島津義弘
~敵中突破で槍を折り笑い壮絶~
島津義弘の「槍を折り笑い壮絶」逸話は創作。関ヶ原の「島津の退き口」は史実だが、剛力と極限での笑いが融合。薩摩武士の不屈の精神と戦略的勝利を象徴。
島津義弘「関ヶ原敵中突破における折槍哄笑譚」の歴史的考証 ― 史実と伝説の狭間
序章:逸話への問い
島津義弘という武将の名を語る上で、しばしば引用される一つの壮絶な逸話がある。「退却中、敵中突破の最中に敵兵の槍を手折り『我が命ここまで』と笑ったとされる壮絶譚」―この物語は、死を目前にしながらも一切の恐怖を見せず、むしろそれを嘲笑うかのような義弘の豪胆さを描き出し、戦国武将の理想的な死生観を凝縮した情景として、多くの人々の心を捉えてきた。
しかし、この鮮烈なイメージを持つ逸話は、その典拠を尋ねると、確固たる歴史の地盤から浮き上がっていることに気づかされる。薩摩藩が編纂した公式史料や、関ヶ原の戦いを描いた主要な軍記物の中に、島津義弘自身が敵兵の槍をその手で折り、哄笑したという直接的な記述を見出すことは極めて困難である 1 。
したがって、本報告書は、この逸話を単なる物語として詳述することを目的としない。むしろ、歴史考証のメスを入れ、「この逸話は史実なのか、それとも伝説なのか」「もし伝説であるならば、それはいつ、どのようにして生まれ、何を象徴しているのか」という核心的な問いを解明する歴史的探求である。そのために、まず逸話の舞台となった慶長五年九月十五日の関ヶ原、その絶望的な戦況から筆を起こし、壮絶を極めた「島津の退き口」の実像を時系列で再構築する。そして、その極限状況を背景として、核心である「折槍哄笑譚」の信憑性を、史料、物理的・心理的可能性、そして伝説形成の観点から徹底的に検証していく。これは、一人の英雄の物語の真偽を問うだけでなく、史実が伝説へと昇華される過程を追う試みでもある。
第一部:死線の舞台 ― 関ヶ原における島津軍の孤立と決断
第一章:西軍総崩れと「戦場の孤児」
慶長五年(1600年)九月十五日、天下分け目の関ヶ原合戦は、当初西軍有利との観測もあったが、昼過ぎに戦況は急変する。松尾山に陣取っていた小早川秀秋隊一万五千が東軍に寝返り、大谷吉継隊に襲いかかったのを皮切りに、西軍の統制は堰を切ったように崩壊した 5 。脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった諸隊がこれに続き、西軍は連鎖的な総崩れに陥る。石田三成、小西行長、宇喜多秀家といった西軍主力部隊も次々と敗走し、広大な関ヶ原の戦場は、逃げる西軍兵と追撃する東軍兵で埋め尽くされた 7 。
この混乱の中、戦場の中央、小池村付近に布陣していた島津義弘の部隊は、完全に孤立無援の状態に陥っていた 3 。彼らがこの決戦において、緒戦から積極的な戦闘に参加しなかった背景には、伏見城攻防戦の前哨戦における東軍方との軋轢や、西軍総大将である石田三成との根深い確執があったとされる 8 。三成からの再三の出撃要請にも「好きに戦う」と応じず、独自の判断を貫いた結果、島津隊は戦況の趨勢から取り残され、気づけば周囲を数万の敵兵に包囲される「戦場の孤児」と化していたのである 8 。当初、上方へ馳せ参じた兵力は約1,500名であったが、合戦の混乱の中で既にその数は300名から500名程度にまで激減していたと伝えられている 7 。
第二章:死か、生か ― 撤退方針を巡る軍議
四方を敵に囲まれ、味方はことごとく敗走した。この絶望的な状況下で、島津隊の陣中では最後の軍議が開かれた。
敗軍の将として、もはや生きて薩摩の地を踏むことは叶わぬと悟った島津義弘は、武士としての本懐を遂げるべく、目前に迫る徳川家康の本陣へ乾坤一擲の突撃を敢行し、壮烈な討死を遂げる覚悟を固めていた 9 。これは、潔い死を最上の名誉とする当時の武士の価値観を色濃く反映した決断であった。
しかし、この義弘の覚悟に真っ向から異を唱えたのが、甥の島津豊久であった。豊久は、家老の長寿院盛淳らと共に義弘を必死に諌めた。「殿は島津家の浮沈をその一身に担う大切なお体。我らが身代わりとなって敵を防ぎます故、必ずや薩摩へお戻りくだされ」と、生きて帰還することこそが島津家にとって最大の責務であると説いたのである 9 。戦後の徳川との交渉や、お家そのものの存続を考えれば、総大将である義弘の生還は絶対的な至上命題であった 13 。
この緊迫したやり取りの中で、一つの象徴的な言葉が記録されている。軍記物『関ヶ原軍記大成』によれば、死を覚悟する義弘に対し、豊久(作中では中務)は「あら笑止や。運の極(きわま)れる大将は此の乱軍に向へ迷ひ、是非を辯(わきま)へず」(なんと滑稽なことか。運が尽きた大将は、この乱戦を前に理性を失い、もはや物事の是非も判断できぬのか)と、大音声で叫んだという 2 。この「笑止」という言葉は、単なる嘲りではない。それは、死という運命を前にして思考停止に陥ることを拒絶し、絶望的な状況を客観視し、その先にあるべき道を見据えようとする、極めて強靭な精神の発露であった。この極限状況における「笑い」のモチーフは、本報告書の主題である義弘の「哄笑」譚と深く響き合い、その伝説が生まれる精神的土壌を暗示する、重要な伏線と見なすことができる。
豊久らの必死の説得は、ついに義弘の心を動かした。義弘は玉砕の覚悟を翻し、生きて薩摩へ帰ることを決断する。そして、選択された退路は、常識を遥かに逸脱していた。敗残兵が通常目指す後方(西)の伊吹山方面ではなく、敵軍が最も密集し、家康の本陣すら存在する前方(東)の伊勢街道方面へ向かって、文字通り敵の大軍のど真ん中を突き抜けるという、前代未聞の「前進退却」であった 7 。
第二部:壮絶なる「島津の退き口」― 時系列による戦闘の再現
義弘の決断一下、日本戦史に類を見ない壮絶な撤退戦「島津の退き口」の幕が切って落とされた。その凄惨な戦闘の経過を、可能な限り時系列に沿って再現する。
『島津の退き口』時系列戦闘記録
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時刻(推定) |
場所 |
島津隊の行動 |
東軍追撃隊の行動 |
特記事項 |
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14:00頃 |
関ヶ原古戦場中央 |
義弘、敵中突破を決意。約300の兵で家康本陣方向へ前進開始。 |
福島正則隊などが道を開ける。井伊直政、松平忠吉、本多忠勝らが追撃を開始。 |
義弘、家康に使者を出し「陣頭を通過する」と通告したという逸話も存在 14 。 |
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14:30頃 |
烏頭坂(うとうざか) |
殿(しんがり)の島津豊久隊が反転し、追撃隊を迎撃。「捨て奸」戦術を開始。 |
井伊・松平隊が豊久隊と激突。 |
豊久隊13名が奮戦 12 。豊久はここで討死、あるいは重傷を負う 6 。 |
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15:00頃 |
烏頭坂~勝地峠麓 |
長寿院盛淳らが第二陣の「捨て奸」として奮戦。義弘の身代わりとなり討死。 |
本多忠勝隊が猛追。 |
盛淳は義弘から賜った猩々緋の陣羽織を着用 15 。本多忠勝の愛馬が狙撃され落馬 12 。 |
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15:30頃 |
勝地峠(かちじとうげ)麓 |
最後の「捨て奸」部隊が座禅陣(胡坐陣)を敷き、鉄砲で追撃隊主力を狙撃。 |
井伊直政、松平忠吉が接近。 |
柏木源藤が井伊直政の右肘を狙撃し重傷を負わせる 17 。松平忠吉も負傷 18 。 |
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16:00以降 |
勝地峠~多良方面 |
義弘本隊、追撃を振り切り伊勢街道を南下。 |
井伊・松平の負傷により、組織的な追撃が事実上終焉。 |
義弘本隊は十数名にまで減少 10 。重傷の豊久は白拍子谷で自刃したとの説が有力 5 。 |
第一章:血路を開く ― 徳川本陣への突撃
退却の号令と共に、島津隊約300は一つの塊となり、前方の徳川軍目掛けて静かに、しかし恐るべき速度で前進を開始した。その異様な気迫に押され、正面にいた福島正則の部隊は戦慄し、左右に割れて道を開けたという 5 。彼らは、敗走する兵ではなく、死地に向かう覚悟を決めた鬼神の集団を目の当たりにしたのであった。
島津隊は、徳川家康が陣取る本陣の目前を通過した。数万の軍勢を率いる天下人・家康の眼前を、わずか数百の部隊が駆け抜けていく光景は、家康自身に計り知れない衝撃と恐怖を与えたに違いない 19 。この大胆不敵な行動こそが、後に島津家が厳しい戦後処理を乗り切る上で、無形の、しかし絶大な影響力を持つことになる。
第二章:烏頭坂の死闘 ― 殿軍・島津豊久の壮絶なる最期
関ヶ原の戦場を脱し、伊勢街道へ向かう山道に入ると、東軍の追撃は熾烈を極めた。特に猛追してきたのが、徳川四天王の井伊直政と本多忠勝、そして家康の四男・松平忠吉の精鋭部隊であった 5 。この窮地において、島津隊は彼らが得意とする、そして日本戦史において最も苛烈な殿戦術「捨て奸(すてがまり)」を実行に移す。
「捨て奸」とは、単なる殿戦とは一線を画す。本隊が退却する時間を稼ぐため、数名から十数名の小部隊を意図的にその場に残し、文字通りの「捨て駒」とする戦法である 12 。彼らは追撃してくる敵部隊、特に指揮官クラスの武将を狙って鉄砲を放ち、敵が怯んだ隙に槍や刀で斬り込み、全滅するまでその場を死守する 20 。重心を安定させ、命中精度を上げるために胡坐(あぐら)をかいて射撃姿勢を取ることから「座禅陣」とも呼ばれた 21 。一部隊が全滅すると、また新たな部隊が「捨て奸」となり、これを繰り返すことで、大将を安全圏まで逃がすのである。
最初の「捨て奸」として、この絶望的な任務に就いたのが、義弘に生還を説いた島津豊久であった。烏頭坂(うとうざか)と呼ばれる地で、豊久は僅かな手勢と共に反転し、怒涛の如く押し寄せる井伊・松平隊の前に立ちはだかった 6 。伝承によれば、豊久は全身に無数の槍傷を負いながらも奮戦し、最期は四方八方から繰り出される槍で宙に突き上げられ、義弘の身代わりとして着用していた猩々緋の陣羽織が、血風の中でずたずたに引き裂かれたという 11 。
豊久の最期については諸説ある。この烏頭坂で討死したとも 6 、あるいは致命傷を負いながらも主君の後を追い、10km以上離れた上石津の白拍子谷(しらべしたに)まで辿り着いた末に、もはやこれまでと自刃して果てたとも伝えられている 5 。いずれにせよ、享年31歳。彼の自己犠牲が、義弘の脱出を可能にした最大の要因であったことは疑いようがない。
豊久に続き、家老の長寿院盛淳もまた、義弘から下賜された陣羽織を身にまとい、「我こそは島津義弘なり」と名乗りを上げて敵中に突入し、主君の身代わりとなって討死を遂げた 15 。彼ら忠臣たちの死を賭した奮戦が、一歩また一歩と、義弘を生への道へと近づけていったのである。
第三章:狙撃と終焉 ― 徳川四天王の負傷
烏頭坂を越え、伊勢西街道最大の難所といわれた勝地峠(かちじとうげ)の麓に差し掛かった時、この追撃戦のクライマックスが訪れる 5 。ここで最後の「捨て奸」部隊が展開された。川上四郎兵衛の号令一下、配下の名手・柏木源藤が構えた鉄砲の火縄が切られる。放たれた弾丸は、追撃の先頭に立っていた井伊直政の右肘を見事に撃ち抜き、猛将直政は馬上から真っ逆さまに転落した 17 。
この一撃は決定的であった。追撃軍の総指揮官ともいえる井伊直政の負傷に加え、松平忠吉もまたこの乱戦で手傷を負ったことで 18 、東軍の組織的な追撃は事実上ここで終焉を迎える。徳川最強の追撃部隊を、文字通り満身創痍で退けたのである。この時、直政が受けた傷は深く、これが原因で2年後の慶長七年(1602年)にこの世を去った 15 。松平忠吉もまた、この時の傷が遠因となり、数年後に若くして亡くなっている 5 。「島津の退き口」は、東軍にとって決して軽微とは言えない、深刻な爪痕を残したのだった。
第三部:核心の検証 ―「槍を折り笑う義弘」は実在したか
壮絶なる「島津の退き口」の戦闘経過を再現した今、我々は本報告書の核心的な問いへと立ち返る。この死線を潜り抜ける渦中で、島津義弘が敵兵の槍を折り、哄笑したという逸話は、果たして史実として存在したのだろうか。
第一章:逸話の原典を探る ― 史料上の不在
歴史研究の基本は、史料に基づく検証である。この観点から「折槍哄笑」の逸話を調査すると、その根拠の脆弱性が明らかになる。
薩摩藩の歴史を知る上で最も重要な史料群とされる『薩藩旧伝集』や、それを編年体で整理した膨大な記録である『旧記雑録(薩藩旧記雑録)』といった、島津家の公式・準公式の記録を精査しても、義弘自身が関ヶ原の退却戦において槍を手折ったとする記述は見当たらない 3 。また、江戸時代に成立した主要な軍記物である『関ヶ原軍記大成』などにも、この具体的なエピソードは記されていない 2 。
これらの史料が、島津豊久や長寿院盛淳の犠牲、井伊直政の負傷といった詳細な戦闘経過を記録しているにもかかわらず、総大将である義弘のこれほど劇的な行動がもし事実であれば、記録から漏れるとは考えにくい。この「史料上の不在」は、この逸話が少なくとも同時代、あるいはそれに近い時代の一次史料に基づくものではない可能性が極めて高いことを示唆している。
第二章:逸話の形成過程に関する考察 ― 複合的伝説の誕生
では、史実でないとすれば、この鮮烈な逸話はどのようにして生まれたのか。その答えは、単一の出来事ではなく、関ヶ原で実際に起こった複数の壮絶な事実や、義弘という人物にまつわる他の逸話が、後世の人々の記憶の中で融合し、一つの象徴的な物語として昇華された「複合的伝説」であるという仮説の中に求めることができる。
この逸話を構成要素に分解し、それぞれの起源を探ることで、その形成過程を推察することが可能となる。
- 「槍」と「壮絶な死」のイメージ: これは、全身に無数の槍傷を負い、槍で突き上げられて絶命したと伝わる島津豊久の最期と強く結びつく 12 。家臣の最も悲劇的で heroic な死のイメージが、主君の物語に投影された可能性がある。
- 「義弘の身代わり」というモチーフ: 義弘から下賜された陣羽織をまとい、身代わりとなって討死した長寿院盛淳の行動は、家臣が主君の命を救うという自己犠牲の物語の核となっている 15 。
- 「義弘の超人的な剛力」の伝説: 義弘には、囲炉裏で赤く焼けた火箸を素手で掴み、顔色一つ変えなかったという逸話が残っている 26 。このような人間離れした剛力と胆力を持つ人物像は、「武士の槍を素手で折る」という行為にリアリティを与える背景となった。
- 「義弘と槍を巡る別の物語」: 義弘の愛馬「膝跪騂(ひざつきくりげ)」が、敵に槍で突かれそうになった際、自ら膝を折って主君の危機を救ったという逸話も存在する 27 。これもまた、義弘と槍にまつわる物語として、伝説形成の素材となった可能性がある。
- 「極限状況での笑い」の原型: 第一部で述べた通り、軍議の席で豊久が義弘の死の覚悟を「あら笑止や」と一喝したエピソードは、「絶望的な状況下で笑う」という行為の原型として考えられる 2 。
これらの個別のエピソード―豊久の死、盛淳の犠牲、義弘自身の剛力伝説、そして豊久の諫言―は、それぞれが強烈な印象を持つ物語である。これらが長い年月をかけて語り継がれるうちに、それぞれの要素が混ざり合い、物語の最も象徴的な中心人物である大将・島津義弘の行動として、一つの完成された英雄譚に集約・再構成されたのではないか。これが、「折槍哄笑譚」の最も合理的な成立過程であると考えられる。
第三章:物理的・心理的リアリティの検討
最後に、この逸話が持つリアリティについて、物理的側面と心理的側面から考察する。
槍は折れるのか(物理的考察)
戦国時代に武士が用いた槍の柄は、樫(かし)や栗といった非常に硬く、かつ粘りのある木材で作られていた 29。これを、乱戦の最中に、しかも馬上から敵兵が繰り出す勢いを殺し、人力のみでへし折ることは、物理的に考えて極めて困難と言わざるを得ない。農民兵が用いるような竹槍であればまだしも 31、正規の武士が装備する頑丈な槍を相手にすることは、義弘がいかに剛力の持ち主であったとしても、非現実的である。この物理的な不可能性は、逸話が史実ではなく、象徴的な物語であることを補強する一因となる。
なぜ笑うのか(心理的考察)
一方で、「哄笑」という行為は、心理的なリアリティを持つ。武士道における死生観では、死は忌むべきものではなく、いかに美しく死ぬかが重要視された 32。死を目前にした際の「笑い」は、単なる感情の爆発ではない。それは、死への恐怖を超越し、自らの運命を泰然と受け入れ、さらにはその状況すらも楽しむかのような、精神的な高みを示す行為と解釈できる 33。ドイツの死生学者アルフォンス・デーケンが紹介した「ユーモアとは、『にもかかわらず』笑うことである」という言葉が示すように、絶望の淵で発せられる笑いこそ、人間の精神の最も気高い発露の一つである 33。
この逸話の核心的な魅力は、物理的なリアリティではなく、この「心理的リアリティ」にある。槍を折るという超人的な行為は、その強靭な精神を可視化するための舞台装置であり、人々が真に心を打たれるのは、死をも笑い飛ばす義弘の不屈の魂そのものである。この物語は、「事実の記録」としてではなく、「精神性の象徴」としてこそ、その真価を発揮するのである。
第四部:結論 ― 逸話が象徴するもの
本報告書における詳細な考証の結果、島津義弘の「関ヶ原敵中突破における折槍哄笑譚」は、同時代の信頼できる史料にはその記述が確認できず、史実としての蓋然性は極めて低いと結論付けられる。この物語は、島津豊久をはじめとする忠臣たちの壮絶な犠牲と、義弘自身が持つ「鬼島津」としての豪胆なイメージが、後世の人々の心の中で融合し、結晶化して生まれた英雄伝説である可能性が最も高い。
しかし、史実でないからといって、この逸話の価値が損なわれるわけではない。むしろ、なぜこのような伝説が生まれ、語り継がれる必要があったのかを考えることこそが重要である。
「島津の退き口」は、兵力の大半を失った戦術的な大敗北であった。しかし、総大将である義弘を生還させ、徳川家康の嫡男候補や譜代の重臣に手傷を負わせ、天下人に対して「島津恐るべし」という強烈な印象を植え付けた。これにより、戦後の厳しい交渉を有利に進め、最終的には本領安堵という破格の条件を勝ち取り、島津家の存続を可能にした 12 。これは紛れもなく、戦術的敗北を覆す「戦略的勝利」であった 35 。
「折槍哄笑」の逸話は、この奇跡的な生還劇の精神的支柱を、最も劇的な形で象徴している。それは、史実か否かという次元を超えて、薩摩武士の不屈の精神、死を恐れぬ勇猛さ、そして主君への絶対的な忠誠心、すなわち「薩摩隼人」の魂そのものを凝縮した結晶である。この物語があるからこそ、「島津の退き口」は単なる敗走戦ではなく、日本戦史に燦然と輝く伝説として記憶されている。
最終的に、この逸話は島津義弘という一人の武将の物語であると同時に、薩摩という土地が育んだ気風と、武士道が追求した理想の姿を体現した、不滅の文化遺産であると言えるだろう。
引用文献
- 1、本城家文書 「本城家由緒之覚」の光明仏 - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6757_20230324134328-1.pdf
- 『関ヶ原軍記大全』の構造と主題 - 山口大学 https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/27716/files/158842
- 『関ヶ原 島津退き口 敵中突破三〇〇里』(著/桐野作人)、島津義弘の撤退戦の実像 https://rekishikomugae.net/entry/2022/01/15/230928
- 薩藩旧伝集(さつぱんくでんしゆう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%96%A9%E8%97%A9%E6%97%A7%E4%BC%9D%E9%9B%86-3107091
- 関ケ原合戦の島津の退き口をたどる・2 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/7190
- 島津義弘コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館 https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/shimazu-yoshihiro/
- 「関ヶ原の戦い」で翻弄された島津義弘!玉砕戦術 ”捨て奸”に至るまでの壮絶なドラマ【後編】 https://mag.japaaan.com/archives/180681
- 【関ケ原の戦い】「敵中突破!」の逸話が残る西軍・島津義弘の武勇伝とは 家康公ゆかりの地をバイクで巡る旅 https://bike-news.jp/post/335349
- 関ヶ原の戦いで島津の退き口が成功した理由/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/tokugawa-15th-shogun/shimazunonokiguchi-seiko-riyu/
- 敵中突破!関が原合戦と島津の退き口 | ふれあうツアーズ [Fureaú tours] https://www.fureautours.jp/tours/view/b72eeec6-a0de-4c7b-8ba1-8f482d5d96c1
- 島津義弘の関ヶ原の戦い http://www.mirai.ne.jp/~wakita/simadu/simazu.htm
- 島津の退き口~島津豊久、運命の烏頭坂 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3318?p=1
- 島津の退き口・烏頭坂 – 岐阜ネタ満載!レッツぎふ マガジン https://www.lets-gifu.com/maga/gk2/
- 戦国島津ゆかりの地を訪ねて―熱血と慈悲の島津義弘公― | 特集 - 鹿児島県観光サイト https://www.kagoshima-kankou.com/feature/shimadu2019/introduction
- 敵中突破!関ケ原合戦と島津の退き口 - 大垣観光協会 https://www.ogakikanko.jp/shimazunonokiguchi/
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- 死亡率100パーセント!日本史上唯一の玉砕戦法「捨て奸(すてがまり)」とは!? - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/173363
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- 敵中突破 関ヶ原の戦いと島津の退き口 - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/96652/
- 島津義弘 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
- 帖佐館跡にいってきた、島津義弘は関ヶ原からここに帰還 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2021/09/21/205134
- 島津義弘・無敵伝説 『鬼島津』と恐れられた強さの秘密とは? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=OlYgYYRHKxw
- 槍の紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/variety-of-sword/introduction-yari/
- 5 、槍・薙刀 - 日本の武器兵器 http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/281
- 竹槍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%A7%8D
- 軍隊の精神と武士道という言葉を結びつける際に利用されたのが『葉隠』である。 太平洋戦争当時 - つばさ会 http://www.tsubasakai.org/Ippan_Kiji_OobaOB_Shiseikan_026.htm
- 「病草紙」にみる日本人の死生観 - 東京通信大学リポジトリ https://tou.repo.nii.ac.jp/record/76/files/04-09_%E8%AB%96%E6%96%87-%E6%A4%8D%E7%94%B0%E7%BE%8E%E6%B4%A5%E6%81%B5.pdf
- 島津義弘 関ヶ原合戦(島津の退き口) http://www.shimazu-yoshihiro.com/shimazu-yoshihiro/shimazu-yoshihiro-sekigahara.html
- 関ヶ原の戦いで家康相手に「正面突破の負け戦」、島津義弘に学ぶ「意味ある負け方」とは? - ダイヤモンド・オンライン https://diamond.jp/articles/-/351650