島左近
~治部少輔に過ぎたるものと誉れ~
島左近の「治部少輔に過ぎたるもの」逸話は、関ヶ原での武勇と佐和山城の壮麗さを称賛。江戸時代に三成への揶揄と左近への賛辞として定着した文化的記憶。
『治部少輔に過ぎたるもの』の深層分析:島左近を巡る一逸話の起源、意味、そして歴史的文脈の徹底解明
序論:人口に膾炙した一句の謎
戦国時代末期の武将、島左近(しま さこん)の人物像を語る上で、几乎不可避的に引用される一句がある。「治部少輔(じぶのしょう)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」。この言葉は、主君である石田三成(いしだ みつなり)の官職名「治部少輔」を引き合いに出し、左近という家臣と佐和山城という居城が、主君の器量や格を遥かに超えた素晴らしいものであったと称賛するものである 1 。この一句によって、島左近は「主君には勿体ないほどの、比類なき名将」という揺るぎない評価を歴史に刻み込んでいる。
しかし、このあまりにも有名な逸話は、しばしば合戦の最中や同時代に敵将などが発した「リアルタイムな会話」であるかのように語られるが、その出自は決して単純ではない。本報告書は、この一句が特定の歴史的瞬間に記録された「会話」ではなく、後世、特に江戸時代という特有の文化的土壌の中で生まれ、育まれ、定着した「批評」であり「文化的記憶」であることを核心的な論点として提起する。この認識の転換こそが、逸話の深層に秘められた真の意味を解き明かす鍵となる。
この謎を解明するため、本報告書は独自の二重構造アプローチを採用する。第一に、この逸話が生まれる直接的な源泉となった「歴史的リアル」、すなわち慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦場における島左近の鬼神の如き奮戦を時系列で再構築する。第二に、逸話そのものが形成され、社会に流布していった「文化的リアル」、すなわち江戸時代における俗謡としての誕生から文献への定着に至るまでの文化的プロセスを追跡する。この二つの異なる時間軸を徹底的に分析することで、一句に込められた多層的な意味を解剖し、その歴史的価値を再評価することを目的とする。
第一章:逸話の解剖 ― 原典の特定と構造分析
逸話の真相に迫る第一歩は、その「テキスト」自体を客観的に分析することである。いつ、どのような形で記録され、いかなるバリエーションが存在するのか。法医学的に言葉の出自を特定することで、その本質が明らかになる。
1-1. 出典の特定と成立年代の検証
この逸話の典拠としてしばしば挙げられるのが、江戸時代中期ごろに成立したとされる軍記物語『古今武家盛衰記』である 4 。さらに、『狂歌大観』という書物には、「寛永以前落首」の区分に「治部少に過たる物か二つあり 島の左近に佐和山の城」という形で採録されている 6 。
これらの文献が持つ決定的な共通点は、いずれも関ヶ原の合戦(1600年)から一世紀以上が経過した江戸時代に編纂されたものであるという事実である。これは、この言葉が合戦に参加した武将の日記や書状といった同時代の一次史料に由来するものではなく、後世に創作・編纂された二次的な文献、それも軍記物語や大衆的な落首・俗謡集を起源とすることを示す動かぬ証拠である。したがって、この逸話は歴史的事実の直接的な記録ではなく、後世の人々による歴史解釈と評価が色濃く反映された文化的産物と見なすべきである。
1-2. 言葉のバリエーションと異文の比較
この一句は、記録される文献や語り継がれる文脈によって、細かな表現に差異が見られる。これらの異文を比較検討することは、言葉がどのように伝播していったかを推察する上で重要な手がかりとなる。
- 主語の差異: 「治部少輔に」という官職名で呼ぶ形 4 と、「三成に」と諱(いみな)で直接指す形 7 が存在する。「治部少輔」は公的でやや硬い響きを持つのに対し、「三成」はより直接的で大衆的な語感を持つ。
- 人名の表記: 「島の左近」 6 と「嶋の左近」 4 という表記揺れがある。これは当時においては一般的な異体字の範囲内であるが、口承で伝わる過程での変化も示唆している。
- もう一つの「過ぎたるもの」: 最も一般的なのは「佐和山の城」であるが、一部には「百間の橋」とする異説も存在する 11 。
これらの多様なバリエーションは、この言葉が固定された一つのテキストとしてではなく、人々によって語り継がれ、書き写される中で少しずつ形を変えていった、流動的な口承文芸としての性格を持っていたことを物語っている。特に主語の差異は、語られる場や聞き手の層に応じて、より分かりやすい表現が選択された可能性を示唆している。
1-3. 発言者の謎 ― 豊臣秀吉説と「詠み人知らず」説の対立
この名言を誰が発したのかについても、複数の説が存在する。一つは、豊臣秀吉が言ったとする説である 1 。これは、秀吉が三成に対し、破格の待遇で左近を召し抱えたことを聞き、「君臣の禄が同じなどとは聞いたことがない」と感心したという『常山紀談』の逸話 12 から派生したものと考えられる。しかし、この逸話の中で秀吉が「過ぎたるもの」という直接的な表現を用いた記録はない。秀吉を発言者とすることは、逸話に最高権威者のお墨付きを与えるための後世の脚色である可能性が極めて高い。
対照的に、より多くの資料が示唆しているのは、これが江戸時代に詠まれた「詠み人知らずの俗謡」あるいは「落首」であるという説である 8 。前述の『古今武家盛衰記』や『狂歌大観』といった出典の性質とも合致しており、特定の個人の発言ではなく、市井の人々の間で自然発生的に生まれ、流行した言葉と考えるのが最も合理的である。学術的には、この「詠み人知らず」説が通説となっている。
1-4. 構造分析:「〇〇に過ぎたるもの」という定型句(テンプレート)
この逸話の構造を分析すると、さらに興味深い事実が浮かび上がる。実は、「〇〇に過ぎたるものが二つあり、△△と□□」という構文は、島左近の逸話に固有のものではなく、江戸時代に広く用いられた一種の「文化的テンプレート(定型句)」だったのである。この構文は、ある人物や土地が持つ、その格には不相応なほど素晴らしいものを二つ並べて称賛、あるいは揶揄するための、効果的な文学的装置として機能していた 6 。
この発見は、逸話の解釈を根本から変えるものである。島左近の一件は孤立した特別な言葉ではなく、当時の流行語とも言える「過ぎたるもの」という一大構文群の一つとして理解されなければならない。この文化的背景を明確にするため、いくつかの用例を以下に示す。
|
対象 |
「過ぎたるもの」① |
「過ぎたるもの」② |
出典・背景の概略 |
参照 |
||
|
治部少輔(石田三成) |
島の左近 |
佐和山の城 |
本報告書の主題。江戸中期の俗謡・落首。 |
|
4 |
|
|
徳川家康 |
唐の頭(兜) |
本多平八(忠勝) |
武田信玄の近習が家康の威容と猛将を評したとされる歌。 |
6 |
||
|
番町(江戸の地名) |
佐野の櫻 |
塙検校(国学者) |
有名な桜と、同地に住んだ著名な学者を並び称したもの。 |
6 |
||
|
本所(江戸の地名) |
津軽大名 |
炭屋塩原(富商) |
大名屋敷と成功した商人を並び称し、地域の繁栄を示した歌。 |
6 |
この表が示すように、「過ぎたるもの」構文は、特定の対象を二つの象徴的な要素で簡潔かつ印象的に切り取るための、非常に便利な表現形式であった。島左近の逸話が唯一無二の創作ではなく、この確立されたテンプレートに当てはめて作られたものであることを理解することは、その意味を読み解く上で決定的に重要である。問題は、なぜ数ある「過ぎたるもの」の中でも、この島左近の逸話が最も有名になり、後世まで語り継がれることになったのか、という点にある。
第二章:二つの「過ぎたるもの」― 武勇と威容の史的検証
俗謡で「過ぎたるもの」と名指しされた「島の左近」と「佐和山の城」は、なぜそのような破格の評価を受けるに至ったのか。その歴史的実像を検証することで、逸話が単なる空想の産物ではなく、確固たる事実に根差していることが明らかになる。
2-1. 「島の左近」という存在 ― なぜ彼は「過ぎた」のか
島左近が「過ぎたるもの」と評される背景には、同時代から彼の武将としての価値が並外れたものであったことを示す複数の逸話や記録が存在する。
第一に、その破格の待遇が挙げられる。『常山紀談』などの江戸時代の編纂物によれば、石田三成が近江佐和山19万4千石の城主になる以前、水口4万石の領主であった頃、浪人していた左近を召し抱えるにあたり、自身の知行の半分にあたる2万石を与えたとされる 5 。主君と家臣の禄高が同等という例は前代未聞であり、この逸話は三成がいかに左近の能力を高く評価し、その獲得を渇望していたかを象徴している(ただし、この逸話の史実性については、左近を召し抱えた時期などから疑問も呈されている 14 )。
第二に、左近は単なる猪武者ではなく、優れた戦略眼を持つ軍師としての側面を持っていた。豊臣秀吉の死後、天下の実権を掌握しつつあった徳川家康の危険性をいち早く見抜き、三成に対して複数回にわたり家康の暗殺を進言したと伝えられている 12 。これらの計画は実行に移されなかったものの、左近が常に大局を見据え、主家のために最も効果的かつ大胆な策を講じようとしていたことを示している。また、時に理想論に傾きがちな三成に対し、現実的な視点から諫言する忠臣としての役割も担っていた 12 。
第三に、その圧倒的な武勇と指揮能力である。関ヶ原の決戦前夜に行われた「杭瀬川の戦い」において、左近はわずか500ほどの兵を率いて東軍の中村一栄隊を挑発。巧みな偽装退却で敵を伏兵地点まで誘い込み、これを撃破するという鮮やかな戦術的勝利を収めた 2 。この勝利は西軍全体の士気を大いに高め、左近の将としての器量が改めて内外に示されることとなった。
これらの事実と逸話は、島左近が石田三成にとって、単なる一人の家臣ではなく、軍事・戦略の両面において替えの利かない「懐刀」であり、その存在自体が石田軍の力を実質以上に高めていたことを示している。後世の人々が彼を「過ぎたるもの」と評するに足る、客観的な実績と評価が当時から存在したのである。
2-2. 「佐和山の城」という象徴 ― なぜ城は「過ぎた」のか
逸話で左近と並び称されるもう一つの「過ぎたるもの」が、三成の居城であった佐和山城である。当時、この城は「三成に過ぎたるもの」と謳われるにふさわしい、壮麗かつ堅固な名城として知られていた 1 。
石田三成が19万4千石の領主として入城した後、佐和山城には大規模な改修が加えられた。伝承によれば、山頂には五層(一説には三層)の壮麗な天守がそびえ立ち、その姿は遠くからでも望むことができたという。また、麓には琵琶湖の内湖である松原内湖の水を引き込んだ三重の堀が巡らされ、鉄壁の防御を誇っていたとされる。城内には家臣団の屋敷が整然と配置され、城下町も繁栄していた。
近世城郭において、城は単なる軍事拠点であるだけでなく、城主の権威と財力を示す最大の象徴であった。佐和山城の威容は、豊臣政権下で吏僚として辣腕を振るった三成が、同時に大大名としての確固たる地位と実力をも兼ね備えていることを天下に示すものであった。
逸話の中で、人的な力の頂点である「島の左近」と、物理的な力の頂点である「佐和山の城」が対として挙げられている点は極めて示唆に富む。この二つを並べることで、三成が有する無形・有形の力の両側面を網羅し、それらがいかに主君の(と世間が認識する)格を超えていたかを強調する、巧みなレトリックとなっているのである。
第三章:逸話が生まれた土壌 ― 徳川史観と石田三成像
この逸話が持つ真のニュアンスを理解するためには、それが生まれ、広く受け入れられた時代の空気、すなわち江戸時代の価値観を深く分析する必要がある。なぜ、人々は単に「島左近は名将である」と称賛するのではなく、わざわざ「三成には過ぎた」という屈折した表現を選んだのか。その背景には、徳川幕府によって形成された特有の歴史観が存在した。
3-1. 江戸幕府下の石田三成評価 ― 「奸臣」というレッテル
江戸時代を通じて、徳川家康に敵対し、天下分け目の戦いを引き起こした張本人である石田三成は、徳川幕府の正統性を揺るがしかねない存在であった。そのため、公的な歴史叙述や大衆向けの物語の中で、三成は豊臣家を私しようとした「佞臣(ねいしん)」、あるいは私怨から天下を乱した「奸臣(かんしん)」として、意図的に否定的な人物像が作り上げられていった 20 。
もちろん、三成は豊臣政権を支えた極めて有能な行政官僚であり、その優れた実務能力 22 や豊臣家への揺るぎない忠誠心 24 は、近年の研究で再評価が進んでいる。しかし、江戸時代においては、そうした功績は意図的に看過され、むしろ彼の正義感の強さや融通の利かない性格、そして加藤清正や福島正則といった武断派の諸将との対立 22 が誇張して語られた。このような、徳川史観というフィルターを通して歪められた「作られた三成像」が、一般民衆の間に広く浸透していたことが、この逸話が生まれる文化的土壌となった。
3-2. 逸話の多義性 ― 左近への賛辞と三成への揶揄
この「三成=小者・奸臣」という社会通念を前提として逸話を読み解くと、その言葉が持つ二重の意味が鮮明に浮かび上がってくる。
この一句は、文字通りに解釈すれば、家臣である左近と居城である佐和山城が、主君である三成の器量を「超過している」という意味になる。これは、第一章で見た「過ぎたるもの」という定型句、第二章で検証した左近と佐和山城の客観的な素晴らしさ、そして本章で論じた三成への低い評価という三つの要素が結びついた時に、必然的に導き出される解釈である。
つまり、この逸話は、単なる島左近への賛辞に留まらない。それは、徳川の世を生きる江戸時代の人々による、歴史への批評そのものであった。この言葉の構造を因果関係で示すと、以下のようになる。
- 【背景】徳川幕府の正統性を担保するため、敗者である石田三成の評価を意図的に貶めるプロパガンダが流布される。
- 【結果】民衆レベルで「三成=器量の小さい奸臣」というイメージが広く定着する。
- 【対比】一方で、講談などを通じて、三成に忠義を尽くした猛将・島左近の英雄的な活躍が語られ、人気を博す。
- 【結晶化】この「小物の主君」と「英雄的な家臣」という鮮やかな対比構造に、当時流行していた「〇〇に過ぎたるもの」という皮肉と諧謔のセンスを持つ定型句が当てはめられる。
- 【完成】結果として、「三成のような人物には勿体ない」という痛烈な揶揄(やゆ)を内包した、島左近への最大限の賛辞としての一句が誕生し、大衆の喝采を浴びることになる 10 。
この賛辞と揶揄が同居する二重構造こそが、この逸話の妙味であり、人々を惹きつけてやまない魅力の源泉なのである。それは、幕府が公認する歴史観に表向きは従いつつも、敗者の中に輝く英雄を見出し、これを称賛するという、江戸の民衆が持つ絶妙なバランス感覚と批評精神の表れであった。
3-3. 敗者の英雄への共感 ― 判官贔屓と左近の人気
この逸話が広く受け入れられた背景には、日本文化に根強く存在する「判官贔屓(ほうがんびいき)」という精神性も大きく影響している。これは、源義経(判官)に代表されるように、権力闘争に敗れた悲劇的な英雄に対して同情し、これを称賛する文化的傾向である。
徳川史観の中で主君・三成が悪役として断罪される一方で、その三成に最後まで忠義を尽くし、関ヶ原で壮絶な最期を遂げたとされる島左近は、まさにこの判官贔屓の対象として理想的な存在であった 11 。体制側(徳川)を公然と批判することはできない江戸の民衆にとって、敗者側(石田)の英雄である左近を称賛することは、体制へのささやかな抵抗であり、一種のカタルシスを得る行為であった可能性も考えられる。この民衆心理が、一句を単なる流行り言葉から、時代を超えて語り継がれる「伝説」へと昇華させる原動力となったのである。
第四章:二つの時系列による再構築 ― 「戦場のリアル」と「逸話のリアル」
本報告書の中核として、これまで分析してきた要素を統合し、二つの異なる「リアル」を時系列に沿って再構築する。これにより、「敵を前に語られた」という逸話のイメージの源泉となった「戦場の現実」と、言葉そのものが誕生した「文化的な現実」の両方を立体的に描き出す。
4-1. 歴史の時系列(慶長五年九月十五日):関ヶ原の戦場 ― 逸話の源泉
このパートは、「もし敵がリアルタイムで『治部少輔に過ぎたるもの』と畏怖の念を抱いたとしたら、それはどの瞬間だったのか」という問いに対する、歴史的シミュレーションである。言葉そのものは発せられなかったが、その感情が生まれたであろう「精神の現場」を再現する。
- 開戦直後(午前8時~9時頃): 関ヶ原盆地に立ち込めていた濃霧が晴れると同時に、徳川方の井伊直政・松平忠吉隊の抜け駆け発砲をきっかけに、天下分け目の戦いの火蓋が切られた。西軍の事実上の総大将である石田三成が布陣する笹尾山の麓、最前線に陣取る島左近の部隊に、東軍の先鋒である黒田長政隊、細川忠興隊が殺到する 2 。
- 左近隊の猛攻: 島左近は、数で遥かに勝る敵の猛攻に対し、一歩も引かずにこれを迎え撃つ。鬼神の如き采配で兵を鼓舞し、凄まじい勢いで反撃に転じると、黒田隊の前衛はたまらず崩れ、何度も押し返された 2 。その戦いぶりは敵兵に強烈な恐怖を植え付け、後に黒田家の武士たちは「左近がどのような甲冑を着ていたかさえ思い出せない」と語ったと伝わるほどであった 5 。江戸時代の軍記物『常山紀談』は、この時の敵方の恐怖を「誠に身の毛も立ちて、汗の出るなり」と記録している 18 。
- 黒田長政の決断: 正面からの力押しでは左近隊を突破できないと判断した黒田長政は、戦況を打開するため、鉄砲頭の菅六之助(すげ ろくのすけ)に精鋭の鉄砲隊を率いさせ、側面から島左近自身を狙撃するよう命じる 28 。
- 被弾・負傷: 菅六之助の部隊は、石田・島隊の側面にある小高い丘に巧みに移動し、そこから一斉に銃撃を加えた。この予期せぬ側面攻撃により、陣頭指揮を執っていた島左近は銃弾を受け、深手を負ってしまう 31 。この劇的な場面は、皮肉にも敵将である黒田長政が後年作らせた『関ヶ原合戦図屏風』にも、二人の兵に両脇を抱えられて後退する左近の姿として克明に描かれている 5 。
- 戦線離脱と謎の最期: 負傷した左近は一旦後方の陣に下がったとされる。その後の動向は定かではない。味方の劣勢と小早川秀秋の裏切りを聞き、最後の力を振り絞って敵陣に再突撃し、そのまま姿を消したとも 10 、あるいは傷が元で陣中で絶命したとも言われる。確かなことは、彼の首級は発見されず、遺体も見つかっていないということである 3 。このミステリアスな最期は、彼の存在を一層伝説的なものとし、後世の物語に豊かな想像の余地を与えることになった。
4-2. 逸話の時系列(江戸時代):俗謡の誕生から定着まで ― 逸話の形成
次に、言葉そのものがどのようにして生まれ、社会に定着していったのか、その文化的プロセスを推論に基づき再構築する。
- 関ヶ原直後~江戸初期(伝説の核の形成期): 合戦を生き延びた黒田家や細川家の武士たちによって、「あの日の島左近の戦いぶりがいかに凄まじかったか」という体験談が語り継がれる。「左近はまさに鬼神であった」「側面から鉄砲で撃ちかけていなければ、我らの首はなかっただろう」といった畏怖と賞賛に満ちた記憶が、伝説の核となる 31 。
- 江戸中期・元禄~享保期(大衆文化でのキャラクター化): 徳川の治世が安定し、泰平の世が続くと、講談や軍記物語といった大衆向けのエンターテインメントが花開く。中でも関ヶ原の戦いは人気の題材となり、物語作家たちは、徳川史観に沿って石田三成を「奸臣」として描きつつ、その忠臣である島左近を悲劇の英雄としてドラマティックに描き出した 12 。これにより、左近の「悲劇の猛将」というキャラクターが社会的に確立される。
- 俗謡・落首の誕生(言葉の結晶化): この頃、第一章で述べた「〇〇に過ぎたるもの」という、ウィットと批評精神に富んだ定型句が江戸の市中で流行する。ある「詠み人知らず」の人物が、すでに社会通念となっていた「器量の小さい三成」と、講談で人気の「英雄・左近」、そして名城として知られた「佐和山の城」という三つの要素をこのテンプレートに当てはめ、「治部少に過ぎたるもの…」という一句を創作する。この句は、左近への賛辞と三成への皮肉が絶妙なバランスで同居していたことから、江戸の民衆の心を捉え、瞬く間に流行する。
- 文献への採録と定着(「逸話」への昇華): 口伝えで広く知られるようになったこの俗謡が、『古今武家盛衰記』 4 や『狂歌大観』 6 といった書物の編纂者の目にとまり、文字として記録される。これにより、この言葉は単なる一過性の流行り歌から、後世まで参照されうる権威ある「逸話」へとその地位を高め、歴史の一部として不動の地位を確立するに至ったのである。
結論:逸話が語り継ぐもの
本報告書の分析を通じて、「治部少輔に過ぎたるもの」という島左近を巡る著名な逸話は、関ヶ原の戦場における特定の瞬間の「会話」の記録ではなく、複数の歴史的・文化的要素が江戸時代という坩堝の中で長い時間をかけて融合し、結晶化した「文化的記憶」の産物であることが明らかになった。
この簡潔な一句には、少なくとも三つの異なる要素が凝縮されている。第一に、島左近という一人の武将が示した、敵味方から畏敬されるほどの並外れた武勇と忠誠心への純粋な賞賛。第二に、徳川の治世下で形成された、敗将・石田三成に対する複雑な(そして主に否定的な)歴史的評価。そして第三に、敗れた者の中に輝きを見出し、これに共感と声援を送る、日本人の心性に深く根差した判官贔屓の精神である。
史実そのものではないこの逸話が、なぜ史実以上に人々の心を捉え、現代に至るまでこれほど鮮やかに語り継がれるのか。その理由は、この短い一句が、単に個人の評価を述べているだけでなく、関ヶ原という日本の歴史的転換点の複雑な人間模様と、後世の人々がその一大事件をどのように解釈し、記憶し、そして消費してきたかという文化史そのものを内包しているからに他ならない。
したがって、この逸話は、島左近という一人の武将の物語であると同時に、日本の歴史と文化が織りなす重層的なタペストリーの一端を我々に見せてくれる、極めて貴重な文化遺産であると言えるだろう。それは、事実を超えた「真実」を伝える、歴史の力強い語り部なのである。
引用文献
- 島左近(嶋左近)-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44328/
- 島左近陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/shimasakonjinato.html
- 生き延びていた?石田三成の懐刀「島左近」の生き様と最期 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/8
- media.mk-group.co.jp https://media.mk-group.co.jp/entry/kankou-sangenin/#:~:text=%E7%AB%8B%E6%9C%AC%E5%AF%BA%E6%95%99%E6%B3%95%E9%99%A2%E3%81%AE%E5%B3%B6%E5%B7%A6%E8%BF%91%E3%81%AE%E5%A2%93,-%E7%AB%8B%E6%9C%AC%E5%AF%BA%E6%95%99&text=%E5%B3%B6%E5%B7%A6%E8%BF%91%E3%81%AF%E3%80%81%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%AD%E6%9C%9F,%E5%9F%8E%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- 島左近は、関ケ原で討ち死にしたのか?~京都・立本寺にある左近の墓 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4543
- 「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」のような - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000295323&page=ref_view
- 石田三成のお墓は京都「大徳寺三玄院」にあり!原則非公開の墓の秘密 - MKメディア https://media.mk-group.co.jp/entry/kankou-sangenin/
- 三成抄 第二章 - Visit Omi ようこそ近江へ https://visit-omi.com/jp/people/article/ishidamitsunari-episode-02
- 鷹狩りの途中で立ち寄って茶を所望したところ、三成の心配りから才気を見抜いたというのである。 もっともその当時、「観音寺の周辺が政所茶の大産地であった事や、また後に秀吉が生涯 https://www.seiseido.com/goannai/sankencha.html
- 島左近は何をした人?「三成に過ぎたるものと謳われた鬼が関ヶ原を震撼させた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/sakon-shima
- 雪の彦根城天守を佐和山城跡から遠望 石田三成、井伊直政の城 - きょうのまなざし https://www.kyotocity.net/diary/2016/0206-sawayamajo-hikonejo-castle/
- 島左近関連逸話集2・石田家時代 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon_ep02.html
- 家康暗殺計画を提案した謎の軍師「島左近」とは?ただものじゃないエピソードを紹介 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/78738/
- 石田三成の懐刀・嶋左近が辿った生涯|関ヶ原で戦う姿を“鬼左近”と恐れられた武将【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1153053
- 戦国きっての勇将・島左近の墓が京都西陣にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】 https://mag.japaaan.com/archives/149828
- 島左近(嶋左近)の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/37254/
- 島清興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88
- 石田三成の懐刀・嶋左近が辿った生涯|関ヶ原で戦う姿を“鬼左近”と恐れられた武将【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1153053/2
- 島左近関連逸話集3・関ヶ原合戦とその後 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon_ep03.html
- 石田三成はなぜ、悪者にされたのか? 歴史を記す側の裏事情|Saburo(辻 明人) - note https://note.com/takamushi1966/n/n7b254aa4fbba
- 悪者じゃなかったの?歴史的評価が大逆転した2人 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63637?page=2
- 【解説マップ】石田三成はどんな人?何をした人?功績やすごいところを紹介します https://mindmeister.jp/posts/ishidamitsunari
- 石田三成、その人物像とは - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324454.html
- 石田三成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
- 石田三成の実像とは?「三献の茶」から関ヶ原、知られざる豊臣政権のキーマンを徹底解説 https://sengokubanashi.net/person/ishidamitsunari/
- 【いい人なんだけど……】石田三成が嫌われてしまった2つの理由|らいの日常 - note https://note.com/kind_toucan5889/n/n4fc64456c6bb
- 黒田長政コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館 https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/kuroda-nagamasa/
- 戦国の城と城跡 ・ 関ヶ原古戦場 (18) 「 丸山の狼煙場、黒田長政、竹中重門、陣跡 」 黒田長政は竹中重門 (しげかど)と共に、東軍の最右翼の先鋒に軍を進め石田三成隊の攻撃に当たった。竹中重門は - ココログ http://tanaka-takasi.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9b2a.html
- 島左近陣跡|観光スポット - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6734.html
- 石田三成の実像3511「ブラタモリ」の「関ヶ原の戦い」3 黒田隊が断層の崩れた道を通って嶋左近を銃撃したとする捉え方・「黒田家譜」の記述・軍記物や編纂史料は創作の疑いがあると白峰氏は指摘 - 関ヶ原の残党、石田世一(久富利行)の文学館 https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/499911087.html
- 関ヶ原合戦シリーズ5 - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page054.html
- 闘将島左近被弾 ~午前九時の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/seki03.html
- “三成に過ぎたるもの”と称された猛将!「島左近」の家紋とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1211