最終更新日 2025-11-01

徳川家康
 ~敗走時、馬上で失禁「恥も勇も勝ち」~

徳川家康、三方ヶ原敗走時の失禁逸話や「しかみ像」は史実ではないが、彼の人間的弱さと失敗からの学びを象徴。完璧でない家康の人間味を描き、教訓として語り継がれる。

徳川家康、三方ヶ原の敗走と人間譚 ―「恥も勇も勝ちのうち」の深層分析

序章:神君の人間譚 ― なぜこの逸話は語り継がれるのか

徳川家康という人物を語る上で、その生涯は数多の栄光と伝説に彩られている。しかし、二百六十年以上続く泰平の世を築いた「権現様」として神格化された姿の裏には、生身の人間としての苦悩、葛藤、そして屈辱的な失敗が存在した 1 。本報告書は、家康の数ある逸話の中でも、彼の生涯における最大かつ最も惨めな敗北とされる「三方ヶ原の戦い」での敗走、そしてその際に馬上で失禁(脱糞)したという人間臭い物語にのみ、徹底的に焦点を当てるものである。

この主題設定は、単なる歴史上のゴシップを追求するものではない。後の天下人となる人物が経験した極限状態を克明に追体験し、その中で生まれたとされる逸話の構造と真偽を徹底的に解剖することを通じて、我々は家康という人物の本質、そして彼の成功哲学の原点を浮き彫りにすることができる。物語の核心は、圧倒的な敗北、生理的な極限状態、人間的弱さの露呈(「これは味噌だ」という言い訳)、そして失敗からの教訓(「しかみ像」に代表される自戒)という、劇的な構造を持つ 3 。この、完璧な英雄ではない、弱さを抱えながらもそれを乗り越えていく姿こそが、時代を超えて人々の心を捉え、この逸話を不朽のものとしているのである 5

本稿では、まず第一部で、元亀三年(1572年)十二月二十二日という運命の一日を、史料と地理的考証に基づきリアルタイムで再構築する。次に第二部では、失禁譚と、それと不可分に語られる肖像画「しかみ像」の伝説を史料批判の観点から徹底的に検証し、事実と創作の境界線を明らかにする。そして終章において、この逸話が史実性の有無を超えて、なぜ生まれ、語り継がれてきたのか、その歴史的・文化的意義を深く考察していく。これは、徳川家康という一人の武将の真実を探る旅であると同時に、我々が歴史をどのように記憶し、教訓としていくのかを問う試みでもある。

第一部:元亀三年十二月二十二日 ― 惨敗のリアルタイム・ドキュメント

第一章:戦場への道 ― 血気の決断

戦略的背景:甲斐の虎、遠江に迫る

元亀三年(1572年)十月、甲斐の虎・武田信玄は、かねてからの西上作戦を実行に移すべく、総勢2万5千とも3万ともいわれる大軍を率いて甲府を出陣した 6 。その進路は、徳川家康の領国である遠江・三河を蹂躙し、京へと向かうものであった。武田軍は山県昌景らの別動隊と信玄率いる本隊に分かれ、徳川領に侵攻。徳川方の城は次々と攻略され、十一月には徳川にとって遠江北部の重要拠点であった二俣城が包囲された 7

家康は援軍を送るも、前哨戦である一言坂の戦いで敗北を喫し、本多忠勝の獅子奮迅の働きによって辛うじて浜松城へ撤退する 10 。そして十二月十九日、二俣城は武田軍の巧みな「水断ち」作戦の前に、ついに開城を余儀なくされた 7 。これにより遠江北部は完全に武田の手に落ち、信玄の脅威は家康の本拠地・浜松城の喉元にまで突きつけられることとなったのである。

籠城か、出撃か:浜松城内の激論

浜松城に迫る武田軍の兵力は、北条からの援軍を含め約2万5千から3万 11 。対する徳川軍は、三河の防衛に兵力を割かねばならず、浜松城に動員できたのは約8,000。これに盟友・織田信長からの援軍3,000を加えても、総勢は1万1,000程度に過ぎなかった 12 。兵力差は歴然であり、しかも相手は戦国最強と謳われた武田信玄である。

城内では激論が交わされた。酒井忠次をはじめとする徳川家の重臣たち、そして織田からの援軍を率いる佐久間信盛らは、この圧倒的な兵力差から堅固な浜松城に籠城し、武田軍をやり過ごすべきだと強く主張した 10 。しかし、十二月二十二日、武田軍本隊は浜松城を攻撃する素振りを見せず、城の北方に広がる三方ヶ原台地を西へと通過し始めた。これは、家康を意図的に無視し、浜松城を素通りして三河へ直接侵攻するかのような動きであった 9

家康の決断:「武士の意地」と「領主の責任」

この信玄の露骨な挑発に、当時30歳の血気盛んな家康は激昂した。家臣たちの制止を振り切り、彼は出陣を決意する。その時の心境を、大久保忠教が記した『三河物語』は次のように伝えている。「多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破り通ろうとしているのに、咎(とが)めないものがあろうか。合戦は軍勢の数ではなく、天道次第である」 11

この決断は、単なる若さゆえのプライドや武士の意地だけでは説明できない。そこには、より複雑な戦略的判断と領主としての責任感が介在していた。第一に、自領が蹂躙されるのを黙って見過ごせば、遠江の国人衆や領民からの信頼を完全に失い、領主としての権威が失墜することを恐れた 16 。第二に、信長からの援軍を受けながら戦いを避ければ、信長に見限られ、同盟関係そのものが危うくなる可能性があった 10 。家康にとって、この戦いは避けられない存亡をかけた一戦だったのである。

しかし、この戦いにおける両雄の意図には、根本的な非対称性が存在した。家康にとってはこの戦いが「領地と誇りを守るための決戦」であったのに対し、信玄にとってはあくまで「西上作戦の途上における障害排除」に過ぎなかった。信玄は家康の若さと性格を見抜き、あえて浜松城を素通りするという心理戦を仕掛けた 5 。籠城され時間を浪費するよりも、野戦に誘い出して一気に叩き潰す方が遥かに効率的だと判断したのである 14 。家康はこの老練な策略家の掌の上で、決戦の舞台へと引きずり出されてしまった。戦いの趨勢は、両軍が陣形を組む前から、この戦略的・心理的な非対称性によって、すでに大きく武田方へ傾いていたと言えよう。

第二章:三方ヶ原、崩壊の二時間

布陣:魚鱗 対 鶴翼

元亀三年十二月二十二日、午後。雪がちらついていた可能性も指摘される寒い日であった 16 。徳川・織田連合軍は浜松城を出て、武田軍を追撃すべく三方ヶ原台地へと兵を進めた。家康は、敵を左右から包み込んで殲滅するのに適した「鶴翼の陣」を展開した 10 。これは、敵の側面を突くことを意図した攻撃的な陣形である。

一方、家康の追撃を予期していた武田信玄は、全軍に反転を命じ、万全の態勢で徳川軍を待ち構えていた。信玄が敷いたのは、大将を先頭に中央突破を目的とする攻撃陣形「魚鱗の陣」であった 7 。これは、鶴翼の陣が両翼に兵力を割くため必然的に手薄になる中央部を、一点集中で突破するための最適な戦術であった。家康の策は、完全に見透かされていたのである。

午後四時、開戦、そして瞬時の崩壊

午後四時頃、両軍は激突した 11 。戦いは、当初から一方的な展開となった。徳川軍の先鋒が武田軍に攻撃を仕掛けるも、熟練の武田兵は微動だにしない。やがて、信玄本隊が怒涛の如く徳川軍の中央に襲いかかると、鶴翼の陣は瞬く間に崩壊した。

わずか二時間ほどの戦闘で、徳川軍は総崩れとなり、壊滅的な打撃を受けた 5 。徳川方の死者は2,000名近くに達したともいわれ、武田方の死者200余名と比べてその被害の甚大さは明らかであった 11 。この戦いで、徳川家は多くの譜代の重臣を失った。本多忠勝の叔父である本多忠真、家康の身代わりとなった夏目吉信、鳥居元忠の兄・鳥居忠広などが次々と討ち死にした 11 。織田からの援軍も、将の一人である平手汎秀が戦死し、水野信元に至っては早々に戦場から離脱し岡崎城まで撤退するなど、連合軍は完全に統制を失っていた 13 。家康自身も討死を覚悟するほどの、まさに生涯最大の惨敗であった 5

第三章:闇夜の逃避行 ― 生と死の境界線

身代わりの忠義:夏目吉信の最期

全軍が崩壊し、武田軍の猛追を受ける中、徳川家康は死を覚悟した。しかし、その家康を家臣たちが必死に押しとどめる 5 。中でも、家臣の夏目吉信(広次)は、かつて三河一向一揆で家康に敵対し、一度は命を奪われかけたものの許されたという過去があった 20 。その恩義に報いるため、彼は決死の行動に出る。

吉信は、家康の馬の向きを強引に変えさせ、逃げるよう説得した 22 。そして、自らが「我こそは徳川家康なり」と名乗りを上げ、わずかな手勢を率いて追撃してくる武田軍の真っ只中へと突入していった 9 。この捨て身の時間稼ぎによって、家康は九死に一生を得て、浜松城への逃避行を開始することができたのである。吉信の壮絶な最期は、三河武士の忠義の象徴として、後世まで語り継がれることとなった。

敗走ルートの伝承を辿る

浜松城までの約十数キロの道のりは、生と死の境界線であった。この必死の逃避行の道筋には、家康の極限状態を物語る数々の伝承が今なお残されている。

  • 小豆餅と銭取: 敗走の途中、空腹に耐えかねた家康が道端の茶屋に立ち寄り、小豆餅を注文した。しかし、武田の追っ手が迫ってきたため、代金を払わずに慌てて馬で逃げ出した。茶屋の老婆はこれに気づき、「お代をお忘れですぞ」と家康を追いかけ、ついに追いついて代金を受け取ったという 25 。家康が餅を食べた場所が「小豆餅」、老婆が代金を受け取った場所が「銭取」という地名になったと伝えられている 28 。史実としての信憑性は低いものの、天下人の人間臭い一面と、戦乱の世を生きる庶民のたくましさを伝える逸話として、地域に根付いている 27
  • 浜松八幡宮の雲立の楠: 追っ手に追い詰められた家康が、浜松八幡宮の境内にある巨大な楠の洞に馬ごと身を隠した。すると、楠の上から瑞雲が立ち上り、白馬に乗った神霊が現れて浜松城の方角へ飛び去った。これを吉兆と感じた家康は、無事に城へたどり着くことができたという 25 。この奇跡譚は、敗者が再起を遂げる上で、精神的な支えとなる物語がいかに重要であったかを示唆している。

浜松城帰還と「空城の計」

供回りがわずか数名になるほど命からがら浜松城にたどり着いた家康であったが、彼の戦いはまだ終わっていなかった 19 。追撃してくる武田軍に対し、家康は一か八かの策を講じる。それは、城の全ての門を開け放ち、各所で篝火を赤々と焚かせ、城内を静まり返らせるという「空城の計」であった 7

これは、あえて無防備を装うことで、敵に「何か罠があるのではないか」と疑心暗鬼を抱かせる高等な心理戦術である。さらに、家臣の酒井忠次が城の櫓に上り、わざと勇ましく太鼓を打ち鳴らしたとも伝えられる 5 。この大胆不敵な策は功を奏し、山県昌景率いる武田の追撃隊は伏兵を警戒して城内に突入することをためらい、引き上げていった。

さらに家康は、この屈辱的な敗戦に一矢報いるため、その日の夜半、犀ヶ崖(さいががけ)付近で野営していた武田軍の一部に夜襲をかけた 9 。不意を突かれた武田兵は混乱し、多くが暗闇の中で崖から転落死したという 5 。この犀ヶ崖の夜襲は、ただの敗者で終わらない家康の執念と、絶望的な状況からでも反撃の機会を窺うしたたかさを示すエピソードとして知られている。

第二部:逸話の解剖 ― 事実と創作の境界線

第一章:「これは味噌に候」― 失禁譚の源流と変容

流布する物語の確定

三方ヶ原の敗走にまつわる逸話として、最も広く知られているのが失禁(脱糞)譚である。その物語は、概ね次のような内容で語られる。「三方ヶ原からの敗走中、武田軍の猛追に徳川家康は極度の恐怖を感じ、乗っていた馬の鞍上で思わず大小便を漏らしてしまった。命からがら浜松城に帰り着いた際、家臣(本多作左衛門や大久保忠隣など、伝承によって人物は異なる)にその汚れを指摘されると、家康は顔を赤らめ、『これは糞ではない。腰に付けていた非常食の焼き味噌じゃ』と苦しい言い訳をした」 4 。この逸話は、後の天下人の人間的な弱さを示すエピソードとして、講談や小説、ドラマなどで繰り返し描かれてきた。

史料の検証:沈黙と誤伝

しかし、この劇的な逸話は、同時代の信頼できる史料からは裏付けることができない。史料を丹念に検証していくと、この物語が後世に形成された創作である可能性が極めて高いことがわかる。

  • 『三河物語』の沈黙: まず、徳川家の家臣であり、家康の側近くに仕えた大久保彦左衛門忠教が著した『三河物語』は、家康研究における一級史料とされる 35 。この書には、三方ヶ原の戦いの惨状や家臣たちの奮戦が詳しく記されているが、家康の失禁や脱糞に関する記述は 一切存在しない 38 。もし主君にそのような一大事があれば、忠義に厚い三河武士の気風を伝える同書が、何らかの形で言及しないとは考えにくい。この沈黙は、逸話が同時代に起きた事実ではないことを示唆する強力な根拠となる。
  • 『三河後風土記』の記述: では、この逸話の源流はどこにあるのか。その元ネタではないかと指摘されているのが、江戸時代初期に成立したとされる著者不詳の軍記物『三河後風土記』である 39 。しかし、この書に記されている内容は、一般に流布する逸話とは大きく異なる。第一に、舞台が「 三方ヶ原の戦い 」ではなく、その前哨戦である「 一言坂の戦い 」の後の出来事として記されている点。第二に、家康が実際に脱糞したという事実ではなく、家臣の 大久保忠佐 が浜松城に戻った家康に対し、「(殿の)御馬の鞍壺に糞がついているはずだ。漏らしながら逃げて来たんだ」と 軽口を叩いた 、という内容である点だ 38 。これは、主君の危機をからかう家臣団の気安さを示すエピソードであり、家康が実際に粗相をしたという記録ではない。
  • 『改正三河後風土記』による否定: さらに、江戸時代後期の天保四年(1833年)、幕府の儒学者であった成島司直が『三河後風土記』を校訂・編纂した『改正三河後風土記』においては、この大久保忠佐の軽口に関する記述そのものが、公式に否定されている 41 。成島は、「そもそも家康公は一言坂の合戦には出陣しておらず、馬に乗って逃げ帰るということ自体があり得ない。よってこの話は 妄説(根拠のない説)である」と断じ、本文から削除 しているのである 38

結論:創作としての逸話

以上の史料批判から、徳川家康が三方ヶ原の戦いで失禁・脱糞したという逸話は、歴史的事実とは考え難い。その成立過程は、次のように推測される。まず、『三河後風土記』に記された「一言坂の戦い後の、家臣による軽口」という小さなエピソードが存在した。これが後世、特に江戸時代に入り、講談師などが大衆向けに歴史を語る中で 7 、より劇的で有名な「三方ヶ原の大敗」という舞台に移し替えられ、「軽口」が「事実」へと変化し、「焼き味噌」という具体的な言い訳が付け加えられるなど、物語として誇張・脚色されていった。つまり、この人間味あふれる逸話は、史実ではなく、民衆の想像力が育んだ創作なのである。

表:逸話の源流に関する史料比較

史料名

成立年代

著者(伝)

関連記述の内容

逸話への評価・位置づけ

『三河物語』

元和8年 (1622)

大久保忠教

三方ヶ原の敗戦は詳述するが、失禁・脱糞に関する記述は 一切なし

家康側近による同時代に近い記録にないことから、逸話の非同時代性を示唆する最重要根拠。

『三河後風土記』(原書)

慶長15年 (1610)頃

不詳(平岩親吉説など)

一言坂の戦い 後、大久保忠佐が家康の鞍に糞がついていると 軽口を叩いた 、と記す。

逸話の「元ネタ」か。ただし、①舞台が三方ヶ原ではない、②事実ではなく家臣の冗談、という点で大きく異なる。

『改正三河後風土記』

天保4年 (1833)

成島司直

原書の記述を「家康は一言坂に出陣しておらずあり得ない」として**「妄説」と断じ削除**。

江戸幕府の公式見解として逸話を否定。神君家康の権威を守るための編纂意図がうかがえる。

講談・俗説

江戸時代以降

不明

三方ヶ原で脱糞し、「これは味噌だ」と言い訳した、という物語として完成・流布。

歴史的事実から離れ、エンターテインメントとして消費される中で物語が完成した段階。

第二章:「しかみ像」の真実 ― 作られた自戒の肖像

伝承の紹介

家康の失禁譚と対になる形で語られるのが、通称「しかみ像」(顰像)の逸話である。正式名称を「徳川家康三方ヶ原戦役画像」というこの肖像画は、徳川美術館が所蔵する、家康を描いたものとされる絵画である 42 。その表情は、天下人の肖像画としては異例なほどに歪められ、苦渋に満ちている。

この像にまつわる伝承は、実に感動的である。「三方ヶ原で大敗を喫し、多くの家臣を失った家康は、浜松城に逃げ帰った直後、己の慢心とこの惨めな姿を生涯忘れることのないよう、絵師を呼び寄せ、ありのままの姿を描かせた。そして、この絵を常に座右に置き、自戒のしるしとした」というものである 3 。この物語は、失敗から学ぶ家康の器の大きさを示すものとして、広く人々の共感を呼んできた 48

伝承の成立過程の検証

しかし、この自戒の肖像画という感動的な伝承もまた、近年の研究によって史実ではないことが明らかになっている。失禁譚と同様、これは後世に創られた物語なのである。

徳川美術館に残る記録を調査すると、この伝承を裏付ける同時代の史料は一切存在しない 50 。それどころか、この肖像画はもともと三方ヶ原の戦いとは無関係であったことが判明している。尾張徳川家に伝来した当初の目録では、この絵は「 家康公長篠戦役小具足着用ノ像 」と記されており、三方ヶ原の戦い(1572年)の三年後に行われた長篠の戦い(1575年)に関連するものと認識されていた 42

さらに驚くべきことに、「三方ヶ原の敗戦を自戒するために描かせた」という現在広く知られている逸話が確認できるのは、明治時代以降であり、一般に定着したのは徳川美術館が開館した 昭和期に入ってから のことである 42 。つまり、この物語は近代になってから創作・形成された、比較的新しい伝説なのである。

美術史的分析

美術史的な観点からも、この肖像画が三方ヶ原の戦い直後に描かれたとする説は成り立たない。描かれている武具の様式や、その描画技法から、専門家による製作年代の推定は 江戸時代初期の十七世紀頃 とされている 42 。これは、元亀三年(1572年)の合戦から数十年以上後の時代であり、家康が敗戦直後に描かせたという伝承とは、時間的に大きな隔たりがある。

この一連の事実は、歴史的なイメージがいかにして構築されていくかを示す格好の事例と言える。まず、江戸時代から講談などを通じて「三方ヶ原での家康の惨敗と人間的弱さ」という無形の物語が語り継がれていた 4 。一方、尾張徳川家には、由来は不明ながらも特異な表情を持つ「家康の肖像画」という有形の物が存在した 42 。昭和期に入り、この肖像画が一般に公開されると、その苦渋に満ちた表情が、三方ヶ原での敗北という物語と結びつけられたのである。

「失禁するほど恐ろしい目に遭った時の顔がこれだ」という解釈は、非常に分かりやすく、また「失敗をバネにする」という教訓性に富んでいたため、多くの人々の共感を呼んだ 48 。こうして、本来は無関係であった「物語」と「物」が強力に結合し、互いを補強しあうことで、肖像画は物語の「物証」となり、物語は肖像画によって具体的なイメージを獲得した。その結果、史実とは異なる「伝説」が、あたかも事実であるかのような強力なリアリティを持って定着するに至ったのである。

終章:「恥も勇も勝ちのうち」― 逸話が映し出す家康の本質と歴史の教訓

本報告書で詳述してきた通り、徳川家康が三方ヶ原の戦いで失禁し、「これは味噌だ」と言い訳したという逸話、そしてその自戒のために「しかみ像」を描かせたという伝承は、いずれも同時代の史料に裏付けを見出すことができず、後世に創られた物語である可能性が極めて高い。しかし、これらの物語を単なる「偽史」として切り捨てることは、歴史の持つ豊かな側面を見過ごすことになる。史実性の有無を超えて、なぜこれらの逸話が生まれ、これほどまでに人々の心を捉え、語り継がれてきたのかを問うことこそが、歴史を深く理解する上で重要である。

これらの逸話が持つ最大の価値は、徳川家康という人物の本質的な強さを、逆説的に描き出している点にある。それは、彼が単なる幸運な武将や、生まれながらの英雄ではなかったという事実である。彼は、生涯で唯一ともいわれる完膚なきまでの敗北を喫し、死の恐怖に震え、多くの忠臣を失うという耐え難い屈辱を味わった 3 。重要なのは、彼がその失敗に打ちのめされるのではなく、それを糧として学び、二度と同じ過ちを繰り返さないための教訓としたことである 5 。三方ヶ原での惨敗の経験は、後の慎重で忍耐強い戦略家としての家康を形成する上で、決定的な役割を果たした 21 。失禁譚やしかみ像の物語は、史実ではないにせよ、この「失敗から学ぶ人間・家康」という本質を見事に象徴する装置として機能しているのである。

また、徳川の治世において、その創業者である初代将軍の最もみじめな失敗談が、たとえ創作であっても広く語り継がれること自体が、非常に興味深い文化的現象である。これは、為政者の完璧さや無謬性を強調するのではなく、むしろその人間的な弱さや失敗を認め、それを教訓として共有することの重要性を示す、一種の文化的装置として働いたと見ることができる。完璧な英雄の物語よりも、弱さを乗り越えた人間の物語の方が、より深く人々の心に響き、後世への教訓となり得ることを、この逸話は示している。

最終的に、我々は「史実としての家康」と「物語としての家康」という二つの像を前にしている。本報告の分析は、両者を厳密に区別することの重要性を示したが、同時に、「物語としての家康」が、歴史上の人物の評価や影響力を形作る上で、前者と同じくらい、あるいはそれ以上に大きな力を持っていることも明らかにした。「恥も勇も勝ちのうち」という言葉は、家康自身が語ったという確証はない。しかし、この言葉は、三方ヶ原の敗走という屈辱的な体験から人々が引き出した、普遍的な教訓を見事に要約している。この人間味あふれる逸話の探求は、一人の武将の真実を探る旅であると同時に、我々が歴史という鏡の中に何を求め、何を学び取ろうとしているのかを映し出す旅でもあったと言えるだろう。

引用文献

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  2. 徳川家康はどんな人?徳川家康の性格は? - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/78168/
  3. なぜ籠城せず、わざわざ城から出て負けたのか…徳川家康の唯一の敗戦「三方ヶ原の戦い」の謎を解く 「籠城する」という選択肢を取れなかったワケ - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/66304?page=1
  4. 徳川家康にインタビューしたら、脱糞説に激怒された【妄想インタビュー】 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/125026/
  5. 徳川家康三大危機の一つ「三方ヶ原の戦い」|家康生涯一の大勝負で信玄に大惨敗の屈辱【日本史事件録】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1125795/2
  6. 三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-138298
  7. 三方ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  8. 三方ヶ原古戦場 ~家康が脱糞するほど大敗した信玄との激突の地 | 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/bangai_mikatagahara-html.html
  9. 三方ヶ原の戦い古戦場:静岡県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/mikatagahara/
  10. 家康がまさかの脱糞!?「三方ヶ原の戦い」~武田信玄VS徳川家康をわかりやすく解説 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/177/
  11. 徳川家康の人生において最大の屈辱戦にして最悪の敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」とは⁉ https://www.rekishijin.com/27483
  12. 三方ヶ原の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-kosenjo/mikagatahara-kosenjo/
  13. 『三方ヶ原の戦い』を地図や陣形を使ってわかりやすく解説! - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/mikatagaharanotatakai-layout/
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  15. 武田信玄との三方ヶ原の戦いで徳川家康には本当に勝ち筋はなかったのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26844
  16. 『磯田道史のちょっと家康み』「三方ヶ原の戦い」|レコの館(やかた) - note https://note.com/sz2020/n/n4ff94ccf91cb
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  18. 三方原の戦い~いちばんの敵は味方だった !? 家康を大敗させたダメ家臣団 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5844
  19. 家康公エピソード 磯田道史のちょっと家康み | 浜松でペット同伴可能な飲食店 ドッグルハウス(ドッグレストラン&ドッグラン) https://doglle-house.jp/about/hamamatsu/ieyasu/
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  24. コメディと思っていた夏目広次の名前違い、真相に視聴者号泣【どうする家康】 | Lmaga.jp https://www.lmaga.jp/news/2023/05/654261/
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  26. モデルコース|徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松 https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/place/course/
  27. 徳川家康の逸話 小豆餅と銭取 浜松 https://mikata-f.com/contents/1997
  28. 【史跡散策】実走!三方ヶ原の戦い 家康敗走ルートを辿る - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2054
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  32. 徳川家康「三方ヶ原の戦いで脱糞敗走」は信憑性が低い話 - NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20170816_602619.html?DETAIL
  33. 「歴史嫌いの子どもがハマった」と話題に!子ども人気No.1のやばいエピソード「徳川家康が戦の途中で『うんこを漏らした』理由」とは? https://diamond.jp/articles/-/347465
  34. 虚々実々!若き日の徳川家康が臨んだ「三方ヶ原の戦い」にまつわる逸話の真相は?【後編】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/195095/2
  35. 三河物語 徳川家康25の正念場 - リベラル社 http://liberalsya.com/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%80%80%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B725%E3%81%AE%E6%AD%A3%E5%BF%B5%E5%A0%B4/
  36. 三河物語 徳川家康25の正念場 - 実用 伊藤賀一/リベラル社 - ブックウォーカー https://bookwalker.jp/de25735879-9bec-49e4-a4dd-c781a4a4b04f/
  37. 家臣の家康への皮肉が書かれた「三河物語」の中身 「主君を裏切る者が出世している」と憤慨 https://toyokeizai.net/articles/-/648451
  38. 徳川家康の三大黒歴史・三方ヶ原の”失禁”は本当か?『改正三河後風土記』によると……【どうする家康】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/192919
  39. 三河後風土記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%BE%8C%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98
  40. 【なにぶん歴史好きなもので】まさかの「家康の脱糞」が鍵?信玄にやられっぱなしの家康が唯一、一矢報いた「一言坂の戦い」の謎に迫る!|静岡新聞アットエス https://www.at-s.com/life/article/ats/1403430.html
  41. 『改正三河後風土記』について https://fukuyama-u.repo.nii.ac.jp/record/5600/files/KJ00004183694.pdf
  42. 徳川家康三方ヶ原戦役画像 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%88%A6%E5%BD%B9%E7%94%BB%E5%83%8F
  43. 徳川家康三方ヶ原戦役画像 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/18704
  44. 徳川家康の有名な「しかみ像」は脱糞した、情けない姿ではなかった⁉【家康の新説】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26823
  45. 家康の『しかみ像』に新説が! 家康が描かせたはウソだった | 静岡・浜松・伊豆情報局 https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/hamamatsu/shikami/
  46. しかみ像 - 花園たまや https://hanazonotamaya.jp/blogs/news/910
  47. しかみ像 - アトリエ・AZU https://www.azutelier.jp/spot/okazaki/okazaki-koen/shikami/
  48. ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%88%A6%E5%BD%B9%E7%94%BB%E5%83%8F#:~:text=%E5%8E%9F%E3%81%AF%E3%80%81%E6%9C%AC%E5%9B%B3%E3%81%AE,%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%85%B1%E6%84%9F%E3%82%92%E5%91%BC%E3%82%93
  49. 家康「三方ヶ原の戦い」後の"変顔肖像画"のナゾ - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/663191?display=b
  50. しかみ像 -家康公の苦渋の肖像- | ぽけろーかる[公式] | 観光スポット記事 https://pokelocal.jp/article.php?article=100
  51. しかみ像 - 岡崎おでかけナビ https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/guide/19
  52. 徳川家康三方ヶ原戦役画像(しかみ像)について|親魏倭王(元学芸員 - note https://note.com/yamato_ouken/n/n70ff0b188c4f
  53. 徳川家康三方ケ原戦役画像の謎 https://www.tokugawa-art-museum.jp/wp-content/uploads/2025/02/43_1-%E8%AB%96%E6%96%87%EF%BC%8F%E5%8E%9F%E5%8F%B2%E5%BD%A6.pdf
  54. 戦国武将の失敗学⑤ 徳川家康を成功に導いた2つの“失敗”|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-088.html
  55. 天下人・徳川家康の実像:秀吉との競合から五大老筆頭、そして江戸幕府創設へ - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/column/tokugawaieyasu_2/