、豊臣政権の根幹を揺るがす「恣之働(ほしいままのはたらき)」、すなわち天下簒奪に向けた布石と映った 4

この家康の行動は、単なる飽くなき権力欲の発露と見るだけでは本質を見誤る。それは、秀吉亡き後の豊臣政権が内包する構造的欠陥、すなわち幼君秀頼の下での派閥対立や意思決定の遅滞といった脆弱性を的確に突いた、極めて合理的かつ冷徹な戦略であった。政権の安定という大義名分を掲げつつ、実質的な権力を自らの手中に収めていく家康の「合理的侵食」に対し、石田三成ら反家康派の抵抗は、「太閤殿下の御恩」という情緒的な側面と、「御遺命の遵守」という原理主義的な側面を拠り所とするものであった 3 。この「現実主義的権力掌握」と「原理主義的抵抗」の対立構造こそが、関ヶ原の戦いの本質であり、当初から西軍が戦略的な脆さを内包していたことを示唆している。そして、この構造の中で、増田長盛のような行政実務に長けた官僚が、原理原則よりも国家運営の現実的な安定性を重視し、全面衝突に懐疑的であったことは、想像に難くない 6 。彼の「和睦」発言の根源は、この対立構造の中に深く根差していたのである。

1-2. 西軍結成と増田長盛の立場

慶長五年六月、家康が会津の上杉景勝討伐のため、諸大名を率いて大坂を発つと、畿内に権力の空白が生まれた。これを好機と捉えた石田三成は、大谷吉継らと共に、ついに打倒家康の兵を挙げる。七月、五大老の一人である毛利輝元を総大将として大坂城西の丸に迎え入れ、西軍は公的に結成された 4

この挙兵計画において、増田長盛は五奉行の一人として、当然ながらその中枢に位置していた。彼は家康の違法行為を弾劾するために諸大名へ送付された連判状、いわゆる「内府ちがひの条々」にも、他の奉行衆と共に署名している 2 。これにより、長盛が表向きには西軍の核心的メンバーとして、家康との対決姿勢を明確にしていたことが確認できる。

しかし、彼の署名が、三成と同じ熱量での積極的な賛意を示すものであったかについては、大いに疑問が残る。長盛の経歴は、太閤検地の実施、諸城の普請、朝鮮出兵における兵站管理、そして外交交渉といった、極めて実務的な領域で積み上げられてきた 6 。このような経験は、三成が持つ純粋な忠義心や理想主義とは異質の、現実的で計算高い思考様式を育んだであろう。彼にとって、豊臣家の安泰は至上命題であったとしても、そのための手段が「家康との全面戦争」というハイリスクな選択肢しかないとは、到底考えられなかったはずである。

むしろ、長盛の署名は、豊臣政権の奉行という「組織人としての立場」を反映した結果と見るべきである。大坂城に詰める最高幹部の一人として、毛利輝元を総大将に戴いた挙兵という、その場の圧倒的な流れに抗うことは事実上不可能であった。彼の内心では、この挙兵の無謀さ、特に豊臣恩顧の武断派大名の多くが家康に与している現実を冷静に分析し、深い懸念を抱いていた可能性が高い 7 。彼の行動原理は、「裏切り」か「忠誠」かという二元論で測れるものではない。「組織の論理」と「個人の合理的な判断」の狭間で揺れ動く、極めて近代的な官僚のジレンマに近いものであった。そして、その内心の葛藤が、来るべき評定の場で「和睦」という一言になって、ついに表面化することになるのである。

第二部:運命の評定―その瞬間の再現

史料の断片を繋ぎ合わせ、当時の人間心理と政治力学を洞察することで、我々は「和田長盛」の逸話が生まれた運命の評定の瞬間を、時系列に沿って再構築することができる。それは、天下の行方を決する重大な局面でありながら、人間的な感情と計算が渦巻く、緊迫した一幕であった。

2-1. 評定の舞台と参集した顔ぶれ

慶長五年七月中旬から下旬にかけてのある日、大坂城本丸の一室。そこには、西軍の命運を左右する者たちが顔を揃えていた。上座には、総大将として迎えられた毛利輝元が、不安と威厳の入り混じった表情で鎮座している。その周囲を、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以といった五奉行の面々、そして五大老の一人である宇喜多秀家、毛利家の外交僧として辣腕を振るう安国寺恵瓊といった大名・重臣たちが囲んでいた。

部屋を満たす空気は、異様な熱気を帯びていた。家康率いる東軍主力が遠く会津へ向かい、畿内が手薄になったという千載一遇の好機を捉えた高揚感。そして、これから天下を二分する未曾有の大戦に臨むという極度の緊張感。これらが複雑に絡み合い、一種独特の雰囲気を醸成していた。しかし、その一枚岩に見える結束の裏には、各人の立場や思惑の違いが深く横たわっていた。その力学を理解するために、主要な参加者の立場を以下の表に整理する。

表1:大坂城における西軍首脳部の立場比較

参加者

役職・立場

対家康姿勢

豊臣家への忠誠度

家康との関係性

性格・思考

毛利輝元

総大将(五大老)

逡巡・日和見

家の保身が優先

領土安堵の密約模索

優柔不断、名誉欲

石田三成

首謀者(五奉行)

強硬な主戦派

至純、原理主義的

敵対関係

理想主義、剛直

増田長盛

五奉行

穏健・和睦模索

現実主義的

内通の噂あり 11

実務的、計算高い

安国寺恵瓊

毛利家外交僧

積極的な主戦派

毛利家の利益が優先

敵対的

策謀家、扇動的

長束正家

五奉行

主戦派

忠実

敵対的

実務的、三成に近い

宇喜多秀家

五大老

主戦派

秀吉への恩顧

敵対的

若く血気盛ん

この表が示すように、増田長盛の立場は他の主戦派とは明らかに一線を画している。彼の「和睦」発言が、いかに孤立した意見であり、他の面々から猛反発を受けることが必然であったかが、この時点ですでに見て取れる。

2-2. 主戦論の激流―「大義」と「勝算」

評定の口火を切ったのは、計画の首謀者である石田三成や、輝元を焚きつけた安国寺恵瓊ら、強硬な主戦派であったと推察される。彼らは、一座の士気を最大限に高めるべく、熱弁を振るったであろう。

三成が立ち上がり、鋭い眼光で一同を見渡す。「皆々、聞かれよ!内府(家康)の専横、もはや目に余る。太閤殿下の御遺命を蔑ろにし、天下を私せんとする野心は明らか。今こそ我らが立ち上がり、豊臣家の御為に忠義を尽くす時ぞ!」その声は、豊臣家への絶対的な忠誠心と、家康への燃えるような敵愾心に満ちていた。これが西軍の掲げる「大義」であった 5

続いて恵瓊が、扇を片手に言葉を継ぐ。「治部少(三成)殿の申される通り。内府は上杉討伐に赴き、東国勢の主力を率いておる。この大坂は我らの手中にあり。諸大名の妻子もこちらにおられる。天の時、地の利、人の和、すべて我らにあり!」彼の言葉は、論理的に「勝算」を説き、一座の不安を払拭し、勝利への確信を植え付けようとするものであった。

2-3. 増田長盛、沈黙を破る

主戦論で沸き立つ評定の熱気の中、誰かが沈黙を守る増田長盛に意見を求めた。彼は五奉行の一角であり、その行政手腕は誰もが認めるところであった 1 。彼の発言には、現実的な裏付けという重みがあった。

長盛は、ゆっくりと口を開いた。彼の心中には、熱狂とは無縁の、兵站と財政を司る官僚としての冷静な計算が渦巻いていた。東国諸大名の動向、長期戦になった場合の膨大な兵糧米の確保、そして何よりも、家康が持つ圧倒的な政治力と軍事力に対する客観的な分析。彼は、感情論ではなく、数字と事実に基づいて語り始めた。「…治部少殿、恵瓊殿の申される大義と勝算、まことに頼もしき限り。されど、戦は始めるは易く、収めるは難しきもの。内府に味方するであろう福島、黒田といった太閤殿下恩顧の武断派の力、侮るべきではござりませぬ。万一、戦が長引いた際の兵糧、弾薬の算段は如何に…」彼の問いかけは、水を差すような響きを持っていたが、それは実務の責任者としての当然の懸念であった。

2-4. 「和睦」の一言と、凍りつく空気

議論が白熱する中、長盛はついに、この挙兵計画の根幹を揺るがしかねない、極めて危険な一言を口にする。それは、全面衝突という破滅的な選択の前に、外交交渉による解決の道を最後まで探るべきではないか、という提案であった。

「…此度の挙兵は、あくまで内府の非を正し、太閤殿下の御置目を守るためのもの。ならば、我らの大義と結束を天下に示した上で、内府に猛省を促し、兵を動かさずして事を収める…すなわち 和睦 の道も、万一の策として残しておくべきかと愚考いたしまする」

「和睦」―その言葉が長盛の口から発せられた瞬間、あれほど高揚していた評定の空気は、まるで真冬の湖面のように一瞬にして凍りついた。三成や恵瓊の顔からは血の気が引き、信じられないという表情で長盛を睨みつける。挙兵の大義名分を掲げ、まさに戦端を開こうとするこの時に、「和睦」を口にすることは、敵前で降伏を勧めるに等しい裏切り行為と受け取られても仕方がなかった。この一言が、彼に「和田長盛」という不名誉なレッテルを貼る直接の引き金となったのである。

第三部:「和田長盛」の揶揄―三重の意味を解剖する

増田長盛が評定の場で口にした「和睦」という一言は、即座に痛烈な揶揄となって彼に跳ね返ってきた。「和田長盛」―この言葉は、単なる音の類似性を利用した嘲笑にとどまらない。それは、その場にいた武将たちの教養と感性を反映した、三重の鋭い意味を持つ言葉の刃であった。

3-1. 第一層:音韻の戯れ―その場の嘲笑

最も表層的な意味は、単純な音韻の類似性に基づいている。長盛が口にした「和睦(わぼく)」という言葉尻を、その場にいた誰かが即興で捉えたのであろう。「和睦とは…それは『わだ』違いでござるな、 和田長盛 殿」といった具合に、場の緊張を茶化しつつ、長盛の意見を一笑に付し、封殺するための、即妙かつ軽蔑的な言葉の応酬であった。主戦論で燃え上がる一座の空気を読めない、あるいは敢えて逆らう長盛の姿勢を、「間の抜けた意見」として処理するための、手っ取り早い手段であった。この嘲笑は、評定の場で孤立した長盛の立場を、誰の目にも明らかにした。

3-2. 第二層:歴史的暗喩―和田義盛の悲劇的末路

しかし、この揶揄の真の毒は、その音の響きが呼び覚ます歴史的記憶にあった。戦国武将にとって「和田」という姓は、単なる音ではなく、鎌倉時代初期の有力御家人・和田義盛とその一族の悲劇的な末路を即座に連想させるものであった。

和田氏は桓武平氏三浦氏の一族であり、源頼朝の挙兵を初期から支え、鎌倉幕府の設立に多大な功績を挙げた名門であった 12 。初代侍所別当として幕府の重鎮となった和田義盛は、武勇に優れた実直な武士として知られていた。しかし、頼朝の死後、二代執権・北条義時との権力闘争が激化。義時の巧みな策略により追い詰められた和田氏は、ついに挙兵するも敗北し、一族郎党ことごとく滅ぼされた(和田合戦)。

この歴史的事件を踏まえると、「和田長盛」という揶揄は、長盛個人を「いずれ権力闘争に敗れ、滅びゆく者(=和田義盛)」と断じる、極めて不吉で痛烈な皮肉となる。それは、「強大な権力者である家康(=北条義時)に逆らいながら、戦う覚悟も無く中途半端な和睦などを口にすれば、和田氏と同じく破滅が待っているぞ」という、強烈な警告に他ならない。この歴史的教養に基づいた暗喩は、単なる悪口ではなく、相手の存在そのものを否定するほどの破壊力を持っていた。

さらに、この揶揄は長盛個人への攻撃に留まらず、より高度な政治的機能をも果たしていた。三成ら主戦派にとって、最大の脅威は内部からの切り崩しや日和見主義の蔓延であった。長盛の「和睦」発言は、その最も危険な兆候と映った。そこで「和田長盛」というレッテルを貼ることにより、彼を「裏切り者予備軍」として効果的に孤立させることができる。同時に、評定の場にいる他の、内心で動揺しているかもしれない者たちに対し、「長盛のようになれば、和田義盛と同じ運命を辿るぞ」という無言の圧力をかけることが可能になる。これは、集団心理を巧みに操作し、異論を封じ込めるための、高度な言語戦術であったと言える。

3-3. 第三層:語源的含意―「わだ」の持つ不定形なイメージ

さらに深層を探ると、「わだ」という言葉が持つ、古代からのイメージに行き着く。「わだ」は「海(うみ)」を意味する古語であり、「わたつみ(海神)」の語源でもある 14

「海」という言葉が喚起するイメージは二律背反的である。それは生命の源であり、広大で力強い存在である一方、形が定まらず、絶えず揺れ動き、その深淵では何を考えているか分からない、捉えどころのない存在でもある。この語源的含意を考慮に入れると、「和田長盛」という揶揄には、「確固たる信念がなく、状況次第でどちらにもなびく、本心の読めない男」という、人物評価そのものが込められていた可能性が浮かび上がる。

長盛の、常に現実的な損得計算を優先する官僚的な態度は、武士的な剛直さや「義」を重んじる価値観からは、まさに「海の如く捉えどころのない不信の対象」と見えたのかもしれない。彼の合理主義は、仲間からは「不誠実」と解釈され、この揶揄に集約された。このように、「和田長盛」という一言は、音の戯れ、歴史的暗喩、そして語源的含意という三重の層を持ち、長盛の意見、運命、そして人格そのものを否定する、恐ろしく洗練された言葉の刃だったのである。

第四部:逸話の史実性と後世への影響

「和田長盛」という痛烈な揶揄が、実際に慶長五年の大坂城で発せられたのか。この逸話そのものを歴史的言説として客観的に分析すると、それが史実か否かという問題以上に、なぜこの物語が生まれ、語り継がれてきたのかという、より本質的な問いが浮かび上がってくる。

4-1. 史料的信憑性の検証

結論から言えば、この「和田長盛」の逸話が、関ヶ原の戦いと同時代に書かれた一次史料、すなわち当事者たちの書状や公家の日記などから見出すことはできない。この種の臨場感あふれる逸話の多くがそうであるように、その出自は、戦乱の時代が終わり、泰平の世となった江戸時代に入ってから編纂された軍記物や逸話集である可能性が極めて高い。例えば、武将たちの言行を記した『常山紀談』のような書物が、その源流であると推察される 18 。これらの書物は、歴史的事実を後世に伝えるという目的と同時に、読者に対する教訓や娯楽的要素を多分に含んでいる。そのため、そこに記されたエピソードは、歴史の雰囲気を伝えるものとしては価値があるが、一字一句を史実として鵜呑みにすることはできない。

4-2. 逸話の創造と流布―「敗者の物語」としての機能

では、史実である確証がないにもかかわらず、なぜこの逸話は生まれ、広く語り継がれてきたのか。その理由は、関ヶ原の戦いが終わった後、増田長盛という人物の行動を解釈し、物語化する上で、この逸話が非常に都合の良い「物語装置」として機能したからである。

実際の増田長盛の行動を見てみよう。彼は関ヶ原の主戦場には赴かず、総大将の毛利輝元と共に大坂城に留まり、戦局を傍観した 4 。さらに、かねてより東軍側へ内通していたという疑惑も根強く存在する 11 。そして西軍の敗北が決定的になると、彼は速やかに出家して家康に謝罪の意を示し、結果として死罪は免れ、改易・蟄居という処分で済まされている 1

これらの、一貫性に欠け、日和見主義的と見なされても仕方がない一連の行動に対し、「和田長盛」の逸話は、極めて明快な解釈を与える。「彼は戦う前から腰抜け(和田)だったのだ。だから、戦いもせずに裏切り、生き延びようとしたのだ」と。この物語によって、西軍敗北の一因を彼の「不忠」や「卑劣さ」に帰することができ、複雑な敗戦の理由を単純化し、分かりやすい勧善懲悪の物語として受容させることが可能になる。

さらにこの逸話は、徳川の治世が確立した江戸時代において、より大きな意味を持つようになる。徳川幕府の正当性を担保するため、関ヶ原の戦いは「天下の安寧を願う正義の家康が、私利私欲で乱を起こした不忠の三成を討った戦い」として語られる傾向が強まった。その中で、西軍に与しながらも生き延びようとした長盛のような人物は、忠義を貫いて死んだ大谷吉継のような悲劇の英雄とも、あるいは分かりやすい裏切り者である小早川秀秋とも異なり、評価が難しい存在であった。しかし、「和田長盛」の逸話は、彼の行動を「卑劣な日和見」と位置づけることで、彼の存在を徳川史観の中に都合よく組み込むことを可能にした。このようにして、この逸話は単なるゴシップから、体制を支える歴史認識の一部へと昇華し、流布していったと考えられる。

4-3. 結論:逸話が語る歴史の真実

本報告書を通じて分析してきた「和田長盛」という一つの揶揄は、それが史実であるか否かという次元を超えて、我々に歴史の「真実」の一側面を雄弁に物語っている。

それは、理想と現実の乖離という普遍的なテーマである。豊臣家への忠誠という理想を掲げながらも、圧倒的な家康の力の前に、全面戦争という破滅的な現実を直視せざるを得なかった西軍指導部の苦悩。それは、長盛の「和睦」発言に象徴されている。

また、それは組織内部の不協和音の恐ろしさを示している。一枚岩であるべき挙兵直後の評定の場で、すでに路線対立が露呈し、異論者が嘲笑とレッテル貼りによって排除されるという光景は、西軍が当初から構造的な欠陥を抱えていたことを如実に示している。

そして何よりも、この逸話は、勝者によって敗者の歴史がいかに記述され、記憶されていくかという、歴史叙述の非情な力学を我々に教えてくれる。増田長盛の、あるいは現実的で計算高い官僚としての苦渋の判断は、敗戦という結果の後、単純な「腰抜け」の物語に塗り替えられていった。

増田長盛の「和睦」発言と、それに伴う「和田長盛」という揶揄。この一幕は、関ヶ原の戦いの勝敗を分けた西軍の構造的欠陥を、そして歴史の残酷な真実を、後世に伝え続ける象徴的な出来事として、記憶されるべき価値を持つと結論づける。

引用文献

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  2. 「慶長5年8月5日付鈴木重朝宛長束正家・増田長盛・石田三成・ 徳善院玄以・毛利輝元・宇 - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=9807
  3. 慶長5年7月17日立花宗茂宛前田玄以・増田長盛・長束正家連署副状写を読む https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20190224/1550985391
  4. (増田長盛と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/47/
  5. 西軍 石田三成/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41112/
  6. 増田長盛の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/64768/
  7. 増田長盛(ました ながもり) 拙者の履歴書 Vol.105~豊臣を支えし実務の人 - note https://note.com/digitaljokers/n/n170dc0f9675c
  8. 歴史の目的をめぐって 増田長盛 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-31-mashita-nagamori.html
  9. 政務に精通した「五奉行」増田長盛の生涯|「関ケ原の戦い」では西軍に与し、大坂城の留守居を務めた武将【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1151327
  10. 滋賀県出身の織豊期の武将で豊臣五奉行の一人、増田長盛の生涯・軍功や検地などの業績について書かれた書籍... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&lsmp=1&rnk=1&mcmd=25&st=update&asc=desc&fi=4_%E4%BA%BA%E7%89%A9+2_2+3_%E4%BA%8B%E5%AE%9F%E8%AA%BF%E6%9F%BB+5_%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BA%BA+6_0+8_21&id=1000287003
  11. なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.4 https://rekishi-hack.com/sengokutoyotomi4/
  12. 武家家伝_上州和田氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/wada_ue.html
  13. 和田義盛(わだよしもり)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/70809/
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