最終更新日 2025-11-01

徳川家康
 ~日光に祀られ東方を守る神神格譚~

徳川家康が死後「東照大権現」として神格化され、日光に祀られるまでの軌跡を詳述。政治的・思想的背景から、徳川幕府の永続的な平和を盤石にする国家戦略を解き明かす。

東照大権現神格譚:徳川家康、東方を守る神となるまでの軌跡

序章:神となる男、徳川家康

元和二年(1616年)。日本は、一世紀以上にわたって国土を焦土と化してきた戦乱の時代に、ようやく終止符を打ったばかりであった。前年、大坂夏の陣で豊臣家を完全に滅亡させた徳川家康は、名実ともにかく乱の世の最終的な勝利者として、その治世の総仕上げに取り掛かっていた 1 。しかし、武力による天下統一は、永続的な支配の保証にはならない。武力で得た権力は、より強大な武力によって覆されうる。真の泰平とは、軍事力と法制度に加え、人々の精神に深く根差した、揺るぎない「正当性」の上に築かれるものである。

この報告書は、徳川家康という一人の戦国大名が、死して後に「東照大権現」という神へと昇華するまでの過程を、時系列に沿って徹底的に詳述するものである。これは単なる追悼や宗教的儀礼の記録ではない。家康の神格化は、彼自身が構想し、最も信頼する側近たちに託した、徳川幕府による二百六十余年の平和を盤石にするための、最後の、そして最も壮大な国家戦略であった。それは、武家政権が天皇の伝統的権威とは別に、独自の神聖な権威の源泉を創出しようとする「徳川王権論」とも呼ぶべき思想の確立を目指す、壮大な計画の幕開けだったのである 2 。本稿では、駿府城の死の床から日光の神殿に至るまでの出来事を追い、その背後にあった政治的、思想的、そして宇宙論的な深層を解き明かしていく。

第一部:遺命 ― 駿府城での最期の言葉

第一章:死の床に集う者たち(元和二年一月~三月)

物語の始まりは、家康が隠居の地として選んだ駿府城である 3 。元和二年一月、鷹狩りの帰りに食した鯛の天ぷらが原因とされる腹痛に倒れた家康は、一時は回復の兆しを見せるも、病状は徐々に悪化の一途をたどった 5

天下人の病臥の報は瞬く間に全国を駆け巡り、駿府城内は静かな緊張感に包まれた。その権威の絶大さを示すように、全国各地から諸大名、公家、さらには親王までもが、本人自らか、あるいは使者を立てて、続々と見舞いに訪れた 5 。それは、家康の健康が個人の問題ではなく、ようやく訪れた平和の存続そのものに関わる国家的な一大事であることを物語っていた。幕府は全国の寺社に病気平癒の祈祷を命じたが、その甲斐もなく、家康の体力は衰えていった 5

第二章:三人の側近に託された未来(元和二年四月二日)

自らの死期を悟った家康は、四月二日、枕元に三人の腹心を呼び寄せた。幕府の世俗的な統治を司る本多正純、天台宗の高僧であり家康の宗教的ブレーンであった南光坊天海、そして臨済宗の僧侶でありながら外交・法制の顧問として幕政の中枢を担った金地院崇伝である 4

この三人の人選そのものが、家康の深慮遠謀を物語っている。正純は「俗(政治・行政)」を、天海は「聖(宗教・思想)」を、崇伝は「法(法制・外交)」を象徴する存在であった。家康は自らの神格化という一大事業を、個人の信仰の問題としてではなく、政治・宗教・法制が一体となった国家プロジェクトとして執行させるために、各分野の最高責任者を一堂に会させたのである。

崇伝が自身の日記『本光国師日記』に書き留めた家康の遺言は、極めて具体的かつ明瞭であった。

「臨終となったら体は久能山に埋葬し、葬儀は江戸の増上寺にて、位牌は三河の大樹寺に、一周忌も過ぎて後、日光山に小さき堂を建て勧請(かんじょう)せよ、八州の鎮守になるべく」 4

この遺言には、徳川家による未来永劫の支配体制構築に向けた、緻密な設計図が秘められていた。遺体の埋葬地、葬儀の場所、位牌の安置場所、そして一年後の分祀と、それぞれに明確な役割と意味が与えられていたのである。

第三章:巨星墜つ(元和二年四月十七日)

遺命を託してから十五日後の元和二年四月十七日、午前十時頃、徳川家康は七十五年の生涯に幕を下ろした 4

その死は、神となるための変容の第一歩であった。遺言に従い、家康の亡骸が人の目に触れることは固く禁じられた。その日の夜、折からの雨に紛れて、遺体は厳重な警護のもと駿府城から運び出され、ほど近い久能山へと密かに移送、埋葬された 4 。この徹底した秘匿性は、彼の亡骸がもはやただの遺体ではなく、神聖な「御神体」として扱われ始めたことを示している。

埋葬地である久能山の選定にも、複数の戦略的な意図が見て取れる。まず、久能山は武田氏との攻防でも知られる要害の地であり、軍事的な価値が非常に高かった 8 。そして、伝承によれば、家康の遺体は正装で椅子に座ったまま、西を向いて埋葬されたという 9 。この「西向き」という方角には、自らの故郷である三河を望むためという説と、より重要な政治的意味合いとして、大坂の陣で滅んだとはいえ未だ不穏な空気が残る西国、すなわち豊臣恩顧の大名たちが割拠する地域に睨みを利かせるためという説がある 9

さらに、久能山は家康の生涯を象徴する「太陽の道」と呼ばれる一直線上に位置していた。家康生誕の地である岡崎城、母・於大の方が子授けを祈願した鳳来寺山、そして久能山を結ぶこの線は、太陽の運行と重なり、家康が神として再生するための宇宙論的な舞台装置としての意味合いも持っていたのである 10 。久能山への埋葬は、家康が「八州の鎮守」となるための、最初の物理的な布石であった。

第二部:神号 ― 神の名を巡る神学的闘争

家康の死後、幕府首脳陣が直面した最初の重要課題は、彼に奉るべき「神号(しんごう)」、すなわち神としての名前を定めることであった。この問題を巡り、家康の側近であった金地院崇伝と南光坊天海の間で、徳川の未来を左右する激しい神学論争が繰り広げられた。

論点

金地院崇伝の主張

南光坊天海の主張

提案神号

明神(みょうじん)

権現(ごんげん)

思想的背景

吉田神道

山王一実神道(天台神道)

神格の解釈

完全に独立した神道の神

仏(薬師如来)が人々を救うために仮の姿で現れた神

政治的含意

豊臣秀吉(豊国大明神)の先例に倣う伝統的な選択

豊臣家の先例を否定し、徳川独自の神格を創出する革新的な選択

第一章:明神か、権現か

論争の中心人物は、家康の法制度を支えた臨済宗の傑僧・崇伝と、家康の宗教顧問として絶大な信頼を得ていた天台宗の巨星・天海であった 11

崇伝は、当時神道界の主流であった吉田神道の教義に基づき、「明神」の神号を主張した 12 。吉田神道は神仏分離を掲げ、神を仏の上位に置く思想であり、豊臣秀吉が死後に朝廷から「豊国大明神」の神号を贈られた際にも、その儀式を司ったのが吉田神道であった 7 。崇伝の主張は、秀吉という先例に倣い、朝廷の権威を背景に持つ、最も穏当で正統的な選択肢に見えた。

これに対し、天海は断固として反対し、「権現」の神号を強く推した 11 。「権現」とは、天海が信奉する天台宗系の山王一実神道に根差す神号である 15 。これは神仏習合の思想であり、「本地」である仏が、人々を救済するために「権(かり)」の姿、すなわち日本の神として「現」れる(本地垂迹説)という考え方に基づいていた 16 。天海によれば、家康の本地仏は医薬を司る薬師如来であり、家康は薬師如来が乱世の民を救うために人の姿で現れた「権現」であると説いた 7 。これは、単なる神号の選択に留まらず、徳川家康という存在を、仏教の壮大な救済史の中に位置づける試みであった。

第二章:天海の深謀

神学上の対立は、二代将軍・徳川秀忠の前で直接対決の様相を呈した。ここで天海は、単なる教義論争に終わらない、恐るべき政治的レトリックを駆使する。

天海が切り札として持ち出したのは、他ならぬ豊臣秀吉の記憶であった。彼は、秀吉が「豊国大明神」という神号を得たにもかかわらず、その豊臣家がわずか一代で滅亡した事実を突きつけたのである 1 。天海の弟子が記した記録には、天海が「亡君豊国大明神のちかきためしを覚して…(故君・豊国大明神の近年の例を思い起こされよ)」と述べ、その「悲惨な末路」を論拠に「明神」号の不吉さを説いたとある 17

この天海の論法は、神学的な正当性の議論を超えた、極めて巧みな政治的恫喝であった。彼は「明神」という神号そのものに「呪い」のイメージを付与したのである。「秀吉は明神号を選び、その結果、家は滅んだ。今、家康公に同じ明神号を奉ることは、徳川家に同じ運命を招き寄せることに他ならない」。この恐怖を煽る論法は、成立間もない徳川政権の存続を何よりも願う秀忠や幕閣たちの心を強く揺さぶった。さらに天海は、家康が生前、自分にだけ「権現にせよ」と遺言したと主張したとも伝えられており、これが事実であれば、もはや誰も反論することはできなかった 6 。これは、天海が単なる高僧ではなく、人心の機微を読み、政局を動かすことのできる当代随一の政治戦略家であったことを証明している。

第三章:朝廷の勅許と「東照大権現」の決定

天海の強力な主張の前に、秀忠は「権現」号の採用を決断した 12 。そして、この決定を朝廷に認めさせるための交渉役として、天海を京都へ派遣した 12

武家である徳川家の当主を、朝廷が神として認めることには、当初抵抗があった 18 。それは武家の権威を天皇家と同格にまで高めかねない行為であったからだ。しかし、幕府の圧倒的な政治力と軍事力を前に、朝廷は最終的に幕府の要求を呑まざるを得なかった。元和二年の七月、朝廷は家康の神格化を認め、「権現」の神号を用いることを勅許した 19

続いて、具体的な神号の選定が行われた。朝廷は幕府に対し、「日本(ひのもと)大権現」「東光(とうこう)大権現」「東照(とうしょう)大権現」「威霊(いれい)大権現」の四つの案を提示した 12 。この中から秀忠が、おそらくは天海の進言のもとに選び取ったのが、「東照」であった。

こうして、徳川家康の神号は「東照大権現」と正式に決定された。その名は「東より照らす偉大なる権現」を意味し、家康が遺言で述べた「八州(関東)の鎮守」となるという使命を完璧に体現するものであった 20

第三部:遷座 ― 神の肉体と魂の行方

神号の決定から約一年後、家康の一周忌を期して、遺言の最終段階である日光への「勧請」が実行に移された。この「遷座(せんざ)」の儀式は、徳川の神の誕生を天下に知らしめる壮大な国家の祭典であったが、その核心には今なお議論の絶えない大きな謎が秘められている。

第一章:千三百人の大行列(元和三年三月)

元和三年三月十五日、久能山から日光へ向かう「宮遷し」の行列が出発した。行列の総勢は、総責任者である天海、そして土井利勝や本多正純といった幕府最高首脳を含む千三百人にも及ぶ壮大なものであった 21 。この故事は、現在の日光東照宮の春季例大祭における「百物揃千人武者行列」として再現されている 22

行列は小田原城や平塚の中原御殿などで宿泊しながら、計画通りに進んだ 23 。しかし、その行程には一つ、極めて不可解な点があった。行列は幕府の本拠地である江戸城下には入らず、武蔵府中から大きく迂回し、川越へと向かったのである。そして、川越にある喜多院で四日間も滞在し、そこで大法要を執り行った 21

この迂回と長期滞在には、明確な政治的意図があった。喜多院は、他ならぬ天海が住職を務める寺院であった。天海は、国家神となった東照大権現の聖なる行列を自らの拠点に引き入れることで、喜多院を東照大権現信仰における極めて重要な聖地の一つとして位置づけたのである。これは、自らが大成させた山王一実神道と、その中心寺院である喜多院の権威を、未来永劫にわたって保証するための、天海による巧妙な布石であった。

第二章:最大の謎 ― 遺骸は日光にあるか

この壮大な遷座行列が運んだものは、果たして家康の遺骸そのものであったのか、それとも分霊された魂のみであったのか。これは、家康の神格化における最大の謎である。

遺骸そのものが日光へ移された(改葬)とする説の最も有力な根拠は、行列に同行した公家・烏丸光広の日記『日光山紀行』の記述である。彼はこの中で、日光へ「尊骸(そんがい)」、すなわち「尊い亡骸」が移されたと明確に記している 24 。また、後世の将軍、特に祖父家康を深く敬愛した三代将軍家光が、生涯で十度も日光を参拝し、自らの死後も「日光山の御側近くに葬り、御霊に仕え奉らん」と遺言して日光に眠っている事実は、彼らが日光にこそ家康の御神体があると信じていたことを強く示唆している 24

一方で、遺骸は久能山に留まり、日光へは魂のみが移された(分祀)とする説にも強力な根拠が存在する。第一に、家康自身の遺言にある言葉は「勧請(かんじょう)」であり、これは神の分霊を招き祀る儀式を指す言葉であって、遺体を移す「改葬」とは意味が異なる 4 。そして決定的なのが、遷座の際に天海が久能山に残したとされる和歌である。

「あればある、なければなきに、駿河なる 躯(むくろ)のなき神 の、宮うつしかな」 4

「(御神体は)あると言えばあるし、ないと言えばない。ここ駿河の地には、 亡骸のない神 の社が遷座していくのだなあ」。この歌は、久能山に残されたのは亡骸であり、日光へ向かったのは魂(亡骸のない神)であると、謎めいた言葉で示唆しているように読める。また、御神霊を運んだとされる神輿が、きらびやかな金の装飾を施したものであり、衆目に晒される形で運ばれたことも、防腐処理を施された実際の遺体を運ぶには不自然であるという指摘もある 4

結論として、この曖昧さは天海によって意図的に作り出された可能性が高い。これにより、久能山は「御遺体(神体)」が眠る聖地として西国に睨みを利かせ、日光は「御霊」が鎮座し、宇宙の中心から江戸と国家を守護する聖地となる。一つの神格に二つの聖地を持たせることで、東照大権現の神威はむしろ増幅され、徳川の神聖な権威はより多層的で強固なものとなったのである。

第四部:鎮守 ― 北辰の神、江戸の守護者

日光に祀られた東照大権現は、単なる関東の守護神に留まらなかった。天海の壮大な構想のもと、江戸幕府の、ひいては日本全土の恒久的な安寧を保証する、宇宙論的な中心としての役割を担うことになった。

第一章:なぜ日光だったのか

日光という場所の選定は、偶然の産物では断じてない。それは、風水や陰陽道といった古代中国の宇宙観に深く根差した、緻密な計算に基づいていた。

最も重要な点は、日光が江戸城のほぼ真北に位置することである 25 。古代中国の思想では、「天子南面す」という言葉が示すように、天上の支配者(天帝)は不動の北極星を背にして南を向き、天下を治めるとされた 28 。北極星(北辰)は、数多の星々がその周りを巡る、宇宙の絶対的な中心であり、神そのものと考えられていた 10

天海はこの思想体系を巧みに利用した。彼は日光東照宮の社殿配置を、主要な門である陽明門と鳥居を結んだ線の真上に、北極星が来るように設計したとされる 30 。これにより、江戸城にいる将軍が日光を遥拝することは、自らの祖神である東照大権現を拝むと同時に、宇宙の中心である北極星を拝むことと同義になった 32 。家康は神となって江戸の真北に鎮座し、天帝=北極星と一体化することで、徳川の治世を宇宙の秩序そのものと結びつけたのである。

さらに、久能山から日光へと至る地理的な配置にも象徴的な意味が込められていた。二つの聖地を直線で結ぶと、その中間点には霊峰・富士山が位置する 10 。古来より「富士」は「不死」に通じるとされ、不老長寿信仰の対象であった。これは、家康が久能山での死(肉体の安置)を経て、不死の山である富士山を越え、日光で宇宙的な神として永遠の生命を得るという、「不死への道」を辿る壮大な物語を形成していた 10

第二章:徳川王権論と支配の正当性

これら一連の神格化事業の最終的な政治的目標こそが、「徳川王権論」の確立であった 2 。これは、徳川将軍家の支配の正当性が、京都の天皇による任命(征夷大将軍への任命)にのみ由来するのではなく、徳川家自身が持つ固有の神聖な権威、すなわち東照大権現に由来するという思想である。

これにより、将軍はもはや天皇の臣下たる武家の長であるだけでなく、国家鎮護の最高神の血を引く子孫であり、その祭祀を司る最高神官としての側面を持つことになった 35 。日本の権力構造は、天皇が有する古代以来の伝統的・祭祀的権威と、将軍が有する現実の政治権力とそれに直結した新たな神的権威という、二元的な構造へと再編されたのである 34 。幕府が「禁中並公家諸法度」によって朝廷の行動を厳しく規制し、寺社法度で全国の宗教組織を統制下に置いたことは、幕府が世俗と宗教の両領域において、自らを日本の最高権威と位置づけようとしたことの証左である 20

そして、戦乱の世を終わらせた家康を神として祀ることは、強力な「平和のイデオロギー」を生み出した 2 。徳川の治世に異を唱えることは、単なる政治的な反逆ではなく、日本の平和そのものを保証する神への冒涜行為と見なされるようになった。この神聖な権威こそが、武力だけでは成し得なかった二百六十余年という世界史上稀に見る長期の安定政権を支える、精神的な支柱となったのである 38

終章:神話の完成

徳川家康の神格化は、一人の人間の死から始まり、緻密に練り上げられた遺言、激しい神学論争、壮大な遷座の儀式、そして宇宙論に基づく聖地の創造を経て、ついに完成した。それは、一人の戦国武将が、国家の平和を永遠に守護する神へと変容を遂げる壮大な物語であった。

東照大権現の誕生は、その規模と成功において比類のない政治的・思想的プロジェクトであった。それは、徳川幕府という新たな支配体制に、武力や法制度だけでは決して得ることのできない、神聖にして不可侵の正当性を与えた。東より昇る太陽のように国を照らす偉大なる神、東照大権現の神話は、その後二百六十余年にわたる江戸時代の泰平を支える思想的基盤となり、日本の近世国家のあり方を根底から規定したのである。この神格譚は、単なる歴史上の一逸話ではなく、権力と宗教、そして国家の正統性がどのように構築されるかを解き明かすための、極めて重要な鍵なのである。

引用文献

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  6. 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を ... https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/32.html
  7. 久能山東照宮・神廟(家康墓所) | 静岡・浜松・伊豆情報局 https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/shizuoka/shizuoka-city/sz528/
  8. 家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて - 久能山東照宮と久能山城 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/13_13.htm
  9. 徳川家康の遺体は 日光ではなく久能山にある? - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/8232/
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  11. 徳川家康の後ろで幕政を動かしたふたりの僧侶「天海」と「崇伝」とは何者だったのか⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/34180
  12. 東照大権現という神号は、朝廷から示された四つの案のなかから ... https://wheatbaku.exblog.jp/33206451/
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