小寺政職
~官兵衛見限り村重に与し後悔~
小寺政職は官兵衛を見限り荒木村重に与したが、結果的に没落。悔恨の社話は史実ではないが、裏切りと因果応報を語る後世の創作。官兵衛の器の大きさが際立つ。
播磨の岐路:小寺政職、官兵衛を見限る一瞬の決断とその永劫の悔恨
序章:天正六年、播磨に揺れる天秤
天正六年(1578年)、播磨国は歴史の巨大な分水嶺に立たされていた。東からは天下布武を掲げ、破竹の勢いで版図を拡大する織田信長。西には中国地方一円に覇を唱える大大名、毛利輝元。この二つの巨大勢力が播磨を緩衝地帯として睨み合うなか、現地の国衆たちは、まさに巨大な鯨に挟まれた小魚の如き、極めて不安定な状況下での生存戦略を強いられていた 1 。
この播磨国の中心部、御着城に本拠を置く小寺政職もまた、その激しい潮流の只中で懊悩する一人であった。播磨守護・赤松氏の一族として名門の血を引き、三木城の別所氏、英賀城の三木氏と並び「播磨三大城」と称されるほどの勢力を誇った政職であったが、時代の激変に対応する確固たる指針を見出せずにいた 4 。
その政職にとって、一筋の光明とも、また自身の影を色濃くする存在とも言える家臣がいた。黒田官兵衛孝高である。官兵衛は早くから天下の趨勢が織田信長にあることを見抜き、逡巡する主君・政職を粘り強く説得。織田家への帰属こそが小寺家の生き残る道であると強く進言した 2 。その忠誠の証として、官兵衛は自ら岐阜城の信長に謁見し、愛息・松寿丸(後の黒田長政)を人質として差し出すという、後戻りのできない覚悟を示していたのである 2 。
政職もまた、官兵衛の非凡な才を高く評価していた。官兵衛の父・職隆には「小寺」の姓と自らの名の一字「職」を与え、姫路城の城代に任じるなど、破格の厚遇をもって遇してきた 8 。それは黒田家の能力を認め、小寺家の屋台骨として頼りにしていたことの紛れもない証左であった。
しかし、この主従関係は、盤石な信頼の上に成り立っていたわけではなかった。織田への帰属という、家の命運を左右する重大な外交方針は、あくまで官兵衛の強い主導によって決定されたものであり、政職はそれに「従った」という形であった 6 。この構造は、平時であれば機能する。だが、有事の際には「官兵衛がいなければ何も決められない」という政職の指導者としての脆弱性を露呈させる、極めて危ういものであった。有能すぎる家臣への全面的な依存は、裏を返せば、その才能への潜在的な嫉妬と、自らの判断が及ばない領域への恐怖を内包する。天正六年の播磨を揺るがす激震は、この脆く、アンバランスな主従関係の断層を容赦なく引き裂くことになる。運命の歯車が狂い始める直前の御着城には、静かだが、張り詰めた緊張の空気が満ちていた。
第一章:激震――荒木村重、信長に叛旗を翻す
天正六年(1578年)十月、播磨の緊張を切り裂く一報が畿内からもたらされた。織田軍の重鎮であり、摂津一国を任されていた荒木村重が、居城・有岡城(伊丹城)にて突如として信長に謀反を起こしたというのである 10 。信長の信頼厚く、中国方面軍司令官・羽柴秀吉の与力として播磨平定戦にも参加していた村重の離反は、織田陣営にとって、そして播磨の国衆たちにとって、まさに青天の霹靂であった。
この謀反の引き金となった理由は、実のところ歴史の謎とされ、今なお定説を見ていない 10 。石山本願寺への兵糧横流し疑惑を信長に咎められたためとも 14 、自らの戦功に対する信長の評価に不満を抱いたためとも 10 、あるいは反織田包囲網の一翼を担う毛利方からの執拗な調略に応じたためとも言われる 15 。しかし、この「理由の不透明さ」こそが、周囲の動揺を幾何級数的に増幅させる要因となった。明確な理由なき裏切りは、「あの村重でさえ、いつ信長の逆鱗に触れるか分からない。我々のような外様の国衆は、なおさらのことだ」という、拭いがたい疑心暗鬼と恐怖を伝播させたのである。
この激震は、すでに不穏な空気に包まれていた播磨の情勢を決定的に変えた。村重の謀反に先立つこと数ヶ月、東播磨に勢力を張る三木城の別所長治もまた、羽柴秀吉との不和などをきっかけに織田方から離反し、毛利方についていた 1 。これに、織田軍の畿内における重要拠点であった有岡城の村重が同調したことで、播磨における反織田の気運は一気に沸点に達した。
御着城の小寺政職の胸中には、いかばかりの動揺が渦巻いていただろうか。東の別所、そして北に隣接する摂津の荒木という、織田方の中核をなすはずだった勢力が相次いで毛利方に寝返った。これにより、播磨国内で織田方に留まる小寺家は、反織田勢力によって完全に包囲される形勢となったのである。政職の目には、もはや織田の旗色は悪く、毛利の勢威が播磨を覆い尽くすかのように映ったに違いない。それは、官兵衛が示した「織田こそが天下を制す」という未来図への信頼を根底から揺るがし、「官兵衛の進言は、果たして正しかったのか?」という致命的な疑念を抱かせるに十分な状況であった 17 。
政職の決断は、積極的な反織田の信念から生まれたものではなかった。むしろ、周囲の有力者が次々と離反していく中で、自らだけが織田方に留まることによる「孤立への恐怖」が、彼の理性を麻痺させた結果であった。そして、毛利方からの甘い誘いは、その恐怖に怯える心に抗いがたい「同調圧力」としてのしかかった。遠い安土城にいる信長への忠誠よりも、隣接する勢力との協調を選ぶことで、目先の安全を確保しようとする。それは、乱世を生きる小領主としては、ある意味で自然な反応であったかもしれない。しかし、その決断は、自らの家臣の中で最も忠実にして有能な男を、奈落の底へと突き落とす非情な一手へと繋がっていくのである。
第二章:御着城、運命の対峙
主君・小寺政職が毛利方へ与するのではないか――。不穏な噂は、姫路城にいた黒田官兵衛の耳にも届いた。官兵衛は、主家の存亡を賭けたこの危機に際し、一刻の猶予もないと判断。翻意を促すべく、居城の姫路城から主君のいる御着城へと急遽馳せ参じた 19 。
御着城の一室で対峙した主従の間に、どのような言葉が交わされたのか。その場の緊迫した空気は、後世の記録からも窺い知ることができる。官兵衛は、織田を裏切ることの無謀さ、そして一度信長に弓を引けば、もはや小寺家に未来はないことを理路整然と説いたであろう。しかし、すでに周囲の反織田勢力に心を絡め取られ、疑心暗鬼に陥っていた政職の耳に、その忠言は届かなかった。
説得を重ねる官兵衛に対し、政職はついにこう言い放ったと伝えられる。
「 荒木村重殿を織田方に戻るよう説得できるのであれば、思いとどまる 」 19 。
表面的には、これは官兵衛の類稀なる智謀と交渉力に最後の望みを託すかのような、条件付きの提案に聞こえる。しかし、その言葉の裏には、政職の狡猾な計算と、すでに固まった裏切りの意志が隠されていた。村重の謀反は、もはや一個人の説得で覆せる段階にはない。それを熟知した上で、政職はあえてこの実現不可能な課題を官兵衛に課したのである。それは、官兵衛が失敗した暁には「手を尽くしたが、官兵衛にも無理であった。もはや毛利に付くしか道はない」と、自らの裏切りを正当化するための、周到に準備された「逃げ口上」に他ならなかった 19 。
さらに衝撃的なのは、この謁見の裏で、政職がすでに非情な手を打っていたことである。信頼性の高い史料として知られる『黒田家譜』には、この時の政職の恐るべき画策が記されている。政職は、官兵衛が自らの言葉を信じて有岡城へ向かうことを見越し、事前に村重へ密使を送っていた。そして、その密使に託した伝言は、耳を疑うような内容であった。
「 官兵衛が訪ねてきたら、そちらで殺してほしい 」 19 。
この一事をもって、政職が官兵衛を、そして官兵衛が切り開いた小寺家の未来を、完全に見限ったことが確定する。政職にとって、官兵衛の存在はもはや主家を守る盾ではなかった。むしろ、自らの離反計画において最大の障害となり、その優柔不断さを際立たせる脅威そのものであった。彼は、その障害を自らの手で汚すことなく、村重の手を借りて排除しようと目論んだのである。忠臣を謀殺の罠へと送り込む――。それは、主君として決して越えてはならない一線を、政職が踏み越えた瞬間であった。
この時点での主要人物たちの思惑は、複雑に絡み合っていた。以下の表は、その状況を整理したものである。
表1:主要登場人物と思惑一覧(天正6年10月時点)
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人物 |
立場 |
目的・思惑 |
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小寺政職 |
播磨 御着城主 |
周囲の離反に動揺。毛利方につき目先の安全を確保したい。官兵衛の存在が邪魔。 |
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黒田官兵衛 |
小寺家家老 |
織田方への忠誠を貫き、主家を守りたい。主君の翻意を促し、村重を説得したい。 |
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荒木村重 |
摂津 有岡城主 |
信長に謀反。毛利・本願寺と連携し、織田勢力を畿内から駆逐したい。 |
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羽柴秀吉 |
織田家 中国方面軍司令官 |
播磨を平定し、毛利を討伐したい。村重・別所の離反鎮圧が急務。 |
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織田信長 |
天下人 |
裏切り者を許さず、天下統一を断行する。村重の謀反に激怒している。 |
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別所長治 |
播磨 三木城主 |
織田から離反し毛利方につく。秀吉軍の兵糧攻めに抵抗している。 |
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毛利輝元 |
中国地方の覇者 |
反織田包囲網を形成し、勢力拡大を狙う。播磨の国衆の離反を歓迎している。 |
この一覧が示すように、政職は完全に戦略的袋小路に陥っていた。彼の決断は、大局的な視点を欠き、目先の恐怖に駆られた結果であった。そして、その決断の最大の犠牲者となる官兵衛は、主君の裏切りをまだ知らぬまま、一縷の望みを胸に、あるいは家臣としての最後の義理を果たすため、死地である有岡城へと向かうことになる。
第三章:忠臣、奈落へ――官兵衛、有岡城に囚われる
主君・小寺政職の言葉に、官兵衛はどのような思いを抱いたのであろうか。その言葉が逃げ口上であることを見抜き、すでに裏切りを予感していたかもしれない。あるいは、万に一つの可能性に賭け、主家を救うために己の智謀のすべてを尽くそうとしたのかもしれない。いずれにせよ、官兵衛は単身、荒木村重の居城・有岡城へと向かった。それは、一身の危険を顧みない、まさに命がけの説得行であった 19 。
壮麗にして堅固と謳われた有岡城の城門をくぐった官兵衛を待っていたのは、しかし、説得の場ではなかった。政職との密約を交わしていた村重にとって、官兵衛はもはや説得されるべき相手ではなく、排除すべき敵であった。村重は官兵衛の智略をかねてより恐れており、これを機に織田方の牙を抜いておこうと考えたのであろう。官兵衛は議論の余地もなく捕らえられ、城内の光も届かぬ土牢へと幽閉された 19 。
一方、織田の陣営では、有岡城へ向かったはずの官兵衛が一向に帰還しないことから、最悪の憶測が飛び交い始めていた。「官兵衛、村重に与し、織田を裏切ったのではないか」――。この誤報は瞬く間に広まった 20 。この偽りの報を誰が意図的に流したのかは定かではない。官兵衛を陥れたい政職や村重が発信源であった可能性も否定できない。いずれにせよ、この情報は、最も届いてはならない人物の耳に入ってしまった。織田信長である。
信長の怒りは凄まじかった。自ら謁見し、名刀「へし切り長谷部」を下賜するほどに評価していた官兵衛の裏切り(と信じ込んだこと)は、信長にとって到底許しがたいものであった 24 。猜疑心の強い信長は、即座に非情な命令を下す。羽柴秀吉のもとに人質として預けられている官兵衛の嫡男・松寿丸(当時十歳前後)を、直ちに処刑せよ、と 20 。
父の「裏切り」によって、何の罪もない幼子の命が風前の灯火となる。この絶体絶命の窮地を救ったのは、官兵衛の無二の盟友であり、秀吉配下のもう一人の天才軍師・竹中半兵衛であった。秀吉から処刑執行の命を受けた半兵衛は、しかし、主君の命令に背くという、自らの命をも危険に晒す覚悟を決める。
「官兵衛殿が裏切るはずもない」 26 。
官兵衛という人間の本質を誰よりも深く理解していた半兵衛は、その無実を固く信じていた。彼は信長や秀吉には偽の首を届けさせ、松寿丸を密かに自らの居城である菩提山城にかくまったのである 25 。この半兵衛の機転と、友への揺るぎない信頼がなければ、黒田家の血筋はここで絶えていた。政職の一つの裏切りが、黒田家の断絶という最悪の悲劇を引き起こしかけた一方で、半兵衛の崇高な友情が、それを瀬戸際で防いだのである。この鮮やかな光と影の対比は、戦国という時代の人間関係の深さと残酷さを、我々に強く突きつけてくる 28 。
この一連の出来事は、情報が錯綜する乱世における、その価値と危険性を象徴している。官兵衛は、主君の「説得すれば翻意する」という偽りの情報を信じて行動し、罠に堕ちた。信長は、「官兵衛が帰ってこない」という事実から「裏切った」という誤った結論を導き出し、処刑を命じた。情報の伝達が遅く、不正確であったこの時代、一つの誤報が人の命を容易に奪った。その中で半兵衛だけは、断片的な情報に惑わされることなく、官兵衛という人間そのものへの深い信頼を判断の拠り所とした。不確かな情報に踊らされず、物事の本質を見抜く眼力こそが、最悪の事態を回避する唯一の鍵であった。政職の決断が引き起こした悲劇の連鎖は、半兵衛という、友を信じる一点の曇りもない「心」によって、かろうじて断ち切られたのである。
第四章:没落への道――御着城、落城
自らの手で最大の支柱を断ち切った小寺家の没落は、あまりにも早かった。織田方との重要なパイプ役であり、比類なき戦略家であった黒田官兵衛を失ったことで、御着城の軍事力と外交力は著しく減衰した。政職は毛利方への帰属を果たしたものの、三木城の別所氏への対応に追われる毛利輝元から有効な支援を得ることはできず、羽柴秀吉率いる織田の大軍と単独で対峙するほかなくなったのである 9 。
天正七年(1579年)、秀吉は「三木の干殺し」と後に呼ばれる兵糧攻めで別所長治の三木城を包囲しつつ、播磨国内に残る反織田勢力の掃討作戦を本格化させた 3 。その矛先が、官兵衛を裏切った張本人である小寺政職の御着城に向けられたのは、当然の帰結であった 4 。
秀吉は官兵衛の叔父にあたる小寺休夢斎を通じて開城交渉を進める一方、御着城周辺に軍勢を派遣し、焼き討ちをかけるなど圧力を強めていった 30 。当初、城兵は果敢に打って出て秀吉勢を一時後退させるなど抵抗を見せたが 30 、大局は動かせなかった。頼みの綱であった有岡城と三木城の戦況が日増しに絶望的になるにつれ、政職の心は折れていった 17 。
もはやこれまで、と観念したのだろうか。形勢不利を悟った政職は、ついに籠城戦を放棄するという、城主として最も不名誉な決断を下す。彼は息子の氏職を伴い、累代の居城である御着城を密かに捨てた。そして、英賀を経由し、毛利の勢力圏である備後国の鞆の浦へと落ち延びていったのである 4 。そこには、信長によって京を追われ、毛利の庇護下にあった亡命将軍・足利義昭が滞在していた。
主を失った御着城に、もはや抵抗する力は残っていなかった。城に残された家臣は秀吉軍に降伏し、播磨三大城と称された堅城は、ほとんど戦うことなく開城した 4 。ここに、播磨に勢力を誇った戦国大名・小寺氏は事実上滅亡した 18 。官兵衛を見限るという一瞬の判断ミスが、わずか一年余りで一族の没落という取り返しのつかない結果を招いたのである。その後、御着城は秀吉の命により破却され、歴史の舞台からその姿を消した 34 。
終章:悔恨の社話と、その後の両家
備後・鞆の浦に逃れた小寺政職は、亡命将軍・足利義昭に仕え、幕府衆の一人として遇されたものの、かつての栄光を取り戻すことは二度となかった 32 。播磨の地を遠く離れた亡命生活の中で、彼は何を思ったであろうか。天正十二年(1584年)五月、政職はその地で五十五年の生涯を閉じた 9 。
さて、ご依頼のきっかけとなった「官兵衛を見限り村重に与し、のち後悔して社殿で詫び続けたと伝わる。播磨一帯に悔恨の社話が残る」という逸話について、今回の調査で渉猟した学術的資料や一次史料に近い文献の中では、残念ながらその具体的な記述を 確認することはできなかった 。
これは、この伝承が史実ではないことを意味するのだろうか。必ずしもそうとは断定できないが、むしろこの「悔恨の社話」は、歴史的事実そのものというよりも、後世の人々の倫理観や因果応報の思想が生み出した「物語」である可能性が高いと考えられる。史実としての政職の末路は、「官兵衛を裏切り、戦に敗れて逃亡し、失意のうちに亡命先で死んだ」という、ある意味で救いのないものである 32 。しかし、この結末だけでは、裏切られた忠臣・官兵衛の無念や、地域の民衆が抱くであろう正義感は満たされない。そこで、「あの非道な行いをした殿様も、最後は自らの過ちを深く悔い、神仏に詫び続けていたに違いない」という民衆の願望が、いつしか「社で詫び続けた」という具体的な物語を形成していったのではないだろうか。これは、歴史上の人物が、その客観的な事績とは別に、伝説や物語の中で新たな人格を与えられていく典型的な例と言える。
一方で、政職とは対照的な道を歩んだのが、黒田官兵衛である。天正七年(1579年)十月、有岡城が落城すると、官兵衛は約一年にも及ぶ過酷な幽閉生活から奇跡的に救出された 21 。不衛生な土牢での生活は彼の身体を蝕み、頭髪の多くが抜け落ち、膝の関節が不自由になるという癒えぬ傷を残したが、その精神と智謀が衰えることはなかった 21 。秀吉のもとに復帰した官兵衛は、その後、秀吉の天下統一事業に不可欠な軍師として、歴史の表舞台で目覚ましい活躍を遂げていくことになる。
この逸話には、さらに感動的な後日譚がある。天下人への道を駆け上がる中で、官兵衛は、かつて自分を裏切り、死の淵へと追いやった旧主・小寺政職の息子・氏職が路頭に迷っていることを知る。父の罪により、氏職の行く末は暗澹たるものであったはずだ。しかし、官兵衛は氏職を見捨てなかった。彼は豊臣秀吉に働きかけてその罪を許させ、自らの庇護下に置いて召し抱えたのである 2 。
裏切られた側が、裏切った側の息子に恩情をかける。これは、単なる復讐や憎悪といった感情を超越した、戦国武将の持つ複雑で深い価値観を示すエピソードである。官兵衛は、政職個人の裏切りへの恨みと、かつて仕え、黒田家を育ててくれた小寺家そのものへの恩義とを、明確に切り離して考えていたのかもしれない。この官兵衛の人間としての器の大きさこそが、目先の恐怖に駆られて忠臣を切り捨てた小寺政職の矮小さを一層際立たせている。そして、この対照的な二人の生き様が、この逸話を単なる裏切り物語以上の、人間の強さと弱さ、そして義とは何かを問いかける、普遍的な人間ドラマへと昇華させているのである。
表2:本逸話に関する詳細年表(天正3年~天正12年)
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年月 |
出来事 |
関係者の動向 |
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天正3年(1575) |
官兵衛、政職に織田への帰属を進言 |
官兵衛、信長に謁見し松寿丸を人質に差し出す 7 。 |
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天正5年(1577) |
秀吉、播磨入り |
小寺政職、織田方として毛利勢と戦う 8 。 |
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天正6年(1578) 2月 |
別所長治、三木城にて謀反 |
播磨の織田方勢力に動揺が走る 1 。 |
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天正6年(1578) 10月 |
荒木村重、有岡城にて謀反 |
政職、毛利方への離反を決意 10 。 |
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天正6年(1578) 10-11月頃 |
御着城での対峙と官兵衛幽閉 |
政職、官兵衛に村重説得を命じ、裏で暗殺を依頼 19 。官兵衛、有岡城で捕らえられ幽閉される 21 。 |
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天正6年(1578) 11月以降 |
松寿丸処刑命令と救出 |
信長、官兵衛寝返りと誤解し松寿丸の処刑を命令 20 。竹中半兵衛が密かに匿う 25 。 |
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天正7年(1579) |
秀吉による御着城攻撃 |
支柱を失った御着城は劣勢に。政職、城を捨て鞆の浦へ逃亡 4 。 |
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天正7年(1579) 10月 |
有岡城落城 |
官兵衛、約1年ぶりに救出される 21 。 |
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天正8年(1580) 1月 |
三木城落城 |
秀吉による播磨平定が完了する 3 。 |
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天正12年(1584) 5月 |
小寺政職、死去 |
亡命先の備後・鞆の浦にて死去 32 。 |
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時期不詳 (政職死後) |
官兵衛、小寺氏職を庇護 |
官兵衛、秀吉に働きかけ、旧主の息子を助ける 2 。 |
引用文献
- 大正6年創刊|播磨時報|(五)秀吉の播州征伐、始まる https://www.h-jihou.jp/feature/kuroda_kanbee/1576/
- 小寺政職 官兵衛を裏切った悲運の主君 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=kbKaj-bO1Kc
- 三木合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%90%88%E6%88%A6
- 御着城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%9D%80%E5%9F%8E
- 播磨 御着城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/harima/gochaku-jyo/
- 黒田官兵衛 - BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/no2/23.html
- 戦 国 時 代 を 駆 け 抜 け た - 瀬戸内市 https://www.city.setouchi.lg.jp/uploaded/attachment/105058.pdf
- 黒田官兵衛の主君は誰なのか? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1802
- ~小寺政職~たったひとつの過ちで全てを失った男 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=dhLlapuXl6Q
- 明智光秀だけではない! 織田信長を裏切った6人の思惑と悲惨な末路 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8236?p=2
- 有岡城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B2%A1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 謀反の謎と茶人としての再起~妻だしの悲劇と最期 荒木村重はなぜ信長を裏切ったのか?(後編) | レキシノオト https://rekishinote.com/m-araki03/
- 荒木村重の末裔!?「ポツンと一軒家」の番組を見て。記事訂正です。 https://ike-katsu.blogspot.com/2021/08/blog-post_17.html
- zh.wikipedia.org https://zh.wikipedia.org/zh-hant/%E6%9C%89%E5%B2%A1%E5%9F%8E%E4%B9%8B%E6%88%B0#:~:text=5%20%E9%97%9C%E9%80%A3%E9%A0%85%E7%9B%AE-,%E8%B5%B7%E5%9B%A0,%E4%B8%8D%E5%AE%89%E5%BF%83%E7%90%86%E9%81%82%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E5%8F%8D%E5%8F%9B%E3%80%82
- 織田信長を裏切った「松永久秀」と「荒木村重」。〈信長の人事の失敗〉と本能寺の変との共通点【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1014856/2
- 妻子や家臣を見捨てた卑怯者?荒木村重はなぜ信長に反旗を翻したのか https://bs11plus-topics.jp/ijin-haiboku-kyoukun_35/
- 武家家伝_小寺氏-ダイジェスト- http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kodera_k_dj.html
- 小寺氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%BA%E6%B0%8F
- 黒田官兵衛・有岡城幽閉の中で到達した思いとは | WEB歴史街道 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1895
- 大正6年創刊|播磨時報|(九)官兵衛、有岡城に幽閉 https://www.h-jihou.jp/feature/kuroda_kanbee/1585/
- 有岡城の戦いが勃発した際、荒木村重に謀反を思いとどまるよう説得に向かった智将とは? https://www.rekishijin.com/16222
- その子孫たち 知られざる福岡藩270年 現代人にも共感できる黒田官兵衛の生き方|グラフふくおか(2014 春号) https://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/graph-f/2014spring/walk/walk_02.html
- 有岡城(伊丹城)~黒田官兵衛虜囚の地|三城俊一/歴史ライター - note https://note.com/toubunren/n/n8635555cbec5
- 黒田官兵衛(黒田如水・黒田孝高)の歴史 - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38336/
- 第36回 『軍師官兵衛』に学ぶ生涯勝ち続ける法~信長・秀吉・家康が最も頼り最も恐れた男 https://plus.jmca.jp/tu/tu36.html
- 竹中半兵衛と黒田官兵衛の友情|意匠瑞 - note https://note.com/zuiisyou/n/nd73c79f730d4
- 15 「黒田官兵衛 VS 竹中半兵衛」 - 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/15.html
- 命を懸けた友情の首実検!戦国時代の天才軍師、黒田官兵衛と竹中半兵衛の絆が胸熱すぎる! https://mag.japaaan.com/archives/247398
- 三木合戦古戦場:兵庫県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/mikijo/
- 御着城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kinki/gochaku.j/gochaku.j.html
- 御着城(兵庫県姫路市御国野町御着) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2015/05/blog-post.html
- 小寺政職 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%BA%E6%94%BF%E8%81%B7
- 武家家伝_小寺氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kodera_k.html
- 御着城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/204/memo/4324.html
- No.025 新(しん)・播磨灘物語(はりまなだものがたり)-小寺氏(こでらし)と黒田氏(くろだし)- | アーカイブズ | 福岡市博物館 https://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/025/index.html
- 黒田官兵衛 http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/kuroda/kurodakannbee.html