徳川家康
~死の床で「鷹は空を去れど志は」~
徳川家康の辞世「鷹は空を去れど志は天にあり」は史実ではないが、鷹狩が死因の引き金となり、死の床でも天下泰平を願った彼の生涯と志を象徴する「詩的真実」である。
徳川家康 最後の刻:逸話「鷹は空を去れど志は」の深層分析と史実に基づく臨終の再構築
序章:提示された辞世譚の謎 ― 史実と伝説の狭間
徳川家康の最期を語る際に、時として引用される「鷹は空を去れど志は天にあり」という辞世の言葉。この一句は、生涯を通じて鷹狩りを愛し、天下統一という大志を成し遂げた英雄の終焉を飾るにふさわしい、詩情と力強さを湛えています。あたかも、肉体は滅びようとも、その精神は永遠に天翔ける鷹のごとく不滅であると宣言しているかのようです。
しかし、この印象的な言葉は、江戸幕府が編纂した公式の歴史書である『徳川実紀』や、家康の側近中の側近であった金地院崇伝が記した『本光国師日記』といった、家康の最期を詳細に記録した主要な一次史料には、一切その記述を見出すことができません 1 。家康が実際に残したとされる辞世の句は、まったく異なる内容のものです 3 。
この史料上の不在という事実は、我々に一つの問いを投げかけます。この逸話は、一体どこから来たのでしょうか。そして、なぜ家康の最期と「鷹」そして「志」が、これほどまでに強く結びつけられて語られるのでしょうか。
本報告書は、この辞世譚の真偽を単に判定することに留まりません。むしろ、この逸話が生まれた背景そのものを探るべく、その核心をなす「鷹」と「志」という二つのキーワードを徹底的に掘り下げます。そして、史料に基づき、家康が病に倒れた元和2年(1616年)1月から、その生涯を閉じた4月17日までの約三ヶ月間を、あたかもドキュメンタリーのように再構築することを目指します。史実の断片を丹念に繋ぎ合わせることで、伝説の奥に横たわる天下人の最後のリアリティ、そしてその強靭な精神のありように迫ります。
第一部:鷹 ― 生涯の伴侶、そして終焉の序曲
逸話の核心的モチーフである「鷹」。それは家康にとって、単なる趣味の対象ではありませんでした。彼の生涯、そして死において、鷹は極めて重要な、宿命的ともいえる役割を果たしています。
趣味を超えた鷹狩りへの情熱
徳川家康にとって鷹狩りは、生涯を通じて片時も離すことのなかった情熱の対象でした。その回数は生涯で千回以上に及んだと記録されており、単なる娯楽の域を遥かに超えた多面的な意味を持っていました 5 。
第一に、それは健康維持と心身鍛錬の手段でした。薬の調合にも通じるほどの健康マニアであった家康は、馬で山野を駆け巡る鷹狩りを、武将としての身体能力を維持するための重要な日課と位置づけていました 7 。第二に、鷹狩りは絶好の領内視察の機会でした。自らの足で領地を巡り、地勢や民の暮らしを直接その目で見ることは、為政者として不可欠な情報収集活動であったのです 6 。そして第三に、鷹狩りは天下人の権威を象徴する政治的行為でもありました。征夷大将軍就任後、家康は有力大名の鷹狩りを制限し、許可制とすることで、自らがその頂点に立つことを示しました 6 。鷹狩りを行う「鷹場」の授与は、大名を統制する手段の一つでもあったのです。
家康の鷹への傾倒ぶりは、鷹を扱う専門家である「鷹匠」を重用したことにも表れています。後の老中となる本多正信も、元は鷹匠であったとされ、鷹狩りを通じて主君との意思疎通を図ることが、家臣にとって出世の機会にすらなり得たのです 10 。
元和二年正月、最後の鷹狩り
元和元年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、二百数十年におよぶ戦国の世に終止符を打った徳川家康。名実ともに天下の支配者となった彼は、翌元和2年(1616年)の正月、75歳という高齢にもかかわらず、居城である駿府城(静岡市)からほど近い田中城(静岡県藤枝市)へと、鷹狩りのために赴きました 11 。これが、彼の生涯最後の鷹狩りとなります。
長年の戦乱から解放され、泰平の世の礎を築き上げた天下人が、生涯愛した鷹を腕に据え、冬の駿河の野を駆ける。それは、彼の人生の集大成ともいえる、穏やかで充実した時間の始まりのはずでした。
発病:鯛の天ぷら事件の真相
運命の日は、元和2年1月21日に訪れます。田中城で鷹狩りを楽しんだ後、家康は京の豪商である茶屋四郎次郎と会食の席を設けます。その席で、四郎次郎は当時京で流行していたという「鯛の天ぷら」を勧めました 11 。珍しいもの好きであった家康はこれに興味を示し、普段より多く食したと『徳川実紀』は伝えています 14 。
しかし、その夜、家康は激しい腹痛に襲われます。食あたり、あるいは食中毒様の症状でした。この出来事が、後に「家康は鯛の天ぷらの食べ過ぎで死んだ」という有名な俗説を生むことになります 15 。
しかし、近年の医学的見地からの研究では、この鯛の天ぷらが直接の死因であったとする説はほぼ否定されています。発症から死に至るまでの期間が約3ヶ月と長いことや、その病状の経過から、家康はもともと胃癌を患っており、消化の悪い揚げ物を過食したことが引き金となって、症状を一気に悪化させたというのが最も有力な説です 14 。
重要なのは、その死に至る病の直接的なきっかけが、生涯の趣味であった「鷹狩り」の最中に起こった出来事であったという事実です。「鷹狩り→食事→発病→死」というこの明確な因果の連鎖は、後世の人々が家康の死と鷹を結びつけて記憶するための、極めて強力な歴史的土台となりました。逸話における「鷹」は、単なる詩的な比喩ではなく、彼の終焉の物語が始まった、運命の舞台装置そのものであったのです。
第二部:死の床 ― 駿府城における七十五年の終幕(時系列による徹底解説)
田中城で倒れた家康は、その後、居城である駿府城へと戻ります。ここから4月17日に息を引き取るまでの約三ヶ月間は、天下人が自らの死と向き合い、未来永劫にわたる徳川の治世を盤石にするため、最後の力を振り絞った期間でした。史料に残された断片的な記録を時系列に沿って再構築することで、その緊迫した日々の様子が浮かび上がってきます。
徳川家康 臨終までの時系列
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日付(元和二年) |
場所 |
主要人物 |
発言・行動の概要 |
典拠史料 |
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1月21日 |
田中城 |
徳川家康、茶屋四郎次郎 |
鷹狩り後、鯛の天ぷらを食し、夜に腹痛を発症。 |
『徳川実紀』等 11 |
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1月下旬~2月 |
駿府城 |
家康、片山宗哲(医師) |
一時回復し駿府城へ帰還するも、病状が悪化。諸大名・公家が見舞いに訪れる。 |
17 |
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4月1日 |
駿府城 |
家康、堀直寄 |
病床に堀を呼び、「国家に一大事あらば、一番の先手は藤堂高虎、二番は井伊直孝」と軍事に関する遺言を託す。 |
『徳川実紀』 18 |
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4月2日 |
駿府城 |
家康、本多正純、天海、崇伝 |
側近三名を呼び、「遺体は久能山へ」「葬儀は増上寺」「位牌は大樹寺」「一周忌後に日光山へ勧請せよ」と祭祀に関する遺言を託す。 |
『本光国師日記』 2 |
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4月13日 |
駿府城 |
家康 |
(『葉隠』の記述)陣刀で罪人を斬らせ、血が付いたまま西に向けて祀るよう命じる。「西国は心許ない」と発言。 |
『葉隠聞書』 21 |
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4月16日 |
駿府城 |
家康、榊原照久(清久) |
側近の榊原に、自らの体を久能山に西向きに埋葬すること、彼が祭主となることなどを命じる。 |
『東照宮御實記』 20 |
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4月17日(巳ノ刻) |
駿府城 |
家康、本多正純、榊原清久 |
本多正純に秀忠への遺言「武道の事を忘れさせなさるな」と告げる。榊原清久の膝を枕に薨去。享年75。 |
『徳川実紀』 20 |
病状の推移(正月二十一日~三月下旬)
田中城での発病後、医師・片山宗哲による懸命の治療で、家康の容態は一時的に持ち直します 17 。彼は駿府城へ帰還しますが、病の根は深く、2月に入ると再び病状は悪化の一途をたどりました。
「大御所様、危篤」の報は瞬く間に全国を駆け巡り、駿府城には諸大名や公家、さらには親王までが、次々と見舞いのために駆けつけました 17 。駿府城は、巨大な権力の中枢として、固唾を飲んで一人の老人の容態を見守る、緊迫した舞台となっていたのです。神社仏閣には病気平癒の祈祷が命じられましたが、その甲斐もなく、家康の衰弱は誰の目にも明らかになっていきました。
後事を託す(四月朔日~四月四日)
自らの死期を悟った家康は、4月に入ると、天下の未来を盤石にするための具体的な指示を矢継ぎ早に発し始めます。それは感傷や抽象論とは無縁の、極めて現実的かつ戦略的な「遺言」でした。
4月1日、家康は病床に外様大名である堀直寄を呼び寄せます。そして、「此度の老病とても快復すべきにあらず。我なからん後、國家に於て一大事あらんには、一番の先手藤堂和泉守(高虎)、二番は井伊掃部頭(直孝)に命じ置ぬ」と告げました 18 。これは、万が一徳川の世を揺るがす反乱が起きた際の軍の指揮系統を定めた、軍事に関する遺言です。徳川譜代の筆頭である井伊家と並べて、外様でありながら豊臣恩顧の大名にも通じ、築城の名手でもある藤堂高虎を筆頭に据えたこの人選は、譜代・外様を問わず実力者を適材適所に用いるという、家康の冷徹な現実主義を如実に示しています。
翌4月2日、家康は腹心中の腹心である本多正純、南光坊天海、金地院崇伝の三名を枕元に呼びます。そして、自らの死後の祀られ方について、極めて詳細な計画を託しました。その内容は崇伝の『本光国師日記』に克明に記録されています 2。
「臨終候はば御躰をば久能へ納め(遺体は駿河の久能山に埋葬し)、御葬禮をば增上寺にて申付(葬儀は江戸の増上寺で行い)、御位牌をば三川之大樹寺に立(位牌は三河の大樹寺に納め)、一周忌も過候て以後、日光山に小き堂をたて勧請し候へ(一周忌が過ぎたら下野の日光山に小さな堂を建てて分霊を祀れ)」。
これは、単なる葬儀の指示ではありません。自らを神格化し、「東照大権現」として徳川幕府を、そして日本の平和を永遠に守護するという、壮大な計画の青写真でした。特に遺体を西向きに埋葬するよう指示したことには、いまだ不穏な空気が残る西国、すなわち豊臣家恩顧の大名たちを睨み、鎮護するという強固な意志が込められていました 22。
最後の数日間(四月十三日~四月十六日)
臨終が間近に迫ったこの時期の家康の様子は、幕府の公式記録である『徳川実紀』と、後世に武士の心得を説いた書物として知られる『葉隠聞書』とで、その描かれ方が大きく異なります。この違いは、家康という人物が持つ多面性と、後世の人々が彼にどのようなイメージを託していたかを示唆しており、興味深いものです。
佐賀鍋島藩の武士道精神を伝える『葉隠聞書』は、より劇的で武人としての気迫に満ちた家康の最期を描いています。それによれば、4月13日、家康は愛用の陣刀で罪人を試し斬りさせ、その刀に付いた血を拭わぬまま、切っ先を西に向けて久能山に祀るよう命じたといいます 21 。そして、「西国は心元なく(西国は安心できない)」と述べ、死してなお武力をもって反乱の芽を摘み取らんとする、凄まじい執念を示したとされています。さらに、いよいよ息を引き取るという瞬間には、床に臥したまま半弓に矢をつがえ、天井を射抜いてから息絶えたという逸話も伝えています 21 。これらは、まさに戦国の世を勝ち抜いた「武門の棟梁」にふさわしい、壮絶な最期として描かれています。
一方、幕府の公式記録である『徳川実紀』にも刀の試し斬りの逸話は記されていますが、その筆致はより冷静で、統治者としての威厳を強調するものとなっています 21 。家康は試し斬りの報告を受けると、「剣威をもって子孫の末までも鎮護せん」と述べ、その刀を久能山に納めるよう命じたとされています。ここでの刀は、個人的な執念の象徴というよりも、徳川の治世を公的に守護する神聖な宝器としての意味合いが強いのです。
この二つの記録が描く家康像は、明らかに異なります。『徳川実紀』が後世に示すべき理想の「創業者」像を構築しようとしたのに対し、『葉隠』は武士が理想とする「戦国武将」の死に様を家康に投影しました。利用者様が提示された「鷹は空を去れど志は」という逸話が持つドラマ性は、冷静な『徳川実紀』の家康像よりも、気迫に満ちた『葉隠』の家康像の系譜に連なるものと考えることができるでしょう。
臨終の刻(四月十七日 巳ノ刻)
元和2年4月17日、巳ノ刻(午前10時頃)。ついに最期の時が訪れます。
『徳川実紀』によれば、家康は危篤状態に陥る中、本多正純を召し、二代将軍秀忠への最後の言葉を託します 21。それは「わが亡き後も、武道の事を少しも忘れさせなさるなと申上ぐべし」というものでした。泰平の世が訪れても、武を忘れることは国家の衰亡に繋がるという、武家政権の長としての最後の戒めでした。
そして、日頃から寵愛していた側近の榊原清久(照久とも)がその膝を枕として差し出すと、家康は静かに息を引き取ったと記されています 20 。享年75。多くの側室や子らに囲まれるのではなく、信頼する一人の側近の腕の中で迎えた、天下人の静かな最期でした。
第三部:志 ― 遺された言葉と思想
逸話が語る「志」とは、具体的にどのようなものだったのでしょうか。家康が死の床で実際に示した言葉や思想を分析することで、その「志」の核心に迫ることができます。
現実主義者の「志」
家康の「志」は、決して抽象的な精神論ではありませんでした。それは、徳川による泰平の世を未来永劫にわたって維持するための、極めて現実的で体系的な国家構想でした。
その思想を象徴するのが、「天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なり」という言葉です 1 。これは、天下は徳川家という一個人の私物ではなく、万民のための公器であるという考え方です。もし徳川家が悪政を行い、人々を苦しめるようなことがあれば、天下を失ってもやむを得ないという、為政者としての厳しい自己規定がそこにはありました。彼の「志」の根幹には、この高い公共性があったのです。
死の床で発せられた遺言の数々も、この現実主義的な「志」の現れです。自らを神として祀ることで幕府の権威を宗教的に裏付け、譜代・外様を問わない実力本位の軍事体制を定め、武を忘れないよう後継者を戒める。これら全てが、徳川の治世という巨大なシステムを永続させるための、具体的で緻密な設計図の一部でした。
二つの辞世の句
家康が実際に残したとされる辞世の句は二首伝わっています。これらの句が持つ穏やかで達観した調子は、「鷹は空を去れど志は」という力強く、どこか未練を感じさせる逸話とは対照的であり、史実の家康の心境を窺い知る上で非常に重要です。
一首目は、「嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」というものです 3 。現代語に訳せば、「(もう目覚めることはないかと思ったが)再び目覚めることができて嬉しいことだ。さあ、もう一眠りしよう。この世で見る夢も、もうすぐ夜が明ける空のようなものだ」といった意味になります。長きにわたる戦乱の世を終わらせ、新しい時代の「夜明け」を創り出したという達成感と、自らの死を自然の摂理として穏やかに受け入れる、達観した心境が読み取れます 23 。
二首目は、「先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを 別れぞと思ふ」という句です 3 。これは、「先に死ぬ者も、後に残される者も、長い目で見れば同じこと。ただ、この世の何物もあの世へは持って行けないことこそが、本当の別れなのだと思う」という意味です。天下人として全てのものを手に入れた家康が、死の前では誰もが無一物であるという根源的な真理を静かに詠んでいます。そこには、権力への執着を超えた、深い死生観が感じられます。
これらの句に見られるのは、人生を達観し、静かに終焉を受け入れようとする一人の老人の姿です。これは、後世の人々が英雄に期待したであろう、死の瞬間まで志を叫び続けるドラマティックな姿とは一線を画しています。
遺訓にみる「志」の哲学
後世、家康の遺訓として広く知られるようになった「人の一生は重荷を負ひて遠き道を行くが如し。急ぐべからず」で始まる一節があります 24 。この遺訓が家康自身の真作であるかについては議論がありますが、その内容は彼の波乱に満ちた生涯から導き出された哲学を色濃く反映していると言えます。
人質として過ごした幼少期、信長と同盟を結びながらも常に緊張を強いられた青年期、秀吉の下で雌伏を余儀なくされた壮年期。家康の人生は、まさに「重荷」を背負い、焦らず、耐え忍びながら、一歩一歩着実に歩みを進めた道程でした。この遺訓は、忍耐、自制、そして着実な努力こそが道を切り拓くという、彼の生涯を貫く行動哲学そのものです。彼が後継者たちに伝えたかった「志」の持ち方とは、このような不屈の精神であったと位置づけることができるでしょう 26 。
結論:伝説の形成と史実の核心
本報告書における徹底的な調査の結果、「鷹は空を去れど志は天にあり」という言葉は、徳川家康自身の発言として一次史料で確認することはできませんでした。この逸話は、山岡荘八による歴史小説『徳川家康』に代表されるような、後世の創作物の中で形作られ、人口に膾炙していったものである可能性が極めて高いと結論づけられます 27 。
しかし、この逸話を単なる「史実ではない」として退けるだけでは、その本質を見誤るかもしれません。この創作された言葉は、史実ではない一方で、ある種の「詩的な真実(poetic truth)」を内包しているからです。
なぜ、この逸話はこれほどまでに人々の心を捉え、あたかも真実であるかのように語り継がれてきたのでしょうか。それは、この短い一句が、徳川家康の最期をめぐる歴史的本質を見事に凝縮しているからに他なりません。
第一に**「鷹」。それは家康の生涯を象徴する趣味であり、彼の健康を支え、権威の象徴でもありました。そして何よりも、彼の死の直接的な引き金となった、宿命的な存在です。
第二に「空を去る」。これは、75年の生涯を終え、肉体がこの世を去っていく天下人の死そのものを詩的に表現しています。
そして第三に「志」**。家康は死の床にあってもなお、感傷に浸ることなく、徳川による天下泰平を未来永劫にわたって盤石にするための具体的で強固な意志(遺言)を示し続けました。
後世の人々は、この三つの歴史的要素を「鷹は空を去れど志は天にあり」という一つの美しい言葉に結晶させました。複雑で、時には生々しい家康の最期を、英雄的で記憶に残りやすい一つの物語として再構築したのです。
結論として、この逸話は文字通りの史実ではありません。しかし、それは家康の最期の歴史的本質 ― 生涯を捧げた鷹狩りが終焉の引き金となり、死の床にあってもなお天下国家の未来を案じ続けたという事実 ― を、見事に捉えた文学的結晶であると言えます。我々はこの逸話を通じて、史実の断片を追いかけるだけでは見えてこない、徳川家康という人物が後世の人々に与えた強烈な印象と、その「志」の射程の長さを、より深く理解することができるのです。
引用文献
- 天下人になった徳川家康「人生最期の名言」の重み 亡くなる直前まで政治闘争の中に身を置いた https://toyokeizai.net/articles/-/721778?display=b
- 「おかしん」 No.813 - 岡崎信用金庫 https://www.okashin.co.jp/image/local/pr_okashin/okashin813.pdf
- 辞世の句を読み解く ―徳川家康 後編― | お墓きわめびとの会 https://ohakakiwame.jp/column/memorial-service/ieyasu-tokugawa-last-part.html
- 著名人が遺した辞世の句/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/historical-last-words/
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- 気分は徳川家康!鷹の優雅な姿と鷹匠の歴史を知ってタカ? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/190737/
- 徳川家康の死因の謎!天ぷらの食べ過ぎって本当?|全学年/社会科 - 家庭教師のアルファ https://alpha-katekyo.jp/tips/tips209/
- 徳川家康公が遺した・・・(下) https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/202312/202312h.html
- 多摩川の見どころ https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000099126.pdf
- 信長も家康も!みんな大好き「鷹狩り」の秘密。じつは出世のチャンスって本当? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/72766/
- 大御所家康を癒した“鷹狩の地” - 藤枝市観光協会 https://www.fujieda.gr.jp/wp-content/themes/fkanko/img/pamphlet/takagari.pdf
- 家康の鷹狩り①(徳川将軍15代) - 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/17530830/
- Q.ウソ?ホント?家康“天ぷら死亡説” - 油に関するQ&A|植物のチカラ 日清オイリオ https://www.nisshin-oillio.com/oil/qa/qa12.html
- 徳川家康と天ぷらの話 - 榧工房 かやの森 https://www.kayanomori.com/hpgen/HPB/entries/36.html
- 徳川家康の死因? 現代の栄養学でわかった危険&優秀な「食べ合わせ」 | @Living アットリビング https://at-living.press/food/30769/
- 徳川家康は「鯛の天ぷら」で死んだはウソ? 真鯛ではなくアマダイの可能性も | TSURINEWS https://tsurinews.jp/290941/
- 家康公の生涯 - 隠居でなかった家康の晩年 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_07.htm
- 徳川家康(とくがわ いえやす)が臨終にあたって「もしも天下を揺るがすような兵乱が起きた場合には、先ず... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000299819
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- 徳川家康と浄土宗⑧ ~遺言~ | 正覚寺 https://shogakuji.com/houwa/3211/
- 2016.09.17「武将の残した辞世の句」 - 家族葬のつばさホール【公式】 https://so-gi.com/topics/6062
- 徳川家康の遺訓 http://www.edu-konan.jp/ishibe-jh/ikiruhint/tokugawa.html
- 徳川家康の「遺訓」から学ぶ - Kitaiサイト https://rk-kitai.org/column/series03-07
- 御遺訓 - 徳川家康公について https://www.toshogu.or.jp/about/goikun.php
- 徳川家康(26) 立命往生の巻 (山岡荘八歴史文庫) - 読書メーター https://bookmeter.com/books/515763