最終更新日 2025-10-22

大谷吉継
 ~三成の窮地を救う義の出陣を決意~

大谷吉継が石田三成の窮地を救うため、勝ち目のない戦への出陣を決意した逸話。理性と友への恩義、豊臣家への忠義が交錯する、彼の「義」の選択を深く考察。

義の決断 ― 大谷吉継、佐和山城における苦悩と覚悟の全貌

序章:決断前夜 ― 慶長五年、夏の気配

慶長5年(1600年)夏、日本の政治情勢は、徳川家康が主導する会津の上杉景勝討伐という一大事業へと急速に収斂しつつあった。この遠征は、豊臣政権の最高意思決定機関である五大老の筆頭、家康の発令によるものであり、表向きは豊臣家の公儀として諸大名に参陣が命じられていた 1 。この公的な命令に対し、疑念を抱きつつも従わざるを得ないのが、全国の大名の偽らざる心境であった。

越前敦賀5万石の城主、大谷吉継もまた、この公儀に従う一人であった。彼は手勢を率いて会津へ向かうべく、既に出陣の途上にあった。吉継の当初の立場は、家康を中心とした現行の政治秩序を維持し、豊臣家の安泰を図るという現実的なものであり、反家康の急先鋒と目される石田三成とは一線を画していた 2 。彼の率いる軍勢が越前を出立し、東へ向かう行軍の最中、その運命を大きく揺るがす一人の使者が駆けつける。それは、近江佐和山城に蟄居中の旧友、石田三成からの使者であった。届けられた書状には、ただ「急用あり、佐和山に立ち寄り請う」とだけ、簡潔に記されていたという 3

この呼び出しは、単なる旧友からの招待ではなかった。家康率いる公儀の軍勢に合流する途上にある吉継を呼び止めるという行為そのものが、極めて重大な政治的意味を帯びていた。佐和山城の門をくぐることは、豊臣家の「公務」から逸脱し、三成との「私的な友情」を優先することを意味する。この時点で吉継は、豊臣家の秩序と友との義理という、過酷な二者択一を暗黙のうちに迫られていたのである。この呼び出しこそが、吉継個人のみならず、天下の趨勢をも左右する、歴史的な転換点となるのであった。

第一章:窮地の友 ― 佐和山城に蟄居する石田三成の孤独

吉継が佐和山城で対面することになる石田三成は、政治的に完全に孤立し、深い絶望の淵にいた。その窮状は、豊臣秀吉の死後、わずか1年余りの間に急速に進行したものであった。

豊臣政権において、武断派と文治派の対立を抑え、かろうじて均衡を保っていた最後の重石は、五大老の一人、前田利家であった。しかし慶長4年(1599年)閏3月3日、その利家が病没すると、抑えられていた不満が一気に噴出する 4 。利家の死の直後、加藤清正、福島正則、黒田長政ら、豊臣恩顧の武断派七将が、三成を文治派の筆頭として憎み、大坂の屋敷を襲撃するという事件が勃発した 5 。彼らの積年の恨みの根源は、文禄・慶長の役における三成の戦況報告や軍功査定が、現場の実情を無視した不当なものであったという強い不満にあった 4

絶体絶命の窮地に陥った三成は、常人には考えられない行動に出る。政敵であるはずの徳川家康の伏見屋敷に単身逃げ込み、その庇護を求めたのである 6 。この異常事態を、家康は巧みに利用した。七将を宥め、三成の命を保証する代わりに、五奉行の職を解き、居城である佐和山への蟄居を命じた 7 。慶長4年閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に護送される形で、政治の中枢から完全に排除された 8

三成の失脚後、家康は大坂城西の丸に入り、事実上の天下人として振る舞い始める 9 。一方、佐和山城に幽閉された三成は、権力も人望も失い、ただ家康への復讐心だけを募らせる孤独な日々を送っていた。彼の窮地とは、単なる政治的失脚ではない。それは、自らが信じる正義が通用しない現実への絶望、政敵に命乞いをするという武士として最大の屈辱、そして豊臣政権の簒奪を目の当たりにしながら何もできない無力感という、三重の苦しみを伴うものであった。

この状況は、家康の深謀遠慮の結果であった可能性が高い。家康は三成をあえて殺さず生かすことで、豊臣恩顧の大名の中に燻る反徳川の「火種」を意図的に残した 7 。三成が必ずや再起を図るであろうことを見越し、それを口実に反家康勢力を一掃する「関ヶ原」という最終決戦の舞台を準備していたとも考えられる。三成の挙兵は、彼自身の純粋な義憤であると同時に、家康が描いた壮大なシナリオの一部であった可能性すらある。吉継がこれから聞かされる計画は、このような巨大な政治的謀略の渦中で練られたものであった。

第二章:佐和山城の対話 ― 理性と友情の激突

慶長5年7月11日(西暦1600年8月19日)、佐和山城の一室で、日本の歴史を左右する対話が始まった 10 。それは、冷静な現実主義と、燃えるような理想主義の激突であり、論理と友情がせめぎ合う、濃密な時間の記録である。

第一節:三成の決意と吉継の諫言

城の一室で旧友と再会した三成は、早速、打倒家康の計画を打ち明けた。「天下は内府(家康)の物になり果てようとしている。これは亡き太閤殿下の御政道に背き、幼き秀頼公を蔑ろにする許しがたい所業である」と、挙兵の大義を熱っぽく語った 11 。豊臣家への忠義を唯一の行動原理とする三成らしい、純粋でまっすぐな言葉であった。

しかし、これを聞いた吉継の反応は、即座の、そして冷徹なまでの否定であった。「もってのほかなる不了見(とんでもない浅はかな考えだ)」 10 。彼は、この計画がいかに無謀であるかを、冷静に、論理的に説き始めた。吉継の論理は明快であった。人望、兵力、財力、そして何よりも大義名分。その全てにおいて家康が圧倒的に優位である。特に大義名分においては、家康は豊臣家の公儀として上杉討伐に向かっており、これに敵対することは、豊臣家への反逆と見なされかねない。挙兵は、豊臣家を救うどころか、さらなる滅亡に導くだけの自殺行為であると、彼は繰り返し諫言した 2

吉継は三成を翻意させるため、「家康は智勇兼備の人物であり、我らにとっても良い相談相手だ。今は彼に協力すべきだ」とまで説いたとされる 10 。これは、吉継自身が家康と個人的に親しい関係にあったことも影響している 13 。この最初の対話は、「どうあるべきか」という規範を語る三成と、「現状がどうであるか」という現実を語る吉継という、明確な対立構造を示している。この時点では、二人の議論は全く噛み合っていなかった。吉継の反応は、友情よりもまず、豊臣家全体の安泰を願う大名としての、冷静な政治判断が優先されていたのである。

第二節:「汝に人望なし」― 友への痛烈なる直言

議論が平行線を辿る中、吉継は、この無謀な計画が失敗する最大の要因として、三成自身の人間的欠陥という、最も触れられたくない核心へと踏み込んでいく。

「貴殿は諸人に悪(にく)まれ…」11

「そこもとには、諸人へ対し申されての辞宜作法ともにことのほかえいかいに候(お前は人に対する言葉遣いや礼儀作法がことのほか横柄だ)」10

これは、江戸時代の軍記物『落穂集』に記された、吉継の言葉とされるものである。さらに『常山紀談』によれば、吉継は「お前には求心力がない。お前の呼びかけでは誰も従わない」と、リーダーとしての資質が決定的に欠けていることを、友として、しかし一切の容赦なく指摘したという 14

吉継は三成の才能を認めていなかったわけではない。「智慮才覚においては天下に並ぶ者無し」と高く評価する一方で、「しかし、勇気と決断力に欠ける」とも評している 13 。これは、人を正論や利害のみで動かそうとする三成のやり方への根本的な批判でもあった。「人は利のみにて動くにあらず」 16

これほど痛烈な人物批判を面と向かって行える関係性こそが、二人の友情が単なる同僚以上の、極めて深いものであったことを逆説的に証明している。他の者であれば決して口にできない真実を告げることこそが、友を破滅から救おうとする吉継にとっての、最後の誠意であった。そしてこの吉継の指摘は、後の関ヶ原における小早川秀秋をはじめとする諸将の裏切りを、恐ろしいほど正確に予言している。西軍敗北の根本原因は、戦略の巧拙以前に、事実上の総大将である三成の人望の欠如という、組織論的な欠陥に起因することを、吉継は開戦前に完全に見抜いていたのである。

第三節:心を動かしたるもの ― 一杯の茶と、友の覚悟

吉継の論理的な説得と、魂を抉るような痛烈な批判をもってしても、三成の決意は微動だにしなかった。勝ち目がなくとも、友が離れていこうとも、己の信じる義のために全てを懸けるという三成の純粋で、ある種、狂気じみた覚悟がそこにはあった 15

この友の不動の覚悟を前にして、吉継の心に変化が生じ始める。彼の脳裏に、過去のある出来事が鮮やかに蘇ったとされる。それが後世にまで語り継がれる「茶会の逸話」である。

ある時、大坂城で開かれた茶会で、一座の武将たちが一つの茶碗を回し飲みしていた。当時、吉継は業病(ハンセン病)を患っており、その容貌を隠すために顔を白い頭巾で覆っていた 17 。吉継の番が来て茶を飲んだ際、不意に顔から膿が一滴、茶碗の中に落ちてしまった 17 。後に続く諸将は、感染を恐れて気味悪がり、飲むふりをしてその茶碗をそっとやり過ごした 20 。一座に気まずい沈黙が流れる。しかし、次に番が回ってきた三成だけは、全く動じることなくその茶碗を取り上げると、膿ごと一気に飲み干した。そして、周囲を気遣うように「喉が渇いていたので待ちきれなかった。実に美味い茶であった」と言って、吉継の窮地を救い、その面目を保ったという 19

この出来事は、吉継の心に深く刻まれていた。他者が自分を病によって判断し、遠ざける中で、三成だけが、一人の人間・大谷吉継として向き合ってくれた。この記憶が、佐和山城の密室で、全ての計算と論理を超えた「義」の感情を呼び覚ます。ここで、吉継の意思決定の尺度は、「戦略的合理性(理)」から「人間的恩義(義)」へと劇的に転換した。三成の揺るぎない覚悟と、過去に受けた恩義が、勝ち目のない戦いという冷徹な「理」を凌駕した瞬間であった。彼は、勝つための戦いではなく、友と共に死ぬための戦いを選ぶことを決意したのである。

意思決定要因

挙兵に反対する論理(理)

挙兵に賛同する情念(義)

戦力分析

徳川軍が兵力・財力で圧倒的優位。勝ち目はない。

勝ち負けは問題ではない。友の覚悟に応える。

大義名分

家康軍は豊臣の公儀。敵対は謀反と見なされる。

家康の天下簒奪こそが豊臣への裏切りである。

人心掌握

三成は人望がなく、誰もついてこない 14

人望のない友だからこそ、自分が見捨ててはならない。

個人的関係

家康とは親しい関係にあり、敵対する理由がない 13

茶会での恩義 19 。病の自分を受け入れた三成への恩返し。

結果予測

挙兵は確実に失敗し、豊臣家を滅亡に導く。

共に滅びることで、武士としての本分と友情を全うする。

第三章:「義」の選択 ― 敗北を覚悟した出陣

第一節:同意の条件 ― 総大将は輝元を

三成と共に死ぬ覚悟を決めた吉継であったが、彼は単なる感情論で破滅に身を投じたわけではなかった。挙兵に同意したその瞬間から、彼は再び冷静な戦略家に戻り、この絶望的な戦いの勝率をたとえわずかでも上げるための、具体的な献策を始める。

彼の最初の、そして最も重要な助言は、西軍の総大将に関するものであった。「お前(三成)は人望がないから、決して総大将になってはならない。五大老筆頭の毛利輝元か、同じく五大老の宇喜多秀家を総大将として立てよ」 10 。これは『常山紀談』などに伝えられる、吉継の極めて現実的な戦略であった。

この献策の意図は、今回の挙兵の「顔」を、三成個人の家康に対する私怨に基づく「私闘」ではなく、豊臣家全体を守るための「公戦」であると世に知らしめることにあった。毛利家という西国随一の名門を旗頭に据えることで、より多くの西国大名を味方に引き入れることができると考えたのである。吉継は、感情で「参戦」を決め、冷徹な理屈で「戦い方」を決めた。敗北は覚悟しているが、無様に負けるつもりはないという、彼の武士としての矜持がそこにはあった。彼は単なる参加者ではなく、西軍という組織の根幹を設計し、その物語を再定義するプロデューサーの役割を担ったのである。

第二節:「義を見てせざるは勇なきなり」の言説を巡って

大谷吉継のこの決断を象徴する言葉として、しばしば「義を見てせざるは勇なきなり」が引用される。この言葉は、元来『論語』の為政篇に記された孔子の有名な言葉であり、「人としてなすべき正しいことと知りながら、それを行わないのは勇気がないことだ」という意味を持つ。

しかし、今回の調査で参照した『常山紀談』『落穂集』『慶長見聞集』といった江戸時代の史料や、現代の研究論文の中に、大谷吉継が佐和山城のこの場面で、この言葉を 実際に口にしたという直接的な記録は見当たらなかった 13

この言葉は、史実として彼が発したものではなく、彼の行動の本質を見事に要約した「表象」と考えるべきである。論理的には圧倒的に不利と知りながら、友人への恩義と豊臣家への忠義という自らが信じる「義」のために、敢然と立ち上がった吉継の精神性。その崇高な行動を表現するのに、これほど的確な言葉はなかった。そのため、後世の講談や小説、歴史物語の中で、彼の行動を象徴するキャッチフレーズとして付与され、人々の間に広く流布していった可能性が極めて高い。

むしろ、吉継がそのような格言めいた言葉を口にしなかったことの方が、彼の人物像をより深くする。彼は言葉で自らの義を飾るのではなく、ただ黙って敗北の運命を共にするという「行動」そのもので義を示した。その沈黙の決断の重みこそが、後世の人々の心を打ち、この有名な言葉を彼に結びつけさせた根源であると言えるだろう。彼の行動は、まさに「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉でしか表現できないものであった。

結論:滅びの美学か、友情の極致か

大谷吉継の佐和山城における決断は、単なる友情物語に還元することはできない。それは、冷静な戦略家としての「理性」、旧友への「恩義」、豊臣家への「忠義」、そして自らの死に場所を求める武士としての「美学」が複雑に絡み合った、極めて人間的な選択であった。

彼は、三成の計画の致命的な欠陥も、西軍の敗北も、そしてその先にある自身の死も、その明晰な頭脳で全てを予見していた 13 。それでもなお、彼は友と共に破滅へと向かう道を選んだ。それは、生き残るための最善手ではなく、自らの信じる「義」を貫くための唯一の道であったからに他ならない。

この佐和山での決断は、そのまま彼の壮絶な最期に直結する。関ヶ原の戦場において、吉継は病で既に盲目となっていた身で輿に乗りながら、鬼神の如く指揮を執った。かねてより危惧していた小早川秀秋の裏切りを予期してその正面に陣を敷き、いざ裏切りの大軍が殺到すると、一時は10倍以上の敵を押し返すという獅子奮迅の働きを見せた 1 。しかし、衆寡敵せず、予期していた通りの裏切りと敗北の中で、敵に首を渡すことを潔しとせず、家臣の介錯によって自刃を遂げた 23

吉継の選択は、運命に翻弄された結果ではない。全ての情報を分析し、未来を予見した上で、自らの意志で「滅び」を選び取ったという点で、究極の自己決定と言える。彼の生き様は、「歴史は常に勝利者によってのみ作られるのか」という根源的な問いを我々に投げかける。彼の選択は軍事的には完全な敗北であった。しかし、その「義」に貫かれた生き方は、400年以上の時を経た今もなお、勝者である家康とは全く異なる種類の輝きをもって語り継がれている。それは、人間が論理や損得勘定だけで生きるのではないことの、時代を超えた力強い証明なのである。

引用文献

  1. 大谷吉継は何をした人?「親友・三成との友情を貫き敗軍を率いて関ヶ原に殉じた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshitsugu-otani
  2. 大谷吉継を決断させた石田三成の「評価」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/24198
  3. 戦国の城と城跡 ・ 関ヶ原古戦場 (23 ) 「 西軍、大谷吉継 陣跡 」 石田三成の盟友である越前 敦賀城主の大谷吉継は、家康の会津討伐の参戦の途中に三成の使者を通じて、三成のいる佐和山城に呼ばれた。そして家康打倒 - ココログ http://tanaka-takasi.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-0ab0.html
  4. どうする家康40話 石田三成との決別/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/112297/
  5. 武断派七将から襲撃された三成、伏見城内の自邸に逃れる(「どうする家康」161) https://wheatbaku.exblog.jp/33134234/
  6. 「石田三成襲撃事件」で襲撃は起きていない? 画策した7人の武将 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10229
  7. 関ヶ原の戦い① 関ヶ原の戦いはなぜ起こったのか - 城びと https://shirobito.jp/article/501
  8. 七将襲撃事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%86%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
  9. すべては秀吉の死から始まった:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(上) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06915/
  10. 大谷吉継の〝リーダー失格〟宣言 |BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/1070603/
  11. 乱世に義を貫く-名将大谷吉継の実像- - 福井県立図書館 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615578.pdf
  12. 石田三成と大谷刑部の熱き友情に乾杯!『関ヶ原』 - 京都 市原栄光堂 https://www.kyoto-music.net/archives/219
  13. 大谷吉継 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99
  14. 石田三成は何をした人?「家康の不忠義を許さず豊臣家のために関ヶ原に挑んだ」ハナシ https://busho.fun/person/mitsunari-ishida
  15. 石田三成と大谷吉継…2人は熱い友情で結ばれた「同志」だった ... https://sengoku-his.com/716
  16. “人は利だけでは動かない”を実践して散った大谷吉継|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-016.html
  17. 耳が痛いことを言ってくれるのが本当の友達!~石田三成と大谷吉継 - studio poppo https://studiopoppo.jp/poppoblog/chat/58542/
  18. 大阪城の茶会 - 首都大阪(田仲ひだまり) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054890559287/episodes/1177354054890639332
  19. 石田三成、その人物像とは - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324454.html
  20. 『別冊歴史REAL 大谷吉継と石田三成』に寄稿 | 天下静謐 http://www.twinkletiger.com/2016/08/30/post-819/
  21. 【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第2回「大谷吉継」 https://www.minnano-komon.com/rekishi-02/
  22. 濃茶の回飲み 戦国武将 大谷吉継 | bunpuku-sadouのブログ https://ameblo.jp/bunpuku-tokyo-sadou/entry-12790730707.html
  23. 石田三成唯一の友「大谷吉継」黒いウワサの真相は? 辻斬り ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/97221/
  24. 石田三成の古里 大谷吉継詳細 https://eritokyo.jp/independent/aoyama-mitsunari11.html
  25. 大谷吉継の子孫たち -福井藩士大谷氏 - 福井県立図書館 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2015exhb/201507mini/201507mini.html