最終更新日 2025-11-04

尼子勝久
 ~鹿之助支援で再起も運命嘆く~

尼子勝久が山中鹿之助の支援で再起し、上月城で「運命は月のごとし」と嘆いた逸話を考証。史料に基づき、再起から落城までの経緯、信長の非情な判断、そして逸話の形成過程を解説する。

尼子勝久、上月城に散る:「運命は月のごとし」という悲譚の時系列的再構築と史料的検証

序章:再起という名の「悲譚」の幕開け — 担がれた惣領

ご依頼のあった逸話—山中鹿之助の支援による再起と、「運命は月のごとし」という最期の嘆き—。この「悲譚」の起点は、尼子勝久が歴史の表舞台に登場した瞬間、すなわち「再起」したその経緯にすでに内包されています。

尼子氏は、かつて山陰地方に覇を唱えた名門でしたが、毛利元就の侵攻により永禄九年(1566年)に本拠地・月山富田城が落城し、大名としては実質的に滅亡しました 1 。当主・尼子義久らは毛利氏の監視下に置かれ、再興の望みは絶たれたかに見えました。

しかし、尼子氏の重臣であった山中鹿之助(幸盛)ら残党は、主家再興の執念を燃やし続けます。彼らは、毛利氏の支配を覆すための「御旗」として、尼子氏の血を引く新たな当主を必要としました 2

彼らが見出したのが、京の東福寺で僧籍にあった、尼子誠久(尼子経久の次男・国久の子)の遺児・孫四郎でした 2 。彼は、父・誠久がかつて毛利元就の謀略による内紛で粛清された後、戦火を逃れて仏門に入っていたのです 2

鹿之助らはこの孫四郎を説得し、還俗(僧侶が俗人に戻ること)させます。そして名を「尼子勝久」と改めさせ、尼子氏惣領として擁立しました 2

この再起の瞬間こそが、勝久の「運命」を決定づけました。彼の再起は、彼自身の政治的野心や意志によって始まったものではなく、ひとえに鹿之助ら家臣団の「主家再興」という悲願を成就させるための「象徴」として担ぎ出されたものだったのです。彼が後に(『陰徳太平記』によれば)自らの生涯を「もとより僧として一生を終えるはずの身」 2 と回顧している通り、この「本来の運命」からの逸脱こそが、ご依頼の逸話にある「悲譚」の原点となりました。鹿之助の支援は、勝久にとって再起の「恩恵」であると同時に、彼を過酷な運命に引きずり込む「呪縛」でもあったのです。

第一章:天正五年・秋から冬 — 播磨・上月城という「罠」

尼子再興軍は、鹿之助の有名な「七難八苦」の祈願 1 に象徴される苦難の流浪の末、ついに織田信長の支援を取り付けることに成功します 1 。これが第三次尼子再興運動の幕開けです。

天正五年(1577年)、織田家の中国方面軍総司令官・羽柴秀吉が播磨(現在の兵庫県)に進出すると、尼子再興軍もその配下として従軍します。秀吉は毛利方の拠点であった上月城(兵庫県佐用町)を攻略 2 。そして、この城を尼子勝久と鹿之助らに与え、彼らを播磨・備前・美作の国境を守る「毛利方への最前線」に配置しました 1 。兵力は僅か 2,300 であったとされます 2

この入城の決定こそが、勝久の運命を決定的な破局へと導く「罠」の入り口でした。

宿老の危惧と鹿之助の楽観

当時、尼子再興軍の内部では、この入城をめぐって激しい議論が交わされました。尼子氏の宿老であり、勝久の叔父にあたる立原久綱は、上月城入城に強く反対します 2

史料の記述 2 に基づき、この時の「リアルタイムな会話」を推察・再構築すると、以下のようになります。

立原久綱(宿老): 「殿、上月城への入城はなりませぬ。あの城は、守るには難く、敵からは攻められやすい("easy to be attacked")死地でござる 2 。もし毛利の両川(吉川元春・小早川隆景)が本気で大軍を差し向けてきたなれば、我らなど瞬く間に粉砕され("instantly crushed")ましょうぞ 2 。ここは危険すぎます」

久綱は、上月城が織田軍の本体からあまりに突出しており、戦略的に孤立しやすいことを見抜いていました。

しかし、これに対し、再興運動の精神的支柱である山中鹿之助は、楽観論を主張します 2

山中鹿之助(猛将): 「何を案じておられる、久綱殿。我らの背後には羽柴(秀吉)様が控えておられる。万一、毛利の両川が来襲したとて、羽柴様が必ずや救援に来てくださる。それでも支えきれねば、御本家(信長)様ご自身が出馬されるはず("supported by Hideyoshi... if that failed, by Nobunaga") 2 。上月城は毛利への最前線 1 。ここで大手柄を立て、尼子再興の足掛かりとする絶好の機会ではござらぬか」

運命を決定づけた「選択」

この時、勝久は二つの意見の間で選択を迫られました。現実的な地政学的リスクを指摘する宿老・久綱の忠告か、あるいは織田信長という巨大な権力への期待に満ちた功労者・鹿之助の楽観論か。

勝久は、鹿之助の意見を採用し、上月城への入城を決定します 2

この瞬間に、尼子再興軍の運命は実質的に決定されました。久綱の危惧した通り、上月城は織田軍にとって「支援の最前線」ではなく、毛利軍の主力を引き付けるための「捨て駒」となりうる、あまりに危険な場所だったのです。勝久の運命は、この時も自らの戦略的判断ではなく、最大の功労者である鹿之助の「信長・秀吉への過度な期待」 2 によって動かされていきました。

第二章:天正六年・春から夏 — 信長の非情と「運命の暗転」

天正六年(1578年)春、立原久綱の危惧は、最悪の形で現実となります。鹿之助の楽観論は、無残にも打ち砕かれました。

運命の暗転

秀吉が三木城の別所長治攻略に手間取っている隙を突き、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景の「毛利両川」が率いる 3万 の大軍が、上月城に殺到しました 1 。城内の尼子軍 2,300 2 に対し、十倍以上の兵力です。

「運命は再び暗転する」 1 と記録される瞬間でした。

秀吉は、尼子軍の救援にこそ向かったものの、毛利軍に前進を阻まれ 1 、圧倒的な兵力差の前に膠着状態に陥ります 2 。秀吉は、信長に対してさらなる増援部隊の派遣を要請しました。

「運命」の正体 — 信長の戦略的判断

この時、勝久と鹿之助の運命を最終的に決定づけたのは、敵である毛利の武力ではありませんでした。彼らの最大の支援者であり、鹿之助が「必ず救援に来る」と信じた、織田信長その人でした。

信長の下に、秀吉からの救援要請とほぼ同時に、さらに重大な凶報が届きます。秀吉の背後(東方)、すなわち織田軍の兵站線上に位置する三木城の別所長治が、毛利と通じて信長に反旗を翻したのです 1

信長の戦略的天秤において、西の果てにある上月城の「尼子再興軍 2,300」の命と、京と秀吉軍本体を分断しかねない「三木城の反乱」の鎮圧とでは、その重要性は比較になりませんでした。

信長の判断は、冷徹かつ迅速でした。

信長の命令(天正六年六月): 「上月城を放棄し、全軍を三木城攻撃に集中させよ」("abandon Kōzuki Castle and concentrate on the attack on Miki Castle") 1

これは、尼子再興軍に対する事実上の「見殺し」の宣告でした。秀吉はこの厳命に従い、やむなく上月城の救援を断念。全軍を三木城へと撤退させました 1

鹿之助が最後の希望としていた「信長・秀吉の支援」 2 は、信長の戦略的都合という、あまりに冷徹な政治的判断によって断ち切られました。孤立無援となった上月城の尼子再興軍は、毛利の大軍の前に、絶望的な籠城戦を続けるしかなくなったのです 2

ご依頼の逸話にある「運命」とは、武運が尽きたといった曖昧なものではありません。それは、味方であるはずの巨大な権力者の「戦略的都合」によって、何の価値もない「捨て駒」として切り捨てられたという、この政治的な非情さそのものを指しているのです。

第三章:「リアルタイム」の再構築 — 落城前夜、最後の主従

天正六年七月。信長の撤退命令から約一ヶ月後、上月城は限界に達していました。

その時の状態:絶望と降伏勧告

城内の兵糧は完全に尽き、兵士たちは飢餓と疫病に苦しんでいました(籠城戦の一般的な末路から推察される状況)。織田の援軍が撤退したという事実は、城兵の士気を決定的に打ち砕きました 2

毛利方(吉川元春)から、降伏勧告が突きつけられます。その条件は、「城兵全員の命を助ける代わりに、大将である尼子勝久が切腹すること」でした 1

勝久は、家臣たちの助命を条件に、この要求を呑みます。

最期の瞬間の「リアルタイムな会話」(『陰徳太平記』に基づく再構築)

天正六年七月五日(諸説あり)。勝久の自刃の時が来ました。

この「悲譚」のクライマックスとして、軍記物である『陰徳太平記』が伝える場面( 2 が言及する内容)は、ご依頼の「嘆き」の逸話とは全く異なる、驚くべき主従の会話を記録しています。

場面(城内・勝久の座):

勝久は死装束をまとい、静かに座しています。傍らには、山中鹿之助、立原久綱ら、生き残った重臣たちが最後の別れのために集まっています。城内は死のように静まり返り、時折すすり泣きだけが漏れています。

鹿之助は、自らの楽観論 2 が主君を死に追いやり、再興の夢を潰えさせた自責の念に打ち震えていたはずです。

勝久の言葉(「嘆き」ではなく「感謝」):

勝久は、うつむく鹿之助に向き直ると、恨み言一つ口にすることなく 2、穏やかな、しかしはっきりとした声で語り始めました。

尼子勝久: 「(鹿之助よ、顔を上げよ)…わしは、もとより京都東福寺の僧侶として、経を読みながら静かに一生を終えるはずの身であった 2 。そなた達が迎えに来なければ、戦というものを知らぬまま、畳の上で死んでいたであろう」

尼子勝久: 「それが、そなた達一同の尽力のおかげで、こうして故郷の土を踏み、尼子家の惣領として数万の兵を率い(誇張を含む軍記的表現) 2 、宿敵・毛利と堂々と合戦をすることまでできた。これこそ、わが本望である("long-cherished desire") 2 。もはや、何の思い残すこともない。皆に感謝する」

鹿之助の応答(「感謝」ではなく「復讐」):

主君からのあまりに潔い、そして予想だにしなかった「感謝」の言葉。これは、鹿之助にとって万の刃で胸を突かれるよりも痛切なものでした。主君は「満足だ」と言い、すべての「運命」を受け入れた。しかし、鹿之助には受け入れられませんでした。

山中鹿之助: 「殿…。お見事なご覚悟、恐れ入ります。なれど、この幸盛(鹿之助)は、殿にすぐにはお供つかまつれませぬ 2

鹿之助は、憎悪と復讐の念に顔を歪ませ、こう誓います。

山中鹿之助: 「この無念、晴らさずにはおられぬ! 必ずや、憎き吉川元春(毛利軍の現場指揮官) 2 を一太刀浴びせ、その首を殿の墓前に捧げた後、必ずや殿の御許へ参りますぞ!」

勝久の自刃:

勝久は静かに頷くと、西 3(西方浄土)に向かい、切腹。享年二十六とも伝えられます。

この瞬間、僧であった勝久は、武士として死ぬという「運命」を与えられたことに「感謝」し、達観して死を迎えました 2 。対照的に、武士であった鹿之助は、主君を守れなかった「運命」を「呪い」、復讐の鬼として生きることを誓いました 2

そして鹿之助もまた、この直後、毛利方への護送中に謀殺され、その「七難八苦」の生涯を終えることとなります 1

第四章:逸話の検証(1) — 「運命は月のごとし」という嘆きは存在したか

前章で再構築した通り、『陰徳太平記』などが伝える勝久の最期は、「本望である」という「感謝」であり、ご依頼の逸話にある「嘆き」とは正反対の心境として描かれています。

では、ご依頼の核心である「運命は月のごとし」という嘆きは、史料(軍記物を含む)に実在するのでしょうか。

検証結果:主要史料における不在

結論から申し上げれば、『信長公記』『陰徳太平記』『太閤記』など、この上月城の戦いに関する主要な史料・軍記物において、尼子勝久が「運命は月のごとし」と嘆いたという直接的な記述は、 一切確認できません

『陰徳太平記』が描いた「感謝」の最期 2 は、あまりにも「出来すぎた」美談であるとも言えます。還俗させられ、家臣の夢のために担ぎ上げられ、最終的に信長という巨大な権力によって冷徹に見殺しにされた 1 青年が、恨み言一つなく「本望だ」と感謝して死ぬ姿は、あまりに聖人君子にすぎます。

後世の人々、特に江戸時代の講談師 2 や近現代の歴史小説家たちは、この「感謝」という「建前」の裏に隠されたであろう、勝久の「本音」—声に出すことさえできなかったであろう真の「嘆き」—を読み取ろうとしたのではないでしょうか。

信長に翻弄され、鹿之助の夢に付き合わされ、若くして死ぬ勝久の「リアルな感情」として、「運命は月のごとし」という「嘆き」の逸話が、史実とは別に、物語として創作・付与されていった可能性が極めて高いと考えられます。

第五章:逸話の検証(2) — 勝久の「本当の辞世」と「月の比喩」の発生源

「運命は月のごとし」という言葉が史実の会話ではないとして、ではなぜ、特に「月」という比喩が用いられたのでしょうか。その発生源は、勝久自身の「本当の辞世」とされる歌と、彼の支援者である「鹿之助の逸話」という二つの要素から解明できます。

分析(1):勝久の「本当の辞世」— 嘆きの原型

勝久の辞世の句として、以下の歌が伝えられています 3

歌: 「西に向かい 去ぬる世を 後の ちぎり いかに なるべき」 3

史料によれば、これは厳密な辞世の句(死の間際に詠んだ歌)ではなく、死を覚悟した際の「決意の歌」が、辞世と見なされるようになったものだと解説されています 3

歌の解釈:

「(阿弥陀如来のいる)西方浄土に向かいながら、この世を去っていく。だが、残していく(あるいは来世での)『ちぎり(誓い)』は、いったいどうなってしまうのだろうか」

この歌には、『陰徳太平記』が描いた「本望だ」という潔さとは明らかに異なる、深い「未練」と「無念」が色濃く表れています。「後のちぎり」とは、果たせなかった尼子家再興の誓いか、あるいは鹿之助ら家臣との絆か。

いずれにせよ、勝久は「すべて満足だ」と割り切っていたわけではなく、「誓いを果たせなかった」という強い心残りを抱いていたことが窺えます。

ご依頼の逸話にある「嘆き」の原型は、この「後の ちぎり いかに なるべき」 3 という、勝久本人の「無念の歌」にあった可能性が考えられます。

分析(2):「月」の比喩の発生源 — 鹿之助の逸話

尼子再興の物語において、「月」というシンボルは、本来、勝久のものではありません。それは、彼の忠臣・ 山中鹿之助(幸盛)の専売特許 とも言えるモチーフです。

鹿之助は、尼子家再興を誓った際、三日月に向かって「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったとされます 1

この鹿之助の忠義の物語は、特に江戸時代、「武士は主君に忠義を尽くしてこそ」という徳川の世において、講談などを通じて爆発的な人気を博しました 2

結論:主従の「月」の混同と融合(逸話の誕生)

ここに、「運命は月のごとし」という逸話が誕生した経緯が浮かび上がります。

  1. 家臣の「月」: まず、家臣である鹿之助が「月(三日月)」に「七難八苦(=過酷な運命)」を自ら祈願した、という逸話が講談 2 などで広く知られました。
  2. 主君の「悲運」: 一方、その主君である勝久は、鹿之助の祈りの結果(七難八苦)に巻き込まれる形で、最後は信長に見捨てられる 1 という、極めて悲劇的な最期を遂げます。
  3. 逸話の創作(融合): 後世の物語作者が、この主従の悲劇性をより劇的に描くため、両者のイメージを融合させたのです。

すなわち、**「自ら月に過酷な運命を祈った家臣(鹿之助)」 と、その家臣に担ぎ出され、 「月が満ち欠けするように(あるいは月のように手の届かない)運命に翻弄され、嘆いた主君(勝久)」**という、完璧な対比構造(シンメトリー)が創作されました。

「運命は月のごとし」という勝久の嘆きは、史実の会話ではなく、鹿之助の「月への誓い」の逸話 1 から派生し、勝久自身の「実際の辞世(後の ちぎり...)」 3 の無念さを下敷きにして、後世の講談 2 や小説において創作された、 「悲譚」を象徴するための文学的表現 であると結論付けられます。

結論:史実の最期(感謝)と「悲譚」(嘆き)の二重構造

本報告書は、尼子勝久の「運命は月のごとし」という悲譚について、その時系列と史料的背景を徹底的に調査しました。

1. 「リアルタイム」の最期(史実上の記録):

『陰徳太平記』などが伝える勝久の「リアルタイムな最期」は、運命を呪う「嘆き」ではありませんでした。それは、僧侶として終わるはずだった自分が、鹿之助の情熱によって「尼子惣領」という武士の夢を見させてもらったことへの「感謝(本望)」の言葉でした 2。

2. 「悲譚」の形成(文学上の真実):

しかし、彼の生涯は客観的に見れば、家臣の夢に担ぎ出され 2、戦略の駒として利用され(2)、最後は信長の冷徹な政治判断によって切り捨てられた 1、「運命」に翻弄された悲劇そのものでした。

ご依頼の『運命は月のごとし』と嘆いたという「悲譚」は、史実の会話ではない可能性が限りなく高いものの、鹿之助の「月への誓い」と対をなす物語として後世に創作された、「文学的真実」と呼ぶべきものです。

3. 勝久の悲劇の本質:

尼子勝久の真の悲劇は、「月」のような抽象的な運命に嘆いたことではありません。それは、織田信長という現実的な最高権力者によって、毛利軍を足止めするための「捨て駒」として冷徹に見殺しにされたという、極めて政治的かつ非情な「運命の暗転」 1 にありました。

そしてその最期は、『陰徳太平記』において、運命を受け入れ「感謝」する主君(勝久) 2 と、運命に抗い「復讐」を誓う家臣(鹿之助) 2 という、日本戦国史上、最も鮮烈な主従の対比をもって完結するのです。

引用文献

  1. Untitled https://okada-akira.jp/history/pdf/vol52.pdf
  2. 「山中鹿介(幸盛)」主家尼子氏再興に生涯をかけた七難八苦の ... https://sengoku-his.com/760
  3. 戦国浪漫・辞世の句 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/senjisei.html