大谷吉継
~血濡れ扇閉じ義は果たした潔~
大谷吉継は関ヶ原で小早川の裏切りを予見し奮戦。盟友の辞世を受け自刃し、血濡れ扇を閉じ「義は果たした」と語った逸話は、彼の潔い忠義を象徴する。
大谷吉継、関ヶ原に散る ―「血染めの扇」と「義」の潔譚、その最期の瞬間の徹底分析
序章:運命の関ヶ原、決着の刻
慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)、美濃国関ヶ原。天下分け目の合戦は、その日の午後、決定的な局面を迎えていた 1 。徳川家康率いる東軍と、石田三成が実質的に主導する西軍が激突したこの戦場において、西軍の将・大谷刑部少輔吉継は、戦略的にも精神的にも極限の状態に置かれていた。
彼の陣は、西軍の布陣のやや南、松尾山の麓に位置していた 2 。この場所は偶然選ばれたものではない。松尾山に陣取る小早川秀秋の不穏な動きを、吉継はその明晰な頭脳で見抜いていたのである 4 。秀秋の裏切りを予見していたからこそ、その大軍を物理的に監視し、万一の場合には即座に対応できるこの地を、彼は自らの死地として選んだ 2 。これは、彼が単に運命に翻弄された悲劇の将ではなかったことの証左である。最悪の事態を冷徹に予測し、それに能動的に対峙しようとした理知的な戦略家としての側面が、この布陣にはっきりと見て取れる。したがって、彼の最期は「不運な裏切り」という受動的な物語ではなく、「予見していた危機に、己の全戦力をもって立ち向かい、そして敗れた」という、より主体的で壮絶な悲劇として捉えられねばならない。この「予見された裏切り」という前提こそが、彼の最期の潔さを一層際立たせるのである。
本報告書は、大谷吉継の最期に関する『討ち死の瞬間、血に濡れた扇を閉じ「義は果たした」と語ったという潔譚』という特定の逸話に焦点を当て、その背景となる戦況から自刃に至るまでの時系列を克明に再構築し、逸話を構成する象徴的な要素を分析することで、彼の行動原理であった「義」の本質に迫るものである。
第一部:壮絶なる最期の時系列 ― 最後の奮戦から自刃まで
逸話の核心である「討ち死の瞬間」に至るまでの出来事を、可能な限り詳細な時系列に沿って再構築する。戦況の推移と吉継の行動を俯瞰的に把握するため、まず以下の時系列表を提示する。
表1:関ヶ原合戦における大谷隊の時系列(慶長五年九月十五日午後)
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時刻(推定) |
戦況・出来事 |
関連人物 |
典拠・備考 |
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午後1時頃 |
小早川秀秋隊(約15,000)が松尾山より大谷隊側面へ攻撃開始 |
小早川秀秋、大谷吉継 |
当初、大谷隊は数度にわたりこれを撃退 5 |
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午後1時半頃 |
脇坂、朽木、小川、赤座の四隊(約4,200)が東軍へ寝返り |
脇坂安治ほか |
大谷隊は三方から包囲され、戦線が崩壊 3 |
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午後2時頃 |
平塚為広、戸田重政らが討死。為広より吉継へ辞世の句が届く |
平塚為広、戸田重政 |
これを受け、吉継は自刃を決意 6 |
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午後2時半頃 |
吉継、陣所より後退し自刃。湯浅五助が介錯 |
大谷吉継、湯浅五助 |
「病顔を敵に晒すな」と遺言 6 |
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午後3時以降 |
湯浅五助、藤堂隊に討ち取られる。主君の首の場所を秘す |
湯浅五助、藤堂高刑 |
この義が敵将の心を動かす 8 |
第一章:松尾山の動揺と大谷隊の崩壊
合戦が膠着状態にあった正午過ぎ、家康の苛立ちが頂点に達した時、松尾山の小早川秀秋隊約15,000の軍勢がついに動いた。しかしその矛先は、対峙する東軍ではなく、味方であるはずの大谷隊の側面であった 5 。予期していたとはいえ、圧倒的な兵力差での裏切りは、西軍の戦線を根底から揺るがすものであった。
しかし、大谷吉継は狼狽えなかった。彼は病のため輿に乗り指揮を執っていたが 3 、即座に直属の兵わずか600を率いてこれに応戦。驚くべきことに、この寡兵をもって数倍の敵の猛攻を二度、三度と撃退したと伝えられている 5 。豊臣秀吉がかつて「吉継に100万の兵を指揮させてみたい」と評したとされる逸話があるが 11 、この絶望的な状況下で見せた驚異的な奮戦は、その評価が単なる誇張ではなかったことを証明している。彼の軍事的才能は、紛れもなく本物であった。
だが、吉継の奮戦も空しく、戦局は最悪の方向へと転がり落ちる。小早川隊の裏切りに呼応し、その抑えとして配置していたはずの脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の四隊、総勢4,200までもが次々と東軍に寝返ったのである 3 。これにより大谷隊は三方向から完全に包囲され、衆寡敵せず、ついに壊滅に至った 9 。この連鎖的な裏切りは、西軍という組織が、石田三成や大谷吉継のような「義」に殉じる覚悟を持つ中核グループと、戦況次第で自らの「利」を優先する多数の日和見的な大名たちによって構成されていたという、構造的な脆弱性を白日の下に晒すものであった。一個人の卓越した能力や崇高な精神だけでは、組織全体の構造的欠陥を覆すことはできない。その冷徹な現実が、関ヶ原の戦場で吉継に突きつけられたのである。
第二章:盟友からの辞世と覚悟の刻
戦線が崩壊し、自らの部隊が蹂躙されていく中、吉継は死を覚悟した。その覚悟を決定的なものとしたのは、盟友・平塚為広からの最後の伝言であった。為広は大谷隊の支援のため、裏切った小早川隊に果敢に突撃し、壮絶な討死を遂げる直前、吉継のもとへ使者を送ったのである 7 。
使者が届けたのは、為広が討ち取った敵将の首と、一枚の紙片であった 7 。そこに記されていたのは、彼の辞世の句であった。
「名のために 捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思へば」 13
(名誉のために殉じることができるなら、この命を捨てることは少しも惜しくはない。どうせ永遠には続かないこの世なのだから)
この潔い一句は、吉継の心を深く打った。これは単なる友への別れの挨拶ではない。武士社会において、辞世の句は自らの死生観を表明する最後の自己表現であり、極めて重要な儀礼である。為広の句は「名誉(=義)のために死ぬことへの全面的な肯定」であり、それは同時に、吉継に対する「貴殿もまた、武士として潔くあれ」という魂のメッセージでもあった。
為広の覚悟を受け取った吉継は、静かに筆をとり、返歌を詠んだ。
「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」 14
(もし我らの間に来世でも続く縁があるのならば、冥府の入り口である六道の辻でしばし待っていてくれ。私が先に行くか、君が先に行くかの違いはあっても、いずれ必ず私もそこへ行くだろうから)
吉継が「六道の辻で待て」と応えることは、為広の死生観に全面的に同意し、「我々が貫いた『義』は、この世だけでなくあの世でも通じる普遍的な価値である」と宣言する行為に他ならない。これは、軍事的な敗北を精神的な勝利へと昇華させるため、二人の間で行われた最後の共同儀式であった。吉継は使者に「為広殿の武勇と歌は、感ずるに余りあります。早々に自害して追いつき、再会しましょう」と伝え、静かに自らの最期の準備を始めた 7 。
第三章:自刃 ― 介錯人・湯浅五助との対話
盟友との約束を果たすべく、吉継は自刃の地を求めて陣所から後退した 9 。現在の岐阜県不破郡関ケ原町にある墓所付近が、その最期の場所と伝えられている 9 。そこへ、家臣の湯浅五助が駆けつけ、平塚為広、戸田重政の両名が討死したことを涙ながらに報告した 6 。
全てを悟った吉継は、静かに、しかし毅然として言った。「時間が過ぎて雑兵の手にかかって討たれるのは残念であるから、腹を切る」 6 。そして、介錯を務める五助に対し、生涯を懸けて守り抜こうとした最後の矜持を遺言として託した。
「私の面体は悪病の為に損じていて人に見られる事を恥じるので、かねて申し付けていたように取り計らえ」 6
彼の最期の言葉の中心は、豊臣家への忠義でも、三成への友情でもなく、「病で崩れた顔を敵に晒すな」という、極めて個人的な尊厳のことであった 17 。これは、彼が生涯を通じて「業病」と伝えられる病の肉体的苦痛と、それに伴う社会的な偏見や屈辱と戦い続けてきたことの証左である。彼の自刃は、敵からの死を回避するだけでなく、病によって損なわれた自らの「武士としての見目(みめ)」が、死後に敵の晒しものにされるという最後の侮辱から逃れるための、魂の最後の戦いであった。
吉継は輿から黄金一包を取り出すと、残った近習たちに「お前たちは皆討死するのも無益である。これを路銀として何方へ逃去ってよい」と述べ、彼らの行く末を案じた 6 。そして五助に「介錯せよ」と命じると、肌を脱ぎ、腹を十文字に掻き切った。五助は主君の壮絶な最期を見届け、涙を呑んでその首を打ち落とした 6 。彼は、自らの死の「見せ方」を最後まで自身で律することで、生涯をかけて守り抜いた武士としての矜持を全うしたのである。
第四章:首級の行方と義の連鎖
大谷吉継の物語は、彼の死では終わらない。彼の遺志は、忠臣たちによって引き継がれていく。
吉継の首は、湯浅五助(一説には三浦喜太夫)が羽織に包み、敵の目に触れぬよう戦場近くの田の中に深く埋めた 6 。主君の最後の命令を果たした五助は、もはやこの世に未練はなかった。彼は馬に乗り、単身、敵である藤堂高虎の軍勢に突入し、藤堂高刑(仁右衛門)によって討ち取られた 6 。
しかし、討たれるまさにその瞬間、五助は高刑に取引を持ちかける。「私の首の代わりに、大谷吉継の首をここに埋めたことを秘して欲しい」 17 。主君の尊厳を守るため、自らの首を差し出したのである。五助のその忠義に満ちた姿に、敵であるはずの高刑は深く感銘を受けた。
後日、首実検の場で徳川家康は、高刑に対し大谷吉継の首の在処を詰問した。しかし高刑は、「湯浅殿との義、明かせませぬ」と述べ、五助との約束を固く守り通した 9 。その義に篤い姿勢に家康は感心し、高刑を罰するどころか、自らの槍と刀を与えて賞賛したという 9 。
さらに驚くべきことに、吉継の墓は、この一連の義挙に感銘を受けた敵方の藤堂家によって、江戸時代初期に建立されたと伝えられている 9 。吉継が命を懸けて示した「義」は、家臣の湯浅五助に継承され、その五助の「義」が敵将である藤堂高刑の心を動かし、ついには敵の総大将である家康をも感服させた。吉継の死は、単なる敗死ではなかった。それは、敵味方という政治的対立の枠組みを超えて、武士社会に共通する普遍的な美徳として認識・尊重されるほどの力を持ち、後世に語り継がれるべき「義」の模範として、敵方にさえ認められたのである。
第二部:逸話の深層分析 ―「血染めの扇」と「義は果たした」
利用者によって提示された逸話の核心的要素である「血に濡れた扇を閉じ」「義は果たしたと語った」という部分に焦点を当て、その史実性と物語上の象徴的意味を徹底的に分析する。
第一章:軍扇の意味 ― 指揮官の魂
「血に濡れた扇を閉じる」という所作は、なぜこれほどまでに我々の心に深く刻まれるのか。その理由を解き明かすためには、戦国武将にとっての「軍扇」が持つ多義的な役割を理解する必要がある。
軍扇は、第一に軍勢を指揮するための実用的な道具であった 22 。しかしその役割は、単なる合図の道具に留まらない。親骨が鉄でできている「鉄扇」は、刀を持てない殿中などでの護身用武器としても機能した 22 。さらに、扇面には日輪や月輪が描かれ、戦の吉凶を占ったり、軍神を招いて戦勝を祈願したりするための、呪術的・儀礼的な意味合いも強く持っていた 23 。扇は武士の威儀を正すための重要な装身具でもあり、刀と同様に武士の魂が宿るものと見なされていたのである 22 。
このように、軍扇は単なる道具ではなく、指揮官の権威、武運、そして魂そのものの象徴であった。この前提に立つとき、「血に濡れた扇を閉じる」という一連の所作が持つ、凝縮された意味が明らかになる。
- 扇が「血に濡れる」こと : これは、指揮官自身が安穏な後方から指示を出していたのではなく、命のやり取りが行われる最前線で、文字通り血を流しながら戦ったことの動かぬ証拠である。
- 扇を「閉じる」こと : この行為は、極めて象徴的な三重の意味を持つ。第一に、指揮官としての役割、すなわち「指揮権の放棄」を意味する。第二に、戦の勝敗や運命を左右する呪具としての扇を畳むことで、「自らの武運の終焉」を受け入れることを示す。そして第三に、武士としての人生そのものの「幕引き」を宣言する行為である。
この「血に濡れた扇を閉じる」という一連の動作は、大谷吉継の最期の瞬間に凝縮された全ての感情――奮戦、絶望、覚悟、そして矜持――を、いかなる言葉よりも雄弁に物語るための、優れた物語的装置として機能しているのである。
第二章:言説の検証 ―「義は果たした」の源流を探る
逸話のクライマックスを飾る「義は果たした」という台詞。これは、吉継の生涯を象徴する言葉として広く知られている。しかし、この台詞は史料的に確認できるものなのであろうか。
『常山紀談』や『関ヶ原軍記大成』といった、江戸時代に成立した主要な軍記物や逸話集を検証しても、大谷吉継の最期の場面において「義は果たした」という具体的な台詞は確認できない 4 。これらの史料における吉継の最期の描写は、前述の通り、主に「病み崩れた顔を敵に晒すな」という遺言と、湯浅五助による介錯の事実に集中している 6 。
では、なぜこの台詞がこれほどまでに定着したのか。その背景には、江戸時代中期以降、軍記物語や講談の世界で、大谷吉継が「理想的な武将」として再構築され、その人物像が理想化されていったという歴史的経緯がある 26 。
このことから、「義は果たした」という台詞は、史実(Fact)として彼が口にした言葉ではなく、後世の人々が彼の行動全体から読み取った物語的な真実(Truth)である可能性が極めて高い。彼は言葉でそうは言わなかったかもしれない。しかし、彼の行動そのものが、この言葉を雄弁に物語っている。
- 不利を承知で盟友・石田三成に味方したこと。
- 圧倒的な敵を相手に、最後まで驚異的な奮戦を見せたこと。
- 盟友・平塚為広と辞世を交わし、武士として潔く自刃したこと。
- その遺志を継いだ家臣たちが、命を懸けて主君の尊厳を守ったこと。
これら一連の行動は、まさしく「義は果たした」というメッセージそのものである。後世の軍記作者や講釈師たちは、彼の行動に込められたこの「魂の叫び」を、聴衆により分かりやすく、そしてより劇的に伝えるために、「義は果たした」という象徴的な台詞を創造したのではないか。これは歴史の捏造というよりも、彼の生涯と最期が持つ本質を、一つの言葉に凝縮させるという「物語的翻訳」の作業であったと結論付けられる。事実を超えた「真実」が、ここに形成されたのである。
第三部:大谷吉継にとっての「義」とは何か
逸話の核心をなす「義」という概念について、その源泉と本質を、吉継の人間関係と思想から深く掘り下げていく。
第一章:石田三成との友情 ― 茶会の逸話にみる絆
大谷吉継の「義」を語る上で、石田三成との比類なき友情を避けて通ることはできない。二人の絆の深さを象徴する逸話として、後世に語り継がれているのが「大坂城の茶会」である。
ある時、豊臣秀吉が主催した茶会で、一つの茶碗が諸将の間で回し飲みされていた 19 。当時、すでに重い病を患っていた吉継がその茶碗に口をつけた後、次に回された武将たちは病の感染を恐れ、飲むふりをするだけであったという 28 。満座の者たちが躊躇する中、ただ一人、石田三成だけが普段と何ら変わらぬ様子でその茶碗を受け取ると、一気に飲み干し、「喉が渇いて待ちきれなかった」と気遣いの言葉をかけたとされる 29 。
この三成の行動は、単なる「友情」や「男気」という言葉だけでは説明しきれない深い意味を持つ。当時の「業病」患者が置かれた厳しい社会的状況を考えれば、それは吉継の存在そのものを肯定する行為であった。病によって社会から疎外され、武士としての誇りさえも蝕まれかねない状況にあった吉継にとって、三成の行動は、自らの「人間としての尊厳」を満座の中で無条件に認め、守ってくれるものであった。これは、吉継にとって魂の救済に等しい経験だったに違いない。
彼が三成に対して生涯を懸けて貫いた「義」とは、この時に受けた恩義への報恩であり、自らの存在価値を認めてくれた唯一無二の盟友を守り抜くという、極めて個人的で切実な誓いであった。彼の「義」の原点は、この魂の交流にあったのである。
第二章:豊臣家への忠義と現実主義の狭間で
吉継の「義」は、三成への私的な友情のみに根差すものではなかった。彼は豊臣政権の中枢を担う奉行として、豊臣家への公的な忠誠心も持ち合わせていた 31 。しかし同時に、彼は徳川家康の実力を誰よりも高く評価する、冷静な現実主義者でもあった 11 。
関ヶ原の挙兵直前、三成から家康打倒の計画を打ち明けられた際、吉継は当初、それに反対した。家康と三成の石高、兵力、そして何よりも将としての器量の差を挙げ、勝ち目のない戦であると諫言したと伝えられている 19 。客観的な情勢分析に基づけば、東軍につくか、少なくとも中立を保つことが、大谷家存続のための合理的な選択であったはずである。
しかし、彼は最終的に敗北を予期しながらも、三成と共に立つことを選んだ 4 。これは、彼が論理や計算、すなわち「利」を捨てて、友情や恩義、そして豊臣家への忠義という「義」を選んだことを意味する。かつて彼が三成に語ったとされる「人は利のみにて動くにあらず」という言葉を 33 、彼は自らの命をもって証明したのである。
大谷吉継の最期は、合理性や現実主義だけでは割り切れない、人間の崇高な価値が存在することを、戦国の世に、そして後世に示した、知将ならではの悲劇的な自己実現であった。彼の選択は、計算高い現実主義者から見れば愚行であったかもしれない。しかし、その非合理的な選択の中にこそ、人の心を打ち、時代を超えて語り継がれる「義」の輝きが宿っているのである。
結論:潔譚の形成と後世への継承
本報告書で分析してきたように、大谷吉継の最期に関する逸話は、史実の核と後世の物語的創作が精妙に融合して形成された「潔譚」である。
史実として確認できる彼の最期の行動――不利を承知で盟友に与し、圧倒的な裏切りの中で最後まで奮戦し、盟友との約束を胸に潔く自刃し、その遺志を忠臣たちが命がけで守り抜いた――は、それ自体がすでに「義」を体現する要素に満ちていた。
後世の物語作者たちは、この感動的な史実の核に対し、「血に濡れた扇を閉じる」という象徴的な所作や、「義は果たした」という核心を突く台詞といった、効果的な物語装置を付加した。これにより、彼の最期の物語は、その感動がより普遍的で劇的なものへと昇華されたのである。
その結果、大谷吉継の最期は、単なる歴史上の一事実を超え、武士道における「義」の理想を体現する、時代を超えて人々の心を打つ不朽の物語として完成された。彼の物語が我々に問いかけるのは、何が正義で何が悪かという単純な二元論ではない。それは、計算や損得を超えて、己の信じる「義」に殉じることの美しさと、その裏にあるどうしようもない悲壮さである。大谷吉継という一人の武将が、その生涯の最後に示した生き様は、今なお我々の心に深く響き続けている。
引用文献
- 関ヶ原の戦い 西軍結成の鍵「内府違いの条々」大谷吉継はなぜ石田三成に味方したのか?「早わかり歴史授業71 徳川家康シリーズ39」日本史 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=-iYFkFRx9k4
- 大谷吉継陣跡 - 岐阜県観光連盟 https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6718.html
- 大谷吉継コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館 https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/otani-yoshitsugu/
- 石田三成と大谷吉継…2人は熱い友情で結ばれた「同志」だった ... https://sengoku-his.com/716
- 「大谷吉継」裏切りに次ぐ裏切りで散る忠義の知将 秀吉が100万石の軍を預けたかった恐るべき才 https://toyokeizai.net/articles/-/713631?page=5
- 大谷吉継、多勢に無勢の中で奮戦するも最後は自害する ... https://wheatbaku.exblog.jp/33151533/
- 平塚為広の辞世 戦国百人一首㉓|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n87371821d71a
- 湯浅五助の墓 http://masa.sakura.ne.jp/sengoku/haka/yuasa450h.html
- 関ケ原大谷墓 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/sekigahara-ootani.k/sekigahara-ootani.k.html
- 石田三成の古里 大谷吉継詳細 https://eritokyo.jp/independent/aoyama-mitsunari11.html
- あの徳川家康も恐れた『大谷吉継』とは? 豊臣秀吉に『100万の兵を指揮させてみたい』と言わしめたほどの武将!義に生き - サムライ書房 https://samuraishobo.com/samurai_10030/
- 小早川秀秋の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/35768/
- www.sekigahara1600.com https://www.sekigahara1600.com/spot/hiratsukatamehirohi.html#:~:text=%E2%80%9C%E7%BE%A9%E2%80%9D%E3%82%92%E8%B2%AB%E3%81%8D%E3%80%81%E2%80%9C,%E3%81%AE%E5%91%BD%E3%81%AA%E3%81%A9%E6%83%9C%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%82
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- 大谷吉継 もう一つの首塚 - 戦国女士blog https://rekijoshi.hatenablog.com/entry/2020/01/10/232707
- 湯浅五助 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E4%BA%94%E5%8A%A9
- 大谷吉継 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99
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- 乱世に義を貫く-名将大谷吉継の実像- - 福井県立図書館 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615578.pdf
- 濃茶の回飲み 戦国武将 大谷吉継 | bunpuku-sadouのブログ https://ameblo.jp/bunpuku-tokyo-sadou/entry-12790730707.html
- 大谷吉継の茶会のエピソードについて知りたい - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000349809&page=ref_view
- 石田三成、その人物像とは - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324454.html
- 『別冊歴史REAL 大谷吉継と石田三成』に寄稿 | 天下静謐 http://www.twinkletiger.com/2016/08/30/post-819/
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- “人は利だけでは動かない”を実践して散った大谷吉継|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-016.html