最終更新日 2025-10-25

小西行長
 ~処刑前に我キリシタン也と叫ぶ~

小西行長が処刑前に「我キリシタン也、罪人にあらず」と叫んだ逸話は、信仰を貫いたキリシタン武将の最期を象徴。その史実性と信仰の深層を分析する。

小西行長の最期:「我キリシタン也、罪人にあらず」という信仰譚の深層分析

序章:六条河原に響いたとされる言葉

慶長5年(1600年)10月1日、秋の冷気が漂う京都・六条河原。関ヶ原の戦いで敗れた西軍の将、小西行長が、石田三成、安国寺恵瓊と共に処刑されようとしていた。その最期の瞬間、行長は天を仰ぎ、高らかに叫んだとされる。「我キリシタン也、罪人にあらず」と。

この言葉は、彼の生涯と死を象徴する逸話として、後世に語り継がれてきた。それは、武士としての名誉よりも信仰を重んじ、地上の権力者による「罪人」という烙印を拒絶し、神の法廷に自らを委ねたキリシタン武将の魂の叫びとして、人々の心を捉えて離さない。

しかし、この劇的な言葉は、果たして史実に記録されているのだろうか。それとも、彼の壮絶な生き様と死に様から生まれた、後世の創作なのだろうか。本報告書は、この逸話の真偽を問うことを出発点とし、同時代、特にイエズス会によって残された詳細な記録を丹念に読み解き、小西行長という一人のキリシタン武将がたどった最後の数日間を時系列で再構築する。そして、逸話の背景にある彼の信仰の深さ、武士道との相克、そして死の意味を徹底的に分析し、その歴史的深層に迫ることを目的とする。この問いを解き明かすことは、単なる逸話の真偽判定に留まらず、戦国という激動の時代における「信仰」と「忠誠」、そして個人の「尊厳」がいかにして貫かれたのかを明らかにする試みである。

第一部:信仰の人、小西行長 ― 処刑台に至る道程

第一章:堺の商人から肥後の大名へ

小西行長の生涯は、戦国時代の武将としては異例の経歴から始まる。彼は堺の薬種商・小西隆佐の子として生を受け、武士階級の出身ではなかった 1 。しかし、国際貿易港・堺で培われた商人としての才覚、算術能力、そして国際感覚は、旧来の武士にはない強力な武器となった。はじめ宇喜多氏に仕え、その能力を認められると、やがて天下人・豊臣秀吉に見出される 3

彼の行動原理の根幹には、幼少期に受洗したキリスト教信仰があった。霊名を「アゴスチイノ」と授かった彼は、熱心なキリシタンであった父・隆佐の影響を強く受け、生涯を通じてその信仰を貫いた 4 。秀吉政権下で、彼は舟奉行や外交官としてその非凡な能力を遺憾なく発揮し、ついには肥後南半国十二万石を領する大名にまで上り詰める 1 。彼の立身出世は、伝統的な門閥や武功だけでなく、実務能力や国際交渉力といった新たな価値観を重んじた豊臣政権の特性を象徴する出来事であった。

第二章:信仰と忠誠の狭間で ― 朝鮮出兵の苦悩

行長のキリシタンとしての信仰と、豊臣家臣としての忠誠が最も激しく衝突したのが、文禄・慶長の役であった。彼は一貫して明との和平交渉を主導し、武力による制圧を目指す加藤清正ら武断派と激しく対立した 7 。彼のこの行動は、キリスト教の教えに基づき「不要な流血は避けたい」という強い信念から発せられたものであった可能性が高い 9

しかし、この和平工作は、彼のキャリアにおける最大の危機を招く。秀吉が提示した非現実的な講和条件と、明側の要求との間には埋めがたい隔たりがあった。板挟みとなった行長は、双方を欺く形で偽りの講和を取りまとめるという苦渋の決断を下す。慶長元年(1596年)、来日した明の使節によってこの偽装が露見すると、秀吉は激怒し、行長に死罪を言い渡した。この時は前田利家らの必死のとりなしによって一命を取り留めたものの、彼の政治的立場は著しく悪化した 2

この一連の和平工作は、単なる外交的失敗として片付けることはできない。それは、キリスト者として人命を尊重する倫理観と、主君・秀吉の絶対的な命令に応えなければならないという政治的現実との間で引き裂かれた、行長の深刻なジレンマの表れであった。戦争を終結させるという「より大きな善」のためには、欺瞞という「悪」も許されるのではないか。そうした苦悩の末の選択が、結果的に彼の信用を失墜させ、後の関ヶ原での孤立と敗死に繋がる遠因となったのである。彼の最期は、関ヶ原という一点だけで語ることはできず、この朝鮮出兵での苦悩の連続線上に位置づけられるべきなのである。

第二部:最後の数日間 ― 時系列で追う魂の軌跡

関ヶ原での敗戦から六条河原での処刑に至るまでの約半月間は、小西行長の信仰が最も鮮烈に示された期間であった。以下の時系列表は、彼の最後の軌跡を概観するための一助となるだろう。

日時(慶長5年)

場所

出来事

小西行長の行動・心理状態

典拠史料

9月15日

美濃国関ヶ原

関ヶ原の戦い、西軍敗北

小早川秀秋の裏切りにより敗走 11 。奮戦するも及ばず。

『当代記』等 12

9月中旬

近江国伊吹山中

潜伏

武士の慣習である切腹を、キリスト教の教義(自殺の禁止)により拒否 6

イエズス会史料等

9月19日頃

伊吹山麓

捕縛

落人狩りの林蔵主の前に自ら現れ、捕縛されることを選択 5

『イエズス会日本年報』 14

9月29日

大坂・堺・京都

市中引き回し

憔悴した三成らとは対照的に、顔色も変えず毅然とした態度を保つ。告解のため神父との面会を熱望するも叶わず 15

『イエズス会1599~1601年 日本諸国記』 14

10月1日

京都・六条河原

斬首による処刑

神父の使者と接触し、自らの罪を悔い、神に魂を委ねる。ポルトガル王妃から贈られたイコンを掲げたと伝わる 4

『イエズス会1599~1601年 日本諸国記』 15 , 『言経卿記』 16

第一章:慶長5年9月15日~19日 ― 敗走と選択

慶長5年9月15日、関ヶ原の地で西軍は東軍に大敗を喫した 12 。小早川秀秋の裏切りをきっかけに戦線は崩壊し、小西行長の部隊も奮戦虚しく敗走を余儀なくされた 11 。彼は戦場を離脱し、近江の伊吹山中へと逃れた 5

山中に潜伏する日々の中で、行長は重大な岐路に立たされた。当時の武士の常識では、敗軍の将がとるべき道は、潔く切腹して果てることであった。生き恥を晒すことは、武士として最大の屈辱とされた。しかし、行長の信仰であるキリスト教は、いかなる理由があろうとも自害を固く禁じている 6 。武士としての名誉か、キリシタンとしての教えか。彼の選択は後者であった。それは、武士社会の価値観よりも、神の戒律を優先するという明確な意思表示であった。

この決断は、彼の次の行動に繋がる。彼は潜伏の末に捕らえられるという無様な結末を待つのではなく、自ら落人狩りをしていた林蔵主の前に姿を現した 14 。そして、「我を行長と知って捕縛し、家康公に差し出せば、汝の手柄となろう」と促し、自ら捕えられたと伝わる 14 。これは単なる降伏ではない。避けられない死を、信仰に殉じるための能動的なプロセスへと転換させるための、彼の最後の自己演出であった。運命に翻弄される客体から、信仰のために死を受け入れる主体へ。彼の死が「殉教」としての意味を帯びるための、最初の重要な一歩が、この伊吹山麓で踏み出されたのである。

第二章:慶長5年9月29日 ― 魂の渇望と市中引き回し

捕縛された行長は、大津を経て大坂城へ送られ、そこで石田三成、安国寺恵瓊と合流させられた。そして9月29日、三人は罪人として大坂、堺、そして京都の町を引き回されることになった 14 。これは、新時代の覇者となった徳川家康による、旧豊臣政権の権威を民衆の前で徹底的に貶めるための、冷徹な政治的パフォーマンスであった。

この屈辱的な道中における三者の様子を、イエズス会の報告書『イエズス会1599~1601年 日本諸国記』は、鮮明な対比をもって記録している 15 。それによれば、石田三成と安国寺恵瓊は過酷な処遇によって憔悴しきり、「黄ばんだ死人のような顔色」で苦悶の表情を浮かべていた。対照的に、小西行長は「顔色に何らの変化もなく」「常に変わらぬ様子」で、その泰然自若とした態度は、見守る群衆に強い印象を与えたという 15

しかし、その冷静な態度の裏で、行長の魂は激しく揺れ動いていた。彼の最大の苦悩は、目前に迫った死の恐怖ではなかった。それは、死ぬ前に司祭(パードレ)に会い、罪の告白(告解)の秘蹟を受けられないことへの絶望であった 15 。カトリック教徒にとって、告解は死に臨んで魂の救済を得るために不可欠な儀式である。行長は捕縛後、護送役であった黒田長政(キリシタン大名・黒田如水の息子)を通じて、家康に司祭との面会を必死に嘆願した。自らも手紙を書き、その切なる願いを伝えたが、家康はこれを「何かの欺瞞ではないか」と疑い、激怒して一切の面会を禁じたのである 15

家康が司祭との面会を禁じたのは、単なる警戒心からだけではなかったであろう。それは、行長の精神的支柱である信仰そのものを破壊しようとする、高度な心理戦であった。敵の最大の拠り所を奪うことは、戦の常道である。家康は、行長から告解の機会を奪うことで、彼を精神的に追い詰め、信仰の無力さを思い知らせ、一人の惨めな罪人として死なせようとしたのかもしれない。それは、物理的な拷問よりも残酷な、魂への攻撃であった。しかし、イエズス会の記録が示すように、行長はこの精神的拷問に屈しなかった。彼は告解が叶わないと知ると、司祭たちに教えられた通り、独りで神に罪を悔い、祈りを捧げることで、その苦難を乗り越えたのである 15 。家康の策は、結果的に行長の信仰の強さを証明する反証となってしまった。

第三章:慶長5年10月1日 ― 六条河原、最期の舞台

運命の日、慶長5年10月1日。小西行長は、石田三成、安国寺恵瓊と共に、処刑場である京都・六条河原へと引かれていった 17

その道中、処刑場に近づいたまさにその時、奇跡が起こる。群衆の中から一人のキリシタンが走り寄り、行長に近づいた。彼は、家康の禁令によって行長に会うことを許されなかった司祭たちが、最後の望みを託して送り込んだ使者であった 15

イエズス会の記録は、この時の二人の会話を、あたかもその場で聞いていたかのように生々しく伝えている。これは、現存する史料の中で、行長の最期の言葉に最も肉薄する、極めて貴重な記録である。

使者は言った。「パードレ(司祭)方は、あなた様にお会いし、告解をお聞きするために最善を尽くされました。しかし、内府様(家康)の厳しい禁令により、どうしても叶いませんでした。今はただ、ご自身の力で、大いなる痛悔をもってご自身の罪を思い出されますように」 15

これに対し、行長は穏やかに応えたという。「その知らせに満足している。パードレ方が私のことを覚えていてくださったのだから。もはやパードレ方にお会いして告解の慰めを得ることは叶わないが、教えられた通り、絶えずわが罪を悔い改めるであろう」 15

この言葉を最後に、彼は静かに運命を受け入れた。処刑に際し、役人から仏僧による経文の朗読を勧められたが、彼はそれを毅然として断ったと伝えられる 5 。そして、かつてポルトガル王妃から贈られたというキリストと聖母マリアが描かれた聖画像(イコン)を胸に掲げ、静かに首を差し伸べたという 4 。彼の死は、武士としてではなく、徹頭徹尾、キリスト教徒としてのものであった 13

第三部:逸話の深層分析 ―「我キリシタン也、罪人にあらず」の意味

第一章:逸話の典拠と信憑性

小西行長の最期を象徴する言葉、「我キリシタン也、罪人にあらず」。この言葉は、果たして史実なのだろうか。

結論から言えば、この具体的な叫びを記録した、信頼に足る同時代の一次史料は、現時点では確認されていない。『イエズス会1599~1601年 日本諸国記』や、公家の日記である『言経卿記』といった、彼の処刑を伝える最も重要な史料にも、この発言の記述は見当たらない 15 。したがって、この逸話は、彼の死後、その劇的な最期が語り継がれる中で形成された、後代の創作である可能性が極めて高い。

ではなぜ、史実ではないかもしれないこの逸話が、これほどまでに力を持って語り継がれてきたのか。それは、彼の最期の一連の行動―切腹の拒否、市中引き回しでの毅然とした態度、仏教儀礼の拒絶、そしてイコンを掲げたという伝承―が、この言葉が持つ本質を雄弁に物語っているからに他ならない。この逸話は、彼の行動の「意味」を凝縮し、誰もが理解できる象徴的な言葉として結晶させたものと考えられる。史実の有無を超えて、彼の死の核心を突いているからこそ、この言葉は生き続けてきたのである。

第二章:言葉の多層的解釈

この逸話が持つ意味を、より深く掘り下げてみよう。「我キリシタン也、罪人にあらず」という言葉は、二つの部分から成り立ち、それぞれが多層的な意味を内包している。

「我キリシタン也」の宣言

これは、自らのアイデンティティの最終的な表明である。彼は、自らの死が、単なる関ヶ原の戦いにおける政治的敗北の結果ではなく、自らの信仰に根差すものであることを、天下に宣言している。武士としての死(切腹)を拒んだ理由を、衆目の前で明らかにすることで、自らの死を「敗将の無様な処刑」から「信仰に殉じる死」へと意味づけようとする、強い意志がここに見て取れる。

「罪人にあらず」の抗弁

この「罪人」という言葉は、少なくとも二つの意味に解釈することができる。

第一に、「政治的な罪人」としての意味である。勝者である徳川家康の視点から見れば、行長は豊臣家の恩義を忘れた石田三成に与し、天下に無用の騒乱をもたらした「反逆者=罪人」に他ならない。行長の言葉は、この断罪に対する真っ向からの反論である。「私の行動は、亡き太閤殿下(秀吉)とその遺児・秀頼公への忠義に基づくものであり、決して私利私欲による反逆ではない」という、豊臣家臣としての正当性を主張しているのである。

第二に、「神の前の罪人」としての意味である。キリスト教の教義において、原罪を負うすべての人間は、神の前では等しく「罪人(sinner)」である。行長があれほどまでに告解を熱望したのは、まさにこの神の前での罪の赦しを得るためであった 15 。したがって、もし彼がこの言葉を叫んだとすれば、それは「私は、徳川家康が地上法で裁くような政治的な罪人ではない。私が真に裁かれるべきは、天上の神の法廷においてのみである」という、裁きの主体を地上の権力者から天上の神へと移し替える、高度な神学的・思想的抗弁と解釈することができる。

この逸話は、史実か否かを超えて、小西行長を日本のキリシタン史における「殉教者」の原型として確立させるための、極めて強力な物語装置として機能した。行長の死は、厳密には信仰のみを理由とした処刑(例:日本二十六聖人殉教 19 )ではなく、政治犯としての処刑であった。しかし、この逸話は、彼の死の「政治的側面」を後景に退かせ、「信仰的側面」を前景に押し出す効果を持つ。「罪人にあらず」と叫ぶことで、彼は徳川の法による断罪を拒否し、神の法廷に自らを委ねる姿が描かれる。これにより、彼の死は単なる敗将の処刑から、信仰のために地上の権力に屈しなかった「殉教者の勝利」の物語へと昇華される。この物語が、後の苛烈な弾圧の時代を生きるキリシタンたちに、どれほど大きな勇気と模範を与えたかは想像に難くない。

結論:キリシタン武将が遺したもの

小西行長の死後、その評価は日本とヨーロッパで大きく二分された。日本では、関ヶ原の敗将、あるいは秀吉を欺いた奸臣として、長く否定的、あるいは忘れられた存在であった。一方、ヨーロッパでは、彼の最期はイエズス会によって詳細に報告され、信仰を最後まで貫いた英雄として大きな称賛を浴びた。彼の死からわずか7年後の1607年には、イタリアのジェノヴァで彼を主人公とする音楽劇が上演されたという事実は、その評価の高さを物語っている 3

小西行長の最期は、「武士であること」と「キリシタンであること」が、もはや両立し得なくなった時代の悲劇を象徴している。彼が自ら選んだ斬首という死は、武士としての現世的な名誉を捨ててでも、魂の救済というキリスト者としての究極の名誉を守ろうとした、壮絶な信仰の証であった。

彼が叫んだとされる「我キリシタン也、罪人にあらず」という言葉は、史実であったか否かを問うこと以上に、彼の生涯を貫いた信念の核心を見事に捉えている。それは、自らが信じるもののために、人はどこまで誠実でいられるのか、そして、地上の権力による裁きを超えた価値をいかにして守り抜くのか、という時代を超えた普遍的な問いを、現代の我々にも鋭く投げかけ続けているのである。

引用文献

  1. 戦国期ー小西行長 https://www.tokyoisho.co.jp/event/number/035.html
  2. 小西行長は何をした人?「嘘も方便とはいかず文禄・慶長の役を招いてしまった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yukinaga-konishi
  3. 小西行長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
  4. 第43話 〜小西行長 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/043.html
  5. 【歴史探訪】牛窓と称し、小西アゴスチニョ行長に属する町 - note https://note.com/usmdolive3/n/nb0af1eb393a9
  6. キリシタン大名・小西行長/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97046/
  7. 「朝鮮出兵」で先陣を務めた、小西行長が辿った生涯|秀吉政権を支えたキリシタン大名【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1152924/2
  8. 1592年 – 96年 文禄の役 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1592/
  9. 小西行長(こにし ゆきなが) 拙者の履歴書 Vol.106~キリシタン武将、東西の世の狭間にて - note https://note.com/digitaljokers/n/n384951630f5a
  10. 「小西行長」商人から武士へ転身。異例の出世を遂げるも最期は… - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/680
  11. 北天満山 小西行長陣跡 クチコミ・アクセス・周辺情報|関ヶ原・垂井 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/11555757
  12. 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  13. 【連載:おはかもん】十字架に殉じたキリシタン大名 – 小西行長 - お墓ガイド https://guide.e-ohaka.com/column/ohakamon/konishiyukinaga/
  14. 小西行長の最期 - 宇土市 https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/4/30.html
  15. 史料現代語訳 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/category/historical-material/
  16. 【関ヶ原合戦 年表③】慶長5年(1600年)7月~|鎧川 亮 - note https://note.com/ryoroigawa/n/n2187e1b347e4
  17. 1619年10月6日京都のキリシタン 52名が殉教したが、 その殉教地について種々な記述 がなされてきた。そのなかで「六条河原」という記述が https://kyoto.catholic.jp/christan/jyunkyouchi.pdf
  18. 歴史の目的をめぐって 安国寺恵瓊 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-01-ankokuji-ekei.html
  19. キリスト教の伝来と繁栄の時代 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/monogatari/monogatari-01