最終更新日 2025-11-03

徳川家康
 ~死の直前「我死しても政動かすな」~

徳川家康の臨終の言葉「我死しても政動かすな」は、史実ではなく後世の創作された統治譚である可能性が高い。幕府の正当化と神格化に利用された。

徳川家康「我死しても政は動かすな」統治譚の徹底解剖:時系列、会話内容、史実性の検証

序章:調査対象としての「統治譚」― 逸話の特定と本報告書の射程

徳川家康の最期を飾る逸話として、臨終の床で「我(われ)死しても政(まつりごと)は動かすな」と遺言した、とされる「統治譚」が存在する。この言葉は、徳川幕府二百六十余年の体制が「神君」家康によって定められた不変の原則であり、後継者たちはそれを忠実に守るべきであるという、徳川支配の正統性と永続性を象徴するイデオロギーとして機能してきた。

ご依頼の核心は、この特定の逸話について、それが語られたとされる「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」を時系列で詳細に解明することにある。

本報告書は、この逸話を単なる美談や教訓として紹介するものではない。これは、当該逸話が「同時代の一次史料に記録された史実(事実)」なのか、あるいは後世の政治的・思想的要請に基づき、「理想化され創作された逸話(伝説)」なのかを、史料批判(ソース・クリティシズム)の手法を用いて徹底的に考証するものである。

調査の過程において、この逸話の具体的な出典(例えば、『徳川実紀』における正確な記述箇所や、その他の同時代史料での言及)を特定することは、極めて困難な作業であることが露呈した。本報告書は、この「出典の曖昧さ」あるいは「不在」こそが、この統治譚を分析する上での核心的な課題であると位置づける。すなわち、信頼できる史料に「何が書かれているか」と同時に、「なぜ書かれていないのか」を分析の主軸に据え、この有名な統治譚の実像に迫る。

第一部:臨終への秒読み ― 逸話の前提となる「時」の特定(元和二年一月~四月)

当該逸話が語られたとされる「死の直前」の状況を、医学的見地および時系列に沿って特定する。これは、家康が「政は動かすな」という複雑かつ重大な政治的遺言を、明瞭な意識下で発することが可能な状態であったかを検証するための前提作業である。

発病:元和二年(1616)一月

通説によれば、家康の最期の病の発端は、元和二年一月二十一日に駿府近郊の田中城で催された鷹狩り後の会食にあるとされる。京都の豪商・茶屋四郎次郎が献上した「鯛の天ぷら(あるいは異説によれば、鯛に加えてスッポンの揚げ物)」を食した夜半から、家康は激しい腹痛と嘔吐に見舞われた。

この「鯛の天ぷら」事件が、直接の死因(食中毒や寄生虫)であったのか、あるいは以前から抱えていた持病(通説では胃癌)を急激に悪化させた誘因であったのかについては、歴史家や医学史家の間でも見解が分かれている。

重要なのは、死因の特定そのものよりも、家康がこの日を境に、同年四月十七日の薨去に至るまでの約三ヶ月間、回復と悪化を繰り返す深刻な闘病生活に入ったという事実である。

病状の経過(一月~三月)

当初、侍医たちはこの症状を単なる食中毒、あるいは家康が日常的に服用していた「万病丹」という自家製の薬による中毒(薬の自己処方による水銀中毒説)と捉えていた節がある。実際に二月に入ると一時的に小康状態を見せ、政務に復帰しようとする様子も見られた。

しかし、三月に入ると病状は決定的に悪化する。特に三月十七日以降、病状は深刻化し、腹部に「塊(かたまり)」、すなわち腫瘍の存在を示唆する記録(胃癌の末期症状に酷似)や、黒い便(消化器系からの出血)に関する記述が複数の史料に見られるようになる。この時期、家康は耐え難い苦痛の中にあったと推察される。

意識の明瞭度と「遺言」の開始(四月)

「政は動かすな」という統治の根幹に関わる指示は、意識が混濁した状態では発せられない。家康は、肉体的な苦痛が極限に達していたにもかかわらず、死の直前まで驚くほど明瞭な意識を保っていたとされる。

四月に入り、自らの死を悟った家康は、それまで薬湯などを勧めていた側近らを退け、死後の体制固めと自らの「神格化」に関する具体的な指示(遺言)を立て続けに発し始める。

この時期、家康の枕元(駿府城の寝所)には、幕閣の中心人物である本多正純(ほんだ・まさずみ)、そして家康の宗教的・思想的ブレーンであった南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)や金地院崇伝(こんちいん・すうでん)らが昼夜を問わず侍していた。

もし「政は動かすな」という逸話が史実であるならば、それは病状が小康状態にあった時期ではなく、家康が死を覚悟してこれら最側近を枕元に集めた「元和二年四月一日から、薨去当日の四月十七日の間」に、駿府城の寝所という極めて密室性の高い空間で語られた可能性が最も高い。

臨終:元和二年四月十七日

幕府の公式史書である『徳川実紀』によれば、家康は元和二年(1616)四月十七日、辰の刻(午前八時頃)、駿府城において七十五歳の生涯を閉じた 1

第二部:史料の探索 ―「政は動かすな」の出典をめぐる考証

ご要望の核心である「リアルタイムな会話内容」を再現するためには、この逸話が「いつ」「誰によって」記録されたのか、その出典を特定することが不可欠である。しかし、この「政は動かすな」という象徴的な言葉は、その出典が極めて曖昧であるという重大な問題を抱えている。

検証対象1:『徳川実紀』の史料的限界

家康の薨去について記す最も詳細な史料の一つが、国立公文書館所蔵の『御実紀』(通称『徳川実紀』)である 1

  • 史料の概要 : 『徳川実紀』は、家康の死から二百年以上が経過した天保十四年(1843年)に、林述斎(はやし・じゅっさい)らによって完成された江戸幕府の「公式史書」である 1
  • 記述の特性 : この史料は、家康から十代家治に至る歴代将軍ごとの「治績(政治的功績)」を編年体で記す本編と、「逸話(付録)」を分けて編纂する形式をとっている 1
  • 史料批判 : 『徳川実紀』は幕府の威信をかけて編纂された「正史」であり、そこには徳川統治の正当化と、始祖・家康の神格化という極めて強い編纂意図が働いている。「我死しても政は動かすな」という言葉は、まさに幕府体制の「不変性」を象徴するものである。したがって、仮にこの言葉が『徳川実紀』に採録されていたとしても、それが「治績」ではなく「逸話(付録)」として扱われている場合、同時代の史実性を直ちに担保するものとは言えない。それは、二百年後の幕府が「家康公はこう仰ったはずだ」と信じ、あるいは信じさせようとした「公式見解」である可能性を排除できない。

検証対象2:信頼性の高い同時代史料の記述

家康の最期を「リアルタイム」で記録した可能性のある史料として、家康の駿府在城中の動向を記した『駿府記(すんぷき)』や、臨終に立ち会った側近・天海自身の日記である『本光国師日記(ほんこうこくしにっき)』などが存在する。

『本光国師日記』をはじめとする信頼性の高い史料には、家康が死の直前に発した「本当の遺言」が詳細に記録されている 2

それらの史料から浮かび上がる家康の遺言は、極めて現実的かつ戦略的な内容であった 2 。具体的には、

  1. 遺体の処置 : 「遺体は久能山(くのうざん)に納めよ」
  2. 葬儀 : 「葬儀は江戸の増上寺で行え」
  3. 神格化 : 「(一周忌の後)日光山に小堂を建て、自分を『神』として祀れ。自分は日本の鎮守(守り神)となろう」
  4. 大名統制: 「(豊臣氏滅亡後の)諸大名への対応を誤るな」
    といった、死後の徳川家を安泰に導くための具体的な指示であった 2。

逸話の「不在」が示唆するもの

ここで重要なのは、 2 が「本当の遺言」として挙げる具体例の中に、「政は動かすな」という抽象的な政治訓が含まれていないことである。

2 は、家康の言葉として有名な「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし(不自由を常と思え)」や「怒りは敵と思え」といった哲学的・道徳的な「遺訓」は、後世の創作である可能性が高いと指摘している 2

この 2 の分類枠組み(「現実的・戦略的な本当の遺言」 vs 「哲学的・道徳的な創作遺訓」)を適用した場合、「政は動かすな」という言葉は非常に微妙な位置づけとなる。

それは「不自由を常と思え」といった道徳訓とは異なり、明らかに「政治的」な指示である。しかし、天海らが記録した「日光山へ祀れ」といった「現実的」な指示とも異なり、その内容は「抽象的」である。

この逸話が、家康の最期に密着していた天海や崇伝の同時代記録において明確に確認されていない(あるいは、その存在が広く認知されていない)という事実は、この言葉が「 現実的な政治的指示(史実)のように見える、後世の創作(統治譚) 」である可能性を強く示唆する。もしこれが秀忠や側近への最重要の遺言であったならば、天海や崇伝が自らの日記にそれを書き留めなかったとは考えにくい。

第三部:史実か創作か ―「統治譚」の成立背景

本逸話が、元和二年の駿府城で語られた「史実」ではなく、後世に創出された「統治譚」であった場合、それは「いつ」「どのような政治的意図」で必要とされたのか。その成立背景を、 2 が提示する枠組みと『徳川実紀』の成立時期 1 から分析する。

分析枠組み:「本当の遺言」と「創作された遺訓」の比較

2 の分類に基づき、本逸話の位置づけを以下の表で整理する。

比較項目

本当の遺言(準拠)

創作された遺訓(準拠)

「政は動かすな」の分類

性質

現実的、政治的、戦略的

哲学的、道徳的

政治的(ただし内容は抽象的)

具体例

「遺体は久能山へ」

「日光山へ祀れ」(神格化指示)

「諸大名への対応」

「不自由を常と思え」

「怒りは敵と思え」

(該当)

史料

『本光国師日記』など

同時代の一次史料

後世の編纂物

『徳川実紀』など後世の

公式史書の可能性

この分類から明らかなように、「政は動かすな」は他の「創作遺訓」とは異なり、明確に「政治的」な性質を帯びている。この特異性が、この逸話を単なる道徳訓ではなく「統治譚」たらしめている核心的な理由である。

『徳川実紀』編纂(1843年)の時代的要請

この逸話がもし後世の創作、あるいは後世に「発見」され強調されたものであるならば、その最大の契機は『徳川実紀』が完成した時期、すなわち天保年間にあると考えられる。

『徳川実紀』が完成した天保十四年(1843年) 1 という時代は、江戸幕府が未曾有の危機に直面していた時期であった。

  • 外的脅威 : 天保十一年(1840年)のアヘン戦争における清国の惨敗という情報は、日本国内にも衝撃を与え(「内憂外患」)、異国船の出没が常態化していた。
  • 内的動揺 : 国内では天保の大飢饉(1833年~)が深刻な社会不安を引き起こし、天保八年(1837年)には元幕臣・大塩平八郎による反乱が、幕府の威信を揺るがしていた。

この「体制の危機」の時代において、幕府が莫大な労力を投じて「公式史書」を編纂する最大の動機は、言うまでもなく、揺らぎ始めた幕藩体制のイデオロギー的引き締めと、徳川統治の絶対的な正当化にあった。

このタイミングで、「始祖・神君家康公が、その死の直前に『(徳川の)政(まつりごと)は動かすな』と遺言された」という逸話を「公式史書」に採録し、権威付けることには、絶大な政治的価値があった。

それは、水野忠邦らによる天保の改革のような「体制の変革」を試みる者に対しても、また、幕政を批判し「体制の転覆」を企図する者に対しても、等しく「現体制は神君家康の定めた不変の法である」という強烈なイデオロギー的権威付け(一種の呪縛)として機能した。本逸話は、天保年間の幕閣が最も必要とした「始祖からの声」であったと推察される。

第四部:逸話の政治的解釈 ―「動かすな」とされた「政(まつりごと)」の具体的内容

本逸話の史実性には強い疑義が残るものの、仮にこれが史実、あるいは史実の何らかの断片に基づいていたと仮定した場合、家康が「動かすな」と命じた「政」とは、具体的に何を指していたのか。元和二年(1616)四月の政治状況に立ち返って解釈する。

文脈の再確認:元和二年(1616)の政治状況

家康が薨去した元和二年は、徳川幕府にとって画期的な時点であった。

  1. 軍事的脅威の消滅 : 最大の脅威であった豊臣家は、前年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣によって完全に滅亡した。
  2. 制度設計の完了 : 同年、家康は「武家諸法度(ぶけしょはっと)」および「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定。これにより、全国の諸大名、および朝廷・公家に対する徳川家の優位性と統制ルールが法的に確立された。

すなわち、家康は自らの手で「徳川による天下泰平の体制」を軍事的・法的に「完成」させた直後に、死の床についたのである。

この状況下で「政を動かすな」と遺言したとすれば、その対象は二代将軍・秀忠であり、その言葉には以下の複数の解釈が成り立ちうる。

「政」の解釈1:対大名政策(武断政治の継続)

家康が最も恐れたのは、自らの死という「重石」が外れたことによる体制の「緩み」と、それに乗じた外様大名(特に西国の雄)の蜂起であった。

この場合、「政を動かすな」とは、「二代将軍秀忠よ、私が敷いた強硬な大名統制策(武家諸法度)を緩めるな。些細な法度違反も見逃さず、改易・転封を恐れるな」という、「武断政治の継続」を厳命した遺言であった可能性が最も高い。

「政」の解釈2:対朝廷・対宗教勢力政策

「禁中並公家諸法度」によって確立した「幕府優位」の朝廷・公家統制を維持せよ、という指示。あるいは、かつて自らを苦しめた一向一揆のような宗教勢力への警戒を怠るな、という戒めであった可能性もある。

「政」の解釈3:統治体制(幕閣)の維持

より内向きの解釈として、自らの死後、本多正純ら家康側近(駿府グループ)と、土井利勝ら秀忠側近(江戸グループ)の間で主導権争いが起き、幕閣が分裂することを家康は危惧していた。

この場合、「政を動かすな」とは、「秀忠は私の側近(正純ら)を疎んじるな。また側近たちも秀忠を支え、私が作ったこの統治チーム(体制)を維持せよ」という、内部の結束を命じた指示であった可能性も考えられる。

いずれの解釈を採用するにせよ、この言葉は、大坂の陣を終え、ようやく天下統一を「完成」させた創業者・家康から、後継者・秀忠およびその側近たちに対し、「創業」よりも「守成(守り)」こそが困難であると説く、強烈な「最後の釘」であったと解釈できる。

結論:徳川家康の最後の「声」 ― 史実としての遺言と伝説としての統治譚

本報告書は、徳川家康が臨終の際に遺したとされる「我死しても政は動かすな」という統治譚について、その史実性と成立背景を徹底的に考証した。

調査結果の総括

徳川家康が元和二年(1616)四月の臨終の床において、「我死しても政は動かすな」と語ったとする逸話について、その「リアルタイムな会話」や「具体的な状況」を記した信頼に足る同時代(一次)史料は、現状の調査(1の分析)からは確認できなかった。

史実性の評価

家康が死の直前に発した「本当の遺言」は、天海らが記録したように、自らの神格化(日光山への奉斎)や遺体の処置(久能山)といった、極めて現実的かつ戦略的な内容であった2。これに対し、「政は動かすな」という逸話は、政治的でありながらも内容が抽象的である。

この言葉は、家康の死から二百年以上が経過し、幕藩体制が内外の危機に揺れていた天保十四年(1843年)に完成した幕府の公式史書『徳川実紀』 1 のような後世の編纂物において、体制の権威付けと引き締めのために「逸話」として採録・強調された「創作された統治譚」である可能性が極めて高いと結論付けられる。

「統治譚」としての歴史的価値

この逸話は、史実であるか否かという次元を超え、「神君家康が定めた政治体制(=徳川幕府)は不変である」という、江戸幕府二百六十余年の「根本思想(イデオロギー)」を支える上で、絶大な機能を果たした。

家康の死の直後には、あるいは「秀忠への具体的な政治的戒め」の一つであったかもしれない断片的な言葉が、二百数十年後の天保年間 1 には、「徳川の世を決して揺るがすな」という、絶対的な「神の言葉」へと昇華された。本逸話の徹底的な調査は、この「伝説化」のプロセスそのものが、徳川幕府の統治戦略の核心であったことを明らかにしている。

引用文献

  1. 家康の死|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents6_03/
  2. 徳川家康の遺訓は本物ではない?本当の言葉と遺言を紹介 https://jin-jaa.com/tokugawa-ieyasus-words/