最終更新日 2025-10-21

島津歳久
 ~豊臣軍に敗れ自刃、「潔き死」~

島津歳久の「潔き死」は、秀吉の追討から島津家を救うため、自ら反逆者を演じ兄に討たれることで忠誠を示した智将の策。その壮絶な最期は薩摩武士の精神的支柱となった。

島津歳久、竜ヶ水に散る ―「潔き死」の真相

序章:定められし悲劇

九州統一を目前としながら、天下人・豊臣秀吉の圧倒的な軍事力の前に屈した島津家 1 。天正15年(1587年)、当主・島津義久が剃髪し、泰平寺にて秀吉に降伏したことで、島津の野望は潰えた 1 。それは、薩摩という辺境の地で育まれた独自の誇りと、中央集権化を進める豊臣政権との間に横たわる、埋めがたい溝の始まりでもあった。

この歴史の転換点において、一人の武将が時代の奔流に抗い、悲劇的な最期を遂げる。島津四兄弟の三男、島津歳久。祖父・日新斎(島津忠良)から「始終の利害を察するの智計、並びなく」と評された稀代の智将である 4 。彼は、島津家中にあって秀吉の真の恐ろしさをいち早く見抜きながらも、皮肉にも降伏後は最も強硬な反豊臣派の急先鋒と見なされるようになる 4

そして、運命の文禄元年(1592年)、秀吉は歳久の兄である義久に対し、非情な命令を下す。「歳久の首を差し出せ」と 4 。これは、一人の武将の終焉であると同時に、島津家の存亡を賭けた壮絶なドラマの幕開けであった。歳久の死は、単なる敗者の末路だったのか。あるいは、後世に語り継がれるように、一族を救うために自らの命を捧げた、究極の忠義の形―「潔き死」であったのか。本報告書は、歳久が自刃に至るまでの軌跡を時系列で追い、その死に込められた真意を徹底的に解明するものである。

【表1:島津歳久、自刃に至るまでの時系列】

年月日(旧暦)

出来事

場所

主な関係者

天正15年(1587年)5月

秀吉の九州平定。歳久の家臣が秀吉の駕籠に矢を射かける。

祁答院領・山崎

島津歳久、本田四郎左衛門、豊臣秀吉

文禄元年(1592年)6月

梅北一揆発生。歳久の家臣の関与が疑われる。

肥後国

梅北国兼、豊臣秀吉

文禄元年(1592年)7月

秀吉、島津義久に歳久の追討を厳命。

豊臣秀吉、島津義久

同月

義久、歳久を鹿児島へ召喚。歳久はこれを察知し舟で脱出。

鹿児島湾

島津歳久、島津義久

同月

義久の追討軍が陸路を封鎖。歳久は竜ヶ水へ追い詰められる。

吉田、蒲生、竜ヶ水

町田久倍

天正20年7月18日

歳久、竜ヶ水に上陸し、追討軍に囲まれ自刃。

竜ヶ水(瀧ヶ水)

島津歳久、原田甚次、町田久倍

第一部:破局への序曲 ― 秀吉の怒りと歳久の反骨

駕籠への矢 ― 決して消えない遺恨

島津家が降伏した後、秀吉が川内の泰平寺から大口へ陣を移す道中、事件は起きた。歳久の領地である祁答院の山崎において、秀吉の駕籠に六本の矢が射かけられたのである 5 。矢を放ったのは歳久の家臣、本田四郎左衛門であった 5 。秀吉は襲撃を予期し空の駕籠に乗っていたため無事だったが、この一件は単なる暗殺未遂ではなかった。自らの領地で天下人の権威を公然と踏みにじる、極めて象徴的な反逆行為であった。秀吉の心に、島津歳久という男に対する根深い不信と怒りが刻み込まれた瞬間である 4

慧眼の智将、なぜ反骨の士へ

ここに一つの矛盾が存在する。島津家が秀吉との全面対決に突き進む中、四兄弟の中でただ一人、歳久は「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」と秀吉の実力を正当に評価し、和睦を主張していた 7 。九州の覇権を目前にした兄たちが楽観論に傾く中、彼の慧眼は冷静に敵の力量を見抜いていたのである。

しかし、降伏後、その態度は一変する。彼は島津家中における最も強硬な反豊臣派となった 5 。この変化は、単なる心変わりや矛盾ではない。彼の行動原理は一貫して「島津家の安泰と誇りを守る」ことにあった。全面戦争という破局を避けるためには、和睦が最善の「戦略」であった。だが、一度豊臣の支配下に入り、理不尽な要求や傲慢な態度に晒される中で、島津の誇りを守ることは「原則」の問題へと昇華した。特に、出自の低い秀吉への臣従は、彼にとって耐え難い屈辱であった可能性が高い 9 。彼の抵抗は、戦略的判断から、武士としての矜持を賭けた原則的な闘争へとその姿を変えたのである。

最後の口実 ― 梅北一揆

天正20年(1592年)、朝鮮出兵の隙を突いて肥後で梅北国兼の乱が勃発する。この一揆勢に歳久の家臣が加わっていたことから、秀吉は待っていたかのように歳久を首謀者と断定した 4 。直接的な証拠の有無を問わず、秀吉は義久に歳久の討伐を厳命する。これは、島津家中の反豊臣派を根絶やしにすると同時に、兄である義久に弟を討たせることで、島津家の忠誠心を試す冷徹な政治的判断であった 4 。もはや弁明の余地はなく、歳久の運命はここに決した。

第二部:最後の逃避行 ― 兄の追討と竜ヶ水への道

死への召喚

兄・義久からの召喚を受け、歳久は病身を押して鹿児島の居城へ向かう 4 。しかし、城下に漂う尋常ならざる雰囲気を、歴戦の将である彼が見逃すはずはなかった 11 。全てを察した歳久は、その夜、密かに舟を出し、鹿児島湾へと逃れる 4

この行動は、生き延びるための逃亡ではなかった。自らの死に場所と死に様を選ぶための、最後の主体的な選択であった。追討軍の総大将には、島津家の重臣・町田久倍が任じられた 12 。義久の命を受けた追討軍は、吉田、蒲生といった陸路の要衝をことごとく封鎖 6 。薩摩の地は、歳久にとって巨大な檻と化した。

終焉の舞台、竜ヶ水

追っ手に追われ、陸路を断たれた歳久が最後に上陸した場所、それが竜ヶ水(りゅうがみず)であった 6 。当時の竜ヶ水は、江戸後期の地誌『三国名勝図会』にも描かれているように、錦江湾の海と姶良カルデラの断崖絶壁に挟まれた、陸の孤島とも言うべき場所であった 13 。当時は道もなく、舟でしか近づけないこの地は、まさに逃げ場のない終焉の舞台であった。

歳久がこの地に追い詰められたのは、偶然ではない。それは必然であった。山中へ逃げ込めば、その死は密やかなものとなる。城に籠もれば、それは軍事的な敗北となる。しかし、海と崖に挟まれたこの狭隘な地は、彼の最期を衆人環視の「儀式」へと変える効果を持っていた。追討軍の船が沖合から見守る中、まるで円形劇場のようなこの場所で、歳久は自らの死を以て最後の策を演じようとしていた。この地の特異な地理こそが、彼の死を単なる自害から、後世に語り継がれるべき殉教劇へと昇華させたのである。

第三部:壮絶なる最期 ― 瀧ヶ水の自刃(天正二十年七月十八日)

裏切る肉体

天正20年(1592年)7月18日、竜ヶ水の地に立った歳久を、長年の病魔が蝕んでいた。彼は中風(脳卒中の後遺症とみられる)を患い、手足は痺れ、思うように動かなかった 5 。数多の戦場を駆け、武勇を謳われた武人が、武士の最期の作法である切腹のための脇差一本すら、その手に握ることができない。それは、あまりにも過酷な運命の皮肉であった。

石による割腹と慈悲の言葉

自刃すらままならない絶望的な状況下で、歳久は傍らの石を手に取り、それで自らの腹を割こうと試みた 5 。想像を絶する激痛と苦悶。その壮絶な苦しみの中で、彼は後世に神として祀られるきっかけとなる言葉を口にしたと伝えられる。

「女もお産の時に苦しい思いをするであろう。自分の死後はそういった女の苦しみを救ってやろう」 5

自らの肉体的苦痛を、出産に臨む女性の苦しみへと重ね合わせるその言葉は、極限状態にあって他者を思う、彼の深い慈悲の心を示している。

最後の命令と追討軍の慟哭

やがて町田久倍率いる追討軍が到着する。もはやこれまでと悟った歳久は、苦しみの中から、追っ手に向かい凛とした声で最後の命令を下した。

「病のため、自刃できぬ。面倒をかけるが、こちらへ来て首を取れ」 7

しかし、その言葉を聞いた追討軍の兵士たちは、主君・義久の実弟を討つことなどできず、ただ涙にくれて地にひれ伏すばかりであった 7 。彼らの涙は、単なる同情や悲しみではなかった。それは、歳久の潔さと、彼を死に追いやった非情な命令に対する、声なき抗議であり、歳久が反逆者ではなく、悲劇の殉教者であることを証明する、何より雄弁な「証言」であった。彼らの集団的な慟哭は、この場で起こっていることが、単なる罪人の処刑ではなく、理不尽な運命に対する荘厳な儀式であることを示していた。

介錯の瞬間

しばしの躊躇の後、一人の武士、原田甚次が覚悟を決め、介錯人として進み出た 10 。彼の太刀が一閃し、歳久の苦しみに終止符が打たれる。その瞬間、その場にいた全ての兵士が槍や刀を投げ捨て、地に倒れ伏して号泣したと伝えられる 8 。享年56歳。智将・島津歳久、その孤高の生涯は、竜ヶ水の地で壮絶な幕を閉じた。

第四部:遺されたもの ― 辞世の句と兄への書状

潔白を告げる遺書

歳久の亡骸を改めたところ、その懐から兄・義久に宛てた一通の書状が見つかった 14 。そこには、自らに謀反の心など毛頭ないこと、そして秀吉の前に出仕できなかったのは、反抗の意志からではなく、重い病のためであったことが、切々と綴られていた 15 。この遺書は、彼の行動が忠義に根差したものであったことを示す、最も直接的な証拠となった。

辞世の句に込められた心境

書状と共に、辞世の句が遺されていた。

晴蓑(せいさ)めが 玉(たま)のありかを 人問(ひとと)はば いざ白雲(しらくも)の 末も知られず

4

「晴蓑」とは歳久の法号であり、剃髪後の名である 4 。「玉」は魂を意味する。この句は、「(私の法号である)晴蓑の魂がどこへ行ったのかと人が尋ねたならば、さあ、あの白雲の彼方へ消え去り、その行方は誰も知らないと答えてくれ」と解釈できる。そこには、無念や執着といった感情は見られない。自らの死を静かに受け入れ、魂は白雲の如く執着なく天に昇っていくという、澄み切った心境が詠まれている。遺書で潔白を証明し、辞世の句で心の平穏を示す。これらは全て、彼の死が「潔き死」であったことを後世に伝えるための、周到な準備であった。

第五部:智将、最後の策 ―「潔き死」の真意

これまでの全ての状況証拠を統合すると、島津歳久の最期は、絶望による自決ではなく、島津家を救うために仕組まれた、智将による最後の策であったという結論に至る。

なぜ、病で動けぬはずの男が、あえて「逃亡」という手段を選んだのか。その行動こそが、策の核心であった。もし歳久が、兄・義久の命令に粛々と従い、鹿児島城内で切腹していたならば、秀吉はそれを「梅北一揆の首謀者としての罪を認めた」と解釈し、さらにその背後に義久や島津家全体の関与を疑い、さらなる言いがかりをつけて島津家の力を削ごうとしたであろう 4

その疑念を完全に断ち切る唯一の方法、それは「兄の命令に背いて逃亡し、追討軍によって討たれる」という筋書きを、衆人環視の中で演じきることだった 4 。歳久は、あえて「反逆者」の役を演じた。そして義久は、その「反逆者」である弟を非情に追い詰め、討ち果たすという「忠臣」の役を演じた。この公開された身内の粛清劇によって、島津家は豊臣政権への絶対的な恭順を、疑いの余地なく証明してみせたのである。

歳久は、短期的に見れば「主命に背いた不忠者」という汚名を着ることを覚悟の上で、島津家の安泰という長期的な利益を確保した。彼は薩摩という舞台の上で自ら悪役を演じることで、大坂にいる天下人に対し、兄が紛れもない忠臣であることを知らしめたのだ。一見すると不名誉な「追討死」という形を取ることで、一族にとって最も「潔い」政治的結末を導き出す。これこそが、智将・島津歳久による、自らの命を駒とした最後の、そして最大の智略であった。

結論:神となった武将 ― 後世への影響

兄たちの慟哭

歳久の死後、彼の首は京の一条戻橋に晒されたが、義久は密かに人を遣ってこれを奪還し、丁重に葬った 4 。そして秀吉が没すると、義久は弟が果てた竜ヶ水の地に、その菩提を弔うために心岳寺を建立した 13 。豊臣政権下では公にできなかった弟への追悼を、ようやく果たしたのである。

慶長13年(1608年)、心岳寺を訪れた義久と次兄・義弘は、悲痛な追悼の歌を詠んでいる。

岩木までかげふる寺を来て見れば 雪の深山ぞおもひやらるる (龍伯・義久)

13

夕波に月と雪とを待とらば いつくはありし磯の山寺 (惟新・義弘)

13

これらの歌は、歳久の犠牲の裏にあった真意を、兄弟たちが深く理解していたことの何よりの証左である。

薩摩武士の魂へ

歳久の生き様と死に様は、旧薩摩藩内で藩士たちの崇拝を集めた 5 。彼の命日である7月18日に行われる「心岳寺詣り」は、関ヶ原の退き口で知られる島津義弘を祀る「妙円寺詣り」と並び称される薩摩の重要な行事となり、薩摩武士の精神教育(郷中教育)の根幹を成した 19 。彼は、薩摩武士が範とすべき「戦の神」として祀られたのである。

不思議なことに、彼の伝説はさらに形を変えていく。自刃の際に石を手にして苦しんだ逸話から、彼は「お石様」と呼ばれ、安産の神としても信仰されるようになった 5 。壮絶な死の記憶が、生命の誕生を救う慈悲の信仰へと昇華したのである。

そして、その魂は時代を超えて受け継がれる。幕末、安政の大獄で追われ、月照と共に錦江湾に身を投じようとした西郷隆盛は、舟の上で歳久の潔き死の故事を語り、心岳寺の方角へ手を合わせてから闇夜の海に身を投じたと伝えられる 5 。大義のために自らを犠牲にするという歳久の物語は、薩摩の精神的支柱となり、近代日本の礎を築いた偉人の心をも捉え、数百年後の国難の時代にまで、その輝きを放ち続けていたのである。

引用文献

  1. 九州の役、豊臣秀吉に降伏 - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/kyushu-no-eki/
  2. 【島津義久】秀吉に屈した薩摩の巨人~その生涯と九州統一の夢、豊臣政権との駆け引き https://sengokubanashi.net/column/shimaduyoshihisa/
  3. 北薩戦国物語~晴蓑「島津歳久」の最後 https://sengoku-story.com/home/hokusatsu/
  4. 「薩摩武者を率いた四兄弟」の命知らずな三男が…豊臣秀吉を激怒 ... https://books.bunshun.jp/articles/-/8262
  5. 島津歳久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%AD%B3%E4%B9%85
  6. 特集/金吾さあ ・島津歳久(2) 秀吉の九州征伐 ~ 自害まで https://washimo-web.jp/KingoSa/Profile/toshihisa02.htm
  7. 島津歳久の辞世 戦国百人一首83|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n2b7d156fbe85
  8. 「迷惑だ!」秀吉の申し出を拒否…権力者に屈しなかった島津歳久 ... https://sengoku-his.com/602
  9. 島津義久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
  10. 島津歳久の生涯、悲劇の名将は薩摩武士が敬慕する武神となった https://rekishikomugae.net/entry/2021/02/18/155750
  11. 武将印紹介52 島津歳久(墨将印) - 戦国魂ブログ https://www.sengokudama.jp/blog/archives/4986
  12. 歴史の目的をめぐって 島津歳久 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-12-shimadu-toshihisa.html
  13. 島津歳久、竜ヶ水に散る ~平松神社(心岳寺跡)を『三国名勝図会』より~ - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2022/05/16/202538
  14. 島津歳久/戦国Xファイル - asahi-net.or.jp https://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x155.html
  15. SM08 島津歳久 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/SM08.html
  16. 毎日 辞世イラスト 6/島津歳久|久保マシン - note https://note.com/kubomachine/n/nd867bfe8c330
  17. 平松神社(心岳寺跡) - 鹿児島市吉野町 / 旅行記 https://washimo-web.jp/Trip/Hiramatsu/hiramatsu.htm
  18. 平松神社 島津歳久公をしのぶ心岳寺参りと美しい錦江湾の風景 - Harada Office Weblog https://haradaoffice.biz/hiramatsu-jinjya/
  19. 平松神社(心岳寺跡) - しまづくめ https://sengoku-shimadzu.com/spot/%E5%B9%B3%E6%9D%BE%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E5%BF%83%E5%B2%B3%E5%AF%BA%E8%B7%A1%EF%BC%89/
  20. 妙円寺詣り - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%86%86%E5%AF%BA%E8%A9%A3%E3%82%8A
  21. 心岳寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E5%B2%B3%E5%AF%BA