徳川家康
~晩年、狩りの帰途に倒れ「重荷」~
徳川家康の辞世「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」は史実ではない。鷹狩後の食事が胃癌を悪化させ、死の床で幕府安泰の遺言を残した生涯を後世が理想化。
徳川家康の終焉譚: 「重荷」の逸話に関する歴史的真相の徹底調査報告
序章:人口に膾炙する「家康最後の言葉」という逸話
徳川家康の最期を語る逸話として、「晩年、狩りの帰途に倒れ『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し』と語った」という終焉譚は、今日に至るまで広く知られている 1 。この物語は、幼少期の人質生活から幾多の苦難を乗り越え、二百六十余年の泰平の世を築いた家康の、忍耐と深謀遠慮に満ちた生涯を象徴する感動的なエピソードとして、多くの人々の心に刻まれてきた。
しかし、この広く流布する逸話は、歴史的事実を正確に反映したものなのであろうか。本報告書は、この終焉譚を「①体調悪化のきっかけとなった出来事」と「②『重荷』という言葉」という二つの構成要素に分解し、それぞれを『徳川実紀』などの一次史料に照らして徹底的に検証することで、その真相に迫ることを目的とする。
調査を進める中で明らかになるのは、この逸話が単一の出来事ではないという事実である。それは、元和二年(1616年)に実際に起きた家康の体調悪化という「史実」と、後世に創作され家康本人の言葉として付与された「教訓」が、時間と空間を超えて結合した「複合的伝承」である。本報告は、この伝承が如何にして生まれ、なぜこれほどまでに人々の心を捉えたのか、その歴史的背景と力学を解き明かすものである。
第一章:発端—元和二年正月、田中城での出来事
第一節:最後の鷹狩りと京の流行
大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、名実ともに天下人としての地位を盤石にした翌年の元和二年(1616年)、徳川家康は75歳という、当時としては驚異的な高齢に達していた。将軍職を息子の秀忠に譲った後は、大御所として駿府城を拠点とし、実質的な最高権力者として君臨していた 3 。健康維持にも人一倍気を使い、趣味である鷹狩りを頻繁に楽しんでいたことが記録されている 6 。
運命の日となったのは、元和二年一月二十一日。家康はこの日、駿府近郊で鷹狩りを行った後、近隣の田中城に滞在していた 6 。そこへ、徳川家御用達の豪商であった茶屋四郎次郎清次が、年始の挨拶のために訪れた。江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』や、同時代の記録である『慶長日記』によれば、家康が上方の様子について尋ねたところ、四郎次郎は次のように答えたとされる。
「近頃、上方では鯛を胡麻の油で揚げ、それに薬味として韮をすりおろしたものを添えて食す料理が流行しております」 8 。
この何気ない会話が、天下人の最期を早める引き金となる。
第二節:「鯛の天ぷら」と体調の急変
新しいもの好きで好奇心旺盛な家康は、その話を聞くと早速その料理を所望し、食した 8 。この時食された料理は、現代我々が知る衣をまとった「天ぷら」とは異なり、鯛をそのまま油で揚げた「素揚げ」に近いものであったと考えられている 8 。また、家康が特に好んだとされる興津鯛(アマダイ)であった可能性も指摘されている 11 。
『徳川実紀』によれば、家康が体調の異変を訴えたのは、その料理を食したまさに 当日の夜 であった。激しい腹痛に襲われ、薬を服用したと記録されている 8 。
ここで、逸話の第一の要素である「狩りの帰途に倒れ」という部分を検証する。史料が示す事実は、「狩りの 後 、城に滞在中に食事をし、 その夜 に発症した」というものである。「帰途に倒れた」という劇的な描写は、史実とは明確に異なる。これは、出来事をより印象的に、物語的に伝えるための後世の脚色である可能性が極めて高い。ここに、史実と逸話の間に存在する、最初の、しかし重要な乖離点が見出される。
第二章:駿府城での闘病—死に至る三ヶ月の克明な記録
第一節:病状の推移と死因の真相
田中城で数日の静養を経た後、家康は居城である駿府城へと帰還した。しかし、一度悪化した体調は回復することなく、腹痛は治まらず、病状は悪化の一途をたどることになる 8 。
鯛の天ぷらを食してから、家康が逝去する元和二年四月十七日までには、約三ヶ月の期間がある。この時間的経過から、単純な食中毒や食あたりが直接の死因であるとは考えにくい 8 。むしろ、油分の多い刺激的な食事が、既に家康の体内に存在していた病巣を急激に悪化させる「引き金」になったと解釈するのが医学的に妥当である 11 。
家康の真の病因を解き明かす鍵は、『徳川実紀』に記された最晩年の克明な病状描写にある。そこには、「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」とある 8 。体重の急激な減少、吐血、下血(黒い便)、そして手で触知可能な腹部腫瘤という一連の症状は、現代医学における進行性胃癌の典型的な臨床像と完全に一致する。この記述こそが、家康の死因を胃癌とする説の最も有力な根拠となっている 8 。
第二節:死を前にして—家康の「本当の」遺言
三月に入ると容体はさらに悪化し、四月には食事もほとんど喉を通らない状態に陥った 8 。自らの死期を悟った家康は、元和二年四月四日、病床に腹心中の腹心である本多正純、南光坊天海、そして金地院崇伝の三名を呼び寄せた 15 。この場で家康が語った 実際の遺言 は、人生哲学の吐露などではなく、極めて政治的かつ宗教的な国家構想であった。崇伝自身が記した『本光国師日記』によれば、その内容は以下の通りである 15 。
- 遺体は駿河の久能山に納めること。
- 葬儀は江戸の増上寺で行うこと。
- 位牌は三河の大樹寺に立てること。
- 一周忌が過ぎたら、下野の日光山に小さな堂を建てて分霊(勧請)し、自分を神として祀れ。そうすれば自分は「八州の鎮守(関東の守り神)」となろう。
ここで、逸話の第二の要素である「『人の一生は重荷を…』と語った」という部分を検証する。家康の最期を記録した『徳川実紀』や、遺言を直接聴取した崇伝の『本光国師日記』をはじめ、同時代のいかなる信頼できる史料にも、家康がこの有名な言葉を語ったという記述は 一切存在しない 。
家康が死の淵で心を砕いていたのは、自らの人生を回顧する哲学的な教訓ではなく、自らを神格化することで徳川幕府の安泰を死後も永続的に守り続けるという、壮大な政治的・宗教的計画の指示であった。為政者としての家康の実際の遺言は、権力者が死後の統治体制を盤石にするための「政治的指示」であり、後世に付与された「哲学的教え」とはその性質を根本的に異にする。この乖離は、後世の人々が家康に求めたものが、生々しい権力者の姿ではなく、理想化された道徳的賢人の姿であったことを示唆している。
【表1:徳川家康 終焉までの時系列(元和二年正月~四月)】
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年月日 (元和二年) |
場所 |
家康の動向・病状 |
主な関係者 |
典拠史料 |
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一月二十一日 |
田中城 |
鷹狩りの後、茶屋四郎次郎が勧めた鯛の天ぷら(素揚げ)を食す。同夜、激しい腹痛を発症。 |
茶屋四郎次郎 |
『徳川実紀』、『慶長日記』 |
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一月二十四日頃 |
駿府城 |
田中城で数日静養した後、駿府城へ帰還。しかし腹痛は治まらず、病状は次第に悪化。 |
- |
『徳川実紀』 |
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三月下旬 |
駿府城 |
容体がさらに悪化。医師・曲直瀬道三の診察を受ける。 |
曲直瀬道三 |
『徳川実紀』 |
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四月四日 |
駿府城 |
死期を悟り、本多正純、天海、崇伝を枕元に呼び、自らの神格化を中心とする遺言を託す。 |
本多正純、天海、崇伝 |
『本光国師日記』 |
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四月上旬 |
駿府城 |
しゃっくりや痰、発熱が見られ、食事も吐いてしまうなど、衰弱が著しくなる。 |
- |
『徳川実紀』 |
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四月十一日 |
駿府城 |
食事が喉を通らなくなる。 |
- |
『徳川実紀』 |
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四月十七日 |
駿府城 |
午前十時頃、逝去。享年75。 |
- |
『徳川実紀』 |
第三章:『東照宮御遺訓』の真相—「重荷」の言葉はどこから来たのか
第一節:後世に現れた「御遺訓」
家康が語ったとされる「人の一生は重荷を負うて…」で始まる一連の言葉は、現在『東照宮御遺訓』として知られている 2 。しかし、この遺訓が家康の言葉として明確に記録に現れるのは、江戸時代も後期になってからのことであり、家康の死から二百年近くが経過している。それ以前の信頼できる史料には一切見当たらないという事実は、これが家康本人の言葉ではないことの極めて強力な状況証拠となる 21 。
第二節:言葉の源流—水戸光圀の教え
では、この有名な言葉は一体どこから来たのであろうか。近年の研究によれば、この遺訓の原型は、家康の孫にあたる水戸藩二代藩主・徳川光圀(「水戸黄門」として知られる)が家臣に与えた教訓『人のいましめ』にあるとされている 21 。忍耐と克己を説くこの教えは、光圀の人生観を反映したものであった。この光圀の言葉が、時代を経る中で、より偉大な祖父である家康の言葉として誤伝されたり、あるいは意図的に帰せられたりしていったと考えられる。
第三節:逸話の完成者—旧幕臣・池田松之介
この誤伝を決定的なものにし、今日の我々が知る「家康の遺訓」という形に完成させたのは、幕末から明治期を生きた旧幕臣・池田松之介という人物であった 21 。
明治維新によって徳川の世が終わり、新しい時代が到来した明治十一年(1878年)頃、池田は光圀の言葉を元にして『東照宮御遺訓』という書物を作成した。そして、そこにあたかも家康本人が書いたかのように署名と花押を加え、日光東照宮をはじめとする各地の東照宮に奉納したのである 21 。この行為により、「家康公の御遺訓」という権威ある形式が確立し、国民教化の文脈も相まって、世間に広く流布することとなった。
池田松之介がこの遺訓を「完成」させた明治初期という時代背景は、この逸話が広く受け入れられた理由を理解する上で決定的に重要である。徳川幕府が崩壊し、武士の価値観が根底から揺らいでいた時代、旧幕臣であった池田には、失われた江戸の世の創始者である家康の権威を再確認し、その精神的支柱を後世に伝えたいという強い動機があったと考えられる。つまり、この逸話は家康の死の瞬間に生まれたのではなく、徳川幕府の「死」に直面した遺臣の手によって、鎮魂と顕彰の意を込めて完成されたのである。
結論:逸話の再構築—史実と創作の融合
本報告書の調査により、「晩年、狩りの帰途に倒れ『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し』と語った」という逸話は、以下の三つの異なる時代の要素が後世において一つの物語として結合したものであることが明らかになった。
- 史実①(発端): 元和二年(1616年)正月、鷹狩りの後、田中城で鯛の天ぷらを食べたことを引き金に、持病の胃癌が悪化し、死に至ったという事実。
- 史実②(最期の言葉): 臨終に際し、自らの神格化による国家鎮護を目的とした、極めて政治的な遺言を側近に託したという事実。
- 創作(言葉の付与): 徳川光圀の言葉に源流を持ち、明治期に旧幕臣・池田松之介によって「家康の遺訓」として完成された教えが、家康最後の言葉として物語に付与されたという経緯。
この複合的な逸話が、なぜこれほどまでに人々の心を捉え、事実として受け入れられてきたのか。その最大の理由は、徳川幕府によって二百数十年の歳月をかけて神格化された「権現様」家康の、忍耐と努力の生涯というパブリックイメージと、「人の一生は重荷を負うて…」という言葉の内容が見事に合致したからに他ならない 25 。人々は、史実の厳密な正確性よりも、物語としての「納得感」や道徳的教訓をそこに求めたのである。
結論として、「狩りの帰途に倒れ『重荷』を語った」という逸話は、歴史的事実そのものではない。しかし、それは徳川家康という一人の歴史上の人物が、後世の人々からどのように記憶され、理想化され、そして時代の要請に応じてその人物像が再構築されていったかを示す、極めて貴重な「歴史的記憶の産物」であると言える。我々はこの逸話を通じて、一人の英雄の死の真相のみならず、歴史が語り継がれる中で育まれる物語の力学そのものを垣間見ることができるのである。
引用文献
- 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」~元公務員講師のコラム~ | ハムなび https://komuin.umedai.jp/introduce/k20221027/
- 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。」徳川家康 https://yorikuwa.com/20240622b/
- 何度も火災に見舞われていた家康の隠居城 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/33090
- 駿府城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%BF%E5%BA%9C%E5%9F%8E
- 近世城郭の集大成!徳川家康最期の地・駿府城とは?歴史と今を解説 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/200311/
- 第5回 徳川家康と胃がん | がん治療の情報サイト https://www.ganchiryo.com/column/column05.php
- 徳川家康公が遺した・・・(下) https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/202312/202312h.html
- 徳川家康の死因には大いなる秘密が隠されている可能性があった!? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2107
- Q.ウソ?ホント?家康“天ぷら死亡説” - 油に関するQ&A|植物のチカラ 日清オイリオ https://www.nisshin-oillio.com/oil/qa/qa12.html
- 家康の病|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー|国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents6_02/01/index.html
- 徳川家康は「鯛の天ぷら」で死んだはウソ? 真鯛ではなくアマダイの可能性も | TSURINEWS https://tsurinews.jp/290941/
- 徳川家康と天ぷらの話 - 榧工房 かやの森 https://www.kayanomori.com/hpgen/HPB/entries/36.html
- 徳川家康の死因? 現代の栄養学でわかった危険&優秀な「食べ合わせ」 | @Living アットリビング https://at-living.press/food/30769/
- 天下人になった徳川家康「人生最期の名言」の重み 亡くなる直前まで政治闘争の中に身を置いた https://toyokeizai.net/articles/-/721778?display=b
- 徳川家康公の墓|駿府ネット https://sumpu.net/
- 東照宮はなぜ江戸城の真北日光へ遷座したのか?<2012年6月記 - 読み物:コラム・楼蘭抄 https://www.rolan-u.co.jp/c-board/reading/rolansho/2012-06.html
- 江戸時代を築いた徳川家康の遺言 - 鎌倉・相続相談ひろば https://www.kamomesouzoku.com/16189645849362
- 家康公の生涯 - 隠居でなかった家康の晩年 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_07.htm
- 東照宮遺訓(武者絵)/ホームメイト - 刀剣ワールド/浮世絵 https://www.touken-world-ukiyoe.jp/mushae/art0012010/
- 徳川家康の「遺訓」から学ぶ - Kitaiサイト https://rk-kitai.org/column/series03-07
- 徳川家康と「家康公生誕祭」~なぜ違う?今と昔の徳川家康像 - オマツリジャパン https://omatsurijapan.com/blog/historical-greats-ieyasu2022-2/
- 東照宮御遺訓は後世の創作だった!?|本当の徳川家康公御遺言とは? https://www.ieyasu.blog/archives/6837
- 東照宮御遺訓とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE%E5%BE%A1%E9%81%BA%E8%A8%93
- 東照宮御遺訓 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE%E5%BE%A1%E9%81%BA%E8%A8%93
- 怒り狂い刀を振り回す暴挙!?実は徳川家康の名君イメージは作られたものだった。その実像とは | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 3 https://mag.japaaan.com/archives/227237/3
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