最終更新日 2025-10-26

女忍者(くノ一)
 ~敵将の側室として潜入し機密を盗む~

くノ一が敵将の側室として潜入し機密を盗む逸話は、史実より司馬遼太郎の小説「関ヶ原」の初芽局が原型。女性の諜報活動の実像と、物語が人々の心を捉える理由を分析。

戦国くノ一の色仕掛け譚:『初芽局』の物語に見る虚構と真実の徹底分析

序章:『くノ一の色仕掛け』—史実と虚構の境界線

日本の戦国時代、その動乱の影で暗躍したとされる「女忍者(くノ一)」。中でも、『敵将の側室として潜入し、夜半に機密を盗んだ』という色仕掛けの逸話は、ひときわ鮮烈なイメージを伴って語り継がれてきた。しかし、この物語は歴史の真実をどの程度反映しているのだろうか。専門的な見地からこの問いに答えるならば、その逸話は史実そのものではなく、歴史の断片から紡ぎ出された、極めて洗練された「物語」であると言える。

まず、戦国時代における女性の諜報活動、すなわち「くノ一」の実像を理解する必要がある。彼女たちの主たる任務は、黒装束に身を包み、手裏剣を投げて敵と戦うことではなかった 1 。むしろ、女中や下働きとして敵の城や屋敷に潜入し、警戒されにくい立場を利用して日々の会話や動静から情報を収集し、味方に伝達することがその本分であった 2 。伊賀の忍術伝書として名高い『万川集海』には、「くノ一の術」として、女性を利用して情報を得たり、潜入の手助けをさせたりする術が記されている 1 。これは、女性が男性の警戒心を解きやすいという普遍的な人間心理を利用した諜報術であり、現代で言うところの「ハニートラップ」の概念的源流と見なすことができる 3 。しかし、これらはあくまで術の理論であり、特定の武将を色仕掛けで陥れたという具体的な成功譚が、信頼性の高い一次史料に記録されているわけではない。

この文脈でしばしば引き合いに出されるのが、武田信玄が組織したとされる「歩き巫女」の集団である 3 。望月千代女という女性に率いられたこの集団は、全国を遍歴する巫女という身分を隠れ蓑に、各地の情報を収集し信玄に報告したと言われている 6 。しかし、この望月千代女という人物の実在性や、彼女たちが諜報活動、とりわけ色仕掛けのような手段を用いたという確たる史料は発見されておらず、その信憑性には多くの研究者から疑問が呈されているのが現状である 8

このように、史実を丹念に探っていくと、「敵将の側室となり機密を盗む」という具体的な逸話は、歴史の霧の中に姿を消してしまう。では、なぜこの物語はこれほどまでに我々の心を捉えて離さないのか。その答えは、歴史的事実の中ではなく、歴史を題材とした創作、特に司馬遼太郎の不朽の名作『関ヶ原』に見出すことができる。この小説に登場する架空のくノ一**「初芽局(はつめのつぼね)」**こそ、人々が思い描く「色仕掛けのくノ一」の archetype(原型)を完璧に体現した存在なのである 11

したがって、本稿の目的は、存在しない史実を追い求めることではない。むしろ、この「初芽局」の物語を、あたかも歴史の一場面であるかのように、その背景、人物の心理、そして会話に至るまで徹底的に再現し、分析することにある。なぜなら、人々がこの逸話に求めるのは、無味乾燥な事実の羅列ではなく、戦国という時代を生きた人間の情念や葛藤が凝縮された、一つの完成された「物語」だからである。この架空の物語を解剖することによって初めて、我々は「くノ一の色仕掛け譚」がなぜ事実以上に「リアル」に感じられるのか、その文化的深層に迫ることができるのである。

第一部:『初芽』の誕生—運命の邂逅

物語の幕は、慶長3年(1598年)8月、太閤・豊臣秀吉の死と共に開かれる。絶対的な権力者の不在は、天下に潜んでいた野心を呼び覚ました。その筆頭が、関東250万石を領する内大臣・徳川家康である。彼は巧みな政治手腕で諸大名を懐柔し、豊臣政権の簒奪を着々と進めていく 14 。これに対し、亡き秀吉への恩義を胸に、豊臣家の安泰を守ることこそ自らの「義」と信じる男がいた。五奉行の一人、石田三成である 15 。両者の対立は日に日に先鋭化し、天下は再び戦乱の暗雲に覆われようとしていた。家康にとって、己の野望の前に立ちはだかる三成は、排除すべき最大の障害であった。暗殺、謀略、そして諜報。あらゆる手段を講じて三成を無力化するため、数多の間者が放たれた。その一人に、伊賀の忍びである「初芽」という名の若きくノ一がいた 16

彼女と三成の出会いは、戦国の世の非情を象徴する場所で訪れる。京の三条河原、かつて秀吉の後継者と目されながらも謀反の疑いをかけられ切腹した関白・豊臣秀次の、その妻子三十余名が処刑されるという凄惨な現場であった 18 。初芽は、秀次の側室となるはずだった最上義光の娘・駒姫に仕える忍びであった。主君が罪なくして殺される理不尽を前に、彼女は己の任務も、そして死の恐怖さえも忘れた。

その日の京は、鉛色の空が低く垂れ込めていた。

処刑場には、見せしめのために集められた群衆のざわめきと、連行されてくる女子供のすすり泣きが満ちている。その執行を監督する奉行の一人として、石田三成は苦渋の表情でその場にいた。彼の潔癖な性格は、このような非情な仕打ちを良しとしなかったが、豊臣政権の中枢にある者として、その役目を拒むことはできなかった。

その時、悲鳴が怒号に変わった。処刑人たちが駒姫に手をかけようとした瞬間、一人の女が影のように躍り出て、抜き放った小太刀が鈍い光を放った。初芽であった。

「姫君に触れるな、下郎!」

その声は若く、しかし鋼のような響きを持っていた。彼女は次々と襲いかかる役人たちを、舞うようにかわし、的確に斬りつけていく。だが、多勢に無勢。彼女の白い小袖には、たちまちいくつもの切り傷が走り、血が滲み始める。誰もが、彼女の無謀な抵抗がすぐに終わるだろうと思った。

しかし、三成だけは違った。彼は、その絶望的な状況下でなお輝きを失わない彼女の瞳に、何者にも屈しない強い意志の光を見ていた。それは、私利私欲のためではない。ただ、守るべき者のために命を懸けるという、純粋で烈しい「義」の姿であった。その姿は、巨大な権力と謀略渦巻く世の中で、孤立しながらも自らの「義」を貫こうとする三成自身の生き様と、痛いほどに共鳴した。

やがて初芽は力尽き、取り押さえられた。役人の一人がとどめを刺そうと刀を振り上げた瞬間、三成の鋭い声が響き渡った。

「待て。その女子は殺すな。わしが身柄を預かる」

周囲の役人たちは、冷徹で知られる治部少輔(三成の官職名)の意外な言葉に戸惑った。初芽は、憎しみの目で三成を睨みつけた。彼女にとって、三成は主君を死に追いやった敵方の大物でしかない。なぜ、その男に救われねばならないのか。

三成は、彼女の反抗的な視線を静かに受け止めると、部下に命じて彼女を自身の屋敷へと連行させた。この邂逅は、単なる偶然ではなかった。それは、政治という非情な現実の中で「義」を貫こうとする二つの魂が、互いを引き寄せた運命の瞬間であった。三成は、彼女の武芸の腕と、何よりもその精神性に類稀な価値を見出し、自らの「犬」、すなわち密偵として召し抱えることを決意する 17 。一方の初芽は、表向きは三成に従いながら、家康方から与えられた「石田三成の内偵」という本来の任務を遂行する機会を窺う。

こうして、二人の関係は「主人と部下」でありながら、「監視者と被監視者」という、危険な二重構造の中で始まったのである。

第二部:揺らぐ心—間者から側室へ

佐和山城での日々が始まると、初芽は間者としての任務を遂行すべく、石田三成の一挙手一投足を監視した。彼女が家康方から聞かされていた三成の人物像は、「傲岸不遜で人望がなく、己の才を過信するだけの小賢しい能吏」というものであった 14 。事実、彼の態度はしばしば周囲の反感を買い、特に加藤清正や福島正則といった武断派の武将たちとの対立は、誰の目にも明らかであった 21

しかし、側近くで仕える初芽の目に映る三成の姿は、世間の評価とは全く異なっていた。彼女は、三成の書斎に夜半忍び込み、書状を盗み見ることもあった。だが、そこに記されているのは、天下簒奪の陰謀ではなく、いかにして幼き主君・豊臣秀頼を守り、天下の安寧を保つかという苦悩に満ちた文面ばかりであった。彼の行動のすべては、亡き太閤秀吉への揺るぎない恩義と忠誠心に根差していたのである 22

ある茶会の席での出来事は、初芽の心を大きく揺さぶった。その席には、三成の無二の親友である大谷吉継も同席していた。吉継は重い皮膚病を患っており、その痛々しい姿を白い布で覆っていた 21 。茶会では、一つの茶碗を一座の者たちが順に飲み回すのが作法であった。吉継が茶碗を口にした際、彼の顔を覆う布の隙間から、一滴の膿が茶の中に落ちてしまった。一座の者たちが息を呑み、気まずい沈黙が流れる。吉継は屈辱と申し訳なさに顔をこわばらせた。

その時、吉継の隣に座っていた三成が、ごく自然にその茶碗を受け取ると、何のためらいもなく一気に飲み干した。そして、にこやかにこう言ったのである。

「少々喉が渇いておりました故、一息に頂いてしまいました。見事なお点前、もう一服頂戴できますかな」

その場にいた誰もが、三成の深い思いやりに胸を打たれた。初芽もまた、その光景を目の当たりにし、衝撃を受けていた。これが、冷酷無慈悲と噂される男の真の姿なのか。利害や体面ではなく、ただ友の心を慮る、温かく誠実な人間性。初芽がこれまで生きてきた忍びの世界とは、あまりにもかけ離れたものであった。

日を追うごとに、初芽の心は葛藤に苛まれるようになった。「私は伊賀の忍び。与えられた任務を遂行せねばならぬ。情に流されることなど、決してあってはならない」。そう自身に言い聞かせる一方で、三成のまっすぐな瞳と、その奥にある孤独を知るにつれ、彼を裏切ることへの抵抗感が強くなっていった 23 。家康への報告は次第に当たり障りのない内容に変わり、三成にとって決定的に不利となる情報は、彼女の胸の内に仕舞い込まれるようになっていった。

この物語における初芽の存在は、歴史の敗者として固定化された石田三成のイメージを覆し、その人間的価値を読者に再認識させるための、極めて効果的な仕掛けとなっている。当初、読者と同じく三成に懐疑的な視線を向けていた初芽が、彼の真の姿に触れて心を動かされていく過程は、そのまま読者が三成という人物を再評価していく旅路と重なる。彼女の視点を通して、三成は単なる不器用な官僚から、「義」という普遍的な価値のために戦った悲劇の英雄へと、その姿を変えていくのである。

忠誠心の転換点となる事件が起こる。初芽からの報告が要領を得ないことに業を煮やした家康方は、彼女とは別の、より冷徹な暗殺者を佐和山城へ送り込んだ 25 。長年の訓練で研ぎ澄まされた感覚を持つ初芽は、城内に潜む同類の気配を即座に察知した。

その夜、刺客は三成の寝所を襲った。しかし、その刃が三成に届くことはなかった。闇の中から現れた初芽が、その行く手に立ちふさがったからである。かつての「仲間」と刃を交えながら、初芽の心に迷いはなかった。この瞬間、彼女は伊賀の忍びであることを捨て、一人の人間として、石田三成を守ることを選んだのである。

騒ぎが収まった後、三成は静かに初芽の前に座した。彼はすべてを理解していた。彼女が間者であったことも、そして今、そのことで深く苦しんでいることも。

「おぬしは、誰のために生きる」

三成の静かな問いに、初芽の堰を切ったように涙が溢れ出た。彼女は忍びとして生きてきた半生、そして三成への偽らざる想いをすべて打ち明けた。

「……治部様のために、生きたいと願うております」

三成は、その告白を静かに受け止めた。彼は初芽の過去も、その背負った宿命もすべて含めて、彼女を傍に置くことを決めた。この夜を境に、彼女はもはや単なる忍び「初芽」ではなく、三成の愛と信頼を得た側室、「初芽局」となったのである 13 。彼女の愛は、三成が貫こうとした「義」が、決して独りよがりなものではなかったことを証明する、最も力強い証となった。

第三部:関ヶ原前夜—愛と義に生きて

側室「初芽局」となった彼女は、三成の傍らで安穏とした日々を送るだけの存在ではなかった。彼女の心変わりは、単なる恋愛感情の発露に留まらず、自らの持つ能力のすべてを、愛する男が掲げる理想のために捧げるという、より能動的な決意へと昇華されていた。彼女は三成にとって、心を許せる唯一の女性であると同時に、誰よりも有能な「同志」となったのである。

慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐を名目に大軍を率いて東国へ向かうと、三成はこれを好機と捉え、ついに打倒家康の兵を挙げる。天下分け目の戦いが刻一刻と迫る中、情報戦は熾烈を極めた。ここで、初芽の忍びとしての能力が最大限に発揮されることとなる。彼女は、かつて所属していた伊賀の忍びとの繋がりを逆用し、東軍諸将の動向や、家康方の内部で交わされる密約、そして寝返り工作の兆候といった、戦の趨勢を左右する極めて重要な情報を次々と入手し、三成にもたらした 16

彼女の役割は、もはや受動的な「色仕掛け」の類型を完全に超越していた。性的魅力を武器にするのではなく、諜報、潜入、伝達といった、本来の専門技能を駆使して三成の戦いを支えた。これは、より史実における忍者の活動に近い、プロフェッショナルとしての姿であった。この変化は、初芽というキャラクターに、愛する男性に守られるだけの存在ではない、自らの意志と能力で運命を切り拓こうとする自立した女性としての深みを与えている。

三成が挙兵するにあたり、どうしても味方に引き入れたい人物がいた。親友、大谷吉継である。しかし、冷静な現実主義者である吉継は当初、「治部(三成)に人望なく、勝ち目はない」と、この無謀な挙兵に強く反対していた 27 。三成にとって、吉継の協力は兵力的な意味合い以上に、自らの挙兵の「義」を支える精神的な支柱として不可欠であった。

この極めて重要な説得の任を、三成は最も信頼する初芽に託した。

「吉継を説き伏せられるのは、おぬししかおらぬ。わしの真意を、心を、彼に届けてくれ」

初芽は三成の想いが綴られた密書を胸に、厳重な敵の監視網を潜り抜け、吉継の居城である越前・敦賀へと向かった。それは、単なる書状を届けるだけの任務ではなかった。三成の魂を運ぶ旅であった。

しかし、その道中は困難を極めた。家康方に寝返り、三成を執拗に狙う伊賀の忍び、蛇白(じゃはく)や赤耳(あかみみ)といった者たちが、彼女の行く手に待ち構えていたのである 18 。山中での激しい戦闘の末、初芽は密書を届けることには成功したものの、自身は深手を負い、意識を失ってしまう。

初芽が消息を絶ったという報は、決戦の指揮を執る三成の心を激しく揺さぶった。彼は西軍の総帥として、常に冷静沈着であろうと努めた。しかし、一人の男として、愛する女性の安否を気遣い、苦悩する姿を隠すことはできなかった 17

一方、傷を負った初芽の苦難は続いていた。意識を取り戻した時には、人買いの手に落ち、奴婢として売られていたのである 18 。屈辱と絶望の中で、彼女の心を支えたのは、ただ一つ、三成の元へ帰りたいという一途な想いであった。

関ヶ原の決戦が目前に迫る中、二人は物理的に引き裂かれ、互いの生死さえも知ることができぬまま、それぞれの戦場へと赴くことになった。彼らの物語は、単なる甘美な恋愛譚ではなく、戦国の動乱が生み出す過酷な運命の中で、愛と忠誠を貫こうとする男女の共闘と、それに伴う悲劇の物語へと、その色合いを深めていったのである。

第四部:終焉と永遠—最後の逢瀬

慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原。東西両軍合わせて十数万が激突した天下分け目の決戦は、しかし、わずか半日でその雌雄を決した。西軍の勝利を目前にしながら、松尾山に陣取っていた小早川秀秋の裏切りが、すべての歯車を狂わせたのである 16 。秀秋軍の攻撃を受けた大谷吉継隊は壊滅し、これをきっかけに西軍は総崩れとなった。

義のための戦いと信じた三成の夢は、利を求める者たちの現実の前に、脆くも崩れ去った。彼は側近たちの手引きで辛くも戦場を離脱し、故郷である近江の古橋村に潜伏する 28 。しかし、天下に張り巡らされた家康の捜索網から逃れることはできず、数日後に捕縛された。

捕らえられた三成は、勝者となった家康が待つ大津城へと連行された。城門の前で晒し者にされ、多くの武将たちが敗軍の将を嘲笑した。しかし、三成は少しも臆することなく、その背筋を伸ばし、凛とした姿を崩さなかった。彼は自害を選ばなかった。それは、裏切った小早川秀秋をはじめとする、かつての仲間たちの安堵を家康に確約させるため、そして自らの挙兵の正当性を最後まで世に問うためであった 16

やがて三成は京の市中を引き回され、六条河原の刑場へと向かう。処刑直前、喉の渇きを訴える彼に、警護の者が干し柿を差し出した。三成はそれを静かに断り、こう言ったと伝わる。

「柿は痰の毒ゆえ、食さぬ」

これから首を刎ねられる者が何を言うか、と周囲は笑った。しかし、それは彼の最後の矜持であった。たとえ死を前にしても、己の信条と流儀を曲げない。それが石田三成という男の生き様であった 21

その頃、幾多の苦難の末に自由の身となっていた初芽は、三成が捕らえられたという報を聞き、必死に京を目指していた。そして、彼女が刑場へと向かう三成の行列に追いついたのは、まさにその道中であった 18

雑踏に紛れ、初芽はただじっと、護送される三成の姿を見つめた。二人の間に言葉を交わす術はない。だが、その視線は確かに、人々の喧騒を超えて交わされた。初芽の瞳には、深い悲しみと共に、いささかも揺るぐことのない愛情と尊敬の念が湛えられていた。三成は、群衆の中に愛する女性の姿を認め、その無事を確かめた。彼の目に、一瞬だけ安堵の色が浮かび、そして、別れを告げるかのように、わずかに頷いたかもしれない。それは、言葉を交わすよりも遥かに雄弁な、魂の対話であった。

初芽が見守る中、石田三成はその生涯を閉じた。伝えられるところによれば、彼は最期に「我が正義はこれにあり」と呟いたという 16 。それは、初芽が愛し、信じ、そして共に戦おうとした彼の生き様そのものを凝縮した言葉であった。

この物語は、もし二人が結ばれて幸せに暮らすという結末であったならば、単なる歴史恋愛小説の一つとして忘れ去られていたかもしれない。しかし、三成の敗北と死という、動かしがたい歴史的事実を前に、物語は人間の精神がいかに高潔でありうるかを描くことにその力を注ぐ。この非情な現実と悲劇的な結末こそが、かえって二人の「義」と「愛」の純粋性を際立たせ、彼らの物語を単なる逸話から、時代を超えて語り継がれるべき神話的な領域へと昇華させたのである。

三成の死後、初芽は彼の後を追うことはしなかった。彼女は、三成の亡骸が葬られた京都・大徳寺の塔頭、三玄院の近くに小さな庵を結び、彼の菩提を弔いながら、その生涯を静かに終えたと物語は結ばれる 23 。彼女が生き続けることを選んだという結末は、その愛が一時的な激情ではなく、永遠の献身であったことを示している。初芽の存在は、石田三成が貫いた「義」が、たとえ戦には敗れても、一人の人間の心の中に確かに生き続けたことの、何よりの証となったのである。

結論:物語が紡ぐ『くノ一』の真実

本稿で詳述してきた、くノ一「初芽局」と石田三成の悲恋物語は、その細部に至るまで、司馬遼太郎をはじめとする後世の作家たちによって紡ぎ出された創作であり、彼女が歴史上に実在した人物ではないことは、まず明確に認識されなければならない 11 。歴史の探求において、史実と虚構を峻別することは、その第一歩である。

しかし、この物語が「虚構」であるという事実は、その価値を何ら貶めるものではない。むしろ、この物語は、歴史書が合戦の勝敗や大名の動向といったマクロな視点でしか捉えきれない歴史の裏側で、個々の人間が何を信じ、何に苦悩し、誰を愛したのかという、ミクロな「人間」の真実を鮮やかに描き出している。特に、無骨で不器用、そして政治的に孤立しがちであった石田三成という人物の人間的な魅力を引き出し、読者が彼に深く感情移入するための触媒として、初芽という存在は不可欠な役割を果たしているのである 22

利用者が最初に提示した『敵将の側室として潜入し、夜半に機密を盗んだという色仕掛け譚』という漠然としたイメージは、この「初芽局」の物語によって、具体的な人格と感動的なストーリーを与えられ、一つの完成された文化的アーキタイプ(原型)となった。今日、人々が「くノ一の色仕掛け」と聞いて思い浮かべるのは、もはや史実の断片的な記録ではなく、この悲しくも美しい愛の物語の情景なのである。

戦国時代を真に理解するとは、単に年号や事件、人物名を暗記することではない。それは、その時代を生きた(あるいは、そう生きたかもしれない)人々の息遣いを、彼らの喜びや悲しみを、「物語」を通して感じ取ることでもある。史実という動かしがたい骨格に、物語という血肉が与えられることによって、歴史は初めて立体的で、豊かで、多層的な姿を我々の前に現す。

「初芽局」の逸話は、史実と虚構が織りなす綾の中にこそ、歴史の深淵と、人間という存在の普遍的なドラマが宿っていることを教えてくれる。それは、歴史を探求する我々にとって、極めて示唆に富んだ最良の事例と言えるだろう。

引用文献

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  4. 戦国時代にハニートラップを仕掛けた伝説のくノ一「初芽局」!女忍者の悲しい末路 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/230336
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  8. 望月千代女 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46542/
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  14. 関ケ原(上) (新潮文庫) - 感想・レビュー・試し読み - 読書メーター https://bookmeter.com/books/575466
  15. 『関ケ原〔上〕』 司馬遼太郎 - 新潮社 https://www.shinchosha.co.jp/book/115212/
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  17. 映画「関ヶ原」感想ネタバレあり解説 歴史がわからないと厳しいぞ。 https://www.monkey1119.com/entry/2017/08/26/133448
  18. 【ネタバレ有】映画「関ヶ原」 感想・考察と11の疑問点を徹底解説!/予習必須!写実的で面白いけど、難解さもある映画でした! - あいむあらいぶ https://blog.imalive7799.com/entry/Sekigahara-201708
  19. 『関ヶ原』という映画がアマプラで 2.8な理由についての解説と思うところ - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054885207682/episodes/16816452220471344468
  20. 鷹狩りの途中で立ち寄って茶を所望したところ、三成の心配りから才気を見抜いたというのである。 もっともその当時、「観音寺の周辺が政所茶の大産地であった事や、また後に秀吉が生涯 https://www.seiseido.com/goannai/sankencha.html
  21. 石田三成は何をした人?「家康の不忠義を許さず豊臣家のために関ヶ原に挑んだ」ハナシ https://busho.fun/person/mitsunari-ishida
  22. 読書記録|司馬遼太郎『関ヶ原』|RYO - note https://note.com/jinjaizm/n/n3403bc1b6a08
  23. 戦国時代にハニートラップを仕掛けた伝説のくノ一「初芽局」!女忍者の悲しい末路:2ページ目 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/230336/2
  24. 初芽局- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%88%9D%E8%8A%BD%E5%B1%80
  25. 歴史コレクション三 くの一 初芽局(他) - 井出智香恵/片山さおこ - ブックライブ https://booklive.jp/product/index/title_id/129214/vol_no/001
  26. くの一 初芽局 - マンガ(漫画) 井出智香恵(G2Comix):電子書籍試し読み無料 - ブックウォーカー https://bookwalker.jp/de8e701534-2466-4e1e-9d49-dd35720ecff2/
  27. 石田三成と大谷吉継…2人は熱い友情で結ばれた「同志」だった! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/716
  28. 関ヶ原 (小説) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)