最終更新日 2025-10-31

島左近
 ~敵陣斬り込み血煙笑う勇死譚~

関ヶ原の戦いにおける島左近の壮絶な最期を戦術的・心理的に分析。敵陣に斬り込み血煙の中で笑ったという勇死譚の真相と、その後の伝説を考察。

鬼左近、血煙に嗤う――関ヶ原における島左近、最後の突撃に関する戦術的・心理的分析

序章:払暁の笹尾山――決戦の幕開け

慶長5年(1600年)9月15日、払暁。天下分け目の地、関ヶ原盆地は、深く濃い秋霧に包まれていた。視界は僅か数十メートル。この濃霧は、東西両軍の将兵から互いの姿を隠し、索敵を困難にさせると同時に、得体の知れない静寂と張り詰めた緊張感を戦場にもたらしていた。後に繰り広げられる激戦の偶発性と混乱を、この時の霧はすでに予兆していたのかもしれない。

西軍の事実上の総大将、石田三成は、関ヶ原を一望し、かつ北国街道を押さえる要衝である笹尾山に本陣を構えた 1 。そしてその麓、東軍主力が殺到するであろう最前線に、腹心の将・島左近清興(勝猛)と蒲生頼郷(郷舎)の部隊を配置した 1 。この布陣は、三成が最も信頼を置く左近を、自らの本陣を守るための「盾」であり、また敵を粉砕するための「矛」として用いるという、明確な戦術的意図の表れであった。

島左近の胸中には、様々な思いが去来していたことであろう。前日の9月14日、彼は僅か500の兵を率いて杭瀬川を渡り、東軍の中村一栄・有馬豊氏隊を挑発。巧みな「釣り野伏せ」にも似た戦術でこれを撃破し、西軍の士気を大いに高めていた 4 。この勝利は、百戦錬磨の将としての左近の面目躍如たるものであり、決戦を前にした確かな手応えを彼にもたらしたはずである。

しかしその一方で、一抹の不安も存在した。左近は、島津義弘らと共に、決戦前夜の夜襲を三成に進言したが、「天下分け目の戦に夜襲は似つかわしくない」として却下されていた 2 。『常山紀談』などの逸話集には、左近が主君・三成の良く言えば慎重、悪く言えば決断の遅さを嘆く場面が描かれている 9 。歴戦の将としての経験則から夜襲の有効性を確信していた左近にとって、この却下は西軍が持つ数少ない勝機を逸したとの思いを抱かせた可能性は否定できない。主君への絶対的な忠誠と、戦況を冷静に分析する将としての厳しい現実認識。その狭間で、左近はこの日の決戦に臨もうとしていた。

この笹尾山麓の陣地は、単なる防衛線ではなかった。それは、杭瀬川で見せた戦術思想の延長線上にある、意図的に突出させた「誘引」と「撃滅」を兼ね備えた拠点、いわば「キルゾーン」であった。柵を多用した陣地構築 5 は、敵の突撃の威力を削ぎ、閉じ込めた敵を鉄砲で殲滅するための周到な備えであった。左近の部隊は、東軍の黒田長政や細川忠興といった主力を引きつけ、その戦力を削ぎ落とすという、三成が描いたであろう決戦の絵図における「要」の駒であった。彼の双肩には、石田一軍のみならず、西軍全体の命運が託されていたのである。

第一部:鬼左近の咆哮――開戦、そして猛攻

午前8時過ぎ、濃霧がわずかに晴れ始めたその時、静寂は破られた。徳川家康の四男・松平忠吉と、その後見役である井伊直政の隊が、抜け駆け的に宇喜多秀家隊の陣営に鉄砲を撃ちかけたのを合図に、関ヶ原の戦端は開かれた 5

これを狼煙として、東西両軍は一斉に激突する。笹尾山麓では、東軍の黒田長政(5,400)、細川忠興、加藤嘉明、田中吉政といった名だたる将たちが率いる大軍勢が、まるで津波のように島左近・蒲生頼郷の陣へと殺到した 3 。対する左近の兵力はおよそ1,000。数において圧倒的に不利な状況であった。

しかし、左近は微塵も怯まなかった。敵軍が目前に迫る中、彼は馬上で仁王立ちとなり、采配を振るった。その時の様子を、敵方である黒田家の公式記録『黒田家譜』は、畏敬の念を込めてこう記している。「大音をあげて下知しける声、雷霆のごとく陣中に響き」 6 。左近の号令は、まるで雷鳴のように戦場に轟き、恐怖に竦む自軍の兵の心を奮い立たせ、敵兵の鼓膜を突き破り、戦場そのものを支配した。後世、司馬遼太郎はその小説『関ヶ原』の中で、この声を「低く鋭く透る塩辛声」と表現したが 14 、それは敵味方の区別なく、聞いた者の魂を根底から揺さぶるような凄みを帯びていたに違いない。

「かかれえーっ!」

その号令一下、島隊は逆襲に転じた。柵の内側から放たれる正確無比な鉄砲射撃で敵の勢いを削いだかと思うと、頃合いを見て柵門を開き、怒涛の如く突撃を敢行した。その戦いぶりは、尋常ではなかった。司馬遼太郎の描写によれば、「士卒の顔はことごとく発狂寸前の相を帯び、死を恐れる者が一人もいない」 14 とされるほどの凄まじさであった。彼らは、生きて帰ることを度外視したかのように、ただひたすらに敵を屠ることのみに集中していた。

この鬼神の如き奮戦を前に、東軍の精鋭たちは為す術もなく押し返される 3 。そして、彼らの心に植え付けられたのは、純粋な「恐怖」であった。後に、この時の左近の猛攻を生き延びた黒田家の将兵たちが語り合ったという逸話が残っている。「鬼神もあざむく」と評された左近の猛攻に晒された彼らは、極度の恐怖のあまり、「左近がどのような出で立ちで、どのような鎧兜を身に着けていたか、誰一人として思い出せなかった」という 15

これは単なる誇張ではない。極度のストレスと生命の危機に瀕した人間が、視野狭窄(トンネル・ビジョン)や記憶の断片化、あるいは欠落といった現象に見舞われることは、現代の心理学でも知られている。この逸話は、左近の突撃が黒田の兵士たちに与えた衝撃が、単なる戦術的な敗北に留まらず、心的外傷(トラウマ)にまで達するほどの強烈なものであったことを示唆している。

「鬼左近」の異名は、伊達ではなかった。左近は、自らが恐怖の象徴であることを自覚し、それを意図的に利用したのである。これは物理的な戦闘力を超えた、高度な心理戦であった。死を覚悟した狂気の集団を前にした時、通常の合戦の常識は通用しない。この「常識の通用しなさ」こそが、数に勝る敵兵の精神を内側から破壊し、兵力差という物理的劣勢を覆すための、左近の切り札だったのである。

第二部:運命の銃弾――黒田鉄砲隊の奇襲

午前9時頃、戦況は膠着していた 10 。島左近隊の獅子奮迅の働きにより、石田三成軍の正面は鉄壁の守りを見せ、黒田長政をはじめとする東軍諸隊は、多大な損害を出しながらも、ついにその陣を破ることができずにいた。

このまま力押しを続けては、被害が拡大するばかりで戦果は上がらない。状況を打開すべく、黒田長政は策を転じた 10 。彼は、正面からの突撃という常道を捨て、自軍が持つ当時最新鋭の兵器、鉄砲隊を最大限に活用する奇策に出る。長政は、家臣の中でも特に鉄砲の扱いに長けた菅六之助正利(かん ろくのすけ まさとし)に精鋭の鉄砲隊を預け、密かに戦線を迂回し、側面から左近の陣を狙撃するよう厳命した 3

『黒田家譜』によれば、菅六之助と白石正兵衛らが率いる部隊は、乱戦の隙を突いて「右の方の少し高いところへ走り上がり」、かねてより選び抜かれた鉄砲の名手五十人に、一斉射撃の号令を下した 6

五十挺の火縄銃が一斉に火を噴いた。轟音と共に放たれた鉛の弾丸は、予測不能な角度から、正面の敵に集中していた島隊の兵士たちに襲いかかった。高所からの十字砲火を浴び、歴戦の勇士たちも次々と血煙を上げて倒れていく。そして、その無慈悲な弾丸の一発が、ついに部隊の魂であった島左近その人を捉えた 8

銃弾は左近の身体を貫き、彼は深手を負った。一説には、その衝撃で愛馬から転げ落ちたとされる 6 。西軍にとって、最も頼りにしていた闘将の被弾は、戦術的にも精神的にも、あまりにも大きな打撃であった 3

「左近殿!」

側近たちの悲鳴が上がる中、負傷した左近は兵士たちに両脇を抱えられ、後方の柵の内側へと辛うじて運び込まれた 10 。この痛ましい場面は、後に描かれた『関ヶ原合戦図屏風』にも生々しく記録されており、この出来事が合戦の重要な転換点であったことを物語っている 15

意識が朦朧とする中、左近は武士としての最後の覚悟を決める。『黒田家譜』は、この時の彼の言葉を伝えている。左近は、傍らの家来に対し、こう告げたという。「我が首を刎ね、敵に渡さぬよう隠せ」と 18 。自らの首級を敵に渡すことを最大の恥辱とする武士の矜持が、この一言に凝縮されていた。

この左近の負傷は、決して不運な偶然ではなかった。むしろ、それは彼の戦術的成功が必然的に引き起こした帰結であったと言える。左近は、正面戦闘において黒田隊を完全に圧倒し、戦線を膠着させることに成功した。その圧倒的な強さゆえに、黒田長政は通常の戦法では突破不可能と判断せざるを得なくなり、側面からの狙撃という、当時としては異例の戦術的転換を強いられたのである。正面の敵を駆逐することに全神経を集中させていた左近にとって、この側面からの奇襲はまさに死角であった。彼の鬼神の如き強さこそが、敵に奇策を強要し、その奇策によって打ち破られるという、皮肉な因果関係がそこには成立していた。左近の奮戦こそが、彼自身の破滅の引き金となったのである。

第三部:血煙の中の哄笑――勇死譚の核心

柵の内側で、左近は応急手当を受けた。しかし、もはや戦の趨勢は決しようとしていた。正午過ぎ、松尾山に布陣していた小早川秀秋が一斉に東軍へ寝返り、西軍の大谷吉継隊に襲いかかった 4 。これを皮切りに、西軍は総崩れの様相を呈し始める。敗色は、誰の目にも濃厚であった。

もはやこれまでか。誰もがそう思ったであろうその時、手負いの将が、再び立ち上がった。諸説あるが、島左近の武名を不滅のものとした最も英雄的な逸話は、この絶望的な状況下での彼の最後の行動である。彼は、深手の痛みも省みず、側近の制止を振り切り、再び馬上の人となった 6

この常軌を逸した行動の動機は何だったのか。一つには、崩壊する自軍の中で、主君・石田三成を戦場から無事に逃がすための時間を稼ぐ、捨て身の突撃であったという説がある 2 。あるいは、もはや勝利の望みが絶たれた以上、武士として潔く戦場で死ぬことこそ本懐と考えたのかもしれない。おそらく、その両方の思いが、彼の心を突き動かしていたのだろう。

そして、ここからが伝説の領域であり、本報告の核心となる場面である。手負いの左近は、残った僅かな手勢をまとめ上げ、再び正面の黒田長政・田中吉政らの軍勢に向かって、最後の突撃を敢行した 7

敵陣に斬り込み、血煙の中で笑った――。

この鮮烈な描写は、残念ながら『黒田家譜』のような一次史料に近い記録の中には見出すことができない。これは、江戸時代に隆盛した講談や、近代の司馬遼太郎に代表される歴史小説家たちによって創出され、人々の心に深く刻み込まれたイメージである可能性が極めて高い。

しかし、ではなぜこの「哄笑」というイメージが生まれたのか。それを分析することこそが、島左近という武将の本質に迫る鍵となる。死を目前にした手負いの武者が、絶望的な状況下で、なおも敵の大軍に突入していく。その常軌を逸した、あまりにも壮絶な行動を表現する言葉として、後世の人々は「哄笑」という表現を選んだ。それは、悲しみや怒り、恐怖といった感情をすべて超越した者の、究極の自己表現であった。自らの死を、そして西軍の敗北という運命すらも嘲笑うかのような、絶対的な精神の自由の現れ。敵に対する、人間としての、武士としての、最後の侮蔑。それが、この「笑い」に込められた意味であったと解釈できる。

史料の断片と後世の創作イメージを融合させ、その最後の突撃を再現するならば、こうなるであろう。血と泥に塗れた鎧を身にまとい、片身を庇いながらも、その眼光は衰えず、口元には確かに笑みが浮かんでいたのかもしれない。彼は最後の力を振り絞り、再び雷鳴の如き声で号令を発し、敵陣へと馬を駆る。その姿は、まさしく地獄から蘇った修羅そのものであった。敵兵は、先程植え付けられた恐怖が蘇り、再び現れた鬼の姿に立ち尽くす。そして、修羅場と化した乱戦の渦の中へ、島左近の姿は血煙と共に掻き消えていった。「修羅場と化した戦場の中、左近は姿を消しました」 6 。それが、鬼神・島左近が歴史の表舞台で見せた、最後の姿であった。

この「血煙の中の哄笑」という逸話は、歴史的事実(手負いの身での再突撃)を核として、後世の人々がそこに理想の武士像――忠義、不屈、そして滅びの美学――を投影することで生まれた、偉大な文化的創造物なのである。それは、単なる事実の記録を超え、人々の価値観や美意識と結びつくことで、より高次の物語へと昇華した、歴史の記憶の典型的な一例と言えよう。

第四部:修羅の果て――伝説への昇嘉

島左近の最後の突撃の後、彼の姿を確かに見たと証言する者は、誰もいなかった。関ヶ原の戦いが徳川方の圧倒的な勝利に終わった後、東軍は徹底的な残党狩りと首実検を行った。しかし、石田三成や小西行長といった西軍の主だった将の首級が次々と挙がる中、島左近の首も、そして遺体も、ついに発見されることはなかった 7

この「死体の不在」こそが、彼の最期を巡る様々な憶測と伝説を生み出す最大の要因となった。もし彼の遺体が確認されていれば、物語はそこで完結したであろう。しかし、そうはならなかった。彼の最期は、大きく分けて以下の諸説に分かれ、今なお歴史の謎として語り継がれている。

諸説の整理と検討

1. 戦死説

状況的に最も妥当性が高く、一般的な説である。

  • 銃創による死亡: 黒田隊の鉄砲隊による銃撃で受けた傷が致命傷となり、最後の突撃の最中か、その直後に絶命したとする説 5
  • 乱戦での討死: 最後の突撃の際に、敵兵との乱戦の中で討ち取られたとする説。具体的には、加藤嘉明の配下であった戸川達安が左近を討ち取ったという伝承が、戸川家に伝わっている 5 。しかし、これは一家の武功を顕彰するための伝承である可能性も否定できず、客観的な裏付けには乏しい。

2. 戦場離脱・生存説

「死体の不在」を最大の根拠とする説であり、人々の英雄への思慕が数々の物語を生み出した。

  • 京への潜伏: 関ヶ原を辛くも脱出し、京都に潜伏したという説。合戦後、京都で左近を目撃したという情報が相次ぎ、徳川家康もその探索を命じたとされるが、発見には至らなかった 7
  • 僧侶としての余生: 最も具体的で、物証を伴う生存説。京都の立本寺の塔頭である教法院に逃れ、そこで僧侶となり、関ヶ原の32年後である寛永9年(1632年)に没したというものである。寺には左近のものとされる位牌や過去帳、そして墓が現存する 7 。さらに、2024年6月には、この墓の発掘調査が行われ、成人のものとみられるほぼ全身の人骨が発見されたという報道もあり、今後の研究が待たれる 7
  • 各地の隠棲伝説: その他にも、主君・三成の旧領である近江国(滋賀県)の山中に隠れ住んだという伝説 16 や、熊本、浜松など、全国各地に左近の生存を伝える逸話が残されている 8

伝説の継承

左近の勇名は、敵であった東軍の将兵の心にも、恐怖と共に深く刻み込まれた。戦後、黒田家の家臣たちが夜話の席で関ヶ原の戦いを振り返るたびに、「いまだに、あの時の左近の『かかれえーっ!』という声が耳について離れない」と語り合い、慄然としたという逸話は 14 、彼の存在が敵に与えた永続的な心理的影響を物語っている。

そして、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」という有名な狂歌 3 が、彼の存在価値を何よりも雄弁に物語る言葉として、後世に語り継がれていった。

歴史上の人物の死は、通常「遺体の確認」によって確定し、物語はそこで終着点を迎える。しかし左近の場合、その終着点が存在しない。この「開かれた終わり」は、人々の想像力を大いに刺激した。「英雄に生きていてほしい」という願いが、京都での目撃談や僧侶になったという具体的な生存説を生み出す土壌となったのである。結果として、島左近は「関ヶ原で壮絶に死んだ英雄」という物語と、「関ヶ原を生き延びた賢者」という、二つの異なる物語の主人公となった。彼の肉体的な生死は不明だが、「死体の不在」によって、彼は物語の中で永遠に生き続ける運命を得た。その死の不確定性こそが、彼の伝説をより豊かで多層的なものへと発展させたのである。


表1:主要史料における島左近の最期に関する記述比較

史料名

成立年代

記述内容の要約

信憑性に関する考察

関連資料

『黒田家譜』

元禄元年 (1688年)

黒田隊の側面からの銃撃で左近が被弾し落馬。家来に「首を刎ねて隠せ」と命じた。

敵方である黒田家の記録であり、具体的な家臣名(菅六之助)があるため、被弾の経緯に関する信憑性は比較的高い。ただし、江戸中期の編纂物であり、脚色の可能性は否定できない。

[13, 18]

『関ヶ原軍記大全』

江戸中期

黒田隊の銃頭・菅六之助の鉄砲で深手を負い、これが石田隊の崩れる原因となった。

『黒田家譜』とほぼ同様の内容。軍記物としての物語性が強いが、被弾の事実関係については他の記録と一致する。

10

『常山紀談』

享保年間 (1716-36年)

左近に関する様々な逸話を収録。関ヶ原での具体的な最期の描写は少ないが、三成との関係性を示す。

逸話集としての性格が強く、史実性よりも教訓的な側面が強い。直接的な証拠とはなりにくいが、人物像を理解する上で参考になる。

[9, 24]

戸川家伝承

不明

最後の突撃の際、東軍の戸川達安(加藤嘉明配下)が左近を討ち取ったとされる。

一家の伝承であり、客観的な裏付けに乏しい。武功を顕彰するための創作の可能性も考慮すべき。

[5, 7]

教法院過去帳

不明

関ヶ原から32年後の寛永9年6月26日に没したと記録。

寺院の記録であり、生存説の有力な根拠の一つ。ただし、左近本人であると断定するには更なる検証が必要。近年の発掘調査が注目される。

7


結論:史実と伝説の狭間で

本報告では、島左近の「敵陣に斬り込み、血煙の中で笑ったとされる勇死譚」について、多角的な視点から徹底的な検証を試みた。その結果、この鮮烈な逸話が、確かな史実の核と、後世の人々によって付与された豊かな物語性から成り立っていることが明らかになった。

この逸話を構成する要素を分解すると、以下のようになる。

  • 史実性の高い要素: 笹尾山麓における鬼神の如き奮戦、黒田長政隊の鉄砲による側面射撃での被弾、手負いの身をおしての二度目の突撃、そしてその後の完全な消息不明。これらは、敵方の記録を含む複数の資料から裏付けられる、歴史の蓋然性が極めて高い出来事である。
  • 後世の創作・象徴的表現の可能性が高い要素: 「哄笑」という具体的な行為そのもの。これは、彼の常人を超えた精神性を表現するために、講談や小説といった物語の中で付与された、極めて効果的な象徴的描写であると結論付けられる。

では、なぜ島左近のこの逸話は、400年以上の時を超えて、現代に至るまで我々を魅了し続けるのか。それは、この物語が、時代を超えて人の心を打つ普遍的なテーマを内包しているからに他ならない。圧倒的に不利な状況を覆そうとする不屈の闘志、主君・石田三成への揺るぎない忠誠心、そして死の恐怖すらも超越した武士の滅びの美学。これらの要素が渾然一体となり、島左近という一人の武将を、理想の英雄像へと昇華させたのである。

史実としての島左近と、伝説としての島左近。両者はもはや分かちがたく結びついている。そして、その史実と伝説が交錯する狭間にこそ、彼の真の魅力と、歴史を物語として享受し、語り継いでいく我々自身の姿が映し出されているのかもしれない。鬼左近の哄笑は、今なお我々の心に、歴史のロマンとは何かを問いかけ続けている。

引用文献

  1. 黒田長政コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館 https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/kuroda-nagamasa/
  2. 島左近(嶋左近)の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/37254/
  3. 島左近陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/shimasakonjinato.html
  4. 島左近(島左近と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/54/
  5. 島左近は何をした人?「三成に過ぎたるものと謳われた鬼が関ヶ原を震撼させた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/sakon-shima
  6. 家康暗殺計画を提案した謎の軍師「島左近」とは?ただものじゃないエピソードを紹介 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/78738/
  7. 島清興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88
  8. 「島左近」老齢の剛将が関ヶ原で放った最期の輝き 戦と人の機微を捉えぬ三成に尽くした忠実なる将 - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/710902?display=b
  9. 島左近関連逸話集2・石田家時代 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon_ep02.html
  10. 闘将島左近被弾 ~午前九時の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/seki03.html
  11. 時系列でみる関ヶ原合戦 その1 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=bOE3JpoCVWM
  12. 島左近陣跡|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」 https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6734.html
  13. 石田三成の重臣 嶋(左近)清興 - 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた) https://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2018/12/08/120112
  14. 『関ヶ原』司馬遼太郎 石田三成に命を託した三人の武将 - 読書生活 https://www.yama-mikasa.com/entry/2017/08/24/%E3%80%8E%E9%96%A2%E3%82%B1%E5%8E%9F%E3%80%8F%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E_%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90%E3%81%AB%E5%91%BD%E3%82%92%E8%A8%97%E3%81%97%E3%81%9F%E4%B8%89
  15. 島左近は、関ケ原で討ち死にしたのか?~京都・立本寺にある左近の墓 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4543
  16. 生き延びていた?石田三成の懐刀「島左近」の生き様と最期 | 戦国 ... https://sengoku-his.com/8
  17. 黒田長政・竹中重門陣所 - 城郭図鑑 https://jyokakuzukan.la.coocan.jp/023gifu/023kuroda/kuroda.html
  18. 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
  19. 石田三成の実像3511「ブラタモリ」の「関ヶ原の戦い」3 黒田 ... https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/499911087.html
  20. 島左近(嶋左近)-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44328/
  21. 三成抄 第四章 - Visit Omi ようこそ近江へ https://visit-omi.com/jp/people/article/ishidamitsunari-episode-04
  22. 三成に過ぎたるもの。嶋左近(4) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/sakon04
  23. 司馬遼太郎先生の『関ヶ原』には、石田三成が島左近を三顧の礼で迎えた話を載せていますが https://www.youtube.com/watch?v=Qz5Oof-n1Y8