最終更新日 2025-10-20

徳川家康
 ~三方ヶ原敗走中馬糞踏み転倒笑う~

三方ヶ原敗走中に家康が脱糞した逸話は後世の創作。最大の屈辱を描くことで、後の天下統一をより劇的に見せ、神格化された家康に人間味を与える効果を持つ。

徳川家康、三方ヶ原の屈辱:馬糞と焼き味噌の逸話に隠された真実

序章:天下人の最大の屈辱 ― 逸話への誘い

徳川家康の生涯における最大の敗北として知られる三方ヶ原の戦い。この戦いの敗走に際し、一つの逸話が語り継がれている。「徳川家康が馬糞を踏んで転倒し、その無様な姿を自ら笑った」という自嘲譚である。この物語は、絶体絶命の窮地にあっても豪胆さを失わない、後の天下人の器の大きさを示すものとして、しばしば引用される。

しかし、この「馬糞を踏む」という逸話は、より広く知られ、かつ物議を醸すもう一つの物語と深く結びついている。それは、武田信玄の猛追の恐怖に耐えかねた家康が馬上で脱糞し、それを家臣に指摘されると「これは焼き味噌じゃ」と言い訳をした、という屈辱的な逸話である。

本報告書は、一見すると滑稽なこれらの逸話の真相を、史料の森の奥深くへと分け入り、その源流、変遷、そして歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。単に逸話の真偽を問うに留まらず、なぜこのような物語が生まれ、天下人・徳川家康の人物像に不可分に結びつけられて語り継がれてきたのか、その背景にある歴史と物語の力学に迫る。本報告は、敗走のリアルタイム再現から始まり、逸話の核心場面の分析、史料批判による信憑性の検証、そして関連する伝説群との比較を通じて、この有名な逸話の多層的な構造を明らかにしていく。

第一章:元亀三年十二月二十二日、薄暮の三方ヶ原 ― 敗走のリアルタイム再現

戦場の惨状

元亀三年(1572年)12月22日、遠江国三方ヶ原。この日の午後4時頃に始まった戦いは、徳川家康の軍事的人生において、最も暗い記憶として刻まれることになる 1 。甲斐の虎、武田信玄が率いる約2万5千の精鋭に対し、織田信長の援軍を合わせても徳川軍の兵力は約1万に過ぎなかった 1 。家康は鶴翼の陣を敷いて迎え撃つも、信玄が周到に準備した魚鱗の陣の猛攻の前に、わずか2時間あまりで徳川軍の陣形は完膚なきまでに打ち砕かれた 3

戦場の様相は、一方的な蹂躙であった。徳川軍の死者は約2,000人に達したのに対し、武田軍の損害は約200人程度と伝えられており、その差は歴然としている 1 。鳥居忠広、本多忠真、夏目吉信といった譜代の重臣たちが次々と討ち死にし、徳川軍は組織的な抵抗力を完全に失い、総崩れとなって敗走を開始した 1

決死の撤退戦

家康自身も一時は討死を覚悟するほどの危機的状況であったが、側近たちの必死の制止により、命からがら戦場を離脱する 4 。しかし、本拠である浜松城への道は、決して平坦ではなかった。背後からは武田軍の精鋭が鬨の声を上げながら迫り、冬の遠州の寒風が敗残兵の体力を容赦なく奪っていく。この絶望的な撤退行において、家臣たちの命を賭した奮戦が家康の活路を開いた。

時系列①:殿(しんがり)の奮戦

撤退する軍の最後尾、最も危険な殿軍を務めたのが、徳川四天王の一人、本多忠勝であった。忠勝は鬼神のごとき働きで武田軍の追撃を幾度となく食い止め、家康が逃げるための貴重な時間を稼いだ 5。しかし、その代償は大きく、忠勝の叔父である本多忠真はこの殿軍の戦いで壮絶な最期を遂げている 1。

時系列②:身代わりの忠義

さらに、家臣の夏目吉信は、自らが家康の身代わりとなることを決意する。彼は家康の兜と馬印を譲り受けると、「我こそは徳川家康なり」と大音声に叫び、武田軍のただ中へと突入していった 2。夏目のこの自己犠牲的な行動により、武田軍の追撃の矛先は一時的に逸れ、家康は九死に一生を得ることができたのである。

多くの忠臣の死を乗り越え、浜松城を目指す家康一行。彼らが体験した極度の恐怖、疲労、そして屈辱感こそが、次章で詳述する逸話が生まれる土壌となった。それは、単なる敗戦という事実を超え、後の世の人々の想像力を掻き立てる、物語の「磁場」を形成したのである。この壊滅的な敗北の劇的性こそが、なぜ数々の人間臭い逸話がこの出来事に結びつけられていったのかを解き明かす鍵となる。

第二章:屈辱の瞬間 ― 逸話の核心とその会話

三方ヶ原からの敗走は、徳川家康の精神と肉体を極限まで追い詰めた。この極限状況の中で、彼の威厳を根底から揺るがす、とされる出来事が起こる。ここでは、後世に形成された物語に基づき、逸話の核心場面を再現し、その意味するところを分析する。

逸話の再現:脱糞と焼き味噌

浜松城への道中、あるいは城に命からがらたどり着いた直後。武田軍の猛追という、かつて経験したことのない恐怖と緊張の連続に、家康の心身は限界に達していた。その時、生理的な限界を超えた彼は、乗っていた馬の鞍上で思わず失禁、すなわち脱糞してしまったと物語は伝える 2

城に帰還し、ようやく一息ついた家康。しかし、その異変に一人の家臣が気づく。逸話のバージョンによって、その家臣は本多作左衛門であったり 10 、大久保忠佐であったりとされるが 11 、そのやり取りの骨子は一貫している。

再現される会話

家臣:「殿、これは呆れ果てたお姿。御馬の鞍壺に糞を漏らしてござるではないですか」 8

家康:(狼狽を隠し、あるいは激昂し、虚勢を張って)「たわけ者め! これは糞ではない。道中の兵糧として腰に付けておいた焼き味噌じゃ!」 10

この「焼き味噌」という言い訳には、妙な説得力がある。味噌は当時、重要な兵糧であり、家康自身も好んで食したと伝えられている 12 。咄嗟の言い訳として、自身の好物であり、誰もが知る保存食の名を挙げたところに、この逸話の人間的なリアリティが宿っている。

逸話の解釈:馬糞を踏み転倒し自嘲する

一方で、本報告書の冒頭で提示された「馬糞を踏んで転倒し、自嘲的に笑った」という逸話は、この「脱糞・焼き味噌」説の派生形、あるいは表現を和らげたものと解釈できる。この逸話の直接的な典拠となる史料は確認できないが、その物語構造には明確な意図が見て取れる。

第一に、物語の変容である。「脱糞」という直接的で下品な表現は、特に家康が神格化されていく江戸時代以降において、語るにははばかられる側面があった。そこで、家康自身の内的な弱さ(恐怖による失禁)を、外的な要因(偶然、馬糞を踏んでしまった)による失敗へと置き換えることで、物語をよりマイルドで教訓的なものへと変化させた可能性が考えられる。英雄の尊厳を過度に損なうことなく、失敗談として語り継ぐための巧妙な物語的進化と言えよう。

第二に、「自嘲的に笑う」という要素の付加である。単に失敗するだけでなく、その失敗を客観視し、笑い飛ばすという行為は、並大抵の精神力ではできない。この要素を加えることにより、物語は単なる屈辱譚から、逆境を乗り越える人間の器の大きさを示す教訓譚へと昇華される。失敗そのものよりも、失敗にどう向き合うかという点に焦点が移され、家康の非凡さが強調されるのである。

このように、逸話は語り継がれる過程で、時代や語り手の価値観を反映しながら変容していく。核となる「屈辱的な失敗」というモチーフは共有しつつも、その表現方法は、家康像の変遷と共に洗練されていったと考えられる。

第三章:逸話の源流を遡る ― 三方ヶ原か、一言坂か

今日、家康の脱糞逸話は、その生涯最大の敗北であった三方ヶ原の戦いと固く結びつけて語られるのが一般的である。しかし、史料を丹念に遡ると、この逸話の本来の舞台は、別の戦場であったことが浮かび上がってくる。

典拠の特定と舞台の「引越し」

この逸話の最も古い典拠とされるのは、江戸時代初期に成立した軍記物『三河後風土記』である 8 。しかし、この書物の記述を詳細に確認すると、驚くべき事実が判明する。逸話の舞台は三方ヶ原の戦い(元亀三年十二月)ではなく、その約2ヶ月前に起こった 一言坂の戦い (同年十月)として記されているのである 8

『三河後風土記』の原文(巻十三「遠州一言坂の事」)によれば、一言坂の戦いで武田軍に追われた家康が浜松城へ逃げ帰った際、家臣の大久保忠佐が「(殿の)御馬の鞍壺に糞がついているはずだ。漏らしながら逃げて来たのだろう」と軽口を叩いた、とされている 15 。つまり、物語の原型は一言坂の戦いにあったのだ。

では、なぜ一言坂の逸話が、より知名度の高い三方ヶ原の戦いのエピソードとして「引越し」を起こし、世に定着したのだろうか。その背景には、物語が持つ「最大効果の法則」とも言うべき力学が働いている。歴史逸話は、史実の正確性よりも、物語としての効果が最大化される文脈へと自然に引き寄せられる傾向がある。

一言坂の戦いも徳川軍にとっては厳しい敗戦であったが、三方ヶ原の戦いはその比ではなかった。家康自身が死を覚悟し、数多の譜代の重臣を失ったという悲劇性、そして徳川軍が文字通り壊滅したという敗北の度合いにおいて、三方ヶ原は家康の生涯で突出した出来事であった 1

したがって、後世の語り手や聞き手は、無意識のうちに、あるいは意図的に、この屈辱的な逸話を最もふさわしい「最悪の舞台」である三方ヶ原に再配置したと考えられる。家康が味わった恐怖と屈辱を最大限に表現するためには、一言坂よりも三方ヶ原の方が、遥かに劇的な効果を生むからである。この逸話の「引越し」は、歴史的事実が人々の記憶の中で、よりドラマチックで理解しやすい物語の型へと再編成されていくプロセスを明確に示している。

第四章:史料の森を行く ― 『三河後風土記』の信憑性

逸話の源流が『三河後風土記』にあることは判明したが、次に問われるべきは、その史料自体の信頼性である。歴史を語る上で、典拠となる史料の性格を吟味する「史料批判」は不可欠な手続きである。

『三河後風土記』という書物

『三河後風土記』は、徳川家康や三河武士の活躍を描いた軍記物であるが、いくつかの重要な特徴を持つ。第一に、これは同時代の一次史料ではなく、江戸時代に入ってから編纂された二次史料であることだ 14 。第二に、著者が不明であり、その成立過程にも謎が多い 17 。そして最も重要な点は、徳川家を称揚する記述が多い一方で、史実とは考えがたい創作や、信憑性の低い逸話が数多く含まれていることが、多くの研究者によって指摘されていることである 14

つまり、脱糞逸話の唯一の典拠である『三河後風土記』は、それ自体が歴史的事実を正確に伝えているとは言い難い、物語的要素の強い書物なのである。

後世の史料による自己否定

さらに興味深いのは、この逸話が後の時代に、徳川の歴史観の中から「否定」されていく過程である。江戸時代後期の天保九年(1838年)に成立した『改正三河後風土記』は、その名の通り『三河後風土記』を改訂・増補した書物であるが、この中で脱糞逸話は明確に否定されている 11

『改正三河後風土記』は、元の記述を引用した上で、「そもそも神君(家康公)はこの日(一言坂の戦い)の合戦には出馬しておらず、馬に乗っていないはずである。ゆえに、糞を垂れて逃げ帰ったなどという話はありえない妄説である」と断じている 11

この記述は二つの重要な点を示唆している。一つは、江戸幕府の権威が確立し、家康が「神君」として神格化されていく中で、このような不名誉な逸話が公式な歴史認識から排除されようとしていたこと。もう一つは、この「否定の歴史」自体が、元の逸話が当時から単なるゴシップや作り話として認識されていたことの裏返しである可能性である。歴史とは、書かれたものだけでなく、時に消されたものからも読み解くことができる。

学術的結論

現代の歴史学の観点から見ても、この逸話の信憑性は極めて低いと言わざるを得ない。『信長公記』のような信頼性の高い同時代の史料や、家臣たちの日記などには、この種の記述は一切見当たらない 10 。以上の史料批判に基づき、家康が三方ヶ原(あるいは一言坂)で脱糞したという逸話は、史実である可能性は限りなく低く、後世に創作された物語であると結論づけるのが妥当である。

第五章:敗戦が生んだ伝説群 ― 「しかみ像」と「小豆餅」

家康の屈辱的な逸話は、孤立して存在するものではない。三方ヶ原の戦いという一つの歴史的出来事を核として、複数の有名な逸話が後世に創作され、相互に関連しながら一つの「伝説群(クラスター)」を形成している。これらの伝説は、それぞれが家康の異なる側面を照らし出し、総体として「三方ヶ原の敗北」という出来事を神話的な物語へと昇華させている。

伝説①:しかみ像(徳川家康三方ヶ原戦役画像)

最も有名な関連伝説が、「しかみ像」である。これは、三方ヶ原で大敗を喫した家康が浜松城に逃げ帰った後、「この敗戦の悔しさと自らの情けない姿を生涯忘れぬため」と、絵師を呼び寄せ、苦渋に満ちた自身の肖像画を描かせたという逸話である 8 。この物語は、失敗を糧とする家康の反省心と自己客観視の象徴として、広く知られてきた。

しかし、近年の研究により、この感動的な逸話は史料的根拠を全く持たず、昭和時代に入ってから創作されたものであることがほぼ確実視されている 20 。現在、徳川美術館が所蔵するこの肖像画(正式名称:徳川家康三方ヶ原戦役画像)は、本来は特定の合戦とは関係なく、武神としての家康を祀るための礼拝用の御影として描かれた可能性が高いと考えられている 20

伝説②:小豆餅の逸話

同じく敗走の道中に生まれたとされるのが、浜松の地名の由来ともなった「小豆餅」の逸話である。空腹に耐えかねた家康が道中の茶屋で小豆餅を注文するが、そこに武田軍の追っ手が迫ってきたため、代金を払わずに慌てて馬で逃げ出した 23 。すると、茶屋の老婆が餅の代金を取り立てるために、猛然と家康を追いかけ、ついに追いついて代金を徴収したというユーモラスな物語である 2

この逸話に基づき、茶屋があったとされる場所が「小豆餅」、老婆が代金を受け取った場所が「銭取」という地名になったと伝えられている 2 。これもまた、史実というよりは、地域の地名由来譚として人々に親しまれてきた伝説である。

伝説③:空城の計

命からがら浜松城にたどり着いた家康が、追撃してきた武田軍に対して用いたとされるのが「空城の計」である。城の全ての門を開け放ち、篝火を盛大に焚かせ、城内を静まり返らせた。これを見た武田軍は、「これは何か罠があるに違いない」と警戒し、攻撃をためらって引き返したという 2 。この逸話は、窮地にありながらも冷静な判断を下す家康の知略を称えるものだが、これもまた後世に家康の偉大さを強調するために創作された物語との見方が有力である 25

これらの伝説群は、それぞれが家康の「弱さ」(脱糞)、「反省」(しかみ像)、「人間臭さ」(小豆餅)、「知略」(空城の計)といった異なる側面を象徴している。後世の人々は、三方ヶ原という一つのキャンバスの上に、英雄・徳川家康の多面的な人格を描き出そうとしたのである。

三方ヶ原敗走にまつわる伝説群の比較分析

以下の表は、三方ヶ原の敗走という一つの出来事から派生した主要な伝説を比較し、その特徴を整理したものである。

項目

A: 脱糞・焼き味噌説

B: 馬糞踏み転倒・自嘲説

C: しかみ像伝説

D: 小豆餅・食い逃げ説

発生場所(とされる)

浜松城への敗走中(元は一言坂)

浜松城への敗走中

浜松城帰還後

浜松市中区小豆餅

核心となる行動

恐怖による脱糞と、焼き味噌での言い訳

馬糞を踏んで転倒し、自らを笑う

敗戦の自戒として肖像画を描かせる

餅の代金を払わずに逃走し、老婆に追われる

主要な典拠

『三河後風土記』(江戸初期)

口伝、脱糞説の派生か

近代(昭和期)の創作

浜松周辺の地名由来譚

史実としての信憑性

極めて低い(後世の創作)

不明(典拠が特定できず)

ほぼ皆無(近代の創作)

低い(伝説の類)

逸話が示す家康像

人間的な弱さ、窮地での虚勢

失敗を笑い飛ばす豪胆さ

深い反省と自己客観視

焦り、人間臭さ、どこか滑稽な一面

物語における役割

どん底からの再生の起点

逆境を乗り越える器の大きさ

失敗を教訓とする為政者の鑑

英雄の人間的な側面を強調

この表が示すように、これらの逸話は史実性は低いものの、それぞれが「徳川家康とは何者か」という問いに対する、物語による複合的な回答として機能している。一つの大きな敗北が、これほど豊かな物語群を生み出す核となったこと自体が、歴史が人々の記憶の中で再創造されていくダイナミズムを物語っている。

結論:なぜ家康は「糞」にまみれねばならなかったのか

本報告書を通じて検証してきた徳川家康の「馬糞を踏んで転倒し笑った」という逸話、およびその原型である「脱糞・焼き味噌」説は、いずれも史実としての根拠に乏しく、後世の創作である可能性が極めて高い。では、なぜこのような不名誉極まりない物語が創作され、今日まで広く語り継がれてきたのだろうか。その答えは、この逸話が持つ巧みな物語的機能にある。

第一に、 人間性の付与 である。江戸時代を通じて神君として神格化されていく家康像は、ともすれば完璧で近寄りがたい存在になりがちである。しかし、この逸話は、後の天下人も若い頃には死の恐怖に怯え、生理現象に抗えず、みっともない言い訳をする生身の人間であったことを示してくれる 26 。この人間的な弱さの描写こそが、人々の共感と親近感を呼び起こし、家康という人物をより魅力的なものにした。

第二に、 成功の増幅効果 である。物語において、主人公の成功の大きさは、その前に経験した失敗の深さによって規定される。三方ヶ原での敗北と、それに伴う「脱糞」という個人的な屈辱は、家康が経験した「どん底」の象徴である。人生最大の屈辱を味わった男が、そこから這い上がり、ついには天下を統一するという物語は、平坦な成功譚よりも遥かに劇的で、人々の心を打つ。最も無様な姿を知っているからこそ、天下人としての偉業がより一層輝いて見えるのである。

結局のところ、この逸話は家康を貶めるために作られたのではない。むしろ、その偉大さを逆説的に称揚するための、極めて高度な「物語装置」であったと言える。それは、歴史的事実そのものよりも、後世の人々が徳川家康という人物にどのようなイメージを求め、どのように理解しようとしたかを映し出す鏡なのである。三方ヶ原の泥と糞にまみれた若き日の家康像は、史実を超えて、失敗を乗り越えて成長する人間の普遍的な物語として、これからも語り継がれていくに違いない。

引用文献

  1. 徳川家康の人生において最大の屈辱戦にして最悪の敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」とは⁉ https://www.rekishijin.com/27483
  2. 【1572年】三方ヶ原の合戦 - 管理システムなら静岡県浜松市のNANAシステム開発株式会社 https://www.7sys.jp/staff-blog/%E3%80%901572%E5%B9%B4%E3%80%91%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6/
  3. 「三方ヶ原」撤退…家康は本当に馬上で脱糞したのか?奇妙な肖像画「しかみ像」の謎 https://gentosha-go.com/articles/-/50457
  4. 徳川家康三大危機の一つ「三方ヶ原の戦い」|家康生涯一の大勝負で信玄に大惨敗の屈辱【日本史事件録】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1125795/2
  5. 三方ヶ原の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-kosenjo/mikagatahara-kosenjo/
  6. 【漫画】三方ヶ原の戦い~徳川家康の生涯最悪の敗北~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=WqkX87-kK3o
  7. 歌川芳虎 作 「三河後風土記之内 天龍川御難戦之図」(武者絵) - 刀剣ワールド/浮世絵 https://www.touken-world-ukiyoe.jp/mushae/art0007550/
  8. 徳川家康にインタビューしたら、脱糞説に激怒された【妄想インタビュー】 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/125026/
  9. 「三方ヶ原」撤退…家康は本当に馬上で脱糞したのか?奇妙な肖像画「しかみ像」の謎 https://gentosha-go.com/articles/-/50457?page=3
  10. 徳川家康「三方ヶ原の戦いで脱糞敗走」は信憑性が低い話 - NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20170816_602619.html?DETAIL
  11. 【なにぶん歴史好きなもので】まさかの「家康の脱糞」が鍵?信玄にやられっぱなしの家康が唯一、一矢報いた「一言坂の戦い」の謎に迫る!|静岡新聞アットエス https://www.at-s.com/life/article/ats/1403430.html
  12. 家康公の愛した「焼味噌の湯漬け」 - 合資会社 八丁味噌 https://www.kakukyu.jp/recipe_view.asp?id=148
  13. ︎「武士のめし」家康と食にまつわる物語PDF - 静岡県 https://www.pref.shizuoka.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/043/510/ieyasudensyou2.pdf
  14. 『三方ヶ原の戦い』を地図や陣形を使ってわかりやすく解説! - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/mikatagaharanotatakai-layout/
  15. 徳川家康の三大黒歴史・三方ヶ原の”失禁”は本当か?『改正三河後風土記』によると……【どうする家康】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/192919
  16. 三方ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  17. 【どうやらウソ!?】〈徳川家康・脱糞説〉漏らしたのは「三方ヶ原の戦い」じゃないしソースが怪しすぎる!【きょうのれきし3分講座・10月13日「一言坂の戦い」】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=VyVExZgIqMQ
  18. 徳川家康の三大黒歴史・三方ヶ原の”失禁”は本当か?『改正三河後風土記』によると……【どうする家康】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/192919/2
  19. 虚々実々!若き日の徳川家康が臨んだ「三方ヶ原の戦い」にまつわる逸話の真相は?【後編】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/195095/2
  20. 徳川家康の「しかみ像」~実は家康の御影だった~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/jinbutu/ieyasu-sikami.html
  21. 徳川家康三方ヶ原戦役画像 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%88%A6%E5%BD%B9%E7%94%BB%E5%83%8F
  22. しかみ像 - 岡崎城公園 - 岡崎市観光協会 https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/guide/19
  23. 家康公「三方ヶ原の戦い」ゆかりの地「小豆餅」「銭取」 - ウェルシーズン浜名湖 https://wellseason.jp/wellmaga/detail/1512
  24. 地名も残っている!三方ヶ原の戦いの逸話を味わう「小豆餅」と「銭取」 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/7027
  25. 家康公エピソード 磯田道史のちょっと家康み | 浜松でペット同伴可能な飲食店 ドッグルハウス(ドッグレストラン&ドッグラン) https://doglle-house.jp/about/hamamatsu/ieyasu/
  26. 虚々実々!若き日の徳川家康が臨んだ「三方ヶ原の戦い」にまつわる逸話の真相は?【後編】 https://mag.japaaan.com/archives/195095