島津義久
~兄弟の中でも温和敵将へ書を贈る~
島津義久が敵将へ和歌を贈った逸話は、史実とは逆に敵方から送られたもの。徳将としてのイメージと結びつき、後世に美談として再構築された物語だ。
島津義久と敵将の書簡 ― 耳川の戦場に交わされた和歌の逸話、その真相の徹底的考察
序章:戦場の風流 ― 九州の覇権を巡る死闘に咲いた一輪の花
「島津義久は温和な人柄で、戦の前に敵将へ書を贈り合った」― この逸話は、九州の覇者として知られる島津義久の徳将としての一面を象徴する教養譚として、しばしば語り継がれてきた。しかし、この物語の唯一の典拠とされる史料『佐土原藩譜』を丹念に読み解くと、我々の前に現れるのは、通説とは全く逆の光景である。すなわち、書(和歌)を敵陣に送ったのは島津方ではなく、対峙する 敵方、大友軍の武将であった という事実である 1 。
この「認識の逆転」こそが、本逸話を深く理解するための出発点となる。一見すると単なる美しい逸話は、その主語が入れ替わることで、より複雑で多層的な意味を帯び始める。なぜ、事実は捻じ曲げられ、勝者である義久の美談として流布するに至ったのか。その背景には、歴史的記憶が形成される過程における、英雄への物語の集約という力学が働いていると考えられる。逸話の持つ「風流」や「教養」といった肯定的なイメージが、耳川の戦いの勝者であり、徳将として名高い義久の人物像と結びつきやすかった結果、後世の語り部たちによって、より劇的で分かりやすい物語へと再構築された可能性は高い。
本報告書は、この通説の転換点を基軸に、当該逸話の全容を徹底的に解明することを目的とする。まず、逸話が生まれた凄惨な戦場の背景を詳述し、次に、矢文に託された一首の和歌が交わされた瞬間を時系列で再現する。さらに、歌の詠み手とされる謎の人物「織田某」の正体に迫り、最後に、典拠史料そのものの信憑性を問う史料批判を通じて、この逸話が持つ歴史的な「真実」とは何かを考察する。
戦国時代において、和歌や連歌は単なる貴族的な教養に留まらず、武将が自らの品格や精神的余裕、そして「文武両道」の理想を示すための重要な文化的実践であった 2 。島津家においても、当主の義久をはじめ、弟の家久などが和歌を嗜んだ記録が残されている 4 。したがって、この逸話は決して突飛なものではなく、当時の武家社会の価値観の中に確かに位置づけられるものである。本稿は、この一見小さな逸話の深層に分け入り、九州の覇権を巡る血で血を洗う抗争の只中で、武人たちがいかにして文化と向き合ったのか、その精神の複雑な綾を解き明かしていく。
第一章:逸話の舞台 ― 天正六年、日向高城下の対峙
1-1. 九州の天王山:耳川の戦いへ至る道
逸話が生まれた天正6年(1578年)の九州は、まさに動乱の頂点にあった。北九州に覇を唱える豊後の大友宗麟と、薩摩から急速に勢力を拡大する島津義久。両雄の激突は、もはや避けられない運命にあった。
この戦いの直接的な引き金は、日向国(現在の宮崎県)の支配権を巡る争いであった。島津氏の攻勢によって本拠を追われた日向の伊東義祐は、姻戚関係にあった大友宗麟を頼り、豊後へと亡命した 6 。当時、キリスト教に深く帰依していた宗麟は、日向にキリシタンの理想郷を建設するという壮大な野望を抱いていた 7 。伊東氏の救援は、その野望を実現するための絶好の大義名分となったのである。
天正6年、宗麟は嫡男・義統を総大将に任じ、4万とも5万ともいわれる大軍を日向へ向けて南下させた 6 。この大友の動きは、単なる地方の領土紛争に留まらなかった。当時、中央では織田信長が天下布武を推し進めていたが、それに反発する勢力が「信長包囲網」を形成していた。京を追われた将軍・足利義昭は毛利輝元を頼り、その毛利氏と大友氏は北九州で激しく対立していた 9 。島津氏は、この反信長勢力と連携する形で大友氏と対峙しており、九州での戦いは中央の政局とも密接に連動する、まさに天下の行方を左右する一戦であった。
対する島津義久は、この大友の侵攻を、九州統一を成し遂げるための最大最後の障壁と捉え、弟の義弘、家久ら一族の総力を挙げてこれを迎え撃つことを決意。日向の地は、両家の雌雄を決する一大決戦の舞台と化したのである。
1-2. 高城攻防戦:膠着する戦線
大友軍の進撃は凄まじく、日向北部の諸城を次々と攻略していった 6 。彼らの次の目標は、島津方の最前線拠点である高城(たかじょう)であった。高城は、現在の小丸川である高城川と切原川に三方を囲まれた天然の要害であり、城内では義久の末弟・島津家久と重臣・山田有信がわずか3千(一説には500)の兵で籠城していた 6 。
数万の大軍で高城を幾重にも包囲した大友軍に対し、島津義久は救援のため、自ら2万の軍勢を率いて出陣。高城の北方、根白坂(ねじろざか)に本陣を構えた。これにより、大友軍は高城を包囲する軍勢と、島津の救援軍を警戒する軍勢とに分断される形となり、両軍は高城川を挟んで睨み合う膠着状態に陥った 10 。この息詰まるような対峙の中で、やがて語り継がれることになる風流な逸話は生まれる。
1-3. 逸話の現場:上野城下、一ツ瀬川の情景
『佐土原藩譜』によれば、和歌の応酬があった直接の舞台は、高城からやや南に位置する上野城(穂北城)周辺であったとされる。この地域は、当時の一ツ瀬川(史料では杉安河)が流れる場所である。
史料は、その時の情景を次のように描写している。うららかな秋晴れの日、あるいは月明かりの夜、島津軍の陣地から川の対岸を望むと、大友方の諸将が「杉安河に船を浮かべて酒を飲んでいた」というのである 1 。明日をも知れぬ命である戦場の、それも敵と川一つ隔てて対峙する最前線で繰り広げられる酒宴。この光景は、単に大友軍の油断や慢心と片付けることのできない、複雑な意味合いを帯びている。それは、敵に対して自軍の余裕を見せつけるための示威行動であったのかもしれないし、あるいは、死を目前にした武人たちが束の間の慰めを求めた、刹那的な享楽であったのかもしれない。
この逸話の特異性は、その背景にある凄惨な現実との極端な対比にある。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、大友軍はその進軍の過程で、領内の神社仏閣をことごとく焼き払うという徹底的な破壊活動を行っていた 7 。そして、この膠着状態が破られた後には、数千の将兵が命を落とす「耳川の戦い」という凄惨な結末が待っている 10 。破壊と殺戮が渦巻く極限状況の中で交わされた一首の和歌。それは、戦国武将の精神構造の複雑さ、すなわち、彼らが破壊者であると同時に、文化の担い手でもあったという二面性を象徴する、忘れがたい一場面なのである。
第二章:一矢に託された風流 ― 和歌の応酬、その瞬間
膠着した戦線、静まり返った夜の川辺で、突如として放たれた一本の矢。それは殺意ではなく、風流の心を乗せた矢文であった。『佐土原藩譜』の記述に基づき、その瞬間を時系列に沿って再現する。
2-1. 時系列での再現:矢文が放たれるまで
- 状況設定: 時は長月(旧暦九月)。澄み渡った秋の夜空には月が皓々と輝き、その光が一ツ瀬川の川面を静かに照らしている。対岸の島津陣営が息を殺して警戒を続ける中、大友方の船上では、将たちによる酒宴が続いていた 1 。
- 発案と詠歌: この静謐と緊張が入り混じる情景に、大友軍に属していた「織田某(おだ なにがし)」と記される一人の武将が心を動かされた。彼は傍らにあった短冊と筆を取り、眼前の光景と自らの心境を重ね合わせ、一首の和歌を詠んだ 1 。
- 実行: 詠み終えた歌を記した短冊は、一本の矢に結びつけられた。そして、「織田某」は弓の名手として知られた緒方勇右衛門に命じ、その矢を対岸の島津陣営へと射込ませたのである。闇を切り裂いて飛来した矢は、島津の兵の手に渡り、やがて大将たちの元へと届けられた 1 。
2-2. 和歌の詳解:「隔たりし空」に込められた心
島津の陣に届けられた短冊には、流麗な筆致で次の一首が記されていた。
「何の世に 語り合せん 長月(ながつき)の 月の詠(なが)めも 隔たりし空」
この三十一文字に込められた意味を、一句ずつ詳細に分析する。
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句 |
原文 |
読み下し |
現代語訳 |
解釈・背景 |
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初句 |
何の世に |
いづれのよに |
いったいどの世で(再会できるというのか) |
「何の~」は強い反語表現。後世で会うことなど到底ありえない、という強い否定の意を含む。 |
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二句 |
語り合せん |
かたりあわせん |
親しく語り合うことなどできようか(いや、できない) |
「ん」は推量の助動詞だが、ここでは反語の意を強める。「語り合はす」は、心を通わせて談笑する様を示す。 |
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三句 |
長月の |
ながつきの |
この美しい九月の |
「長月」は秋の季語。月が最も美しい季節とされ、詩歌の題材として好まれた。戦場の殺伐とした雰囲気との対比を際立たせる。 |
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四句 |
月の詠めも |
つきのながめも |
この月を眺める感慨深い思いも |
「詠め(ながめ)」は単に「眺める」行為だけでなく、詩歌を詠みたくなるような深い感慨や物思いにふける様を指す。 |
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結句 |
隔たりし空 |
へだたりしそら |
(あなた方とは)隔てられてしまったこの空の下では |
敵味方という立場によって、同じ月を見ていても心を通わせることはできない、という断絶感と無常観を表現している。 |
この歌は、表面的には「こんなに美しい月夜だというのに、敵味方に分かれてしまった我々が語り合うことなどできようか。いや、できはしない」という感慨を述べたものである。しかし、その裏には複雑なニュアンスが隠されている。それは、敵である島津の武人たちに対し、「貴殿らもまた、この月の美しさが分かる風流人であろう」と呼びかける一種の敬意の表明であると同時に、「この戦が終わるまで、我々の間に心の交流はない」という冷徹な現実認識の表明でもある。あるいは、酒宴の席からの余裕綽々とした挑発と受け取ることも可能であろう。優雅な言葉の中に、武人らしい矜持と諦念、そしてかすかな敵意が織り込まれた、極めて高度なコミュニケーションといえる。
2-3. 沈黙の返答:島津方の反応
興味深いことに、『佐土原藩譜』には、この雅な挑戦に対する島津方の反応が一切記されていない。返歌が詠まれたという記録も、この矢文をどう評価したかという記述も存在しないのである。
この「沈黙」が何を意味するのか、いくつかの可能性が考えられる。
第一に、島津方はこれを敵の油断とみなし、風流に応じることなく、武をもって応えるのみとした可能性である。戦況を動かす好機を窺っていた彼らにとって、歌遊びに興じる余裕はなかったのかもしれない。
第二に、返歌を準備する間もなく、戦況が急展開を迎えた可能性である。この逸話の直後、戦線は動き出し、耳川での決戦へと雪崩れ込んでいく。
第三に、島津の将たちも歌に感心はしたものの、そのやり取りが公式な記録として残らなかっただけ、という可能性も捨てきれない。
いずれにせよ、この逸話は、大友方からの詩的な「投げかけ」と、島津方の「沈黙」という、非対称な形で完結している。この応答の欠如が、かえって物語に深い余韻と解釈の幅を与え、後世の人々の想像力を掻き立てる要因となっているのである。
第三章:詠み人「織田某」を巡る考察
この逸話の中心にありながら、その正体が歴史の霧に包まれている人物、それが歌の詠み手とされる「織田某」である。彼の存在は、この逸話に深みと謎を与える重要な鍵となっている。
3-1. 謎の人物「織田某」とは誰か
『佐土原藩譜』は、この人物を「織田某」と記すのみで、その素性については一切言及していない 1 。「某(なにがし)」という表記は、名前が伝わっていないか、あるいは意図的に伏せられていることを示唆する。この謎めいた人物の正体について、いくつかの仮説を立てて考察することができる。
3-2. 可能性1:織田信長からの派遣武将説
最も興味深く、そして歴史的な重要性を帯びるのが、この人物が中央の覇者・織田信長と関係のある人物だったとする説である。当時、大友宗麟は、いち早く信長の実力を見抜き、中国伝来の高級な盆や、当時最新鋭の兵器であった大砲(国崩し)を贈るなどして、友好な関係を築いていた 13 。
この緊密な関係を考慮すれば、信長が同盟者である大友氏の重要な戦に、自らの一族や重臣を軍監や連絡将校として派遣していた可能性は十分に考えられる。天正6年(1578年)当時、信長は播磨戦線で毛利氏と激しく対立しており 14 、九州における毛利方の同盟者である島津氏を牽制する大友氏の戦いは、信長にとっても他人事ではなかった。もし「織田某」が信長からの派遣武将であったとすれば、この逸話は単なる九州の一地方合戦におけるエピソードという枠を超え、織田、毛利、大友、島津といった大勢力が絡み合う、全国的な戦略の一端を示す貴重な傍証となる。
3-3. 可能性2:仮名・筆名説
もう一つの可能性として、「織田」という姓が本名ではなく、後世の創作における脚色や、あるいは当時使われた仮名・筆名であるという説が考えられる。戦国時代から安土桃山時代にかけて、「織田」という姓は天下人の象徴であった。後世の編纂者が物語に権威と彩りを加えるため、あるいは、詠み人の風流な振る舞いが天下人・信長の家臣にふさわしいと考え、この姓を付会した可能性は否定できない。
また、「某」という記述自体が、この人物の存在が伝承の段階で既に曖昧であったことを示している。特定の個人ではなく、大友軍にいたであろう「風流を解するある武将」の象徴として、「織田某」という名が与えられたのかもしれない。
3-4. 結論:歴史の霧の中へ
現存する一次史料や、大友・島津双方の信頼性の高い記録の中に、「織田某」に該当する人物を見出すことは極めて困難である。結論として、彼の正体を特定することは、現時点では不可能と言わざるを得ない。
しかし、歴史研究の観点から見れば、この人物を特定できるか否かという問題以上に、なぜ「織田」という名がこの逸話に登場するのか、という問いの方が重要である。特定できない謎の人物「織田某」の存在は、この逸話の史実性を揺るがす要因であると同時に、その魅力を増幅させる装置としても機能している。一地方の合戦に中央情勢の影を落とし、読者の想像力を掻き立てる。彼は、歴史の霧の中から現れ、一首の歌を矢に託して放つと、再び霧の中へと消えていった。その謎に満ちた存在こそが、この逸話を単なる美談に終わらせない、深い奥行きを与えているのである。
第四章:史料批判 ―『佐土原藩譜』の信憑性と逸話の真実性
いかなる歴史的逸話も、その典拠となる史料の性格を抜きにしては正しく評価できない。この風流な和歌の応酬が、唯一『佐土原藩譜』という史料によってのみ伝えられているという事実は、我々に慎重な史料批判を要求する。
4-1. 典拠史料『佐土原藩譜』とは
『佐土原藩譜』は、逸話が生まれた天正6年(1578年)当時に記された一次史料ではない。これは、江戸時代中期以降に、日向国佐土原藩(薩摩藩主・島津氏の支藩)の藩命によって編纂された、後世の編纂物である 15 。その目的は、藩の公式な歴史書として、藩祖や先人たちの功績を記録し、後世に伝えることにあった。
このような後世の編纂物は、一次史料にはない物語性や、編纂者の解釈が加わることが一般的である。特に、自藩の歴史を輝かしいものとして描こうとする意図が働くため、その記述は無条件に史実として受け入れることはできず、常に批判的な視点からの検討が必要となる。
4-2. 『佐土原藩譜』の信憑性に関する問題点
『佐土原藩譜』は、佐土原藩の歴史を知る上で貴重な史料である一方、その記述の正確性については、研究者からいくつかの疑問が呈されている。例えば、他の箇所では、伊東氏の当主の名前を初代当主や、まだ生まれていない孫の名前と混同するなど、人物の取り違えが見られることが指摘されている 17 。
このような誤記の存在は、『佐土原藩譜』が必ずしも正確な事実に基づいて編纂されたものではない可能性を示唆する。したがって、本稿で取り上げた和歌の逸話についても、その細部に至るまで完全に史実であったと断定することはできない。特に、詠み人とされる「織田某」のような、他の史料で裏付けの取れない人物の登場は、物語に劇的な効果を与えるための「潤色」や「創作」が加えられた可能性を考慮すべきであることを示している。この逸話は、厳密な意味での「史実」というよりは、佐土原藩に伝わっていた「そのような伝承」として捉えるのが最も妥当な姿勢であろう。
4-3. なぜこの逸話は記録されたのか
では、史実性が確定できないにもかかわらず、なぜこの逸話は編纂者によって採録され、今日まで語り継がれてきたのだろうか。その意図を考察することで、この物語が持つ本質的な価値が見えてくる。
第一に、島津氏の武威の高さを間接的に示すためという意図が考えられる。敵である大友軍が、決戦を前にして酒宴を開き、和歌を詠むほどの余裕を見せたのは、裏を返せば、それだけ島津軍が恐るべき相手であり、極度の緊張から逃避する必要があった、あるいは、そのような風流な振る舞いをもってしか精神の均衡を保てなかった、という解釈が可能である。編纂者は、敵方の優雅な行動を描くことで、逆説的に島津軍の強大さを際立たせようとしたのかもしれない。
第二に、戦というものの無常観や、敵味方を超えた武士の共通の美意識を表現するためという意図である。たとえ殺し合う敵同士であっても、同じ月の美しさに感動し、それを歌という形で表現する精神は共有されている。この逸話は、戦の非情さと、その中にあっても失われることのない人間性や文化の尊さを描くことで、読者に深い感銘を与える物語として採録されたと考えられる。
歴史を学ぶ上で、「史実性」と「真実性」は必ずしも一致しない。この逸話は、客観的な事実としての「史実性」には疑問符が付くかもしれない。しかし、それが戦国から江戸時代にかけての武士たちが抱いていた「戦場でも風流を忘れないのが理想の武人である」という美意識や、「我らが先祖の戦いは、敵方からも一目置かれるほどのものであった」と佐土原藩士が信じ、語り継ぎたかったという、歴史的な「真実」を雄弁に物語っているのである。
結論:逸話が映し出す島津義久の実像と武士の美学
本報告書を通じて行ってきた徹底的な調査は、島津義久にまつわる一つの著名な逸話の、知られざる真相を明らかにした。その要点を以下に総括する。
第一に、通説とは異なり、和歌を敵陣に送ったのは島津義久ではなく、対峙する大友軍にいた「織田某」なる謎の武将であったこと。
第二に、この逸話の唯一の典拠は、江戸時代に編纂された『佐土原藩譜』であり、その史実性は確定できないこと。物語的な潤色や創作が含まれている可能性を否定できない。
第三に、しかしながら、この逸話は史実性の問題を越えて、凄惨な戦場の現実と、その中でなお求められた風流の心という、戦国武将の多面的な精神性を象徴する物語として、極めて高い価値を持つこと。
では、この逸話の主役が義久でなかったとすれば、なぜこの種の物語が彼のイメージと強く結びつき、語り継がれてきたのだろうか。その答えは、島津義久という武将が持つ、他に類を見ない人物像そのものにある。
義久は、九州のほぼ全土を手中に収めながら、その武功を自ら誇ることはなかった。徳川家康との対話において、「私は何もしていない。弟たちや家臣がよく戦ってくれたおかげだ」と謙虚に語り、家康を感心させたという逸話は、彼の統率者としての器の大きさを示している 18 。また、別の逸話では、敵将の首が未亡人によって足蹴にされたと聞くや、「いかに女であろうとも、武将の首を足蹴の恥にあわせるとは許せぬ。礼もなく儀もない愚かな女だ」と激怒し、武士としての礼節を何よりも重んじる姿勢を見せている 19 。
このような、単なる猛将ではない、徳と礼節を兼ね備えた大将としての義久の姿こそが、「敵にさえ和歌を贈る」というような、高度な教養と精神的余裕を必要とする逸話の主役として、彼をふさわしい人物たらしめたのである。たとえ事実が異なっていたとしても、人々は島津義久ならばそうしたであろうと自然に受け入れ、その物語を彼の美談として記憶に刻み込んだのだ。
最終的にこの逸話は、島津義久個人の物語という枠を超え、戦国武将が理想とした「文武両道」の精神と、死と隣り合わせの世界でこそ垣間見える人間性の輝きを描き出した、貴重な文化遺産と言える。血で血を洗う抗争の最中にも、一首の和歌に心を寄せ、同じ月を見上げる敵を思う瞬間があったかもしれない――。この物語は、我々に戦国という時代の計り知れない奥深さと、そこに生きた人々の複雑な心情を、今なお静かに語りかけているのである。
引用文献
- 天正六年八月 島津征久 上野城を攻む。 大友勢 耳川を渡って南進す - 佐土原城 遠侍間 http://www.hyuganokami.com/kassen/takajo/takajo7.htm
- 薩摩・島津家の歴史 - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/shimadzu-history/
- 相良義陽 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E7%BE%A9%E9%99%BD
- 島津家久筆詠草 | Keio Object Hub: 慶應義塾のアート&カルチャーを発信するポータルサイト https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/640
- 天正六年十一月 島津家当主 島津義久 軍勢を率いて佐土原城へ着陣す http://www.hyuganokami.com/kassen/takajo/takajo12.htm
- 【フロイス日本史】耳川の戦い(1) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/historical-material/documents8/
- 耳川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 大友宗麟がキリスト教にのめり込む、そして高城川の戦い(耳川の戦い)で大敗、ルイス・フロイスの『日本史』より https://rekishikomugae.net/entry/2022/06/22/081649
- 耳川の戦い(高城川の戦い)/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(4) - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2022/08/24/153314
- 耳川の合戦 http://www.oct-net.ne.jp/moriichi/battle17.html
- 「耳川の戦い」(国際通信社:コマンドマガジン153号)を対戦する。(3)第2戦目(2020年9月) https://yuishika.hatenablog.com/entry/2020/09/08/173000
- 天正六年十一月 両雄ついに高城川にて激突す(高城の合戦) - 佐土原城 遠侍間 http://www.hyuganokami.com/kassen/takajo/takajo15.htm
- 豊臣秀吉とのつながり 織田信長とのつながり 大友宗麟の生涯 https://www.city.oita.oita.jp/o205/documents/sourinntotennkabito.pdf
- 1578年 – 79年 御館の乱 耳川の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1578/
- 明治維新と武士 - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/af23/documents/71317_20190322183444-1.pdf
- 資料番号 文書名 著者名等 冊数 記載年 記載年西暦 成立年 ... - 高鍋町 https://www.town.takanabe.lg.jp/material/files/group/17/R7kityousyodennsikamokuroku.pdf
- 伊東義祐 政道を怠り、民や諸将 大いに嘆く http://www.hyuganokami.com/kassen/takajo/takajo1.htm
- 島津義久の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/98845/
- 戦国浪漫・面白エピソード/名言集・島津義久編 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sen-epys.html