島津義弘
~退却中、敵陣突破「退くも勇」と語る~
島津義弘の「退くも勇」は本人の言説でなく甥の豊久の進言。関ヶ原「島津の退き口」で、家臣の犠牲戦術「捨て奸」により実現した敵中突破の逆勇を解説。
島津義弘「逆勇譚」の徹底考証:関ヶ原「島津の退き口」におけるリアルタイム時系列分析と「言説」の真実
序章:逸話の核心 —「退くこともまた勇」の言説と「敵中突破」という行動
島津義弘という武将を象徴する逸話として、関ヶ原の戦いにおける「敵中突破」と、その際に語ったとされる「退くこともまた勇」という言説は、特異な光彩を放っている。本報告書は、この「逆勇譚」と呼ばれる逸話の核心について、その行動と「言説」の二重構造に着目し、徹底的な時系列分析を行うものである。
主題として定義される「逆勇(ぎゃくゆう)」とは、武士の名誉とされる「玉砕(順勇)」、すなわち潔く死ぬこととは対極にある概念である。それは、家名の存続という、より高次の目的のためにあえて「生」を選び、その「生」を確保するために想像を絶する人的犠牲を甘受するという、逆説的な勇気を指す。
本報告書は、この「逆勇」を体現したとされる義弘の行動と言説について、収集された資料群 1 を精査し、以下の二点を考証の骨子として提示する。
第一に、「行動」の史実性である。「島津の退き口(しまづののきぐち)」と後世に呼ばれる敵中突破の敢行、およびその過程で用いられた「捨て奸(すてがまり)」という壮絶な戦術は、複数の史料や伝承地によって裏付けられる歴史的 事実 である 7 。
第二に、「言説」の考証である。一方で、「退くこともまた勇」という義弘自身の*具体的な発言(セリフ)*は、関ヶ原当時の一次史料や、今回調査対象とした資料群の中からは、リアルタイムな会話として確認することができない 9 。
この分析結果は、本報告書の構成基盤を決定づける。利用者が求める「リアルタイムな会話内容」として最も重要な局面は、撤退を決断する瞬間に存在する。しかし、その瞬間の史料が示すのは、義弘が「死」を望み、彼の甥である島津豊久が「生(退却)」を強く進言したという、二人の意思の対立である 10 。義弘は、豊久の提示したロジック(=玉砕より生還が困難であり、重要である)を最終的に 受容 した。したがって、「退くこともまた勇」という 思想 の「リアルタイムな発信者」は、義弘本人ではなく、彼を説得した島津豊久その人であった可能性が極めて高い。
本報告書は、この観点に基づき、まず「逆勇」の 行動 (島津の退き口)を時系列に沿って徹底的に再現する。その上で、「逆勇」の 言説 (「退くこともまた勇」)が何を意味し、如何にして義弘の逸話として形成されたのか、そのプロセスを解明する。
第一部:関ヶ原、崩壊の瀬戸際 — 「逆勇」への意思決定(慶長五年九月十五日 午後)
本章では、西軍が総崩れとなった戦場で、島津隊が孤立し、義弘が「死(玉砕)」という「順勇」から「生(撤退)」という「逆勇」へと意思決定を転換する、逸話の原点となった瞬間の「リアルタイムな状況と会話」を再構築する。
第一節:絶望的状況 — 孤立する島津隊
慶長五年九月十五日(1600年10月21日)午後、関ヶ原の戦局は小早川秀秋の裏切りにより一変し、西軍は総崩れとなった。この時、北国脇往還(中山道)に布陣していた島津義弘率いる部隊(布陣時約1,500名)は、戦闘に参加しないまま戦場中央で完全に孤立した 10 。周囲は、勝利に湧く数十倍の東軍兵によって包囲され、文字通り死地に陥っていた。
この絶望的状況下で、島津義弘(当時65歳)が最初に抱いた衝動は、武士としての名誉を重んじた「順勇」であった。すなわち、徳川家康の本陣へ決死の突撃を敢行し、壮烈に討死(玉砕)することであったとされる 10 。
第二節:「リアルタイム会話」の考証 — 義弘と豊久の対峙
義弘が討死を覚悟したまさにその時、その行動を真っ向から諌止した人物がいた。副将格であり、義弘の弟・島津家久の嫡男である甥の 島津豊久 (当時30歳)である 10 。『本藩人物誌』などの史料に基づき、この緊迫した瞬間の会話を再構築する。
義弘(覚悟):「もはやこれまで。敵本陣に突入し、討死する」
豊久(諫言):「御屋形様(義弘)の御命は、薩摩一国にかかわるものにござります。ここで討死なさるは容易なこと。なれど、御屋形様が生きて国(薩摩)へ帰り、家名を存続させることこそが、真の忠義と心得ます。生きて帰る道をお考えくだされ」
この会話は、ご依頼の逸話の核心に触れるものである。義弘が「退くこともまた勇」と語ったという伝承に対し、史料が示すリアルタイムな状況は、むしろ義弘が「死」を選ぼうとし、豊久が「生(退却)」を「真の忠義=勇気」として進言したという逆の構図である。義弘は、この甥の示した「逆勇」の思想を 受容 し、実行する決断を下すことになる。
第三節:「前進退却」という逆説的戦術の採択
豊久の諫言を受け入れた義弘は、薩摩への帰国という困難な目的のために「生」を選択する決断を下した 10 。問題は、いかにしてこの包囲網を突破するかであった。
彼らが選択したのは、後方(伊吹山地方面)への敗走ではなく、敵軍の中枢(徳川家康本陣方面)をあえて経由し、南方の伊勢街道を目指すという「前進退却(敵中突破)」であった 10 。この常識外れの経路が選択された背景には、複数の合理的な理由が存在する。
第一に、地形的・戦術的要因である。後退路は、西軍の敗走兵で大混乱に陥っており、統制を失った集団の中で捕捉される危険性が高かった。対して、伊勢街道は薩摩への帰還ルートとして最短であった 10 。第二に、義弘の年齢である。当時65歳という高齢の義弘にとって、険しい伊吹山地を越えての逃避行は現実的ではなかった 10 。
そして第三に、心理的要因である。敵の意表を突くことこそが、島津家が朝鮮出兵などで武名を高めた「釣り野伏せ」 1 に代表される伝統的な戦術思想であった。包囲下において、最も警戒が薄いのは、敵の中枢(まさかこちらには来るまい、と油断している場所)であるという逆説的判断が働いたのである。
この特異な戦術的決断の背景には、関ヶ原における島津隊の特異な立ち位置があった。彼らは当初、家康の求めに応じて東軍に参陣するつもりであったが、伏見城の戦いで鳥居元忠に応援を断られた結果、やむなく西軍に合流したという経緯がある 1 。さらに西軍合流後も石田三成らに軽んじられ、合戦当日は意図的に戦闘に参加していなかったとされる 1 。つまり、彼らの戦場における心理は「西軍の一員」としてではなく、孤高の「第三勢力」であった。したがって、彼らの撤退行動は「西軍の敗走」ではなく、薩摩への帰還という独自の論理に基づく「独立した軍事行動」であり、それゆえに「敵中突破」という前代未聞の戦術が選択肢となり得たのである。
第二部:島津の退き口(しまづののきぐち)— 決死行の時系列
本章では、義弘の決断に基づき、約1,500の兵が行動を開始した瞬間から、東軍の追撃が本格化し、島津家独自の撤退戦術「捨て奸」が発動されるまでの時間経過を追う。
第一節:第一次突破 — 福島正則隊の寸断と徳川本陣への肉薄
義弘の号令一下、島津隊は後方ではなく、前方(南)へ向けて一斉に前進(突撃)を開始した。彼らの正面に布陣していたのは、東軍の主力部隊の一つ、 福島正則 の部隊であった 10 。
島津隊は、この福島隊の陣中を正面から強行突破し、その隊列を寸断した。勝利に湧き、油断していた福島勢は、死を覚悟した島津隊の突進を止められなかった。
福島隊を突破した島津隊は、次に東軍の総大将である 徳川家康の本陣を「かすめながら」 10 南下を続けた。この行動は、東軍全体に計り知れない衝撃と混乱をもたらした。家康の眼前を、敗軍のはずの島津隊が堂々と横切っていくという前代未聞の事態であった。
一説には、この際、義弘は川上忠兄を使者として家康の本陣に送り、「薩摩国に帰国する(これ以上の戦意はない)」旨の口上を述べさせ、帰国後に謝罪することを告げさせたとされる 10 。この行動の真偽については、敵中突破の混乱の中で非現実的であるとの見方も強いが、もし事実であれば、義弘の異常なまでの冷静さと、後の戦後交渉を見据えた布石であった可能性も否定できない。
第二節:追撃の開始 — 井伊・松平・本多隊の出動
家康の眼前を敵軍が横切るという事態は、東軍にとって単なる軍事行動の逸脱ではなく、総大将の権威に対する公然たる「侮辱」であった。家康はこれに激怒したとも、あるいはその異様な光景に狼狽したとも言われるが、いずれにせよ即座に追撃を厳命した 3 。
この追撃命令に、東軍の猛将たちが即座に反応した。
- 井伊直政 (徳川四天王):徳川軍の軍監(軍目付)として戦場全体を監視しており、家康の四男・松平忠吉隊と共に、島津隊の側面(あるいは対峙する位置)にいた 6 。
- 松平忠吉 (家康の四男):井伊直政と共に行動し、島津隊の追撃に移った 6 。
- 本多忠勝 (徳川四天王):彼もまた軍監として参戦しており、島津隊に向けて進撃した 6 。
この追撃は、単なる「敗残兵狩り」とは一線を画すものであった。追撃の主力を担ったのが、家康の腹心中の腹心である井伊直政と、家康の息子である松平忠吉であったことが、その事実を物語っている 10 。家康にとって、この関ヶ原の勝利は天下統一の総仕上げであった。その目前でなされた島津隊の行動は、政治的にも軍事的にも見過ごすことができない。したがって、この追撃は家康の威信をかけた「懲罰的追撃」であり、極めて執拗かつ苛烈なものとなった 3 。この追撃の苛烈さこそが、後述する「捨て奸」という壮絶な戦術を島津軍に強いた直接的な原因である。
第三節:戦術「捨て奸(すてがまり)」の発動 — 死のシステム
東軍の猛烈な追撃を受け、島津本隊を薩摩へ生還させるために発動されたのが、島津家独自の撤退戦術「捨て奸(すてがまり)」であった 7 。
「捨て奸」は、本隊を安全に撤退させるために、退路の各所に小部隊を配置し、文字通り「捨て石」として玉砕させることを前提とした、恐るべきシステムである。その具体的なプロセスは、以下の時系列で実行された。
- 配置 :まず、退路の隘路(狭い道)や障害物のある、待ち伏せに適した場所に、数名ずつの小部隊(主に鉄砲隊)を配置する 7 。
- 狙撃 :井伊・松平らの追撃隊が迫ると、彼らは身を隠し、敵の 指揮官 (雑兵ではなく、部隊を率いる将)を最優先で狙撃し、追撃の速度を鈍らせ、統制を奪う 7 。
- 白兵戦 :敵が狙撃をかいくぐり接近してくると、残った兵たちは即座に槍を抜き、死を覚悟して突撃し、白兵戦で時間を稼ぐ 7 。
- 反復 :この小部隊が全滅(玉砕)すると、本隊はさらに後方の地点に、新たな「捨て奸」部隊を配置する。
このプロセスを文字通り「繰り返す」 7 ことにより、本隊の撤退時間を稼ぐのが、この戦術の目的であった。
「捨て奸」は、単なる「玉砕」や「自爆」とは本質的に異なる。その目的が「敵の指揮官を狙撃する」ことにあると明記されている点 7 に、その高度な戦術思想が表れている。当時の合戦において、指揮官の死傷が部隊の統制を即座に麻痺させることを熟知した、極めて合理的な戦術であった。
この戦術の実行には、三つの要素が不可欠であった。第一に、高い練度の鉄砲隊(指揮官を正確に狙撃する能力)。第二に、敵の指揮官を見分ける戦場での識別能力。そして第三に、自らの身を犠牲にすることを厭わない、強靭な精神力である 7 。この「捨て奸」は、島津兵の精強さと、犠牲を前提とした冷徹な戦術システムが融合した、日本戦国史上、他に類を見ない高度な撤退戦術であった。
第三部:血路を切り開く犠牲 — 烏頭坂・牧田上野の死闘
本章では、「捨て奸」が実行に移され、義弘の「逆勇」を支えるために、甥や家老たちが次々と命を散らしていく、撤退戦で最も壮絶な局面を時系列で詳述する。義弘の「生」は、彼らの「死」によって贖われたのである。
第一節:烏頭坂(うとうざか)の死闘 — 島津豊久、殿(しんがり)としての最期
伊勢街道へ向かう途中、烏頭坂(うとうざか、現・岐阜県大垣市上石津町) 10 において、井伊・松平隊の追撃は最初の頂点を迎えた。
この時、本来は先手(先陣)を務めていた 12 島津豊久 が、義弘本隊の危機を察知し、自ら「取って返して」 8 、最後尾の殿(しんがり)部隊の指揮を執った。
豊久の行動は、明確な意志に基づいていた。叔父であり主君である義弘の「身代わり」 12 となることを決意したのである。彼は手勢13名( 7 )と共に、追撃してくる井伊・松平隊の大軍 12 に敢然と突撃し、これを真正面から迎え撃った。
豊久の最期については諸説ある。
- 烏頭坂討死説 :この烏頭坂での獅子奮迅の奮戦の末、討死したとする説 7 。
- 勝地峠自刃説 :烏頭坂で重傷を負いながらも伊勢西街道へ逃れたが、勝地峠を越えた先の白拍子谷で、もはやこれまでと自刃したとする説 10 。
どちらの説をとるにせよ、豊久が義弘を生かすために自らの命を「捨て奸」として捧げた事実は変わらない。
ここで、第一部で見た豊久の役割を想起する必要がある。彼は、義弘に「生還(逆勇)」を 進言した 人物であった 10 。そして今、その「生還」を 実現させる ための最大の「犠牲(捨て奸)」となった 12 。つまり豊久は、この「逆勇譚」において、「理論の提唱者」と「最大の犠牲者」という二重の役割を一身に担っている。彼がいなければ、義弘は関ヶ原で玉砕(順勇)し、この逸話自体が始まらなかった。そして彼が「捨て奸」とならなければ、義弘は追撃を振り切れなかった。島津豊久こそが、この「逆勇譚」の真の立役者であったと言える。
第二節:牧田上野(まきだうえの)の忠義 — 長寿院盛淳の「我こそは義弘也」
豊久が烏頭坂で死闘を繰り広げている最中、またはその直後。烏頭坂の南に位置する牧田上野(まきだうえの) 10 において、第二の「捨て奸」が実行された。実行したのは、義弘の家老であった 長寿院盛淳 (ちょうじゅいん もりあつ)である 2 。彼は元々僧侶であったが、義弘にその力量を見込まれ家老となった人物であった 2 。
盛淳の行動は、豊久のそれとは異なる、極めて明確な意図を持っていた。彼は、義弘本人から下賜された金地の派手な陣羽織をあえて身に着け 2 、敵の目を引く行動に出た。
そして、追撃してくる東軍部隊に向かい、彼は大音声で名乗りを上げた。この瞬間の「リアルタイムな会話」こそが、彼の忠義のすべてであった。
「我こそは義弘也(われこそはよしひろなり)」 5
東軍の兵は、その派手な陣羽織と堂々たる名乗りに、盛淳こそが島津義弘本人であると誤認し、功を挙げんと殺到した。盛淳は、主君の身代わりとなる目的を達したことを見届けると、従士18名 5 と共に敵中に突入し、壮絶な討死を遂げた 2 。
豊久の「捨て奸」と盛淳の「捨て奸」は、その目的において補完関係にある。豊久は、殿(しんがり)として追撃部隊と物理的に激突し、その進軍を遅らせる「軍事的な盾(シールド)」であった 12 。対して盛淳は、「我こそは義弘也」と名乗り、陣羽織をまとうことで、敵の 注意 を引きつけ、追撃の 方向性 を誤らせる「視覚的・心理的な囮(デコイ)」であった 5 。
この「盾」と「囮」という二層の防衛システムが、ほぼ同時並行的に機能した 7 ことにより、義弘本体は決定的な追撃を免れ、伊勢街道へと逃れる貴重な時間を稼ぐことに成功したのである。
第四部:追撃の終焉と「逆勇」の帰結
本章では、東軍の執拗な追撃が、「捨て奸」戦術によってついに頓挫するクライマックスと、その後の交渉における皮肉な結末を分析する。
第一節:勝地峠(しょうちとうげ)の狙撃 — 井伊直政の負傷
豊久と盛淳という二人の「捨て奸」の犠牲によって時間を稼いだ義弘本隊は、さらに南下し、伊勢街道の難所である勝地峠(しょうちとうげ)に差し掛かる。しかし、井伊直政と本多忠勝の追撃は、豊久と盛淳を討ち取った後もなお、執拗に続いていた 7 。
ここで、三度目の、そして決定的となる「捨て奸」が実行された。勝地峠の麓 8 に配置されていた島津の狙撃手が、追撃隊の先頭にいた指揮官を正確に狙撃したのである。
史料によれば、川上四郎兵衛の号令を受け、 柏木源藤 (かしわぎ げんとう)という狙撃手(鉄砲兵)が放った一弾が、追撃の先頭に立っていた**井伊直政の臂(ひじ=腕)**を撃ち抜いた 8 。
この一弾が戦局を決定づけた。追撃隊が受けた損害は甚大であった。
- 井伊直政 :狙撃され、真っ逆さまに落馬し 8 、深手を負った 10 。
- 本多忠勝 :直政と共に追撃していたが、彼の乗馬が撃たれて落馬した 7 。
- 松平忠吉 :同じく追撃中、島津家家臣の松井三郎兵衛を討ち取った際に反撃を受け、負傷した 10 。
第二節:追撃中止命令と生還
追撃隊の最高指揮官である井伊直政と松平忠吉が負傷し、本多忠勝までもが落馬するという事態に至り、東軍の追撃は組織的な統制を失い、事実上不可能となった 7 。
「捨て奸」による損害の大きさに鑑み、徳川家康はついに追撃の中止を命令した 7 。島津隊の「捨て奸」戦術が、東軍最強の追撃部隊を相手に、軍事的に勝利した瞬間であった。
義弘は、こうして家臣たちの多大な犠牲の末に、大坂 7 を経由し、最終的に薩摩への帰還を果たした。関ヶ原に布陣した時、約1,500名を数えた兵は、この撤退行の終わりには、わずか80余名にまで激減していた 7 。
第三節:【表】「島津の退き口」時系列(慶長五年九月十五日午後)
本報告書の分析に基づき、利用者が要求した「時系列」と「その時の状態」を、関ヶ原の戦い当日の午後に限定して以下に整理する。
|
時刻(推定) |
場所 |
島津軍の行動(義弘・豊久・盛淳) |
東軍(追撃軍)の行動 |
主要な結果・犠牲 |
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午後2時頃 |
関ヶ原・島津陣地 |
西軍総崩れ。義弘、玉砕を覚悟。 |
西軍の追撃を開始。 |
島津隊孤立。 |
|
〃 |
〃 |
豊久、義弘を諫言。「生還」を進言。義弘、敵中突破(前進退却)を決断。 |
- |
「逆勇」の選択。 |
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午後2時半頃 |
福島正則陣地~家康本陣前 |
前進退却を開始。福島隊を強行突破。家康本陣をかすめる。 |
福島隊混乱。家康、激怒し追撃を厳命。 |
井伊・松平・本多隊が追撃を開始 6 。 |
|
午後3時頃 |
烏頭坂(うとうざか) |
豊久、先陣から取って返し殿(しんがり)となる。「捨て奸」として突撃 [8, 12]。 |
井伊・松平隊と激突。 |
豊久、討死(または重傷) 7 。 |
|
〃 |
牧田上野(まきだうえの) |
盛淳、義弘の陣羽織をまとい、「我こそは義弘也」と名乗る(捨て奸) 5 。 |
追撃隊、盛淳を義弘と誤認し殺到。 |
盛淳、討死(身代わり成功) 2 。 |
|
午後3時半頃 |
勝地峠(しょうちとうげ) |
「捨て奸」部隊(柏木源藤ら)が指揮官を狙撃 8 。 |
井伊直政、腕を被弾し落馬。松平忠吉も負傷。本多忠勝も落馬 7 。 |
直政・忠吉負傷。 |
|
午後4時頃 |
伊勢街道 |
義弘、本隊(約80名)と離脱に成功。 |
損害甚大のため、家康が追撃中止を命令 7 。 |
義弘、生還を果たす。 |
第四節:「逆勇」の帰結 — 皮肉な戦後交渉
「島津の退き口」は、井伊直政の負傷によって軍事的に完了した。この時の銃創が、後の直政の死の一因となったとも言われている。しかし、この逸話の「逆勇」たる所以は、この軍事行動の結末に留まらない。
戦後、西軍に加担した島津家は、徳川家康による武力討伐の危機に瀕していた 1 。義弘の兄・義久(龍伯)を中心とした島津家は、この絶体絶命の状況下で、粘り腰の外交交渉を開始する 1 。
この時、島津側が交渉相手として あえて指名 したのが、彼が関ヶ原で負傷させた当の相手、 井伊直政 であった 7 。
これは常識では考えられない指名であったが、義弘の冷徹な計算に基づいていた。義弘は、直政が外交に長け、家康の信頼も厚く、かつ穏健な措置を取ることが多い人物であることを見抜いていた 7 。
驚くべきことに、直政は、関ヶ原で深手を負わされたことを恨む様子も見せず 7 、この交渉を受け入れた。そして、島津家の本領安堵(領土没収なし)という、西軍の主力大名としては異例の寛大な処置を得るために尽力したのである 1 。
ここに、この「逆勇譚」の最大の皮肉と深奥がある。「島津の退き口」は、井伊直政を負傷させたことで 軍事的に成功 し、そして、その負傷させた相手である井伊直政の器量と政治力を利用して交渉することで 政治的にも成功 (家名存続)したのである。この「敵将」直政との奇妙な関係性こそが、義弘の「逆勇」がもたらした、知られざる帰結であった。
結論:逸話の検証 —「退くこともまた勇」の真意
本報告書は、島津義弘の「逆勇譚」について、その「行動」の時系列と「言説」の真意を徹底的に考証した。
第一節:史料における言説の不在
まず確認されたことは、本逸話の根幹である「退くこともまた勇」という具体的なセリフ(言説)は、関ヶ原当時の一次史料や『本藩人物誌』のような準一次史料、さらには大河ドラマ等の主要な翻案 9 においても、義弘本人の「リアルタイムな発言」としては確認できないという事実である。
第二節:「逆勇譚」としての意味論的解釈
では、この印象的な言説はどこから来たのか。本報告書の結論として、これは義弘の「リアルタイムな発言」ではなく、本報告書の第一部から第四部で詳述した一連の 行動 の 意味 を、後世の人々が凝縮して表現した「逸話(レジェンド)」であると結論付ける。
この「逆勇」の内実は、以下のように分解される。
- 決断の勇 :武士の名誉である玉砕(順勇)という「容易な死」の誘惑を断ち切り、家名存続という「困難な生」を選んだ義弘の 決断 (第一部)。
- 諫言の勇 :主君の玉砕を「非」として諌め、「生」こそが真の忠義であると説いた、島津豊久の 諫言 (第一部)。
- 犠牲の勇 :主君を生かすために、自ら「捨て石」となることを受け入れた豊久(盾)、盛淳(囮)、そして柏木源藤ら名もなき兵士たちの壮絶な 自己犠牲 (第三部・第四部)。
総論
総じて、「退くこともまた勇」という逸話は、単なる「撤退(逃走)」の正当化ではない。
それは、指導者(島津義弘)が、より高次の目的(家名の存続)のために、最も信頼する部下(甥の豊久、家老の盛淳)の犠牲を「覚悟」し、その部下たちの「死」を自らの「生」の糧として受け入れるという、指導者のみに許された**「最も困難で、最も痛みを伴う勇気(=逆勇)」**の表象である。
この「逆勇」の思想は、島津豊久の諫言によって提示され、島津義弘の決断によって受容された。そして、「捨て奸」という壮絶な犠牲のシステムによって、日本戦国史上に類を見ない「行動」として結実した。ご依頼の「逸話」は、この一連の行動の総体を指すものに他ならない。
引用文献
- 敵中突破 関ヶ原の戦いと島津の退き口 - 戦国武将一覧/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/96652/
- 琳光寺・長寿院盛淳の墓 (大垣市) | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/rinkouji.html
- 東西両軍が激突 ~午前八時の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/seki02.html
- 島津義弘のその後 http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/sonogo03.html
- 長寿院盛淳の墓・琳光寺 / 岐阜県 -【JAPAN 47 GO】 https://www.japan47go.travel/ja/detail/6cb3165a-94a9-4c5d-850e-866a8ee65796
- 本多忠勝 陣跡 | スポット情報 | 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/hondatadakatsujinato.html
- 島津義弘と豊久の、関ヶ原からの撤退戦(島津の退き口)について ... https://app.k-server.info/history/simazu_nokiguchi/3/
- Untitled - 大垣市 https://www.city.ogaki.lg.jp/cmsfiles/contents/0000042/42898/map.pdf
- 島津義弘|大河ドラマの登場人物 https://fact-web.com/taiga/shimazu_yoshihiro.html
- 島津の退き口とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E3%81%AE%E9%80%80%E3%81%8D%E5%8F%A3
- 島津豊久碑(烏頭坂)(大垣市) | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/shimazutoyohisanohi.html
- 烏頭坂 島津豊久碑 <島津の退き口ゆかりの地>|観光スポット ... https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6780.html