最終更新日 2025-10-25

島津義久
 ~弟の退却を「退く勇」と称えた~

島津義久が弟・義弘の関ヶ原での決死の退却を「退く勇」と称賛した逸話の真偽を検証。史料では叱責の記録もあるが、島津家の生存戦略としての政治的意図が背景にある。

島津義久と「退く勇」の寛容譚:関ヶ原からの生還を巡る逸話の真相

序章:語り継がれる美談―「家の誇りは退く勇なり」

戦国時代の数多の逸話の中でも、島津義久が弟・義弘の決死の退却を称賛したとされる物語は、ひときわ強い輝きを放っている。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い。西軍の敗色が濃厚となる中、戦場に取り残された島津義弘は、敵中枢を正面から突破するという前代未聞の退却戦を敢行し、多くの犠牲を払いながらも奇跡の生還を遂げた。この報告を受けた当主・義久は、敗戦と多大な犠牲を咎めるどころか、**『家の誇りは退く勇なり』**と、その類稀なる武勇と決断を最大限に称えたという。この寛容譚は、兄弟の深い絆、大将の器量、そして進むことのみが武士の名誉ではないという「退く勇」の価値観を象徴する美談として、後世に語り継がれてきた。

しかし、この感動的な物語は、歴史的事実としてどの程度まで信頼できるのであろうか。本レポートは、この一点の逸話に焦点を絞り、その背景となる関ヶ原の戦況から、壮絶を極めた薩摩への帰還、そして兄弟再会の瞬間に至るまでを時系列に沿って再構築する。さらに、信頼性の高い史料を基に、この美談とは全く逆の「叱責」という記録が存在することも踏まえ 1 、逸話が形成された歴史的背景と、その裏に隠された島津家の生存戦略を徹底的に解明することを目的とする。

第一章:慶長五年九月十五日、関ヶ原―孤立への序曲

寡兵1,500の布陣とその背景

関ヶ原の戦いにおいて、島津義弘が動員できた兵力は、甥の島津豊久の軍勢を合わせても僅か1,500名程度であった 2 。これは、島津家の石高からすれば異常なほど少ない兵力である。その最大の理由は、国元で実権を握る当主・島津義久が、義弘からの増援要請に応じなかったことにある 2 。この義久の判断の背景には、関ヶ原の戦いが勃発する前年に、家臣の伊集院忠棟が義弘の子・忠恒(後の家久)に斬殺された事件に端を発する家中の内紛「庄内の乱」がくすぶっていたこと 6 、そして豊臣秀吉による九州平定以降、中央の政争とは巧みに距離を置こうとする義久の極めて慎重な姿勢があった。

そもそも義弘の上洛は、徳川家康による会津の上杉景勝討伐に参加するためであり、当初は東軍に与する意図があった。しかし、伏見城の城将・鳥居元忠に事前の連絡がないことを理由に入城を拒絶され、行き場を失った結果、やむなく石田三成を中心とする西軍に与したという複雑な経緯が存在する 6

義弘がわずかな手勢で上方に取り残されたこの状況は、単なる準備不足や不運の結果と見るべきではない。むしろ、それは島津家全体の存続を最優先する義久の、冷徹なまでの政治的判断の表れであった。豊臣秀吉に九州統一の夢を阻まれた経験から、義久は中央権力との全面対決を極力避ける現実主義者となっていた 5 。家中の統制も完全ではないこの時期に、義弘の要請通りに数万の大軍を派兵することは、西軍に島津家の命運の全てを賭けるに等しい。それは知略に長けた義久が最も忌避する選択であった。したがって、義弘が戦場で孤立する危険を冒してでも、本国(島津家本体)の兵力を温存し、戦後のいかなる状況にも対応できる交渉カードとして手元に残すことが最善手だと判断したのである。上方における義弘の軍事行動は、いわば島津家にとっての「観測気球」であり、どちらが勝利しても家名を存続させるための高度な「保険」であったのだ。

戦場での孤立と決断の瞬間

慶長五年九月十五日、合戦当日。島津隊は西軍の一翼を担い布陣したものの、兵力の少なさから積極的に動くことはなく、戦況を静観していたと伝えられる 7 。これは、寡兵ゆえに防戦に専念せざるを得なかったという見方 12 と、決戦前夜に義弘が献策したとされる夜襲策を石田三成が退けたことへの不信感から、意図的に動かなかったという説 13 がある。

午後になると、松尾山に陣取っていた小早川秀秋の裏切りをきっかけに、西軍は雪崩を打って総崩れとなった 6 。敗走する味方の兵が自陣になだれ込む混乱の中、最後まで陣を動かさなかった島津隊は、約八万と号される東軍の只中、戦場の中央に完全に孤立する形となった 2

四方を数万の敵兵に包囲された絶望的な状況下で、義弘は一度、潔く討死することを覚悟した。しかし、その傍らにいた甥の島津豊久が「生きて薩摩に帰り、再起を図るべきです。死ぬための戦ではなく、生きるための退却戦を」と強く諫め、説得した 8 。この甥の言葉に心を動かされた義弘は、戦国史上でも類を見ない「敵陣正面突破による退却」という、常軌を逸した決断を下す。背後の伊吹山方面は、敗走する西軍の兵で大混乱に陥っており、追撃されればひとたまりもない。ならば、敵が予期せぬ正面こそが、唯一の活路であると判断したのである 7

第二章:死線からの脱出―「島津の退き口」のリアルタイム再現

敵中突破の開始

午後二時過ぎ、西軍の敗走が続く中、戦場に唯一踏み留まっていた島津隊は、全軍を一つの塊とする鋒矢の陣形を組み、前方の徳川家康本陣を目指して静かに前進を開始した 18 。この鬼気迫る島津隊の動きに、当初、東軍の諸将は最後の決死の突撃と見て、驚きと共にその進路を空けたと伝えられる 18

島津隊は家康の本陣を目前に掠めると、おもむろに進路を南へ転じ、伊勢街道方面への脱出を図った 7 。この大胆不敵な行動は、東軍の度肝を抜いた。一説には、この時、義弘は家康に使者を送り、戦場からの離脱を告げる挨拶を行ったとも記録されている 19

追撃部隊との死闘と「捨て奸」の実態

島津隊の意図が退却にあると察知した東軍は、直ちに追撃を開始した。中でも、徳川四天王の井伊直政と本多忠勝、そして家康の四男・松平忠吉らの部隊は、執拗に島津隊の後尾に食らいついた 6

この壮絶な退却戦において、島津隊が用いたのが、後に**「捨て奸(すてがまり)」**としてその名を轟かせる戦法であった。これは、本隊を先に行かせるため、殿(しんがり)を務める数名から十数名の小部隊がその場に踏み留まり、追撃してくる敵部隊の指揮官を標的に鉄砲を放って足止めし、自らは玉砕覚悟で時間を稼ぐという、凄絶な戦術である 2

興味深いことに、「捨て奸」という名称自体は、島津家が遺した同時代の一次史料には見当たらない 20 。これは、後世の軍記物語などが、この特異な戦術に英雄譚としての物語性を付与するために名付けた可能性が高い。しかし、その戦術の実態、すなわち「座禅陣」とも呼ばれる、地面にあぐらをかいて身を隠し、敵将を冷静に狙撃するという行為そのものは紛れもない事実であった 8 。この名称の有無は、歴史的事実が後世に語り継がれる過程で、いかに物語として昇華されていくかを示す好例と言える。

烏頭坂の激戦と犠牲

退却路の最大の難所となった烏頭坂(うとうざか、現在の岐阜県大垣市上石津町)において、東軍の追撃は熾烈を極めた。

この地で殿を務めた島津豊久は、付き従う中村源助ら十三騎と共に、猛追する大軍の中に死を覚悟で突入し、獅子奮迅の働きを見せた末に壮絶な討死を遂げた 8 。また、義弘の家老である長寿院盛淳も、主君から賜った陣羽織を身にまとい、自らが義弘であると名乗って敵を引きつけ、身代わりとなってその命を散らした 15

この激戦の最中、島津方の鉄砲隊が放った一弾が、追撃軍の総指揮官であった井伊直政の右肘を撃ち抜き、落馬させた 6 。この負傷(一説には松平忠吉も負傷)により、東軍の追撃の統制は乱れ、その勢いは決定的に鈍った。豊久や盛淳らの自己犠牲と、この狙撃の成功が、義弘本隊が生還するための最後の活路を切り開いたのである。

第三章:薩摩への道―生還者八十余名の苦難

19日間の逃避行

関ヶ原の戦場を辛うじて離脱した義弘率いる本隊であったが、故郷薩摩への道はまだ遠く、苦難に満ちていた。一行は伊勢街道を南下した後、駒野峠を越えて近江へと抜ける険しい山道を選択した 15 。これは、主要な街道を避け、追手を振り切るための苦渋の決断であった。

その後も、信楽、奈良を経て堺へと至る道中は、敗軍の将を狙う落人狩りの危険と、飢えとの絶え間ない戦いであった 18 。堺に到着した義弘は、大坂城に人質として留め置かれていた妻の宰相殿や、義久の娘であり忠恒の正室である亀寿らを機転を利かせて救出し、共に船に乗って海路薩摩を目指した 18

慶長五年十月三日、義弘一行はついに大隅国の富隈城(とみくまじょう)に帰り着いた 16 。関ヶ原での退却開始から実に十九日間を要した、過酷な旅路の終わりであった。

甚大な犠牲

この奇跡の生還劇は、あまりにも大きな代償の上に成り立っていた。関ヶ原に1,500の兵を率いて参陣した島津軍のうち、主君・義弘と共に再び薩摩の地を踏むことができた者は、わずか八十数名であったと伝えられている 8 。この数字は、後世に「島津の退き口」と称される撤退戦がいかに壮絶なものであったかを、何よりも雄弁に物語っている。

第四章:富隈城での再会―兄・義久の第一声

運命の対面

十九日間の苦難の末、着の身着のまま、疲弊しきった姿で帰還した弟・義弘と、供回りのわずかな家臣たち。彼らを、国元で静かに戦況の推移を見守っていた当主・島津義久が出迎える。この場面こそが、本稿が探求する逸話のクライマックスである。義弘の胸中には、多くの忠臣、そして後継者候補の一人であった最愛の甥・豊久を失ったことへの深い自責の念と、敗軍の将としての無念さが渦巻いていたに違いない 21

逸話の検証―称賛か、叱責か

この兄弟再会の場面について、歴史上、全く正反対の二つの記録が伝えられている。

一つは、本稿の主題である**【称賛説】**である。「家の誇りは退く勇なり」という言葉に代表されるように、義久は弟の類稀なる武勇と、絶望的な状況から生還した指揮能力を最大限に称賛したとされる。これは、結果として島津の武名を天下に轟かせた功績を讃える、度量の大きい名君としての義久像を浮かび上がらせる。

しかし、もう一つ、より現実的な記録として**【叱責説】**が存在する。それは、義弘の独断での西軍参加が島津家全体を存亡の危機に陥れたとして、義久が弟を厳しく叱責し、蟄居を命じたというものである 1

この二つの説のどちらがより事実に近いのかを検証するため、関連する史料をその性質と成立年代から比較検討する必要がある。

表1:島津義弘帰還に対する義久の反応に関する史料比較

史料名

成立年代

史料の性質

義久の反応の記述内容

信憑性評価

『薩藩旧記雑録』

江戸時代後期(編纂)

藩の公式編纂史料(一次史料を多く含む)

義弘の西軍参加を「義弘の独断」とし、戦後交渉の経緯を詳述。直接的な称賛・叱責の会話記録は乏しいが、義久が義弘を「処罰」する形で徳川との交渉に臨んだことを示唆する。

高い。藩の公式見解と、基になった一次史料の客観性を反映している。

『薩州旧伝集』

江戸時代後期

薩摩藩士の言行・伝聞をまとめた聞書集

英雄譚や教訓的な逸話が多く含まれる。「称賛説」に近い、義弘の武勇を讃える文脈の記述が見られる傾向がある。

中程度。同時代の記録ではなく、後世の伝聞や理想化が含まれる可能性がある。

各種軍記物語(例:『関ヶ原軍記大成』)

江戸時代中期~後期

軍記物語(文学作品)

物語としての面白さを追求するため、劇的な場面が創作されることが多い。「称賛説」のような感動的な逸話の源流となっている可能性が高い。

低い。史実性よりも物語性を重視しており、創作・脚色が色濃い。

現代の研究・解説書( 1 など)

現代

歴史研究

複数の史料を比較検討し、戦後の対徳川交渉という政治的文脈から、義久が義弘を「叱責し、蟄居させた」とする説を妥当としている。

高い。客観的な状況証拠と史料批判に基づいている。

この比較から明らかなように、「称賛説」は主に江戸時代中期以降に成立した軍記物語や伝聞集に見られる傾向があり、物語性や教訓性を重視した結果、理想化された逸話として形成された可能性が極めて高い。一方で、より一次史料に近い藩の記録や、客観的な政治状況を分析した現代の研究では、戦後の対徳川交渉という現実的な課題を前にした義久が、政治的意図をもって義弘を「叱責」したとする説が有力となっている。

第五章:逸話の形成と島津家の生存戦略

「叱責」の裏にある高度な政治戦略

では、なぜ義久は満身創痍で帰還した弟を叱責したのか。それは、単なる感情的な怒りや責任追及ではなく、徳川家康との戦後交渉を有利に進めるための、計算され尽くした 高度な政治的パフォーマンス であった。

関ヶ原の戦後、西軍に与した島津家は、徳川家から改易・領地没収の処分を受けても何ら不思議はなかった 1 。事実、家康は九州の諸大名に島津討伐の準備を命じている 1 。この絶体絶命の危機を乗り切るため、義久は一貫して「西軍への参加は、上方にいた義弘が独断で行ったことであり、島津家当主である自分は一切関知していない」という論理を展開した 5 。そして、その主張に絶対的な信憑性を持たせるために、国元でその「張本人」である義弘を公然と処罰し、蟄居させているという形を内外に示す必要があったのである。

これは、島津家が生き残るための、兄弟による見事な「役割分担」であった。まず、義弘が「武」の側面で、「島津の退き口」という比類なき武勇伝を創り上げた。これにより、徳川方に対して「島津家を武力で討伐しようとすれば、計り知れない損害を被ることになる」という強烈なメッセージを植え付けた 28 。そして、その武力を交渉の背景としながら、義久が「知」の側面で、「当主である我々は徳川家に敵対する意思はない」という柔軟な姿勢で粘り強い外交交渉を展開した 1 。義久による義弘への「叱責」は、この二正面作戦を成功に導くための、極めて重要な一幕だったのである。

なぜ「称賛」の物語が生まれたのか

江戸時代に入り、島津家が薩摩藩七十七万石の藩主としてその地位を確立し、世が泰平になると、関ヶ原の危機を乗り越えた英雄譚を、より理想的な形で後世に伝える必要性が生じた。

「当主が、家の武名を高めた弟を厳しく叱責した」という事実は、ややもすれば家中の不和や亀裂を想起させかねない。そこで、義久を「弟の武功を心から讃える度量の大きい名君」として、義弘を「その期待に見事応えた猛将」として描くことで、島津家の歴史をより輝かしいものとして再構成したと考えられる 30

特に、薩摩藩独自の武士教育システムである「郷中教育」が確立される中で、この「称賛」の逸話は、薩摩武士(薩摩隼人)たちにとって、主君への絶対的な忠誠と、いかなる逆境にも屈しない不撓不屈の精神を象

徴する、格好の教育的物語としての役割を担うようになったのである 17。

結論:虚実の先に浮かび上がる「島津の誇り」

本レポートで収集した史料と状況証拠を総合的に分析した結果、島津義久が帰還した弟・義弘に対し、「家の誇りは退く勇なり」と称賛したという逸話は、文字通りの歴史的事実である可能性は極めて低いと結論付けられる。むしろ、関ヶ原の戦後処理という極めて現実的な政治課題を前に、対徳川交渉のための戦略的演出として、義弘を公然と「叱責」し、その責任を一身に負わせる形を取ったというのが、歴史の実態に限りなく近いであろう。

しかし、後世に創作された可能性が高いこの美談は、逆説的に、島津家が関ヶ原という存亡の危機を乗り越えた本質を、より深く、そして象徴的に描き出している。島津家の真の「誇り」とは、単に義弘が見せつけた驚異的な武勇(退く勇)だけではなかった。その武勇によって生まれた「島津恐るべし」という軍事的名声を、家の存続という政治的目的のために最大限に活用した義久の老獪な知略。この**「武」と「知」**、すなわち義弘の戦場での決断と、義久の交渉の場での決断が、絶妙な連携となって機能したことこそが、島津家を守り抜いた力の源泉であった。

「家の誇りは退く勇なり」という言葉は、富隈城で実際に交わされた会話ではないかもしれない。だがそれは、義弘の決死の退却と、それを政治的に活用して本領安堵という最大の戦果を勝ち取った義久の外交手腕、その両者によって体現された「島津家の総合的な強さ」そのものを凝縮した、本質的な真実を内包する物語として、後世に語り継がれるにふさわしい価値を持つと言えるだろう。

引用文献

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  2. 西軍 島津義弘/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41117/
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  4. 関ヶ原の合戦における島津義弘軍の本来の軍事的位置について|栄村顕久 - note https://note.com/super_mink2656/n/nd89b5842e93b
  5. 島津義久の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/98845/
  6. 関ヶ原の戦いで正面突破!島津義弘の魅力と人物像を徹底分析 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/68788/
  7. 島津義弘公の戦い(第二部) | 特集 | 【公式】鹿児島県観光サイト かごしまの旅 https://www.kagoshima-kankou.com/feature/shimadu2019/introduction3
  8. 関ヶ原の戦いで島津の退き口が成功した理由/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/tokugawa-15th-shogun/shimazunonokiguchi-seiko-riyu/
  9. 島津義弘の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/62410/
  10. 島津義久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
  11. 義弘が大軍を率いていたら… - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/129
  12. 島津の退き口はなぜ起きた? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=60SY8QTuKfk
  13. 島津豊久は、なぜ関ケ原で石田三成に非協力的だったのか - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3317
  14. 島左近関連逸話集3・関ヶ原合戦とその後 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon_ep03.html
  15. 敵中突破!関ケ原合戦と島津の退き口 - 大垣観光協会 https://www.ogakikanko.jp/shimazunonokiguchi/
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  17. 【ドリフターズ】島津豊久の妖怪首おいてけエピソード解説|恐ろしき薩人マシーン島津家 | DTI https://dream.jp/douga/tips_d/article30396.html
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  23. 「島津豊久」は父・家久と伯父・義弘の薫陶を受けた名将であった! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/102
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  26. 【島津義久】秀吉に屈した薩摩の巨人~その生涯と九州統一の夢、豊臣政権との駆け引き https://sengokubanashi.net/column/shimaduyoshihisa/
  27. 島津義久は何をした人?「雑なウソでひきこもって家康から九州の領地を守った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshihisa-shimadzu
  28. 【島津義久・義弘】関ケ原で負けた島津家に61万石の価値があると思わせたマーケティング力 https://sengoku-swot.jp/swot-shimazuyoshihisa/
  29. 家久、徳川家康と和睦し領地を安堵される - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/iehisa-ieyasu/
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  31. 戦国三英傑の特徴と逸話/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/26430/
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  34. 島津義弘は何をした人?「関ヶ原で魅せた退き口や鬼石曼子など最強の名を馳せた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshihiro-shimadzu