徳川家康
~寿命を保つため梅干を毎朝食す~
徳川家康と梅干の逸話。長寿のため毎朝食べた記録はないが、健康志向の彼が育てた「実割り梅」を神となった自身に奉納した史実が、伝説の核となった。
徳川家康と梅干の逸話 ― 長寿伝説の形成過程に関する徹底考証報告
序章:人口に膾炙する「家康と梅干」の逸話
戦国乱世を終焉させ、江戸幕府を開いた徳川家康。彼が75歳という、当時としては驚異的な長寿を全うしたことは広く知られている。その長寿の秘訣を語る上で、しばしば引き合いに出されるのが「寿命を保つため、毎朝欠かさず梅干を食した」という逸話である。この簡潔で印象的な物語は、家康の持つ「忍耐」「自己管理」「健康志向」といった人物像と見事に合致し、今日に至るまで多くの人々に語り継がれてきた。
しかし、この魅力的な逸話は、果たして歴史的事実としてどの程度裏付けられるのであろうか。本報告書は、この「家康と梅干」という特定の逸話にのみ焦点を絞り、その背景にある時代性、家康本人の健康哲学、そして逸話の核となる具体的な伝承を丹念に紐解いていく。単なる事実の有無を問うだけでなく、一つの伝説が如何にして生まれ、時代の記憶として定着していったのか、その形成過程を徹底的に解明することを目的とする。
第一章:戦国の兵糧としての梅干 ― 逸話が生まれる時代背景
徳川家康が生きた戦国時代において、梅干は単なる嗜好品や食卓を彩る一品ではなかった。それは、兵士の生命線を支え、戦の趨勢をも左右しかねない、極めて重要な「戦略物資」としての価値を有していた。
兵糧としての重要性
戦国時代の合戦は、兵站、すなわち食糧補給が勝敗を分ける重要な要素であった。梅干は、塩漬けにすることで極めて高い保存性を持ち、軽量で携帯にも便利なことから、理想的な陣中食(兵糧)として重宝された 1 。江戸時代初期に成立したとされる『雑兵物語』には、足軽が食料袋に「梅干丸」を常備していたとの記述が見られる。これは梅肉に米の粉や氷砂糖を練り合わせたもので、激しい戦闘や長時間の行軍における息切れを整えたり、衛生状態の悪い生水を飲む際の殺菌に用いたりと、多岐にわたる用途で活用されたという 3 。
薬としての効能
梅干の価値は、保存性や携帯性にとどまらない。その薬効もまた、戦国の武人たちにとって不可欠なものであった。梅干を見たり、口に含んだりすることで唾液の分泌が促進され、喉の渇きを癒す効果は広く知られていた 3 。さらに、その強い酸味と塩分は、食中毒や伝染病の予防、傷口の消毒にも用いられたと伝わる 4 。梅に含まれるクエン酸が疲労回復に高い効果を持つことは近代的な知見であるが 2 、戦国の兵士たちは経験則としてその価値を理解していたのである。元来、梅は中国から漢方薬として伝来した歴史を持ち、腹痛や解熱、駆虫などにも用いられていた 2 。
他の武将と梅干
梅干の重要性を認識していたのは、家康だけではなかった。例えば、越後の龍と称された上杉謙信は、大の酒好きであったが、その肴は決まって梅干であったと伝えられている 4 。これは単なる好みだけでなく、酒によって酸性に傾く体を梅干のアルカリ性で中和するという、現代医学にも通じる合理的な判断が経験的に働いていた可能性が指摘されている 5 。謙信はまた、その効能を自ら実践するだけでなく、兵士たちにも梅干を携帯させていたという 5 。
このように、戦国時代における「梅干=健康に良い戦略物資」という認識は、武将たちの間で広く共有された常識であった。家康が梅干の価値を熟知していたことは、この時代の武将として当然のことであったと言える。そして、この時代全体の共通認識こそが、後世に「健康志向の家康が、長寿のために梅干を常用した」という逸話が、人々にとって極めて自然で受け入れやすい物語となるための、肥沃な土壌を形成したのである。
第二章:徳川家康の健康哲学と食生活 ― 逸話の人物的素地
家康の長寿は、単なる幸運の産物ではなかった。その背景には、現代の視点から見ても驚くほど体系的で、徹底した健康哲学と自己管理の姿勢が存在した。この強烈な人物像が、梅干の逸話に説得力と具体性を与える素地となった。
『徳川実紀』に見る健康五箇条
江戸幕府が編纂した公式史書である『徳川実紀』には、家康が実践していた健康法が記されている 6 。その要点は、①普段から粗食を心がける、②季節外れのものは食べない、③冷たいものは口にしない、④肉はほどほどに食べる、⑤酒は薬として飲む、というものであった 6 。特に、常に温かいものを食すことには気を配り、戦場であっても干し飯を火で炙ってから食べるという徹底ぶりであったと伝わる 9 。
麦飯と八丁味噌へのこだわり
当時の武士階級では白米が富と地位の象徴とされ好まれたが、家康は生涯を通じて麦飯を主食とすることにこだわった 9 。ある時、家臣が気を利かせて白米を用意したところ、家康は「贅沢である」と激しく叱責したという逸話が残るほどである 10 。ビタミンやミネラル、食物繊維が豊富な麦飯こそが健康の礎であると、彼は確信していたのであろう 7 。
また、出身地である三河の特産、八丁味噌(豆味噌)も家康の食卓に欠かせないものであった 9 。大豆を主原料とする八丁味噌は、良質なタンパク源であり、抗酸化作用も高い 12 。家康は、この味噌を丸めて焼いた「焼き味噌」を肴に、麦飯をかき込むのを常としていたという 10 。
多角的な健康管理
家康の健康への配慮は、主食だけに留まらなかった。旬の野菜や魚を好み 7 、静岡・浜松の伝統的な発酵食品である浜納豆も、疲労回復のために好んで食したとされる 12 。さらに、彼の最大の趣味であった鷹狩りは、単なる娯楽ではなかった。広大な野山を駆け巡る鷹狩りは、相当な運動量を伴うものであり、家康自身も「早起きして食事がうまく感じられ、よく眠れる」とその効能を説き、健康法の一環として極めて重視していた 10 。医学知識にも長け、自ら薬を調合することもあったといい 12 、その姿はまさに「健康オタク」と呼ぶにふさわしいものであった 14 。
この徹底した健康へのこだわりと、それを裏付ける数々の具体的な食生活の実践は、「徳川家康」という人物像の根幹をなしている。この強烈なキャラクターがあったからこそ、第一章で述べた「梅干=健康食」という時代の常識と結びつき、「あの健康管理に人一倍うるさい家康公であれば、梅干を常用していても何ら不思議はない」という、極めて高い蓋然性を人々に感じさせた。彼の人物像そのものが、梅干の逸話を生み出す強力なエンジンとなったのである。
第三章:駿府城の「実割り梅」― 逸話の核となる具体的伝承の時系列分析
「家康が梅干を食した」という逸話には、その源流と目される、より具体的で追跡可能な一つの伝承が存在する。それが、家康が晩年を過ごした駿府城にあった「実割り梅(みわりうめ)」の物語である。この物語を時系列で再構築することで、逸話の核心に迫ることができる。
第一幕:大御所時代、駿府城にて(慶長12年/1607年~元和2年/1616年)
将軍職を二代秀忠に譲り、大御所として駿府城に居を移した家康は、事実上の最高権力者として天下に采配を振るう一方、穏やかな時間も手にした 15 。伝承によれば、この時期、家康は駿府城内に自らの手で一本の梅の木を植え、手塩にかけて育てたとされる 1 。
この梅の木は、ただの梅ではなかった。咲き誇る花の色香が格別であったことに加え、結んだ実が熟すと、中の種が自然に二つに割れるという、世にも珍しい特徴を持っていた 16 。手でたやすく実を割り、種の中の「仁(じん)」まで食べることができたため、この梅は「実割り梅」と呼ばれ、駿府城の七不思議の一つに数えられるまでになった 1 。庭を散策する家康が、傍らの側近に「この梅は実に面白い。種がきれいに割れるゆえ、食べやすいわ」などと満足げに語り、その成長を日々楽しみにしていたであろう姿が目に浮かぶようである。
第二幕:神君薨去後、奉納のしきたり(元和2年/1616年以降)
元和2年(1616年)、家康が75年の生涯を閉じると、その遺命に従い、亡骸は駿府に近い久能山に埋葬された 21 。朝廷より「東照大権現」の神号を賜り、家康は神として祀られる存在となる。
これに伴い、駿府城に残された「実割り梅」もまた、その意味合いを大きく変える。単なる珍しい梅の木から、「神君家康公お手植えの神聖な梅」へとその性格を昇華させたのである。そして、いつしかこの実割り梅の実から漬けた梅干を、毎年、家康の霊廟である久能山東照宮に奉納するという厳かな「しきたり」が確立された 1 。毎年、梅が熟す初夏になると、駿府城代の家臣が丁重に実を収穫し、城内で梅干を漬け上げる。そして完成した梅干の壺は、行列を組んで久能山へと運ばれ、「今年も権現様ゆかりの実割り梅が、見事に実りました。謹んでお納めいたします」といった口上と共に、神前に捧げられたのであろう。
この時点で、家康と梅干の関係は、生前の家康が「食べる側」であったという話から、神となった家康が「奉納される側」へと、決定的な転換を遂げている。この転換こそが、後の伝説形成における極めて重要な分岐点となる。
第三幕:明治維新、存続の危機と再生(明治初期)
時代は大きく下り、徳川の世は終わりを告げる。明治維新の動乱の中、駿府城は新政府の管轄となり、徳川家にとっては逆風の時代が訪れた 24 。城内の梅の木一本にまつわる伝統など、忘れ去られ、失われてもおかしくない状況であった。
この事態を深く憂慮したのが、当時の久能山東照宮の宮司であった。「神君ゆかりの梅が、このまま朽ち果ててはならぬ」。強い使命感に駆られた宮司は、駿府(静岡)に隠棲していた最後の将軍、徳川慶喜のもとを訪れ、相談を持ち掛けた 1 。宮司は慶喜に対し、「上様、駿府城の実割り梅のこと、ご存じでございましょう。このままでは、あの神木も絶えてしまいます。何とか、東照宮にお移しし、末永くお守りしとうございます」と、その窮状と未来への願いを熱心に訴えたと推察される。慶喜もこれを快諾し、実割り梅の移植が決定した。
神君お手植えの梅は、多くの人々の尽力により、駿府城から久能山東照宮の境内、荘厳な唐門の下へと無事に移植された 19 。そして、この一連の歴史の継承と忠節の物語に深く感銘を受けたのが、旧幕臣の勝海舟であった。彼は盟友の山岡鉄舟と共同で、その由来を後世に伝えるための石碑を建立したのである 16 。
この明治期のエピソードは、「実割り梅」の物語に、単なる伝承を超えた新たな価値を与えた。徳川の時代の終焉という断絶の危機を乗り越え、慶喜、勝海舟、山岡鉄舟といった幕末維新のスターたちが関与したことで、この物語は近代日本の歴史ロマンをも内包する、より強固で権威あるものへと昇華されたのである。
第四章:逸話の検証 ―「毎朝食した」という記録は存在するか
「実割り梅」という具体的な伝承が存在する一方で、「家康が毎朝、梅干を食した」という逸話の核心部分は、史料によって裏付けられるのだろうか。
一次史料の精査
結論から言えば、『徳川実紀』をはじめとする幕府の公式記録や、家康の言行を伝える側近の記録などを精査しても、「家康が梅干を毎朝食した」という直接的かつ具体的な記述は、現在のところ確認されていない 26 。
『徳川実紀』は、家康が麦飯を常食したこと 6 や、最晩年に鯛の天ぷらを食べた後に体調を崩したこと 26 など、食に関するエピソードを比較的詳細に記録している。これほど食を通じた健康管理に執心した人物について、もし「毎朝梅干を食べる」という特筆すべき習慣があったのであれば、何らかの形で記録に残されていても不思議ではない。この「記録の不在」は、逸話が家康の死後、長い時間をかけて後世に形成されたものである可能性を強く示唆している。
逸話と事実関係の比較
ここで、一般に流布する逸話の内容と、史料や伝承から確認できる事実関係を比較し、その差異を明確に整理する。
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項目 |
一般的に流布する逸話の内容 |
史料・伝承に基づく事実関係 |
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行為 |
毎朝、梅干を一個食べた |
「毎朝食べた」という直接的な記録は確認できない。 |
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目的 |
寿命を保つため(長寿) |
健康志向は事実だが、梅干との直接的な因果関係を示す記録はない。 |
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梅干の由来 |
(特定されていない) |
駿府城で自ら育てた「実割り梅」という特定の梅の木が存在した 1 。 |
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梅干の用途 |
自身の食事 |
家康の死後、実割り梅から作られた梅干が久能山東照宮に奉納された 1 。 |
この表は、逸話の構造を明確に示している。すなわち、「実割り梅」という具体的な事実の核が存在し、その梅が家康の死後に神格化された家康自身に「奉納」されていたという事実がある。一方で、「毎朝」「寿命のため」といった、逸話をより教訓的で魅力的なものにする要素は、史料的な裏付けを欠いている。逸話は、事実の断片を核としながらも、後世の人々の解釈や想像によって肉付けされていったことが見て取れる。
結論:伝説の形成過程 ― 事実の断片はいかにして物語となったか
本報告書における徹底的な調査と考証の結果、「徳川家康が寿命を保つため梅干を毎朝食した」という逸話は、単一の歴史的事実ではなく、複数の要素が長い年月をかけて融合し、昇華したものであるという結論に至る。その形成過程は、以下の四つの要素によって説明することができる。
- 【時代背景】 戦国時代の常識: 「梅干は健康に良く、戦略的にも重要である」という、家康が生きた時代に誰もが共有していた知識。これが逸話の信憑性を担保する土壌となった。
- 【人物像】 家康の健康哲学: 「家康公は徹底した健康オタクであった」という、史実に基づく強烈なキャラクター。これが、特定の健康食品と家康を結びつける物語に、強い説得力を与えるエンジンとなった。
- 【事実の核】 実割り梅の伝承: 「家康は駿府城で自ら珍しい梅の木を育てた」という、固有名詞を持つ具体的で物語性豊かなエピソード。これが、曖昧な逸話に具体的な根拠とリアリティを与えた。
- 【神格化】 東照宮への奉納: 「神となった家康に、その梅から作った梅干が捧げられた」という神聖な儀式。この「奉納された」という事実が、時を経て「生前に愛食した」という、より人間的で分かりやすい物語へと変容していった。
これらの四つの事実の断片が、人々の間で語り継がれるうちに、より簡潔で、教訓的で、記憶に残りやすい物語へと姿を変えていったのである。「健康オタクであった家康公は、自ら育てた神聖な梅から作った梅干を常食し、そのおかげで長寿を全うしたに違いない。きっと毎朝食べていたのだろう」という、極めて自然な連想と単純化のプロセスを経て、現在の逸話の形に結晶化したものと考えられる。
したがって、この逸話は「歴史的事実か否か」という二元論で単純に断じるべきではない。むしろ、徳川家康という傑出した人物が、後世の人々によっていかに記憶され、敬愛され、そして理想化されていったかを示す、貴重な「記憶の文化遺産」として捉えるべきである。それは、事実の断片から生まれた、真実味のある一つの「物語」なのである。
引用文献
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- ビジネス歳時記 武士のおもてなし 第12話「梅干しと塩加減」|Oval Design - note https://note.com/oval_design/n/ncacda0d97f13
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- 徳川家康の死因? 現代の栄養学でわかった危険&優秀な「食べ合わせ」 | @Living アットリビング https://at-living.press/food/30769/
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- 74歳で天下獲得をはたした徳川家康、その長寿を支えた健康術とは? https://serai.jp/health/1036481
- 家康の「食」と「健康法」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/24802
- 戦国武将と食~徳川家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90453/
- 大河ドラマ『どうする家康』で注目!徳川家康に学ぶ健康長寿のための食の心得5箇条&まめ知識 https://kaigo-postseven.com/124363
- 家康公と食|徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松 https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/food/foodlist/
- 人生50年時代に75歳まで生きた徳川家康の「食の秘密」 白米よりビタミンB群が多い麦飯 https://president.jp/articles/-/33749?page=1
- 超入門! お城セミナー 第131回【武将】徳川家康が住んでいたお城ってどこにあったの? - 城びと https://shirobito.jp/article/1746
- 実割梅(みわりうめ)について - 久能山東照宮 https://www.toshogu.or.jp/news/post.php
- すっぱ!!家康!! お殿様だけが食べることができた贅沢な梅干をご賞味あれ!! - 番町ベース https://1bancho.com/ume/
- 梅の歴史 | 梅と日本 — 株式会社トノハタ https://www.tonohata.co.jp/ume/history/
- ひがしくるめの花ごよみ(ウメ 第4回) - 東久留米市 https://www.city.higashikurume.lg.jp/1007337/1017083.html
- 徳川家康の終の棲家「駿府城」に伝わる「異形のモノ」と七不思議【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/203758/2
- 家康公の生涯 - 隠居でなかった家康の晩年 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_07.htm
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- 実はすごい!【徳川家康公のお墓、久能山東照宮】~久能山東照宮の歩き方 - note https://note.com/mihoharaya/n/n77c8f627cf30
- 報道 - Shizuoka University WWP https://wwp.shizuoka.ac.jp/fermentacion/?cat=5
- 徳川家康と天ぷらの話 - 榧工房 かやの森 https://www.kayanomori.com/hpgen/HPB/entries/36.html
- 「どうする家康」織田信長の安土における徳川家康接待はどのようなものだったのか? https://sengoku-his.com/686
- 慶長年録(元和年録) - 家康の病|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー|国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents6_02/01/index.html