小西行長
~聖書抱き赦し祈る殉教譚~
小西行長の関ヶ原敗走から六条河原での殉教までを分析。キリスト教信仰を貫き、武士の自害を拒否し、聖画像を掲げて処刑された彼の最後の三日間と慈悲の精神を探る。
小西行長、最後の三日間 ― 史料が語る殉教譚の真相
序章:関ヶ原の敗走、そして伊吹山中へ
慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原。日本の歴史を二分したこの決戦において、西軍の将として奮戦した小西行長の運命は、日の傾きと共に暗転した 1 。午後になり、西軍の諸隊が次々と崩壊する中、盟友であった大谷吉継隊の壊滅という決定的な報に接した行長は、自軍の陣地であった天満山を越え、揖斐郡春日方面へと敗走を開始する 2 。この敗走は、単なる戦場からの離脱ではなかった。それは、一人のキリシタン大名が、自らの信仰と死生観を懸けて臨む、最後の旅路の始まりであった。
当時の戦場周辺は、敗軍の将兵を狙う「落人狩り」が横行し、生きて逃げ延びることは至難の業であった。行長は、追手の目を逃れて伊吹山中深くに潜伏する 3 。この数日間にわたる潜伏生活が、彼の精神に何をもたらしたのか。それは、単なる生存への渇望ではなかった。後の彼の驚くべき行動から逆算すれば、この期間は、彼が「いかにして死ぬべきか」を熟考し、覚悟を固めるための、極めて重要な精神的準備期間であったと推察される。
状況は絶望的であった。西軍の敗北は決定的であり、首謀者の一人と目される自身に助命の道がないことは、冷静な戦略家であった行長には痛いほど理解できていたはずである。武士として生きるならば、その最期は名誉ある自害、すなわち切腹が本義であろう。しかし、彼の精神の根幹を成すキリスト教の教義は、いかなる理由があろうとも自死を厳しく禁じている 4 。この絶望的な状況下で、行長は一つの結論に達した。生き恥を晒すのではなく、信仰を全うする死を選ぶ。そのためには、捕縛され、公の場で裁きを受け、処刑されるという道筋を辿らねばならない。この内面的な決断が下された瞬間、彼の立場は単なる「逃亡者」から、自らの意志で「殉教への道を歩む者」へと変質した。彼の死は、もはや徳川家康によって与えられる敗戦処理ではなく、彼自身が信仰の証として選び取り、演出しようとする宗教的儀式としての側面を帯び始めたのである。
第一章:捕縛 ― 武士の誉れと信仰の狭間で
伊吹山中での潜伏から数日後、行長は自ら歴史の表舞台に再び姿を現す。その捕縛の様子は、日本側の史料である『慶長年中卜斎記』に、生々しい会話と共に記録されており、彼の特異な決断を雄弁に物語っている。
山中で落人狩りを指揮していた村の年寄、林蔵主らの前に、行長は自ら進み出た 3 。『慶長年中卜斎記』によれば、そのやり取りは以下のようであったという。行長はまず、「そこなる人、近くへ参れ」と威厳を保ったまま声をかける。突然現れた高貴な落人に驚いた村人は、むしろその身を案じ、「何方へなりとも、忍び御落ち候へ(どちらへなりとも、お逃げください)」と逃亡を促した。しかし、行長の意志は固かった。「是非共近く来り候へ。頼み候はん(どうしても近くに来てくれ。頼みがあるのだ)」。そして、彼は驚くべき言葉を口にする。
「吾は小西摂津守なり。内府(徳川家康)へ連れて行き、褒美を取れ」 6 。
これは単なる自首ではなかった。自らの首に懸けられた恩賞を、目の前の人物に与えようとする能動的な行為であった。村人がなおも躊躇し、行長の身分を慮って逃亡を勧めると、彼は自らの行動原理を、明確な言葉で宣言する。
「我等は自害するも易けれ共、根本吉利支丹なり。吉利支丹の法に自害はせず」 6 。
私が自害することは容易い。しかし、私はキリシタンである。キリシタンの教えでは自らを殺すことは許されないのだ、と。この一言は、当時の武士社会の価値観を根底から揺るがすものであった。武士にとって最高の栄誉ある死に方とされた切腹を、宗教的信条を理由に自ら放棄し、罪人として斬首されるという屈辱的な道を選んだのである 5 。
この一連の行動は、行長が単に教義に縛られて受動的に死を受け入れたのではないことを示している。彼は、敗将として捕らえられるという屈辱的な状況を、信仰者として最後の善行を施すという栄誉ある機会へと、自らの意志で転換させた。これは、他者を救うことで自らも救われるというキリスト教的な思想の実践とも解釈できる。彼は自身の死を、信仰の証しとすると同時に、名もなき一人の人間に恩恵を与えるための最後の機会としたのである。こうして行長は、関ヶ原の領主であった竹中重門の家臣を通じて正式に投降し、大津に設けられた家康の本陣へと、静かに護送されていった 6 。それは彼にとって、殉教への確かな第一歩であった。
第二章:六条河原への道 ― 最後の市中引き回し
大津での尋問の後、行長の運命は確定した。慶長五年十月一日、同じく西軍の首魁とされた石田三成、安国寺恵瓊と共に、大坂から京都へと護送され、市中引き回しの上、六条河原で斬首に処されることとなった 10 。この市中引き回しは、新時代の覇者となった徳川家康の威光を天下に知らしめ、逆らう者たちの末路を民衆に見せつけるための、冷徹な政治的儀式であった。
三人の敗将を乗せた車が、京の町衆の好奇と憐憫の視線の中を進んでいく。この道中において、石田三成が見せた態度は、後世に語り継がれる有名な逸話となっている。喉の渇きを覚えた三成が白湯を求めたところ、警護の者から干し柿を差し出された。三成はこれを「柿は痰の毒ゆえ、食さぬ」と断る。警護の者が「これから首を斬られる者が、体の毒を案じてどうする」と嘲笑うと、三成は昂然と答えた。「大志を抱く者は、最期の瞬間まで命を惜しみ、本懐を遂げようと望むものだ」と 12 。この言葉は、最後の瞬間まで現世における理想の実現を諦めない、不屈の武将としての三成の精神性を見事に描き出している。
一方で、同じ車に乗る小西行長が、この道中で何を発し、どのような態度であったかを詳細に伝える史料は乏しい。しかし、彼の信仰の深さを鑑みれば、この最後の旅路が、彼にとって俗世との決別を完了させ、神との内面的な対話に費やされた時間であったことは想像に難くない。三成が最後まで「武将・石田治部少輔」であろうとしたのに対し、行長はすでに「殉教者・アウグスティヌス」として、その精神を天上の世界へと向けていたのではないだろうか。
三成の逸話が「現世への執着」、あるいは武士としての矜持を象徴するのに対し、行長の沈黙は「来世への準備」を象徴している。この鮮やかな対比は、戦国時代に生きた武将たちの二つの異なる死生観―武士道に根差した死と、キリスト教信仰に根差した死―を浮き彫りにする。民衆の目に、最後まで俗世の理を語る三成の姿と、超然として死に向かう行長の姿は、全く異質なものとして映ったであろう。行長の静謐さは、かえって異様な存在感を放ち、彼の信仰の強さを無言のうちに人々に伝えた可能性がある。この沈黙の行進は、続く処刑場での彼の劇的な行動が、一貫した信仰的態度の必然的な帰結であることを示唆している。
第三章:殉教の刻 ― 聖画像を掲げた最期
物語はクライマックスの舞台、京都・六条河原へと移る。鴨川の河原に設けられた刑場は、これまで数多の罪人の血を吸ってきた場所であった。ここで、行長の行動は最も象徴的な形を取り、後世に語り継がれる「殉教譚」が完成する。
イエズス会の史料によれば、行長は処刑を前にして、司祭による告解(ゆるしの秘蹟)を受け、魂の準備を整えたいと強く望んだとされる。しかし、戦後の混乱の中、その願いが叶えられることはなかった。それでも彼は動じることなく、自らの信仰を公に示すための、最後の手段を選ぶ。
処刑の作法に従い、浄土門の僧侶が進み出て、行長に経文を差し出し、阿弥陀仏の名を唱えるよう勧めた。これは、死にゆく者の魂を来世へと導くための、日本の伝統的な儀礼であった。しかし、行長はこの申し出を、毅然とした態度で拒否した 2 。この行為は、日本の伝統的な死の儀礼に対する、キリスト教信仰からの明確な決別宣言であり、刑場の空気を一変させるものであった。
そして、彼は懐からあるものを取り出す。一般に「聖書を抱き」というイメージで語られることが多いこの場面だが、より信頼性の高い史料が指し示すのは、別の聖なる品であった。フランスの歴史家レオン・パジェスが著した『日本切支丹宗門史』をはじめとする欧州側の記録によれば、行長が衆目の前で高く掲げたのは、かつてポルトガル王妃から贈られたとされる「キリストと聖母マリアが描かれたイコン(聖画像)」であったと伝えられている 2 。
なぜ「聖書」ではなく「イコン」だったのか。この違いは、単なる物品の差に留まらない。それは、行長の最後のメッセージが誰に向けられ、どのような性質のものであったかを示す、極めて重要な鍵である。当時の日本において、文字を読める者は限られていた。たとえ聖書を掲げたとしても、その深遠な教えは、刑場を取り巻くほとんどの観衆には伝わらない。一方で、聖母子を描いたイコンは、文字の壁を越え、誰の目にも行長の信仰の対象が何であるかを、直接的かつ劇的に伝える力を持っていた。聖書を読む行為が個人的な祈りの性格を持つのに対し、イコンを高く掲げる行為は、周囲の全ての人々に向けた公的な信仰告白であり、それは挑戦的ですらあった。行長は、自らの処刑台を最後の「説教壇」に変えたのである。
行長は、その聖画像を頭上に掲げ、あるいは胸に固く抱きしめ、静かに天を仰いで祈りを捧げた。その祈りが終わると、彼は潔く首を差し出した。慶長五年十月一日、小西摂津守行長、洗礼名アウグスティヌス、斬首。享年四十三であった 4 。その首は、三成、恵瓊のものと共に三条大橋に晒された 11 。
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史料名 |
処刑直前の行長の持ち物に関する記述 |
祈りや態度に関する記述 |
視点・特徴 |
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日本側史料 (『慶長年中卜斎記』など) |
具体的な記述は少ない。 |
切腹を拒否した事実を淡々と記録する傾向 6 。 |
敗軍の将の末路として、政治的・軍事的な文脈で捉える。宗教的側面への関心は薄い。 |
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イエズス会報告書 (『日本諸国記』など) |
聖画像を掲げた可能性を示唆。 |
信仰のために毅然と死に臨んだ姿を強調 15 。 |
信仰に殉じた「殉教者」として描き、その死をキリスト教の勝利として称揚する。欧州の信徒への報告という目的を持つ。 |
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後世の編纂物 (パジェス『日本切支丹宗門史』など) |
「キリストとマリアのイコン」と具体的に記述 14 。 |
複数の史料を統合し、劇的な物語として再構成。 |
欧州のキリスト教史観に基づき、イエズス会史料を補強・体系化。殉教者としてのイメージを確定させる役割を果たす。 |
第四章:逸話の背景 ― 「慈悲深さ」の源泉
六条河原に響いた小西行長の最後の祈りは、一体何を願うものであったのか。それは、単に彼自身の魂の救済を求めるだけではなかっただろう。彼の生涯の行動を振り返るとき、その祈りが、彼が関わった全ての人々への「赦し」と「慈悲」に向けられたものであった可能性が浮かび上がってくる。
行長の信仰は、観念的なものに留まらなかった。それは、具体的な社会活動となって現れている。彼は、同じく篤信家であった父・小西隆佐の志を受け継ぎ、私財を投じて大坂にハンセン病患者のための病院を設立している 14 。これは、社会的弱者に対する彼の深い眼差しと、信仰に基づく実践的な愛の証左である。
彼の生涯で最も複雑な影を落とすのが、文禄・慶長の役における役割である。彼は豊臣軍の先鋒部隊を率いた「侵略の将」であった 1 。しかしその一方で、誰よりも戦争の早期終結を望み、石田三成らと共に明・朝鮮との和平交渉に心血を注いだ 17 。時には主君である豊臣秀吉の意向を欺いてでも講和を成立させようとした彼の行動は、加藤清正をはじめとする武断派の武将たちとの深刻な対立を生む原因ともなった 7 。
この矛盾に満ちた朝鮮出兵において、彼の「慈悲深さ」を最も象徴する逸話が、朝鮮人少女ジュリア・おたあとの出会いである。行長は、文禄の役の際に捕虜となった貴族階級の娘とされる彼女を保護し、我が子同然に養育した 19 。おたあは小西家でキリスト教の洗礼を受け、ジュリアという洗礼名を与えられた 22 。行長の死後、彼女はその才気と美貌から徳川家康に召し出されるが、最後まで信仰を捨てることを拒み、伊豆諸島へ流罪となるなど、数奇な運命を辿ることになる 23 。
行長の「侵略者」としての立場と、おたあに見られる「慈悲」の心は、一見すると大きな矛盾をはらんでいる。しかし、この矛盾と葛藤こそが、彼の最後の祈りに深い意味を与えている。彼は、神の教えに背く戦争という大罪に、自身が深く関与していることを自覚していたのではないか。和平工作への異常なまでの執心は、その罪悪感の表れであったとも考えられる。そして、おたあの保護や病院の設立といった行為は、その罪を少しでも償おうとする、個人的な贖罪行為であったのかもしれない。
そうであるならば、六条河原で彼が捧げた祈りは、極めて多層的な意味を帯びてくる。それは第一に、自らの魂の救済を願う祈りであっただろう。第二に、キリストが十字架上で述べたように、自分を処刑する人々への赦しを願う祈りであったに違いない。そして第三に、彼の人生に最も重くのしかかったであろう、戦争によって苦しめた朝鮮の民を含めた、全ての敵対者への赦しと和解を願う、普遍的な祈りであったのではないだろうか。この解釈に立つとき、「聖書抱き赦し祈る殉教譚」は、単なる一個人の信仰告白を超え、戦乱の時代に生きた一人のキリシタン大名の、平和への切実な祈りの物語として、我々の胸に迫ってくる。
終章:死後、世界へ ― 殉教者アウグスティヌスの誕生
小西行長、洗礼名アウグスティヌスの物語は、慶長五年十月一日の六条河原で終わりはしなかった。彼の死は、日本の地における一つの歴史的事件であると同時に、海を越えて世界へと広がり、壮大な「殉教譚」として完成する旅の始まりであった。
三条大橋に晒された行長の遺体は、夜陰に乗じて信徒たちの手によって密かに引き取られたと伝えられる。イエズス会の史料によれば、その遺骸はカトリックの作法に則って改めて秘蹟を授けられ、手厚く葬られたという 1 。埋葬場所は定かではないが、彼の死が信徒たちによって最大限の尊厳をもって扱われたことは、彼がいかに慕われていたかを物語っている 2 。
彼の死は、日本のキリシタン社会、とりわけイエズス会に計り知れない衝撃を与えた。『イエズス会1599~1601年 日本諸国記』は、彼の死を「日本の全教会のもっとも強力な支柱」を失った最大の悲劇として記録している 15 。彼は生前、宣教師たちの最も強力な庇護者であり、日本のキリシタンたちの精神的な支えであったのだ 4 。
この悲報は、イエズス会の国際的なネットワークを通じて直ちに欧州へと送られ、遠くローマのヴァチカンにまで達した 8 。時の教皇クレメンス8世は、日本の地で信仰に殉じた貴族、ドン・アウグスティヌス行長の死を伝え聞き、深く哀悼の意を示したと言われている 1 。
その影響は、宗教界に留まらなかった。行長の劇的な最期は、宗教対立が激化していた当時の欧州の人々の心を強く捉えた。信仰のために武士としての名誉ある死を捨て、屈辱の斬首刑を受け入れた大名の物語は、理想的なカトリックの英雄像として受け入れられたのである。その証拠に、行長の死からわずか7年後の1607年、イタリアの港湾都市ジェノバで、彼を主人公とする音楽劇が上演されたという記録が残っている 1 。これは、彼の物語が単なる宗教的報告から、一般大衆が享受する芸術作品へと昇華されたことを意味する。これにより、彼の殉教譚は欧州の文化的な記憶の一部として定着していった。
我々が今日知る小西行長の「聖書抱き赦し祈る殉教譚」は、六条河原で起きた歴史的出来事であると同時に、その後、イエズス会という当時の国際的メディアを通して世界に発信され、欧州の文化の中で育て上げられた、国境を越える壮大な物語でもあるのだ。彼の肉体は日本の土に還ったが、その魂の物語は、信仰と赦しの象徴として、今なお世界で静かに語り継がれている。
引用文献
- 小西行長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
- 北天満山・小西行長 陣跡 | スポット情報 | 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/konishiyukinagajinato.html
- 小西行長の最期 - 宇土市 https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/4/30.html
- キリシタン大名・小西行長/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97046/
- 【連載:おはかもん】十字架に殉じたキリシタン大名 – 小西行長 - お墓ガイド https://guide.e-ohaka.com/column/ohakamon/konishiyukinaga/
- 第48話 三成、行長の捕縛、秀家逃亡 - 義に逆らうことなかれ 石田 ... https://kakuyomu.jp/works/1177354054883849145/episodes/1177354054884414945
- 『したたかなキリシタン大名』 小西行長の生涯に迫る!! | サムライ書房 https://samuraishobo.com/samurai_10015/
- 小西行長陣所 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/023gifu/030konishi/konishi.html
- 小西行長(西軍) 加藤清正との確執がこの戦いに私を導いた…… - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22846
- 石田三成生捕覚書(古橋村高橋家文書) | デジタルミュージアム - 長浜城歴史博物館 https://nagahama-rekihaku.jp/digital-museum/49
- 歴史の目的をめぐって 安国寺恵瓊 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-01-ankokuji-ekei.html
- 石田三成斬首~大志を抱く者は最期の瞬間まで諦めない - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4391
- 親子兄弟が東西に分かれた大名家、そして三成の最期:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(下) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06917/
- 第43話 〜小西行長 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/043.html
- 【イエズス会1599~1601年 日本諸国記】(3)石田三成・小西行長 ... https://sengokumap.net/historical-material/documents24/
- 『日本と中国におけるイエズス会巡察師ヴァリニャーノによる1599年10月10日付、同会総長アクアヴィーヴァ宛書簡』『イエズス会士カルヴァリョによる同会総長アクアヴィーヴァ宛1600年日本年報補遺:同年10月から1601年2月までの間に日本教会で生じ https://www.aobane.com/books/1645
- 西軍 小西行長/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41113/
- 小西行長は何をした人?「嘘も方便とはいかず文禄・慶長の役を招いてしまった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yukinaga-konishi
- 捕虜から徳川家康の侍女に、キリスト棄教を拒み流罪となった女性「ジュリアおたあ」の数奇な人生 https://mag.japaaan.com/archives/178158
- おたあジュリア 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46510/
- 徳川家康の誘いを断固拒否。異国の美女「おたあジュリア」を待ち受けた残酷な悲劇とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/114184/
- ジュリアおたあ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%8A%E3%81%9F%E3%81%82
- おたあジュリアの事例にみる カトリック教会の婚姻問題 - 青山学院大学 https://opac.agulin.aoyama.ac.jp/iwjs0011opc/bdyview.do?bodyid=TF02020070&elmid=Body&fname=tf02020070-1-13.pdf&loginflg=on&once=true
- 「ヨーロッパ史料に見る小西行長・ジュリアおたあ特集号」(『うと学研究』第35号)刊行! - 宇土市 https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/1/183.html