最終更新日 2025-10-17

小早川隆景
 ~使者送り「退けば恩賞」と囁き開城~

小早川隆景は四国征伐で伊予湯築城を無血開城。親族の城主・河野通直に「退けば恩賞」と命の保証を提示し降伏させた。智略と情理。見事な手腕。

智将・小早川隆景の調略:伊予湯築城、無血開城の真相 ― 使者に託された「恩賞」の真意

序章:天正十三年、伊予の風雲

天正13年(1585年)、日本の統一を目前にした羽柴秀吉は、その最後の障壁の一つである四国平定へと乗り出した 1 。後に「四国征伐」として知られるこの一大軍事行動は、秀吉の天下が名実ともに確立する上で不可欠なものであった。10万を超える大軍が編成され、阿波、讃岐、そして伊予の三方から、怒涛の如く四国へと進軍を開始したのである 3

この壮大な計画において、伊予方面軍の総大将という重責を担ったのが、毛利元就の三男にして、毛利家の「両川」の一翼を担う智将、小早川隆景であった 4 。毛利家の当主である輝元の叔父として、また卓越した軍事的・政治的手腕を持つ武将として、隆景は秀吉からも厚い信頼を寄せられていた。彼の任務は、当時四国の大半を制圧していた長宗我部元親の勢力を伊予から駆逐し、秀吉の支配を確立することにあった。

その伊予における主要な攻略目標となったのが、道後温泉にほど近い湯築城であった 6 。城主は、伊予国の守護大名として長きにわたり君臨してきた名門、河野氏の当主・河野通直。しかし、この時の河野氏は、既に土佐から破竹の勢いで進撃してきた長宗我部元親の軍門に降り、その支配下に組み込まれていた 7 。秀吉の視点から見れば、河野氏はもはや独立した大名ではなく、討伐すべき「長宗我部勢力の一部」に他ならなかった。

だが、この軍事侵攻の背後には、戦国時代の常として、極めて複雑で繊細な人間関係が隠されていた。実は、攻撃側の総大将である小早川隆景と、守備側の城主である河野通直は、単なる敵味方ではなかった。通直の母は毛利元就の孫であり、したがって通直は元就の曾孫にあたる 5 。さらに、通直の正室である矢野局は、毛利輝元の姉の娘であった 5 。この血縁関係により、隆景(元就の三男)と通直は、叔祖父と曾姪孫(そうてっそん)という、極めて近い親族だったのである 5

この事実は、湯築城を巡る攻防戦に、単なる軍事作戦以上の意味合いを与えることとなる。これは秀吉の天下統一事業の一環であると同時に、毛利家が秀吉政権下で自らの親族をいかに処遇するかという、極めて政治的な問題を内包した戦いであった。隆景の双肩には、秀吉の命令を遂行する方面軍司令官としての公的な立場と、親族である河野家の行く末を案じる一族の長老としての私的な立場という、二つの重責がのしかかっていた。これから紐解く湯築城の無血開城という逸話は、この二つの立場を両立させようとした智将・小早川隆景の、苦心と深謀の物語なのである。

第一章:湯築城包囲網 ― 静かなる対峙

天正13年6月下旬、梅雨の湿った空気が瀬戸内の海を覆う中、小早川隆景率いる毛利軍の主力部隊が伊予の今治浦から次々と上陸を開始した 4 。その数、およそ3万。吉川元長らの部隊も続き、伊予の地は瞬く間に毛利の大軍によって席巻されていく。

隆景の進軍は迅速かつ的確であった。まず、長宗我部方に与していた東伊予の諸城、特に金子元宅が守る高峠城などを電撃的に攻略 4 。抵抗勢力を一掃しながら西進し、その矛先を河野氏の本拠地・湯築城へと向けた 11 。毛利軍の圧倒的な兵力と、隆景の揺るぎない指揮の前に、伊予の国人衆はなすすべもなく、湯築城は急速に孤立していった。

報せを受けた城主・河野通直は、一族の命運を賭け、湯築城での籠城を決意する 1 。湯築城は、二重の堀と堅固な土塁に囲まれた平山城であり、伊予守護の居城として長年改修が重ねられてきた要害であった 13 。通直は温泉郡や伊予郡など近隣の城塞から兵を集め、家臣団と共に最後の抵抗を試みたのである 16

やがて7月中旬、隆景の軍勢が湯築城下に到達し、城を幾重にも取り囲んだ。しかし、ここから戦況は奇妙な膠着状態に陥る。圧倒的な兵力を擁する隆景は、すぐさま総攻撃を仕掛けるかと思われたが、その軍勢は城を包囲したまま動こうとしなかった 11 。城方からの散発的な攻撃はあったかもしれないが、歴史上特筆すべき大規模な戦闘が行われた記録はない。ただ時間だけが静かに過ぎていく、約1ヶ月にも及ぶ「静かなる対峙」が始まったのである 1

この隆景の「待つ」戦略は、単なる逡巡や手加減ではなかった。それは、物理的な力で城壁を打ち破るよりも遥かに効果的な、心理的な城攻めであった。籠城戦において、城方の生命線は兵糧と士気である 17 。外部との連絡を完全に遮断された湯築城では、日を追うごとに備蓄された兵糧が確実に減少していく。援軍が来るという希望も絶たれ、城内には次第に焦燥と絶望の色が濃くなっていく。隆景は、敵の物理的な防御力を削ぐのではなく、降伏という「決断」を促すための精神的な土壌を、時間をかけて丹念に耕していたのである。血を流さずに目的を達成するための、これこそが智将・隆景の真骨頂であった。

この静かな攻防の全体像を把握するため、以下に時系列を整理する。

【伊予湯築城攻防 時系列表】

年月日(天正13年)

出来事

主要人物

典拠・補足

6月下旬

小早川隆景軍、伊予今治浦に上陸開始

小早川隆景、吉川元長

4

7月

高峠城など東伊予の諸城を攻略

金子元宅、石川虎竹丸

4

7月中旬頃

隆景軍、湯築城を包囲。籠城戦開始

小早川隆景、河野通直

1

7月中旬~8月中旬

約1ヶ月間の膠着状態

-

9

8月中旬頃

隆景より降伏勧告の使者が送られる

-

16

8月下旬

河野通直、降伏を決意し開城

河野通直

1

この表が示す約1ヶ月の空白期間こそ、隆景が調略の機が熟すのを静かに待ち続けた、計算された時間だったのである。

第二章:使者来る ― 隆景の「囁き」

約1ヶ月にわたる静かな対峙が続き、城内の焦燥が頂点に達したであろう天正13年8月中旬、ついに小早川隆景は動いた。しかし、彼が放ったのは軍勢ではなく、一人の使者であった 16 。武力による最後通牒ではなく、あくまで「説得」という形で、この戦を終わらせようという明確な意志表示であった。

使者が携えた書状に、隆景がどのような言葉を綴ったのか、その正確な文面は伝わっていない。しかし、その後の経緯から、その内容を推察することは可能である。おそらく、そこには情理を尽くした、以下の三つの要点が込められていたであろう。

第一に、 抗うことの無意味さ 。秀吉が動員した10万余の大軍を前に、一城で抵抗を続けることがいかに無謀であるかという、冷徹な現実が突きつけられたはずである。

第二に、 このまま戦うことの危険性 。長宗我部方に与した以上、これ以上の抵抗は秀吉への明確な反逆と見なされ、一族郎党の根絶やしという最悪の結末を招くであろうという警告。

そして第三に、最も重要な 血縁への訴え 。叔祖父として、親族である通直や河野一門の者たちが無益な血を流す姿を見たくはないという、情に満ちた言葉が添えられていたに違いない。

そして、この説得を決定的なものにするため、隆景は一つの「囁き」を添えた。それが、逸話として伝わる「退けば恩賞」という言葉の真意である。この場合の「恩賞」とは、決して領地の安堵や金銀といった物質的な報酬ではなかった。戦国乱世において、敵対し、敗北した者に与えられる運命は「死」である。その常識を覆し、本来であれば皆殺しにされてもおかしくない状況下で、「命を助ける」という行為そのものが、最大の恩賞として提示されたのである。隆景は、天下人の権威の下で生殺与奪が決定されるという戦国末期の新しい秩序を巧みに利用し、「滅亡」という最悪の結末を回避すること自体を、河野氏が受け取ることのできる唯一無二の「恩賞」として示した。

この書状は、湯築城内に大きな動揺をもたらした。城内で開かれた評定は、まさに紛糾を極めた。『予陽河野家譜』は、その様子を「小田原評定の如く内部で進退意見がまとまらなかった」と記している 9 。名門としての誇りを胸に、最後まで戦い抜くべしと叫ぶ徹底抗戦派と、もはや勝ち目のない戦で無駄な血を流すべきではないとする降伏派とで、家臣団の意見は真っ二つに割れた 7

その激論の中心で、最も重い決断を迫られていたのが、城主・河野通直であった。当時、わずか22歳 2 。若くして伊予の名門を背負う彼は、先祖代々の土地と誇りを守り抜きたいという思いと、城兵とその家族、領民の命を預かる当主としての責任との間で、身を引き裂かれるような苦悩に苛まれたに違いない。人徳に厚い人物であったと伝わる通直にとって 9 、この決断は彼の生涯で最も過酷な試練であった。城の運命は、この若き当主の双肩に、重くのしかかっていた。

第三章:開城 ― 智将の勝利

城内の激論と、若き当主の苦悩の末、ついに決断の時が来た。河野通直は、降伏を選んだ。これ以上の抵抗は、いたずらに家臣や領民の命を失わせるだけであり、一族の未来を完全に断ち切ってしまう。当主として、何よりも守るべきは人々の命である。その責任感が、彼の背中を押したのである 16

天正13年8月下旬、湯築城の重い城門が、戦の音ではなく、静寂の中でゆっくりと開かれた。武器を置いた河野家の武将たちが、悔しさと安堵の入り混じった複雑な表情で姿を現す。小早川隆景は、矢一本射ることなく、言葉だけでこの堅城を開けさせたのである。

そして、この逸話のクライマックスとも言うべき、後世まで語り継がれる感動的な場面が訪れる。降伏の儀に臨むにあたり、通直は驚くべき行動に出た。『予陽河野家譜』によれば、彼は城内にいた45人の子供たちの助命を嘆願するため、自らがその列の先頭に立ち、隆景の前に進み出たのである 9 。この逸話は、現在も湯築城跡に立つ石碑に刻まれ、通直の人徳を今に伝えている 20

隆景が待つ陣前で、幼い子供たちを前に、若き当主が深々と頭を下げる。その姿は、単なる降伏者のそれではない。それは、己の武人としての名誉よりも、次代を担うべき無垢な命を優先するという、為政者の崇高な決意の表れであった。この通直の行動は、単なる命乞いではなかった。それは、降伏という決断の正当性を内外に示すための、高度な政治的パフォーマンスでもあった。

隆景に対しては、「私は自らの保身のためではなく、未来を担うこの子供たちのために降伏するのです」という、道徳的に極めて強力なメッセージを送る。これにより、隆景は彼らを無下に扱うことができなくなる。同時に、城内で徹底抗戦を唱えていた家臣たちに対しては、「我々の戦は、これらの子供たちの命を救うという、より大きな大義のために終わるのだ」と示し、降伏という苦渋の決断に誰もが納得できる名分を与えることができる。

この光景を目の当たりにした隆景は、通直の覚悟と人徳を深く理解したであろう。彼は静かに頷き、通直の願いを聞き入れ、子供たちを含む城内の全ての者の命を保証した。言葉も交わされぬ武将と武将の対峙。それは、武力ではなく、仁と理によって戦が終わった、戦国史においても稀有な瞬間であった。智将・隆景の調略は、一人の若き当主の高潔な行動によって、完璧な形で結実したのである。

終章:恩賞の結末と隆景の深謀

湯築城の無血開城は、小早川隆景の智将としての名声をさらに高める逸話として語り継がれた。しかし、この美しい物語の裏には、戦国時代の非情な現実が横たわっていた。

隆景が囁いた「恩賞」は、約束通り果たされた。すなわち、城兵とその家族たちの「命」は救われたのである。しかし、それはあくまで命の保証に過ぎなかった。伊予の名門守護大名としての河野氏は、この日をもって事実上滅亡した。通直は全ての所領を没収され、勝者である隆景の本拠地、安芸国竹原へと身柄を移されることとなった 9

そして、その2年後の天正15年(1587年)、河野通直は竹原の地で病に倒れ、わずか24歳(満23歳)という若さでこの世を去った 9 。その死については、単なる病死ではなく、秀吉の意を受けた暗殺説なども囁かれているが 2 、いずれにせよ、彼が守ろうとした河野家の再興の夢は、叶うことなく潰えた。

一方、この四国征伐における功績により、小早川隆景は秀吉から伊予一国、実に35万石という広大な領地を与えられ、毛利家の一武将から独立した大名へと飛躍を遂げた 4 。そして、彼が言葉一つで開城させた湯築城は、新たな伊予の支配者となった隆景自身の居城となったのである 15

この結末は、隆景の調略に対して別の光を当てる。後世に編纂された『陰徳記』などの軍記物には、隆景が伊予一国を自らの所領とするという宿願を果たすため、親戚である河野氏の再興をあえて見殺しにしたのではないか、という厳しい見方が記されている 23 。温情ある説得の裏に隠された、冷徹な策略家としての一面である。

結局のところ、この湯築城を巡る一連の出来事は、小早川隆景という武将の「智将」たる所以を完璧に体現している。それは、情理と実利、温情と冷徹さという、相反する要素を状況に応じて自在に使い分ける、複眼的な思考能力に他ならない。

彼は、親族としての「情」を見せることで、無用な兵の損耗と時間を費やすことなく城を降伏させた(実利の獲得)。彼は、通直の命と誇りを救うという「温情」を示すことで、伊予の民心を掌握し、その後の統治を円滑に進める布石を打った(統治の円滑化)。しかし最終的には、河野氏を再興させることなく、その領地を完全に自らのものとした(冷徹な現実主義)。

この行動は、単に心優しい武将でも、冷酷な策略家でもない。伊予の迅速かつ完全な平定という目的を達成するために、血縁関係、敵将の心理、そして天下の趨勢といったあらゆる要素を計算し尽くし、最も合理的で効果的な手段を選択できる、極めて高度な政治力と戦略眼の表れである。父・毛利元就から受け継いだ謀略の才を、さらに洗練させた隆景の真骨頂がここにある。使者を送り「退けば恩賞」と囁き、矢一筋撃たずに城を開けさせたというこの逸話は、彼の武将としての本質を凝縮した、まさに珠玉のケーススタディと言えるだろう。

引用文献

  1. 湯築城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%AF%89%E5%9F%8E
  2. 伊予水軍・最後の当主「河野通直」の死の真相とは?【伊予水軍の終焉に迫る】 - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/kawano-mitinao/
  3. 小早川隆景は何をした人?「父ゆずりの頭脳と確かな先見性で毛利の家を守り抜いた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/takakage-kobayakawa
  4. 四国征伐- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%9B%9B%E5%9C%8B%E5%BE%81%E4%BC%90
  5. 伊予水軍・河野一族はどうして滅亡した? 秀吉と毛利一族による伊予国争奪戦だった? https://hono.jp/sengoku/kawanoshi-destruction/
  6. 湯築城 ~伊予の大名・河野一族の歴史ある名城 | 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/080_yudukijo-html.html
  7. 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
  8. 伊予に覇を唱えた河野氏の本城として君臨した湯築城【愛媛県松山市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27101
  9. 河野通直 (伊予守) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E9%80%9A%E7%9B%B4_(%E4%BC%8A%E4%BA%88%E5%AE%88)
  10. 戦国時代の河野水軍滅亡後、伊予国はどうなった?秀吉や徳川将軍家からも重宝された? https://hono.jp/sengoku/kouno-after/
  11. 武家家伝_河野氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kono_k.html
  12. 四國征伐- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%9B%9B%E5%9C%8B%E5%BE%81%E4%BC%90
  13. 中世の伊予国守護河野氏の居城「湯築城跡」 https://sirohoumon.secret.jp/yuzukijo.html
  14. 【理文先生のお城がっこう】歴史編 第34回 四国の城3(河野氏と湯築(ゆづき)城) - 城びと https://shirobito.jp/article/1270
  15. 河野氏と湯築城 - 愛媛CATV http://home.e-catv.ne.jp/ja5dlg/yuzuki/yuzuki.htm
  16. 特集「湯築城資料館企画展」講演記録 - 河野氏家臣団の群像 https://keifu2gami.com/wp-content/uploads/2023/10/uminotamifutagami_11.pdf
  17. 秀吉の鳥取城攻めでは餓死者が続出!戦国時代の残酷な「城攻め」あれこれ | サライ.jp https://serai.jp/hobby/117028
  18. 兵糧攻めの城 - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/tags/hyouro.html
  19. 河野氏滅亡と周辺の武将たち - 東温市立図書館 https://www.toon-lib.jp/H24kounosi.pdf
  20. 河野通直(伊予守) - 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E9%80%9A%E7%9B%B4_(%E4%BC%8A%E4%BA%88%E5%AE%88)
  21. OC06 河野通久 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/entry315.html
  22. 河野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%B0%8F
  23. 一 小早川隆景の支配 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8023
  24. (小早川隆景と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/23/