最終更新日 2025-10-23

小早川秀秋
 ~寝返る前、陣中で栗拾い伝説~

小早川秀秋の「栗拾い伝説」は、関ヶ原での優柔不断な姿を描くが、同時代史料にはなく、江戸時代に創作された可能性が高い。極限下の心理や政治的意図を象徴。

松尾山の栗一粒 ― 小早川秀秋「栗拾い伝説」の深層分析

序章:松尾山の静寂と伝説の萌芽

慶長五年(1600年)九月十五日未明。天下分け目の戦いを目前にした関ヶ原は、深い霧と両軍の放つ凄まじい殺気に包まれていた。その戦場全体を見下ろす戦略上の要衝、松尾山。ここには、豊臣恩顧の大名でありながら、その去就が戦の帰趨を決定づけると言われる一万五千の大軍が陣を構えていた。総大将は、筑前名島三十五万七千石の領主、小早川中納言秀秋。豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)の甥にして、一時は秀吉の養子ともなった名族の血筋。しかし、その時、彼の年齢はわずかに十九歳(数え年)であった。

松尾山の陣中は、麓で対峙する東西両軍の喧騒が嘘であるかのような、不気味な静寂に支配されていた。しかしその静寂は、水面下で渦巻く激しい緊張感の裏返しに他ならない。秀秋の双肩には、自らの家の存亡はもとより、育ての親である豊臣家の未来、そして日本の新たな支配者が誰になるのかという、あまりにも重い責務がのしかかっていた。西軍の諸将は、かねてより徳川家康と内通の噂があった秀秋に対し、猜疑の目を向けていた 1 。事実、西軍の主将・石田三成は、秀秋の離反を阻止すべく、上方二国の加増と、豊臣秀頼が十五歳になるまでの関白職という、破格の条件を提示してまで繋ぎ止めを図っていた 1 。この若き将が東に付くか、西に留まるか。その一挙手一投足に、八万の西軍と七万五千の東軍、そして戦場にいる全ての将兵の運命が委ねられていたのである。

この、歴史が大きく動こうとする極限の状況下で、秀秋が取ったとされる一つの不可解な行動が、後世に「伝説」として語り継がれている。それが「栗拾いの伝説」である。眼下で繰り広げられる死闘を前に、陣中でただひたすらに栗を拾い続けていたというこの逸話は、何を意味するのか。本報告書は、この一つの伝説に焦点を絞り、その情景、史料的根拠、そして伝説が生まれた背景と、そこに込められた多層的な意味を徹底的に分析し、その核心に迫るものである。

第一章:逸話の情景再現 ― 栗を拾う秀秋

この章では、史実の検証に先立ち、まず利用者様の要望に応える形で、江戸時代以降の軍記物や逸話集で描かれたであろう「栗拾いの伝説」の情景を、文学的な筆致で再構築する。これは史実の再現ではなく、あくまで「伝説」として語られてきた物語の再現である点にご留意いただきたい。

時は九月十五日の午前。関ヶ原の地に、両軍の鉄砲の轟音が響き渡り始めた。松尾山の陣中では、家臣たちが固唾を飲んで戦況を見守り、使者が慌ただしく行き交う。誰もが総大将である秀秋の決断を、今か今かと待ちわびていた。しかし、当の秀秋は、自らの陣幕からふらりと姿を現すと、眼下の激戦にも、側近たちの焦燥にも、まるで心を留めていないかのような超然とした態度であった。

彼の視線は、足元に転がる毬栗(いがぐり)の一つに注がれていた。秀秋はやおら屈み込むと、その毬栗を拾い上げる。そして、まるで初めて見る珍しいものでもあるかのように、手のひらの上で転がし始めた。一つ拾うと、また一つ。彼の行動は、次第に陣中の将兵たちの注目を集める。天下の趨勢を決するこの瞬間に、我が主君は何を考えておられるのか。困惑と焦りが、さざ波のように広がっていく。

業を煮やした筆頭家老の平岡頼勝が進み出て、声を張り上げた。

「殿! 御決断を! もはや一刻の猶予もございませぬぞ! 東西両軍、激しく火花を散らしておりまする!」

しかし、秀秋は頼勝に視線を合わせることもなく、拾った栗を眺めながら、穏やかに、しかしどこか虚ろな声で呟いたという。

「見よ、頼勝。見事な栗ではないか。今年は豊作やもしれぬな。戦が終われば、民も喜ぼう」

その言葉に、頼勝は絶句した。他の将兵たちの間にも、諦めに似た空気が流れる。この若き主君は、背負った重圧に耐えかね、現実から逃避しているのではないか。あるいは、我々を試しておられるのか。この常軌を逸した行動は、陣中の士気を著しく揺るがし、小早川軍の統制を麻痺させるに十分なものであった。

この劇的な情景こそが、「栗拾いの伝説」の核心である。「天下分け目の戦い」という歴史の巨大な歯車と、「足元の栗を拾う」という極めて個人的で矮小な行為との圧倒的な対比。この構図が、後世の人々の想像力を掻き立て、小早川秀秋という人物を象徴する忘れがたいイメージとして定着していくことになるのである。

第二章:史料の沈黙 ― 同時代記録から見える「決断」の実像

前章で描いた物語の世界から一転し、ここからは厳密な歴史考証の領域に入る。そして、まず突きつけなければならない決定的な事実は、「栗拾いの伝説」が、関ヶ原の戦いと同時代に書かれた信頼性の高い一次史料には一切見られない、ということである。

合戦の様子を記した同時代の記録として、『舜旧記』、『言経卿記』、『時慶記』といった公家や僧侶の日記が存在する 2 。これらの史料は、小早川秀秋の裏切りという出来事そのものについては明確に記録している。例えば、醍醐寺の座主であった義演が記した『義演准后日記』では、秀秋の裏切りが西軍の敗北を決定づけたとされており、その衝撃の大きさが伝わってくる。しかし、これらの記録が伝えるのは、あくまで秀秋の裏切りという「結果」と、それが戦局に与えた「影響」の大きさである 2 。秀秋がどのような葛藤を経てその「決断に至ったか」という過程や、彼の内面を描写する記述は皆無である。

この史料の沈黙は、なぜ生まれたのか。その理由は複数考えられる。第一に、これらの日記の筆者たちは、戦場から遠く離れた京や奈良におり、合戦の詳細はもっぱら伝聞に頼っていたため、一武将の陣中での細かな動向まで知る由もなかった。第二に、彼らの最大の関心事は、あくまで「天下がどう動いたか」というマクロな政治情勢であり、個々の武将の心理描写ではなかった。そして第三に、そもそも「秀秋が合戦の直前まで悩んでいた」という事実自体が存在しなかった可能性も否定できない。

この同時代史料における「決断過程の空白」こそが、極めて重要である。歴史の記録に残されなかったこの空白地帯は、後世の物語作家たちがその想像力で自由に埋めることができる「ナラティブ・バキューム(物語的空白)」となった。結果として、「栗拾いの伝説」のような、彼の内面の葛藤を象徴するドラマチックな逸話が創造される土壌が生まれたのである。

さらに、この伝説の前提そのものを覆す可能性のある史料も存在する。加賀藩の史料である『堀文書』には、「九月十五日、秀秋は合戦開始時から東軍に属して戦った」という趣旨の記述が見られる 3 。もしこの記録が事実を正確に反映しているとすれば、秀秋は合戦が始まる前から、あるいは開戦とほぼ同時に東軍として行動することを決意し、実行していたことになる。そうなると、合戦の最中に「どちらに付こうか」と悩み、栗を拾いながら優柔不断に陥っていたという伝説の根本的な前提が、根底から崩壊することになる。

このように、「栗拾いの伝説」は、同時代の一次史料に裏付けがないばかりか、秀秋が事前に家康と内通し、開戦当初から東軍方として動いていたとする「事前内通説」とも真っ向から対立する。この矛盾は、この伝説を「史実」としてではなく、後世に「創作されたイメージ」として捉えるべき強力な根拠となるのである。

第三章:伝説の誕生と変容 ― 江戸時代に描かれた「優柔不断な若者」

では、「栗拾いの伝説」はいつ、そしてなぜ生まれたのか。その起源は、徳川の治世が盤石となり、関ヶ原の戦いが歴史的事件から大衆向けの「物語」として消費され始めた江戸時代中期以降の軍記物や逸話集に求められる。この時代になると、歴史の細部をドラマチックに脚色し、英雄や悪役といった分かりやすいキャラクター像を創造することが流行した。

この文脈で非常に興味深いのが、秀秋に関するもう一つの有名な逸話、「問い鉄砲」の伝説との関連性である 1 。これは、松尾山から一向に動こうとしない秀秋に業を煮やした徳川家康が、合図として松尾山麓の小早川陣に鉄砲を撃ちかけ、決断を促したという物語である。この威嚇射撃に恐れおののいた秀秋が、慌てて西軍の大谷吉継隊に襲いかかった、という筋書きは、講談や小説、そして現代の時代劇に至るまで、関ヶ原のクライマックスとして繰り返し描かれてきた。

しかし、この「問い鉄砲」もまた、同時代の史料には一切登場しない、江戸中期の創作である可能性が極めて高い 1 。そもそも、麓から山頂の陣に向けて鉄砲を撃っても物理的に届くはずがなく、また、数万の兵が鉄砲を撃ち合う合戦の喧騒の中で、特定の数発の銃声だけを「家康からの合図」として聞き分けることなど不可能に近い 1

ここで重要なのは、「栗拾い」と「問い鉄砲」が、物語として表裏一体の機能を果たしている点である。この二つの伝説は、いわばセットで創造されたと考えることができる。

  • 「栗拾い」 :決断を下せない秀秋の「内面の動揺と弱さ」を描く。
  • 「問い鉄砲」 :その秀秋に決断を迫る「外部からの圧力(家康の威光)」を描く。

この一対の物語装置は、複数の目的を同時に達成するために極めて効果的であった。第一に、徳川家康を「神君」として神格化する上で役立った。家康の威光一声(一発の鉄砲)で、優柔不断な若者の心さえも動かし、天下の趨勢を決したという演出は、家康の圧倒的な指導力を大衆に印象付けた。第二に、関ヶ原の戦いの最も劇的な転換点を、複雑な政治的背景から切り離し、「家康の叱咤」と「秀秋の狼狽」という分かりやすい個人間のドラマに落とし込むことで、物語としてのエンターテインメント性を高めた。第三に、秀秋の「裏切り」という行為を、豊臣家への恩義を忘れた政治的な背信行為としてではなく、「若さ故の気の迷い」「決断力のない性格」といった個人的な資質の問題に帰着させることができた。これにより、豊臣恩顧の大名が裏切ったという事実の持つ政治的な重みを、ある程度矮小化する効果があったのである。

これらの逸話が繰り返し語られることで、小早川秀秋のパブリックイメージは「気まぐれで優柔不断、決断力のない若者」として完全に固定化された。そして、彼が関ヶ原のわずか二年後に二十一歳(数え年)で急死したという事実も、このイメージを補強するために利用された 1 。「裏切り者」として周囲から疎まれ、精神を病んで酒に溺れた末の死であった、あるいは、裏切られた大谷吉継の怨霊に祟り殺されたのだ、といった物語が次々と生み出された。その死因については、鷹狩り中の突然の発病死という記録のほかにも、家臣に返り討ちにされた説や、禁漁区で魚を獲った祟りで落馬死した説など、奇怪な噂が数多く残されているが 1 、これらもまた、一度定着した「裏切り者の悲劇的な末路」という物語に沿って、後から付け加えられていったものと考えられる。

第四章:逸話に込められた多層的解釈

「栗拾いの伝説」が史実ではない可能性が高いからといって、その価値が失われるわけではない。むしろ、この創作された物語を単なる「嘘」として切り捨てるのではなく、それがなぜこれほどまでに人々の心を捉え、語り継がれてきたのか、その物語が内包する豊かな意味合いを多角的に分析することにこそ、歴史を深く理解する鍵が隠されている。

解釈1(心理学的分析):極限状況下の転位行動

たとえ後世の創作だとしても、物語の作者はなぜ「栗拾い」という、一見すると突拍子もない行動を秀秋にさせたのだろうか。ここには、人間の深層心理を鋭く突いた洞察が見られる。心理学には「転位行動(displacement activity)」という概念がある。これは、動物や人間が、恐怖や葛藤といった極度の緊張状態に置かれた際、その状況とは全く関係のない、日常的な行動(例えば、猫が毛づくろいを始めたり、人が貧乏ゆすりをしたりする)に逃避することで、精神的な均衡を保とうとする心理作用を指す。

天下の趨勢を決めるという、十九歳の青年にはあまりにも過酷なプレッシャーの中で、秀秋が全く無関係な「栗拾い」という行為に没頭したという物語は、まさにこの転位行動の典型例として解釈できる。物語の作者が心理学の知識を持っていたわけではないだろうが、極限状態に置かれた人間のリアルな反応として、無意識にこの行動を描写した可能性がある。だからこそ、この逸話は非現実的に見えながらも、奇妙な説得力を持って我々の心に響くのである。

解釈2(政治的分析):計算された韜晦(とうかい)術

これまでの「優柔不断な若者」という秀秋像とは全く逆の、彼を「したたかな政治家」として捉える逆説的な解釈も可能である。松尾山の秀秋は、東西両軍からその一挙手一投足を監視される、極めて危険な立場に置かれていた。下手に動けば、どちらかの陣営から攻撃される恐れもある。このような状況下で、あえて「何を考えているか分からない奇行」を演じることは、周囲の判断を麻痺させ、自らの真意を悟らせないための高等戦術であった、という見方である。

つまり、「栗拾い」は、熟慮の時間を稼ぎ、戦況がどちらに有利に傾くかを冷静に見極めるための、計算された「韜晦(とうかい)術」だったのではないか。この解釈は、第二章で触れた「事前内通説」 3 とも必ずしも矛盾しない。家康と内通はしていても、どのタイミングで裏切りの兵を動かすのが最も効果的か、その絶好機を慎重に計っていた。そのための時間稼ぎと、周囲を油断させるためのポーズが「栗拾い」だったと解釈すれば、愚鈍な若者どころか、冷徹な勝負師としての秀秋像が浮かび上がってくる。

解釈3(文学的・象徴的分析):歴史の歯車と個人の対比

この伝説が持つ最大の魅力は、その史実性以上に、優れた文学的装置として機能している点にある。それは、圧倒的なまでの「対比構造」である。

一方には、何万もの人々の命が失われ、国家の運命が決定される「天下分け目の大戦」という、歴史の巨大で非情な歯車が存在する。そしてもう一方には、戦場の片隅で「足元の栗の実を拾う」という、極めて個人的で、日常的で、矮小な一個人の行為がある。

この巨大さと矮小さの対比は、我々に何を訴えかけるのか。それは、歴史という巨大な奔流に翻弄される、一個人の無力さ、孤独、そして人間性の発露である。英雄や豪傑といった偶像ではない、極度のプレッシャーの中で精神の均衡を失いかける、等身大の「人間」としての秀秋の姿を鮮明に浮かび上がらせる。また、日本語の持つ響きとして、「栗(くり)」が「苦労(くろう)」や「裏切り(うらぎり)」の「裏(うら)」を連想させる一種の言葉遊びの要素も、この物語に深みと余韻を与えているのかもしれない。

「栗拾いの伝説」が、史実性の有無を超えて人々の記憶に残り続けるのは、この物語が、歴史の壮大さと人間の矮小さという、普遍的なテーマを内包しているからに他ならないのである。

結論:栗の実が語るもの ― 歴史的事実と物語の狭間で

本報告書における調査と分析の結果、以下の結論を導き出すことができる。「小早川秀秋の栗拾いの伝説」は、関ヶ原の戦いと同時代の一次史料には一切その記述が見られず、むしろ秀秋が合戦開始前から東軍と通じていた可能性を示す史料 3 とは明確に矛盾する。その起源は、徳川の治世が安定した江戸時代中期以降、関ヶ原の戦いが物語として大衆に消費される過程で、他の逸話(特に「問い鉄砲」)とセットで創作された可能性が極めて高い。

しかし、この伝説の価値は、その史実性にあるのではない。我々が問うべきは、それが「なぜ創られ、なぜ信じられてきたか」という点である。この一つの逸話は、史実そのもの以上に、歴史がどのように記憶され、語り継がれていくのかという力学を雄弁に物語っている。

第一に、この伝説は、歴史記録の「空白」を埋めようとする人々の、物語に対する根源的な欲求の現れである。人々は、単なる事実の羅列ではなく、登場人物の感情や葛藤に共感できるドラマを歴史に求める。

第二に、そこには徳川史観の下で特定の人物像(絶対的な指導者である神君家康と、それに翻弄される優柔不断な若者・秀秋)を形成しようとする、政治的・文化的な意図が介在していた。

そして第三に、歴史上の大事件を、個人の内面的なドラマとして理解したいという、大衆の心理が反映されている。

松尾山の陣中に転がっていたとされる一粒の栗は、慶長五年のあの日、秀秋が何を考えていたかを直接証明する物証にはならない。だがそれは、小早川秀秋という一人の青年が、その後の歴史の中でいかに記憶され、物語られ、そして時には都合よく消費されてきたかという、もう一つの「歴史」を映し出す鏡なのである。我々はこの栗の実を通して、歴史的事実そのものだけでなく、事実が物語へと昇華し、人々の記憶の中で生き続ける過程のダイナミズムをこそ、深く読み解くべきなのである。

引用文献

  1. 小早川秀秋、「関ケ原の裏切者」とか「農民にキンタマ蹴られて死亡」とか、その評価が酷すぎる件 https://note.com/takatoki_hojo/n/nd149920176d7
  2. 在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=8199
  3. 小早川秀秋は関ヶ原合戦のどのタイミングで寝返ったのか? 渡邊大門 - 幻冬舎plus https://www.gentosha.jp/article/21491/