後藤又兵衛
~帰参要請断ち切り「義は此方」~
後藤又兵衛は黒田家からの帰参要請を「義は此方」と断り、大坂の陣で豊臣方に殉じた。その剛直な生き様は、武士の理想像として語り継がれる。
後藤又兵衛、帰参要請を断ち切る一喝 ― 「義は此方」逸話の徹底解剖
序章:剛勇の士、最後の決断 ― 逸話への誘い
慶長二十年(1615年)初夏、大坂城内は戦雲に包まれていた。徳川家康による天下統一の総仕上げとなる最後の戦を前に、城には主家を失った数多の浪人たちが集結していた 1 。彼らは豊臣家が掲げる最後の旗の下、己の武名と再興の夢を賭けていた。その中にあって、一際異彩を放つ武将がいた。後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)。身長六尺(約180センチメートル)を超える巨躯と、比類なき槍の腕前から「槍の又兵衛」と恐れられた、戦国最後の豪傑である 2 。
この決戦前夜、又兵衛の剛直な性格を象徴する一つの逸話が語り継がれている。かつての主君、筑前福岡藩主・黒田長政から使者が訪れ、破格の条件での帰参を促す書状が届けられた。しかし又兵衛は、その書状を一読するや、使者の眼前で真二つに引き裂き、雷鳴のごとき声でこう一喝したという。「義は此方(こちら)にあり!」。この一言一句、一挙手一投足が、彼の不退転の決意と武士としての矜持を凝縮した劇的な瞬間として、後世の日本人の心を捉えてきた。
だが、この鮮烈な場面は、果たして歴史的事実なのであろうか。それとも、悲劇の英雄の魂を体現させるために、後の人々によって巧みに創り上げられた、力強い伝説の産物なのだろうか。本報告書は、この「義は此方」という一瞬の逸話にのみ焦点を当て、その背景にある歴史的現実を丹念に掘り起こし、伝説が生まれた文化的土壌を分析し、そして逸話が内包する「物語的真実」を徹底的に解剖することを目的とする。
第一章:決裂の序曲 ― 黒田家出奔、埋められぬ溝
又兵衛が黒田家からの帰参要請を拒絶したという逸話の背景を理解するには、まず彼がなぜ黒田家を去らねばならなかったのか、その根深い確執の歴史を紐解く必要がある。彼の出奔は一時の感情的な対立によるものではなく、十数年にわたる主君・黒田長政との価値観の相克と、埋めがたい溝の末に起きた必然的な結末であった。
### 性格と価値観の衝突
黒田官兵衛(如水)という稀代の軍師に幼少期から見出され、その薫陶を受けた又兵衛は、戦場での武功こそが武士の本分と信じる、古き戦国武士の気風を色濃く受け継いでいた 4 。一方、官兵衛の子である長政は、関ヶ原の戦いを経て徳川幕藩体制下の大名として生きる道を歩み始めており、藩の安定と存続を最優先する近世的な経営者の視点を持つに至っていた 6 。この二人の価値観のズレは、数々の逸話として記録されている。
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城井谷崩れの剃髪事件
豊前国の城井氏との戦いで黒田軍が手痛い敗北を喫した際、総大将であった長政は父・官兵衛への謝罪の意を示すため頭を丸めた。家中の主だった者たちもそれに倣ったが、又兵衛だけは剃髪を拒否。「戦に勝ち負けはつきもの。負ける度に髷を落としていては、生涯、毛が揃う事がないわい」と言い放ったという 7。官兵衛はこの言葉を理に適っているとして許したが、先に頭を丸めていた長政の面目は丸潰れとなった 7。これは、戦の敗北を組織の失態と捉える長政と、個人の武勇と名誉の問題と捉える又兵衛の意識の乖離を象徴する出来事であった。 -
朝鮮出兵における虎退治
慶長の役の最中、長政の陣中に虎が現れ暴れまわった。又兵衛は同僚と共にこの虎を見事に討ち取ったが、長政は「一手の大将たる者が、畜生と勇を争うは不心得である」と二人を厳しく叱責した 7。又兵衛にとって武勇を示す絶好の機会であった行為が、長政には組織の指揮官としての自覚を欠いた軽率な行動と映ったのである。 -
広範な交友関係への疑念
「槍の又兵衛」としての武名は天下に轟いており、又兵衛は他家の大名とも広い交友関係を持っていた。特に、長政と犬猿の仲であった隣国小倉藩主・細川忠興と親しくしていたことは、長政に内通の疑いを抱かせ、君臣間の信頼関係を著しく損なう原因となった 7。
これらの逸話は、又兵衛の独立不羈で高い自尊心と、長政の近世大名としての猜疑心や組織統制への意識との間の、修復不可能な亀裂を示している 12 。
### 「奉公構」― 武士としての社会的な死
慶長十一年(1606年)、黒田如水の死から二年後、又兵衛はついに一族を率いて黒田家を出奔する 10 。これに対し長政が講じた措置が「奉公構(ほうこうかまえ)」であった。これは、特定の家臣を他家が召し抱えることを禁じるという、事実上の業界追放であり、武士にとっては社会的な死刑宣告に等しいものであった 10 。
又兵衛の武勇を惜しんだ福島正則や前田利長といった有力大名から、破格の条件での仕官の誘いがあったにもかかわらず、長政の「奉公構」がそれをことごとく妨害した 9 。これにより、又兵衛は諸国を流浪する浪人生活を余儀なくされる。この長年にわたる不遇と屈辱が、彼の長政に対する遺恨を決定的なものにしたことは想像に難くない。
この一連の経緯を鑑みると、逸話の持つ意味合いがより深く理解できる。数年にわたる確執、出奔、そして「奉公構」による社会的な抹殺という、長く複雑な政治的・個人的な対立の歴史が存在する。しかし、物語として語るにはあまりに込み入っている。そこで、「帰参要請の書状を破り捨てる」という一つの象徴的な行為が創出された。この逸話は、十年に及ぶ積年の恨み、武士としての誇りを踏みにじられた怒り、そして長政への完全な決別宣言という、複雑な感情の歴史を、一瞬の劇的な行動へと凝縮させる優れた物語装置として機能している。それは文字通りの歴史ではないかもしれないが、二人の関係性の「感情的な真実」を鮮やかに切り取ったものと言えるだろう。
第二章:一瞬の情景 ― 逸話の再現と「義」の解剖
この章では、まず講談や軍記物語などで語り継がれてきた逸話の情景を再現し、その上で又兵衛が叫んだとされる「義」という言葉の多層的な意味を深く分析する。
### 逸話の再現(物語として)
舞台は、大坂夏の陣を目前に控えた大坂城の一角。寄せ集められた浪人たちの熱気と、来るべき決戦への緊張感が渦巻いている。木煙と鉄の匂いが立ち込める陣屋に、一人の武士が静かに歩みを進める。その背には、黒田家の家紋である藤巴蝶が染め抜かれている。旧主からの使者の到来は、又兵衛の周囲にいた者たちに緊張を走らせた。
使者は恭しく長政からの書状を差し出す。そこには、過去の確執を水に流し、破格の知行と待遇をもって帰参を願う旨が記されていたであろう。徳川方から又兵衛に対して播磨一国を与えるという誘いがあったとも伝えられており 15 、長政の提示した条件もそれに劣らないものであったと想像される。それは、長政が又兵衛の武略をいかに高く評価し、敵に回すことを恐れていたかの証左でもあった 8 。
身長六尺の巨漢、後藤又兵衛は、静かにその書状を受け取り、一瞥する。しばしの沈黙。陣屋にいる誰もが固唾を飲んで彼の反応を見守る。次の瞬間、又兵衛は表情一つ変えず、その分厚い書状を両手で掴むと、何の躊躇もなく真っ二つに引き裂いた。破られた紙がひらりと床に舞う。
そして、彼は使者の目を真っ直ぐに見据え、腹の底から絞り出すような、しかし城内に響き渡るほどの声で言い放った。
「義は、此方にあり!」
その一喝は、単なる帰参の拒絶ではなかった。それは、黒田長政という男と、彼に連なる過去のすべてを断ち切る決別の宣言であった。使者は言葉を失い、その場に立ち尽くすしかなかった。又兵衛の決意は、もはや誰にも覆すことのできない、鋼のようなものとなっていた。
### 「義」の解剖
又兵衛が口にした「義」は、単に「正義」や「道理」と訳すだけではその深意を汲み尽くせない。この一言には、戦国武士としての彼の生き様と、当時の価値観が複雑に織り込まれている。
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恩義としての「義」
黒田家を追われ、「奉公構」によってどの大名家にも仕官できず、浪人として不遇の日々を送っていた又兵衛にとって、豊臣家からの招聘はまさに乾天の慈雨であった。豊臣家は、彼をただの客将としてではなく、真田信繁(幸村)らと並ぶ「大坂城五人衆」の一人、軍の中核を担う大将として迎えた 7。これは、長政によって踏みにじられた武士としての名誉と存在価値を回復させてくれたことに他ならない。又兵衛の「義」は、この窮地を救ってくれた豊臣家への揺るぎない「恩義」を意味していた 8。今更、高禄に釣られてその恩を仇で返すことは、彼の武士道が許さなかったのである。 -
矜持としての「義」
長政との確執と「奉公構」は、又兵衛の誇りを深く傷つけた。ここで長政の下に戻ることは、自らの信念を曲げ、金銭や地位のために魂を売る行為に等しい。彼の「義」は、己の生き方を貫くという、武士としての「矜持」そのものであった。たとえ滅びる側につこうとも、己の信じる道を進むことこそが、後藤又兵衛という男の存在証明だったのである。 -
価値観の対立としての「義」
この逸話は、二つの異なる時代の武士の価値観の衝突を象徴している。黒田長政が体現するのは、徳川の治世下で生き残るための現実主義、すなわち組織の論理と政治的処世術である 6。対する又兵衛が掲げる「義」は、個人の武勇と名誉、そして主君との人間的な信頼関係を重んじる、滅びゆく戦国時代の価値観そのものである 16。彼の選択は、新しい時代への適応を拒絶し、古い時代の理想と共に死ぬことを選んだ、最後の戦国武士の悲壮な決意表明であった。
興味深いことに、この物語で語られる又兵衛の「義」は、多分に後世、特に泰平の世となった江戸時代に理想化された「武士道」の観念を反映している。戦国時代の武士の「義」は、より現実的で流動的な側面も持っていたが、江戸時代の講談師や作家たちは、聴衆の求める忠義や潔さといった徳目を又兵衛に投影した 16 。つまり、逸話における又兵衛の「義」は、歴史上の人物が実際に抱いていた感情であると同時に、後の時代の人々が「かくあるべき」と願った理想の武士像が重ね合わされた、時代錯誤的な側面を持つ。それゆえに、この物語は単なる戦記譚を超え、時代を超えて人々の心を打つ道徳的な教訓として機能してきたのである。
第三章:史実の探求 ― 記録と物語の狭間で
逸話の劇的な魅力と、それが内包する「義」の深さを理解した上で、次に我々は最も重要な問いに向き合わなければならない。この出来事は、歴史的な事実としてどの程度裏付けられるのだろうか。本章では、一次史料と後世の創作物の間にある溝を探り、逸話の信憑性を検証する。
### 一次史料の沈黙
結論から言えば、大坂の陣の直前に黒田長政から使者が派遣され、又兵衛がその書状を破り捨てて「義は此方」と一喝した、という劇的な場面を直接的に記した同時代の信頼できる一次史料は、現在のところ確認されていない。
福岡藩の公式記録である『黒田家譜』をはじめ、当時の武将の日記や書状などにも、この逸話に関する記述は見当たらない。又兵衛の黒田家への帰参交渉が記録に残っているのは、大坂の陣が始まる数年前の慶長十六年(1611年)のことである。この時、長政は幕府を通じて交渉を行ったが、又兵衛との「連絡がうまくとれず」不調に終わったと記されている 7 。ここには、逸話のような感情的な対立や劇的な拒絶の描写はなく、あくまで事務的な交渉の失敗として淡々と記録されているのみである。
### 伝説の源泉:講談と軍記物語
では、この鮮烈な逸話はどこから生まれたのか。その源流は、江戸時代に庶民の間で人気を博した大衆芸能である「講談」や、『難波戦記』に代表される「大坂軍記物」と呼ばれる読み物にあると考えられる 18 。
これらの作品は、歴史を題材としながらも、厳密な史実の再現を目的とはしていなかった。むしろ、聴衆や読者を楽しませるために、英雄的な人物像を創造し、勧善懲悪の分かりやすい物語構造を用いることを重視した、一種の歴史フィクションであった 19 。徳川幕府の治世下では、幕府の成立過程に関わる出来事をありのままに語ることは禁じられていたため、登場人物の名前を仮名に変えたり(例:豊臣秀吉を「真柴久吉」)、史実を大胆に脚色したりすることが常套手段であった 19 。又兵衛の豪快な逸話の多くは、こうした講談の世界で尾ひれがついて形成された虚構と見なされている 18 。
### 「判官贔屓」という文化的土壌
又兵衛の物語がこれほどまでに人々の心を捉えた背景には、「判官贔屓(ほうがんびいき)」という日本人に深く根差した心情がある。これは、悲劇的な運命を辿った英雄や、強大な権力に立ち向かい敗れ去った弱者に対して同情し、肩入れする心理現象を指す 20 。その名は、兄・源頼朝に追われ非業の死を遂げた源義経(判官)に由来する 22 。
徳川という圧倒的な勝者に対し、滅びゆく豊臣家に殉じた後藤又兵衛は、まさにこの「判官贔屓」の対象として格好の人物であった。彼は理不尽な「奉公構」によって不遇をかこち、最後に得た活躍の場で奮戦し、壮絶な最期を遂げる。民衆は、そんな彼の生涯に同情し、彼を単なる敗者ではなく、信義を貫いた気高き英雄として記憶したいと願った。その願いが、「義は此方」という、彼の生き様を凝縮した名場面を創造し、語り継がせる原動力となったのである。
### 史実と逸話の比較
以上の分析を基に、史実として確認されている事柄と、講談などで描かれる逸話とを比較すると、その違いは明確になる。
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項目 |
史実として確認される事柄 |
講談・軍記物語で描かれる逸話 |
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黒田家からの接触 |
慶長16年(1611年)に幕府を介した帰参交渉があったが、「連絡がうまくとれず」不調に終わる 7 。大坂の陣の直前に具体的な使者が派遣されたという一次史料はない。 |
大坂夏の陣の直前、黒田長政から使者が派遣され、破格の条件で帰参を要請される。 |
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又兵衛の対応 |
1611年の交渉が不調に終わった理由は不明確で、劇的な拒絶の記録はない。 |
使者の面前で帰参要請の書状を真二つに引き裂き、「義は此方!」と一喝して決意を示す。 |
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背景 |
長年の確執と、黒田長政による「奉公構」という厳しい措置による深い不信感 10 。豊臣家から大将として迎えられたことへの恩義 8 。 |
豊臣家への恩義と、組織の論理より個人の信義を貫く武士としての矜持を劇的に示すための演出。 |
この表が示すように、逸話は史実の断片(確執、出奔、豊臣方への参加)を核としながらも、その間を埋める具体的な出来事や台詞は、物語的な効果を最大化するために創作された可能性が極めて高い。それは歴史の記録ではなく、歴史を素材とした「物語」なのである。
第四章:伝説の誕生 ― なぜこの逸話は語り継がれるのか
史実ではない可能性が高いにもかかわらず、なぜ「義は此方」の逸話はこれほどまでに有名になり、後藤又兵衛という人物を象徴する物語として語り継がれてきたのだろうか。その理由は、この物語が持つ構造的な力と、それが時代の要請に応えるものであった点にある。
### 又兵衛の人物像との合致
物語が人々に受け入れられるためには、その内容が主人公の性格と一致している必要がある。この逸話は、史実の又兵衛が持っていたとされる人物像、すなわち、剛直で誇り高く、自らの信念を曲げることを潔しとしない武人としてのイメージと完璧に合致している 7 。城井谷での剃髪拒否や、朝鮮での虎退治といった記録に残る彼の行動は、権威に屈しない独立心の強さを示唆している。人々は、そのような性格の又兵衛であれば、たとえそれが創作であったとしても、「きっとそうしたに違いない」と自然に受け入れることができた。逸話は文字通りには真実でなくとも、又兵衛という人間の本質を捉えた「真実味」を持っていたのである。
### 民衆の心情を代弁する物語
泰平の世が続き、身分制度が固定化された江戸時代において、戦国時代の武将たちの自由闊達で実力主義的な生き様は、庶民にとって一種の憧れであり、鬱屈した日常からの解放感をもたらすものであった。特に、又兵衛が強大な権力者である主君・黒田長政に敢然と反旗を翻すこの物語は、封建的な支配体制下にある民衆にとって、権威に対するささやかな抵抗の代弁者として機能した。又兵衛の「義は此方!」という一喝は、理不尽な権力者に対して民衆が抱く不満の声を、英雄の口を通して叫ばせるカタルシスをもたらしたのである。
さらに、この逸話は黒田藩の公式な歴史に対する、強力な「カウンター・ナラティブ(対抗言説)」としての側面も持っている。黒田家側の記録では、又兵衛の出奔は彼の不行状が原因であると示唆されている 13 。しかし、民衆の間で語られるこの物語は、全く逆の視点を提供する。すなわち、問題は又兵衛ではなく、有能な家臣の価値を理解せず、私情で彼を追い詰めた主君・長政の方にあったのだ、と。これは、公式の歴史記述と民衆の記憶との間で行われる、一種の歴史的評価を巡る闘争であった。そして、大衆文化という法廷において、長政はその評価に敗れ、又兵衛は悲劇の英雄として称賛されることになったのである。
### 理想化された武士道の象徴として
この逸話は、個別の武将の物語を超えて、理想的な「武士道」とは何かを教える寓話としての役割も果たしてきた。それは、目先の利益や権力者の圧力に屈するのではなく、自らが信じる「義」(恩義、矜持、信義)に基づいて行動することの尊さを説く。大坂の陣で豊臣方に味方した浪人衆には、真田信繁のように徳川方から破格の条件で寝返りを誘われた者が他にもいたが、彼らもまたそれを拒絶したと伝えられている 24 。又兵衛の物語は、そうした滅びゆく者たちの美学を象徴し、後世の人々にとっての武士の理想像を形作る上で、決定的な役割を果たしたのである。
結論:史実を超えた「物語的真実」
本報告書で詳述してきた通り、後藤又兵衛が黒田長政からの帰参要請書を破り捨て、「義は此方」と一喝したという逸話は、同時代の信頼できる史料からは裏付けられず、ほぼ間違いなく江戸時代以降に講談や軍記物語の中で創作されたものであると結論付けられる。
しかし、この逸話を単なる「作り話」として片付けてしまうことは、その本質的な価値を見誤ることになる。この物語は、史実の記録には残らない、しかし人々の心に深く刻まれた「物語的真実(ナラティブ・トゥルース)」なのである。それは、後藤又兵衛という複雑な人物の剛直な魂、黒田長政との埋めがたい確執、そして滅びゆく豊臣家に殉じた彼の悲壮な覚悟といった、歴史の断片から抽出されたエッセンスを、一つの鮮烈なイメージへと結晶させたものである。
後藤又兵衛の帰参拒絶の逸話は、歴史上の人物としての基次が、文化的な英雄(アイコン)へと昇華された決定的な瞬間を記録している。この物語は、事実そのものではないかもしれないが、それ以上に雄弁に彼の生き様を物語る。その真の価値は、史実性の有無にあるのではなく、正義や誠実さ、そして自らの信じる道を自ら選び取るという、人間の根源的な願望を力強く表現している点にある。我々は、史実と創作が融合したこのレンズを通してこそ、戦国乱世の最後に咲いた徒花、後藤又兵衛という武将の不滅の遺産を、最も深く理解することができるのである。
引用文献
- 大坂の陣の裏に潜む様々な対立軸・社会問題 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=TJY2KSPkXvQ
- 奈良のむかしばなし/奈良県公式ホームページ https://www.pref.nara.jp/42998.htm
- 黒 田 官 兵 衛 二 十 四 騎 の ひ と り https://kanko-kasai.com/navisite/wp-content/uploads/2021/12/matebe.pdf
- 後藤又兵衛はなぜ黒田家を出奔したのか?【前編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/9496
- 黒田24騎小傳(8) 後藤 又兵衛基次 岡部定一郎「福岡城寸描」(35) https://fukuokajokorokan.info/report/file/01809.pdf
- 『後藤又兵衛 - 大坂の陣で散った戦国武将』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター https://bookmeter.com/books/10795085
- 後藤基次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
- 黒田八虎・大坂城五人衆 後藤又兵衛基次の壮絶人生 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5010
- 「後藤基次」通称・後藤又兵衛。大坂の陣で散った稀代の猛将 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/674
- 後藤又兵衛とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%8F%88%E5%85%B5%E8%A1%9B
- 大坂の陣と柏原コラム4 後藤又兵衛の武名 https://www.city.kashiwara.lg.jp/docs/2015020600053/
- パワハラ?を受けた黒田家家老後藤又兵衛が筑豊に残した遺産 https://chikuhoroman.com/2024/02/15/goto-matabei/
- 家康が利用を試みた後藤基次の「自尊心」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/33509
- 黒田長政と後藤又兵衛の嫉妬と敵がい心の効用 ライバルの存在が能力を伸ばす原動力になる https://toyokeizai.net/articles/-/364708?display=b
- ハイキング・ウォーキング!!後藤又兵衛の末裔(自称)が激戦地の大坂夏の陣「道明寺・誉田合戦」を歩く - note https://note.com/jungoto/n/n9eb7e1b0be2b
- 武士の時代と武士道のはじまり/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/bushido/beginning-bushido/
- 「武士」の本当の姿とは?戦国時代から江戸時代、明治維新まで変化してきたその役割 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/240082
- 後藤基次(後藤又兵衛)|改訂新版・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=181
- 小松山の戦いで散った後藤又兵衛の名は? | 大阪府柏原市 https://www.city.kashiwara.lg.jp/docs/2015031300034/
- 源義経の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8097/
- 集団テロ事件を脚色した「忠臣蔵」:なぜ日本人の心をこれほどまでに捉えるのか? | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01036/
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