最終更新日 2025-10-25

大友宗麟
 ~洗礼後に寺院を破却し信仰に没頭~

大友宗麟が洗礼後、キリスト教理想郷建設を夢見て日向で寺社を破却。信仰に没頭するも、耳川の戦いで大敗し、その壮大な夢は崩壊した。その深層を探る。

ドン・フランシスコの誕生と神の王国の夢:大友宗麟、日向における寺社破壊の真相

序章:狂信か、理想か ― 逸話の核心と一次史料の視点

戦国時代の九州にその名を轟かせた大友宗麟(本名:義鎮)。彼の生涯を語る上で、キリスト教への深い傾倒は不可分な要素として存在する。中でも、「南蛮人に洗礼を受けた後、信仰に没頭し寺院を破却した」という逸話は、宗麟の人物像を「狂信的なキリシタン大名」として印象付ける最も強烈なエピソードとして知られている。しかし、この一連の行動は、単純な宗教的狂信という言葉だけで片付けられるものではない。それは、約三十年にわたる信仰の熟成、戦国大名としての政治的野心、そして個人的な葛藤が、天正6年(1578年)という特定の時間軸の中で複雑に絡み合い、爆発した結果であった。

本報告書は、この特定の逸話―すなわち、宗麟の洗礼とそれに続く日向国における大規模な寺社破壊―に焦点を絞り、その背景、過程、そして破滅的な結末までを時系列に沿って徹底的に解明するものである。分析の根幹をなすのは、当時宗麟の傍近くに滞在し、その言動をリアルタイムで記録したイエズス会宣教師ルイス・フロイスの浩瀚な著作『日本史』である 1 。フロイスの記述は、他の日本側史料には見られない圧倒的な臨場感と詳細さを提供してくれる第一級の史料である 3

しかしながら、『日本史』はイエズス会の布教成果をヨーロッパに報告するという目的のために書かれた記録であり、宗麟のキリスト教への傾倒を極めて肯定的に描き、寺社破壊という行為すらも異教の打破という観点から正当化するバイアスが存在することを念頭に置かねばならない。本報告書では、この史料的価値と限界を常に意識しつつ、宗麟の行動を多角的に解釈することを試みる。宗麟の行動は、単発の「事件」ではなく、天文20年(1551年)のフランシスコ・ザビエルとの出会いから洗礼に至るまでの27年間にわたる内面的な変化と、島津氏との九州の覇権を賭けた決戦が目前に迫るという極限的な政治・軍事状況が交差した一点で発生した、必然的な帰結であった。それは宗麟の「信仰の集大成」であると同時に、大友家の存亡を賭けた「壮大な博打」という二重の性格を帯びていたのである。

以下に、この激動の年の出来事を概観するための時系列表を提示する。

表1:天正6年(1578年)における大友宗麟の行動と関連事項の時系列表

年月

宗麟の行動(軍事・政治)

宗麟の行動(宗教・私事)

家臣団・周辺勢力の動向

典拠・備考

1月(天正5年12月)

島津氏に追われた伊東義祐の亡命を受け入れ、日向への出兵計画を具体化。

キリスト教の理想郷を日向に建設する構想を抱く。

立花道雪ら重臣は日向出兵に猛反対 5

伊東氏からの日向譲渡の申し出が契機となる 2

3月-4月

日向へ4万ともいわれる大軍を派遣。島津方の土持親成を攻略 6

遠征軍に対し、土持領内の寺社仏閣の徹底的な破壊を命令 7

破壊命令に対し、家臣団内部で反発と不信感が広がる 8

宮崎県北部の文化財が壊滅的な被害を受ける 9

7月頃

-

反キリスト教の正妻・奈多夫人と一方的に離縁。敬虔なキリシタンのジュリア夫人を正妻に迎える 2

奈多夫人の兄・田原親賢ら反キリスト教派の不満が頂点に達する。

伝統宗教勢力との完全な決別を意味する行動。

8月

-

豊後臼杵の教会にてカブラル神父より洗礼を受ける(28日)。洗礼名「ドン・フランシスコ」を授かる 10

-

洗礼後、理想郷建設のため日向の無鹿(延岡)へ移動 2

9月-10月

-

無鹿にて理想郷都市の建設に着手。宣教師との対話や祈りに没頭し、軍事指揮を疎かにする 10

宗麟の行動により軍の士気は低下し、指揮系統は混乱 5

十字架を掲げた艦隊で日向へ向かう 2

11月

高城川(耳川)の戦いで島津軍に壊滅的な大敗を喫する(12日) 2

敗報を受け、無鹿の理想郷を放棄。財宝を置き去りにし、豊後へ敗走 2

多くの有力武将が戦死し、大友家の軍事力は崩壊。

大友家衰退の決定的な転換点となる。

12月

敗戦処理に追われる。

日向におけるキリシタン王国計画は完全に頓挫 14

-

-


第一章:洗礼への道程 ― 信仰と野心の交錯(天正5年~天正6年初頭)

政治的契機:日向への道

天正6年(1578年)の激動は、前年の暮れにその幕を開けた。天正5年12月(西暦1578年1月)、宿敵・島津氏の猛攻により本拠地を追われた日向の領主・伊東義祐が、わずかな家臣を連れて宗麟のもとへ亡命してきたのである 2 。義祐は、再起をかけて宗麟に臣従し、日向国の支配権を委ねることを申し出た。これは、長年九州の覇権を争ってきた宗麟にとって、島津氏を討伐し、九州統一の野望を達成するための、まさに「天与の好機」であった 8 。フロイスの記録によれば、宗麟はこの時点で、獲得するであろう日向の地を、自らの隠居地とし、そして長年の夢であったキリスト教の理想郷を建設する場所とすることを決意していた 10

個人的な決断:旧世界との決別

この政治的・軍事的決断と並行して、宗麟は自身の私生活においても重大な決断を下す。日向への出兵を目前にして、長年の正妻であった奈多夫人との一方的な離縁である 2 。奈多夫人は、豊後の有力な宗教的権威であった奈多八幡宮大宮司家の出身であり、熱烈な伝統宗教の信奉者であった。彼女は、夫である宗麟や息子たちがキリスト教に傾倒していくことを激しく憎悪し、宣教師たちの活動を執拗に妨害した 6 。その様は、宣教師たちから旧約聖書に登場する異教の悪妃になぞらえ、「イザベル」という蔑称で呼ばれるほどであった 10

この離縁は、単なる夫婦間の不和に起因するものではない。それは、大友家の内部に存在する「神仏勢力」と「キリシタン勢力」の代理戦争であり、宗麟による政治的クーデターに等しい行為であった。奈多夫人の背後には、兄の田原親賢をはじめとする反キリスト教派の重臣や、領内の伝統的な寺社勢力が控えていた 6 。彼女を追放し、代わりに敬虔なキリシタンであった側室の一萬田夫人(洗礼名ジュリア)を新たな正妻として迎えたことは 2 、宗麟が旧来の宗教的権威と完全に決別し、自らの王国をキリスト教の教えのもとに再編するという断固たる意志を内外に示したものであった。この「勝利」は、宗麟の宗教的情熱に対する最後の歯止めが外れたことを意味し、彼をより過激な行動へと駆り立てる自信を与えた可能性が高い。

家臣団の不協和音

しかし、宗麟のこの決断は、深刻な亀裂を大友家中にもたらした。家中随一の宿将であった立花道雪をはじめ、多くの重臣たちは、島津氏との全面対決となるこの大規模な日向出兵に、戦略的な危うさから猛烈に反対した 5 。彼らの目には、宗麟の計画は宗教的な熱情に駆られた無謀な賭けと映ったのである 8

だが、宗麟の耳に彼らの諫言は届かなかった。彼は、この出兵が島津を打倒する好機であると同時に、デウス(神)が与えたもうた「キリスト教の理想郷」を建設するための聖なる使命であると固く信じていた 12 。宗麟は重臣たちの反対を押し切り、出兵を強行する。この瞬間、宗麟の抱く宗教的理想と、家臣団が重んじる現実的な戦略判断との間には、もはや修復不可能な溝が生まれていた。大友家は、最大の決戦を前にして、その内側から崩壊を始めていたのである。


第二章:日向への進軍と神仏の破壊 ― 理想郷建設の序曲

破壊命令の発令

天正6年(1578年)3月、大友義統を総大将とする大軍が日向へと進攻を開始した。緒戦において大友軍は島津方の国人・土持親成を破り、耳川以北の地域を制圧する 6 。この軍事行動の最中、後方の府内にいた宗麟は、遠征軍に対して驚くべき命令を下した。それは、軍事目標である城や砦だけでなく、占領した土持領内の寺社仏閣を、一つ残らず徹底的に破壊せよ、というものであった 6

破壊のリアルタイム描写

この破壊活動の様子は、フロイスの『日本史』によって生々しく記録されている。大友軍は宗麟の命令に従い、占領地の神社や寺院に火を放ち、祀られていた仏像や神像をことごとく引き倒し、打ち砕いた 8 。経典は焼かれ、宗教的な装飾品は破壊された。フロイスの記述によれば、破壊の光景は凄惨を極め、彼ら宣教師一行が日向に入った際には、宿泊する場所にも困るほどであったという 6

特に衝撃的なのは、フロイスが記したある逸話である。それによれば、寺院の解体や仏像の破壊といった作業には、収入の道を断たれて困窮した、まさにその寺院の僧侶たち自身が動員されたという 6 。これは単なる物理的な破壊にとどまらず、彼らの信仰と尊厳を根底から踏みにじる、極めて残忍な行為であった。この徹底的な破壊によって、現在の宮崎県北部地域に存在した中世以前の貴重な文化財や古文書のほとんどが失われ、その歴史を知るための一次史料は壊滅的な打撃を受けたとされている 9

破壊の二重の意図

宗麟のこの過激な命令には、二重の意図があったと考えられる。

第一に、 宗教的な意図 である。キリスト教の教えでは、神以外の偶像を崇拝することは厳しく禁じられている。敬虔なキリシタンとなった宗麟にとって、寺社仏閣は異教の巣窟であり、デウスの教えに反する忌むべき存在であった。それらを破壊し、異教の痕跡を物理的に一掃することは、これから建設するキリスト教の理想郷を「聖なる土地」として浄化するための、不可欠な儀式であった 8

第二に、 政治的・軍事的な意図 である。戦国時代の寺社勢力は、単なる宗教施設ではなかった。彼らは広大な寺領や荘園から上がる経済力を背景に、武装した僧兵を擁し、時には大名の支配さえも脅かす一大勢力であった 8 。土持領内の寺社を破壊することは、現地の支配体制を支える経済的・軍事的基盤を根底から覆し、地域住民の精神的な支柱を奪うことで、大友氏による新たな支配体制の確立を容易にするための、極めて合理的な戦略でもあった 8

この破壊活動は、宗麟が自身の権威を宗教的指導者に委譲し、宗教的権威が世俗的権力を代行するという、まさに「神政政治」の萌芽ともいえる統治システムを日向で試みていたことを示唆している。フロイスは、日本人修道士(イルマン)のジョアン・デ・トルレスがこの破壊活動の監督にあたったと記している 10 。人々は、この修道士を「あたかも国主に対するように服従し」、彼が破壊のために人員を求めれば、即座に必要な人数が調達されたという 10 。このシステムは、キリシタンにとっては理想的であったかもしれないが、非キリシタンの武将や民衆にとっては、従来の主従関係を根底から揺るがす異質な支配であり、深刻な反発と恐怖を生む原因となったのである。


第三章:洗礼の儀 ― ドン・フランシスコの誕生(天正6年8月28日)

洗礼の場所と日時

日向の地で「旧世界」の破壊が進む中、宗麟自身の「再生」の儀式が執り行われた。天正6年(1578年)8月28日、豊後臼杵に建てられたイエズス会の教会において、宗麟は洗礼の秘蹟を受けた 10 。儀式を執り行ったのは、当時の日本におけるイエズス会布教長であったフランシスコ・カブラル神父であった 10 。宗麟、時に48歳。感受性豊かであった16歳の頃に初めてポルトガル商人と接触し 16 、21歳でフランシスコ・ザビエルと出会ってから、実に27年の歳月が流れていた 17

洗礼名「フランシスコ」の選択

洗礼にあたり、宗麟は自ら「フランシスコ」という名を望んだ 10 。これは、天文20年(1551年)に豊後府内の館で出会い、初めてキリスト教の教えを体系的に説かれた偉大な宣教師、フランシスコ・ザビエルにちなんだものであった 1 。この選択は、27年前の原体験への回帰であり、彼の信仰の根源がザビエルとの運命的な出会いにあったことを明確に示している。この日をもって、大友義鎮(休庵宗麟)は、ヨーロッパの歴史にその名を刻むキリシタン大名「ドン・フランシスコ」として生まれ変わったのである 2

洗礼の儀式と宗麟の心情

当時のキリスト教の洗礼は、安易に受けられるものではなかった。通常、受洗を希望する者は、7日間連続で教義に関する説教を聴聞し、疑問点を解消した上で、デウスの十戒や教えの遵守を誓って初めて秘蹟を授けられるという、厳格なプロセスを経る必要があった 18 。宗麟もまた、長年にわたる宣教師との対話と内省を経て、この日を迎えたのであった。

洗礼後の宗麟の高揚感と決意は、フロイスの記録から鮮明に伝わってくる。儀式を終えた宗麟は、フロイスに向かって厳粛にこう語ったという。「伴天連様、予は今こそ、日向においてデウス様に約束した三つの誓いをお打ち明け申したい。尊師、それを伴天連フランシスコ・カブラル様に伝え下され。(なおまた)予がこの誓いに忠実であるよう祈っていただきたい」 10 。この言葉からは、長年の悲願が成就した深い感動と、これからの人生の全てを神に捧げるという揺るぎない決意が窺える。この「三つの誓い」の具体的な内容は、自らの全てをデウスに捧げ、その教えに反することなく生きるという献身の表明であった 10

宗麟が洗礼を受けたこのタイミングは、極めて象徴的であった。日向における寺社破壊が完了し、理想郷のための「聖地」の準備が整った直後に行われているのである。これは、彼が自らの行動を、極めて演劇的で計算されたシナリオに沿って進めていた可能性を示唆する。すなわち、「旧世界の破壊(寺社破却)」、それに続く「自己の再生(洗礼)」、そして最終章である「新世界の創造(理想郷建設)」という、壮大な宗教的物語の主人公として、自らを位置づけていたのかもしれない。彼の行動の過激さは、この強烈な自己認識に由来すると考えられる。


第四章:キリシタン王国の夢と現実 ― 無鹿の理想都市計画(天正6年8月下旬~11月)

理想郷への行進

ドン・フランシスコとして生まれ変わった宗麟は、もはや豊後の地に留まってはいなかった。洗礼後まもなく、彼は新たな正妻ジュリアやカブラル神父をはじめとする宣教師たちを伴い、理想郷建設の地と定めた日向の無鹿(現在の宮崎県延岡市)へと意気揚々と向かった 2 。フロイスは、その船団の様子を印象的に記している。宗麟が乗る船には、「金の縁飾りのある白い緞子に赤い十字架が描かれた」壮麗な旗が掲げられていたという 2 。これは、この遠征がもはや領土拡大という世俗的な目的のためではなく、神の栄光を地上にもたらすための「聖戦」であることを、内外に力強く誇示するものであった。

無鹿における都市計画

無鹿に到着した宗麟は、すぐさま壮大な都市計画に着手した 6 。その目的は、この地をキリスト教の教えが隅々まで行き渡る理想都市、すなわち地上における「神の王国」とすることであった 14 。フロイスは、宗麟が以前から語っていた計画を次のように記録している。「(宗麟は)まず教会を造り、(中略)その暁には予自身洗礼を受け、キリシタンとなった上は、デウスの教えに反することなきよう生きる覚悟である」 10

計画は着々と進められた。先に破壊された寺院の跡地には、キリスト教の聖堂(教会)が次々と建設された 2 。宗麟の構想は、単に教会を建てるだけにとどまらなかった。都市に住む全ての住民がキリスト教徒となり、司教の教えのもとで生活し、争いのない平和な共同体を築くという、文字通りのユートピアを現出させようとしたのである 10

信仰への没頭

この理想郷の建設に、宗麟は全身全霊を傾けた。彼は、目前に迫る島津軍との決戦に向けた軍議や戦略の策定といった、戦国大名としての本来の務めを、総大将である息子の義統や他の家臣たちに任せきりにした 11 。そして自らは、無鹿の館に引きこもり、その時間の多くを宣教師との神学的な対話や、熱心な祈りに費やした。彼の関心は、もはや九州の覇権争いという世俗的な事柄から離れ、自らの魂の救済と、神の王国の実現という、より高次の目標へと完全に移行していたのである。

この宗麟の「キリシタン王国」構想は、単なる宗教的な理想郷ではなかった可能性が高い。宗麟はザビエルと出会って以来、南蛮貿易を積極的に推進し、莫大な富を蓄積してきた現実的な経営者でもあった 1 。キリスト教の保護は、ポルトガル商人との交易を円滑に進めるための重要な外交政策でもあった。海に面した無鹿の地は、貿易港としての優れた潜在力を持っていた。したがって、宗麟が夢見た理想郷は、宗教的な純粋さだけでなく、南蛮貿易によってもたらされる富が還流する国際交易都市としての側面も併せ持っていたと考えられる。それは、信仰と実利が分かちがたく結びついた、彼ならではの壮大なビジョンであった。


第五章:家臣団の亀裂と不協和音 ― 理想の代償

募る不信感

宗麟が理想郷の建設に没頭する一方で、大友家の屋台骨は内側から急速に腐食していた。一連の過激な行動、とりわけ先祖代々の信仰の対象であった寺社仏閣の徹底的な破壊は、大友家中のキリシタンではない大多数の家臣たちから、猛烈な反発と不信を招いた 5 。彼らにとって、神仏を破壊する行為は、主君への忠誠心そのものを根底から揺るがす、理解不能な暴挙であった。かつて九州に覇を唱えた大友軍の強固な団結は失われ、軍の士気は日に日に低下していった 8

反キリスト教派の動向

この家臣団の不満の受け皿となったのが、宗麟によって一方的に離縁された前正室・奈多夫人と、彼女の兄である重臣・田原親賢であった 6 。彼らは、反宗麟・反キリスト教派の象徴的な存在として、不満を持つ武将たちの中心となった。

田原親賢のキリスト教に対する嫌悪感の深さは、彼自身の息子の処遇にも表れている。親賢は、実子に恵まれなかったため京都の公家から容姿端麗・文武両道の養子・親虎を迎えていた。宗麟もその将来を嘱望していたが、この親虎が偶然訪れた教会でキリスト教に深く心を惹かれてしまう。これを知った親賢は激怒し、親虎が教会へ行くことを禁じ、ついには幽閉状態に置いた。それでも信仰を捨てなかった親虎が密かに洗礼を受け、「シモン」という洗礼名を授かったことを知ると、親賢はついに親子の縁を切り、シモン親虎を田原家から追放してしまったのである 6 。このエピソードは、当時の武将たちが、主君や血縁といった従来の価値観を覆しかねないキリスト教を、いかに異質で危険な思想と見なしていたかを如実に物語っている。

指揮系統の混乱

宗麟が信仰の世界に没入し、決戦を前にして前線から遠く離れた無鹿に引きこもったことで、大友軍の指揮系統は致命的な混乱に陥った。総大将である嫡男・大友義統もまたキリスト教に傾倒し、父と同様に領国で寺社破壊を行うなどしていたが、分裂した家中をまとめ上げる器量も人望もなかった 2 。軍議では諸将の意見がまとまらず、それぞれが勝手な行動をとるなど、大軍はもはや統制の取れない烏合の衆と化していた 5

宗麟の行動は、大友家臣団という強固な共同体に対し、「キリシタンであるか否か」という、従来の主従関係や血縁、地縁とは全く異なる、新たな対立軸を持ち込んでしまった。戦国時代の武士団は、土地を媒介とした重層的な主従関係という、極めて現実的な利害関係によって結びついていた。しかし宗麟は、この共同体の原理とは相容れない「デウスへの信仰」という、普遍的かつ絶対的な価値を最優先事項として掲げた。これにより、家臣団は「宗麟に従うキリシタン派」と「神仏を重んじる伝統派」に分裂した。これは単なる戦術上の意見対立ではなく、世界観そのものの対立であり、もはや妥協の余地はなかった。この深刻な内部分裂を抱えたまま、当時最強と謳われた島津軍と対峙するという、破滅的な状況を自ら作り出してしまったのである。


終章:耳川の敗戦と理想の崩壊(天正6年11月12日以降)

耳川の戦い(高城川の戦い)

天正6年11月12日、日向国高城川(耳川)において、運命の日が訪れた。内部崩壊状態にあった大友軍は、島津義久率いる統制の取れた軍勢の巧みな釣り野伏せ戦術の前に、なすすべもなく崩れ去った 2 。田北鎮周、佐伯惟教といった歴戦の勇将をはじめ、数多くの有力武将がこの戦いで討ち死にし、大友家の軍事力は、文字通り一夜にして壊滅した。

理想郷からの逃走

無鹿の地で神への祈りを捧げていた宗麟のもとに、この絶望的な敗報が届いた。彼の夢であったキリシタン王国は、その礎を築く間もなく、放棄せざるを得なくなった。フロイスの記録は、その時の宗麟の惨めな姿を伝えている。彼は、理想郷に持ち込んだ教会用の宝物や莫大な財産をほとんど置き去りにしたまま、大急ぎで船に乗り込み、命からがら豊後へと逃げ帰ったという 2 。数ヶ月前、十字架の旗を意気揚々と掲げた船出とはあまりにも対照的な、夢の残骸を後にした敗走であった。

夢の終わりと大友家の衰退

日向におけるキリシタン王国の夢は、こうしてわずか数ヶ月の儚い幻として水泡に帰した 14 。この耳川における壊滅的な敗戦は、単なる一合戦の敗北ではなかった。それは、大友家が長年保持してきた九州の覇者の地位を完全に失い、以後、衰退の一途を辿ることになる決定的な転換点となったのである。皮肉なことに、宗麟が自らの魂の救済と理想の王国建設のために追求した宗教的純粋性が、結果として自らの王国を滅ぼす最大の要因となってしまったのであった 5

耳川での敗戦は、宗麟の「神の王国」構想が、日本の土壌における宗教と権力の複雑な関係性を見誤ったことに起因する、構造的な失敗であったと言える。宗麟は、ヨーロッパの王権神授説にも似た形で、キリスト教の神(デウス)を自らの権力の絶対的な源泉としようとした。しかし、日本の戦国大名の権力基盤は、在地領主である家臣団との重層的で相互的な主従関係や、地域の寺社勢力との暗黙の共存関係といった、極めて現実的なバランスの上に成り立っていた。

宗麟による寺社破壊は、この共存関係を一方的に破壊し、家臣団の精神的基盤をも脅かすものであった。それは、自らが立つ権力基盤そのものを、自らの手で掘り崩す行為に他ならなかった。彼は、デウスの絶対的な加護があれば、旧来の権力構造を破壊しても勝利できると信じたのかもしれない。しかし現実は、信仰だけでは軍事的な結束も、戦場での勝利ももたらされなかった。この一連の逸話は、戦国日本という社会において、外来の普遍宗教が持つ力と、それが土着の権力構造や価値観と衝突した際の限界を、最も劇的な形で示した歴史的事件として、後世に記憶されることとなった。

引用文献

  1. キリシタン大名・大友宗麟/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97037/
  2. 大友宗麟がキリスト教にのめり込む、そして高城川の戦い(耳川の戦い)で大敗、ルイス・フロイスの『日本史』より https://rekishikomugae.net/entry/2022/06/22/081649
  3. 島津の猛攻、大友の動揺、豊薩合戦をルイス・フロイス『日本史』より - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2024/01/07/131015
  4. フロイス日本史 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2
  5. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第7回【大友義鎮(宗麟)】6カ国の太守はキリスト教国家建国を夢見た!? https://shirobito.jp/article/1437
  6. 天正六年 八月 大友宗麟 宣教師を伴って無鹿に至り、キリスト教王国建設に尽力す - 佐土原城 遠侍間 http://www.hyuganokami.com/kassen/takajo/takajo6.htm
  7. www.hyuganokami.com http://www.hyuganokami.com/kassen/takajo/takajo6.htm#:~:text=%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E5%AE%97%E9%BA%9F%E3%81%AF%E3%80%81%20%E5%9C%9F%E6%8C%81,%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
  8. 耳川の戦い〜九州最強、島津氏が本領発揮、大友氏を破るをわかり ... https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/522/
  9. 耳川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  10. October/December 1993 - 澳門特別行政區政府文化局 http://www.icm.gov.mo/rc/viewer/30017/1678
  11. 大友宗麟は何をした人?「キリシタンの情熱が抑えられず神の国を作ろうとした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/sorin-otomo
  12. 大友宗麟、主な足跡とその後 https://otomotaiga.com/pdf/otomo_ashiato.pdf
  13. 宣教師が見た沖田畷の戦い(島原合戦)、ルイス・フロイスの『日本史』より - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2022/04/05/225407
  14. 完訳フロイス日本史⑦ 宗麟の改宗と島津侵攻 大友宗麟篇Ⅱ - 中央公論新社 https://www.chuko.co.jp/bunko/2000/07/203586.html
  15. 中公文庫 完訳 フロイス日本史 大友宗麟篇(合本) - 紀伊國屋書店 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-1617896
  16. 大海原の王 「大友宗麟」 - 大分市 https://www.city.oita.oita.jp/o029/bunkasports/citypromotion/documents/5147ff54002.pdf
  17. 大友宗麟- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E5%AE%97%E9%BA%9F
  18. 日本の国際化を考える ― ② - 武蔵野大学 https://www.musashino-u.ac.jp/research/pdf/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8C%96%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%EF%BC%88%EF%BC%92%EF%BC%89%20%E2%80%95%E5%AE%A3%E6%95%99%E5%B8%AB%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC.pdf
  19. 人物伝・宗麟 - 鎮西戦国史 http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/9syu_071.html
  20. 完訳フロイス日本史 - 读书 - 豆瓣 https://book.douban.com/series/39196