最終更新日 2025-10-31

徳川家康
 ~没夜東照宮上空光差す神化譚~

徳川家康の死後、久能山に現れたとされる神聖な光の伝説を解明。家康の神格化と、徳川幕府の永続的な支配を確立するための周到な戦略的意図を詳細に探る。

東照大権現、降臨の夜:徳川家康薨去と「光の神話」の真相

序章:神話への問い

元和二年(1616年)四月十七日、徳川家康薨去の夜、その亡骸が葬られた久能山の上空に、一条の神々しい光が差したという。この逸話は、単なる伝説として語り継がれてきた。しかし、それは本当に人知を超えた奇跡だったのだろうか。あるいは、泰平の世を築いた英雄の死を飾るにふさわしい、美しい物語に過ぎないのだろうか。

本報告書は、この「没夜の光」という神化譚の表層をなぞることを目的としない。我々の探求は、その逸話が誕生した瞬間にまで遡り、それが誰によって、どのような意図をもって創造され、そして徳川幕府二百六十年の泰平を思想的に支える礎石として、いかに精緻に設計されていったのかを解明することにある。

この光は、一個人の死を悼むものではなかった。それは、新たに誕生する神、「東照大権現」の降臨を告げる狼煙であり、徳川による支配が天命であることを天下に知らしめるための、壮大な物語の序曲であった。史料の断片を繋ぎ合わせ、その背後に隠された為政者たちの深謀遠慮を読み解くことで、我々は一つの神話が国家の権威へと昇華されていく歴史的プロセスを目の当たりにするだろう。

第一章:大御所の最期 ― 元和二年、駿府城

第一節:病床の決断

徳川家康の最期は、一つの逸話から始まる。元和二年(1616年)正月二十一日、家康は駿河国田中での鷹狩りに興じていた 1 。その折、京より参じた豪商・茶屋四郎次郎との会話の中で、上方で流行しているという珍しい料理の話題が出た。「鯛を、ををかやの油(大豆油)で揚げ、薙(たで)をすりかけたもの」がことのほか美味であると聞き、食通であった家康は強い興味を抱く 1 。折しも、家臣の榊原内記清久から能浜の鯛が献上されたため、家康は早速その調理法で食することを命じた 1

しかし、その夜から家康は激しい腹痛に襲われる。急遽、居城である駿府城へと戻り療養に入ったものの、一度は快方に向かうかに見えた病状は、七十五歳という高齢もあってか再び悪化の一途をたどった 1 。この「鯛の天ぷら」原因説は、英雄の死にあまりにも日常的な、しかしそれゆえに劇的なきっかけを与える物語装置として、後世の史書『東照宮御実紀附録』などに記されることになる。

自らの死期を悟った家康の意識は、もはや自身の肉体にはなく、いかにして盤石の徳川の世を永続させるかという、最後の仕上げに向けられていた。天下統一という大事業の最終章は、病床の上で静かに、しかし確固たる意志をもって進められたのである。

第二節:「八州の鎮守となるべし」― 遺言の深意

病状が篤くなる中、家康は枕頭に三人の側近を呼び寄せた。俗権の頂点に立つ本多正純、外交や法整備を担った「黒衣の宰相」金地院崇伝、そして宗教儀礼と呪術的世界観を司る南光坊天海。この三者は、政治、法律、宗教という、徳川政権を支える三本の柱を象徴する人物であった 2 。彼らに託された遺言こそ、家康の神格化計画の青写真であった。

金地院崇伝が自身の詳細な日記『本光国師日記』に書き留めたその言葉は、極めて具体的かつ戦略的であった。

「臨終候はば御体(おんてい)を久能へ納め。御葬禮をば増上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後、日光山に小さき堂を建て勧請(かんじょう)せよ。八州の鎮守とならん」 2

この遺言は、単なる死後の希望の表明ではない。それは、徳川幕府の安泰を地政学的かつ宗教的に担保するための、周到に計算された国家鎮護の構想であった。

第一に、なぜ久能山なのか。久能山は駿府城の真南に位置し、眼下に東海道と駿河湾を望む天然の要害である 7 。家康自身が「久能山は駿府城の本丸と思召す」と語ったと伝えられるこの地に、自らの亡骸を西に向けて埋葬するよう命じた 4 。これは、大坂の陣で滅ぼしたとはいえ、未だ潜在的な脅威であり続ける西国、すなわち豊臣の残党や有力外様大名に対し、死してなお睨みを利かせ続けるという強烈な意志の表れであった。

第二に、なぜ日光なのか。日光は江戸城の真北に位置する。これは、天の中心にあって動かない北極星(北辰)の方角にあたる。古来より山岳信仰の霊場であったこの地に神として鎮座することで、天の不動の中心から徳川の治世を永遠に加護するという、壮大な宇宙観に基づいた計画であった 8 。中国の天帝思想や陰陽道の影響を受け、徳川の支配が天理に適ったものであることを示すための、宗教的権威の構築である。

そして第三に、なぜ「改葬」ではなく「勧請」なのか。家康は遺体を日光へ「移せ」とは言わず、神の分霊を迎えることを意味する「勧請」という言葉を選んだ。これは、遺体の本体は久能山に留め置き、その神威のみを日光にも祀るという形式を取ることを示唆している。実際に、遺体は久能山から動かされることなく、御霊のみが日光へ遷座したとする説が有力である 9 。これにより、西国を睨む物理的拠点としての久能山と、江戸を守護する天の中心としての日光という、二つの強力な霊的拠点を同時に確立することが可能となった。この遺言は、家康の生涯を懸けた天下経営の、最後の神の一手だったのである。

【表1】徳川家康薨去から東照大権現誕生までの時系列

年月日 (元和)

出来事

主要人物

典拠史料

二年 正月廿一日

駿河国田中の鷹狩り後、鯛の天ぷらを食し発病

徳川家康

『東照宮御実紀附録』 1

二年 四月二日

病床にて本多正純、崇伝、天海に遺命を託す

家康、本多正純、金地院崇伝、南光坊天海

『本光国師日記』 4

二年 四月十七日

駿府城にて薨去(享年七十五)

徳川家康

『本光国師日記』、『東照宮御実紀』等 [9, 11]

二年 四月十七日夜

遺骸を久能山へ秘密裏に移送、埋葬

幕府重臣

『本光国師日記』等 4

(薨去後)

久能山にて様々な奇瑞が報告・記録される

久能山関係者

『久能山東照宮御奇瑞覚書』 [12, 13]

二年 五月以降

神号を巡り「権現」派と「明神」派が論争

天海、崇伝、神龍院梵舜

『東照宮御実紀』等 14

二年 六月

将軍秀忠、「権現」号を採用。天海が上洛

徳川秀忠、天海

『台徳院殿御実紀』 14

二年 七月十三日

朝廷より「権現」号の勅許が下る

後水尾天皇、朝廷

『台徳院殿御実紀』 14

三年 二月廿一日

「東照大権現」の神号が贈られる

徳川秀忠、朝廷

久能山東照宮記録 7

三年 三月九日

正一位の神階が追贈される

朝廷

『台徳院殿御実紀』 14

三年 三月十五日

御霊を久能山から日光へ遷す「遷座の儀」開始

天海、土井利勝、本多正純

『東照権現御遷座之記』 [10]

三年 四月

日光山に御霊が到着し、鎮座

天海、幕府重臣

『東照宮御実紀』

第二章:薨去の夜 ― 四月十七日の記録

第一節:静かなる終焉

元和二年四月十七日、午前十時頃、一つの時代が終わった 9 。戦国の世を駆け抜け、天下を統一し、二百六十年以上にわたる泰平の礎を築いた徳川家康は、駿府城で七十五年の生涯に幕を下ろした。その瞬間の城内は、深い静寂と、歴史が大きく動く瞬間に特有の張り詰めた緊張感に支配されていたことだろう。

将軍職はすでに息子・秀忠に譲られており、政治体制の移行は滞りなく進められる。大御所の死という巨大な権力の空白は、しかし、家康自身が周到に準備した計画によって即座に埋められようとしていた。江戸の秀忠政権へ、大御所薨去の報せを告げる早馬が発せられる。それは、家康の「死」という物理的現実を伝えると同時に、家康の「神」への転生という、新たな物語の始まりを告げる合図でもあった。

第二節:闇夜の遷座

遺言は直ちに実行に移された。家康が神となるための最初の儀式は、常人の目に触れることのない、厳格な秘匿のうちに行われた。薨去当夜、駿府の町が雨と闇に沈む中、家康の亡骸を納めた柩は、厳重な警護のもと静かに駿府城を発った 4 。目指すは、遺言の地、久能山である。

この夜を徹しての遷座は、単なる安全保障上の措置ではなかった。それは、これから始まる神話を演出するための、計算され尽くした舞台装置であった。もしこの儀式が白昼堂々、万人の見守る中で行われたならば、それは単なる「葬列」という政治的イベントとして人々の記憶に残っただろう。目撃者が多ければ多いほど、客観的な事実のみが記録され、そこに神秘的な解釈が入り込む余地は失われる。

しかし、幕府中枢部はあえて「闇夜の秘儀」という形式を選んだ。これにより、何が起こったのかを目撃した者はごく一部の者に限定される。情報の空白地帯が生まれる。この「誰も見ていない」という状況こそが、後に「人知を超えた現象が起きた」という物語を挿入するための、完璧なキャンバスとなる。松明の揺れる灯り、降りしきる雨音、兵たちの息遣い。この神秘的な情景は、次に語られる「奇瑞」が真実味をもって受け入れられるための、不可欠な序章だったのである。秘匿性とは、神話が生まれるための必要条件であった。

第三章:神の顕現 ― 『久能山東照宮御奇瑞覚書』の解読

第一節:記録された奇跡

徳川家康の亡骸が久能山に安置された直後から、その地では不可思議な現象が相次いだとされる。そして、それらの現象を詳細に記録した一冊の文書が存在する。それが、本報告書の核心をなす史料、『久能山東照宮御奇瑞覚書』(くのうざんとうしょうぐうごきずいおぼえがき)である 12

この覚書こそ、冒頭で触れた「没夜の光」の逸話の直接的な源流と考えられるものである。近年の研究、特に歴史学者・山澤学による論文「東照大権現の性格ー「久能山東照宮御奇瑞覚書」を事例として」は、この史料の重要性を明らかにしている 12 。覚書には、「光」の奇跡だけでなく、家康が神へと転生しつつあることを示す、様々な吉兆(奇瑞)が書き連ねられていた。

例えば、「神廟の上に五色の瑞雲がたなびいた」「見たこともない美しい鳥が飛来し、妙なる声で鳴いた」「夜な夜な、天から神々しい音楽が聞こえてきた」といった類いの記述がそれに当たる。これらの記録から明らかになるのは、「光」の逸話が単独で発生した奇跡ではなく、幕府によって周到に準備された一連の「神の顕現」というパッケージの一部であったという事実である。これらは、家康が単に偉大な人間として死んだのではなく、天命によって神となるべくしてなったのだ、という物語を補強するための「証拠」として集められたものだった。

第二節:誰が、何のために記録したのか

では、この『奇瑞覚書』は、一体誰が、何のために記録したのか。その答えを突き詰めると、この文書の本質が見えてくる。これは、客観的な現象をありのままに書き留めた記録ではない。むしろ、これから創り上げる「東照大権現」という神の性格(神格)を規定し、その権威を裏付けるために意図的に編纂された、極めて政治的な「神格設計書」と呼ぶべき文書なのである。

そのように結論付けられる理由はいくつかある。第一に、タイミングの不自然さである。人の死の直後に、都合よく吉兆ばかりが連続して起こるというのは、自然現象として考えにくい。これは、実際に起こった現象の中から吉兆のみを選別し、解釈を加え、場合によっては創作した可能性を強く示唆している。

第二に、文書化という行為そのものが持つ目的である。単なる噂話や口伝では、権威付けとしてはあまりに脆弱である。しかし、それを「覚書」という公式な体裁の文書にすることで、それは後世に残る「記録された事実」としての重みを持つ。この文書は、後に朝廷や諸大名に対して家康の神格化を認めさせる際、「家康公が神となられるのは、これほど多くの奇瑞が証明している通り、天命である」と主張するための、強力な根拠資料として作成されたことは想像に難くない。

第三に、記録された奇瑞の種類が、極めて典型的であることだ。光、五色の雲、神聖な音楽や鳥といったモチーフは、古代中国や日本の神話において、聖なる天子や神が出現する際に現れる伝統的なシンボルである。これは、家康を既存の神話体系の中にスムーズに位置づけ、「乱世を終わらせ、平和をもたらした救済者」としての神格を付与するための、巧みな演出であった。

つまり、『奇瑞覚書』は、起こったことを記録したのではなく、起こるべきことを記録したのである。それは、東照大権現という神の「神としての履歴書」の冒頭を飾る、輝かしい実績として創造された、神話の設計図であった。

第四章:神号を巡る暗闘 ― 「権現」か「明神」か

第一節:天海の構想と豊臣の轍

家康の神格化が現実のものとなる過程で、幕府中枢部ではその神の称号、すなわち「神号」を巡って激しい論争が巻き起こった。一方の極には、金地院崇伝や神道家の神龍院梵舜がいた。彼らは、先例に倣うことを重視した。その先例とは、豊臣秀吉である。秀吉は死後、朝廷から「豊国大明神」の神号を贈られ、神として祀られた。崇伝らは、秀吉以上の功績を上げた家康には、神道の最高神格である「明神」こそがふさわしいと主張した 14

しかし、この主張に敢然と異を唱えたのが、南光坊天海であった。天海は、天台宗が唱える山王一実神道に基づき、「権現」という神号を強く推した 14 。「権現」とは、仏が人々を救うために、仮の姿として日本の神として現れたもの、とする本地垂迹説に基づく神号である。

この対立は、単なる宗派間の教義論争ではなかった。その背後には、天海の冷徹な歴史認識と、極めて現実的な政治判断があった。天海が「明神」号を頑なに拒絶した最大の理由は、その先例である「豊国大明神」の末路にあった。秀吉は最高の「明神」となったにもかかわらず、その神威は豊臣家を守ることができず、それどころか豊臣家は家康自身の手によって滅亡した。この生々しい歴史的事実は、「『明神』という神格は、一時の権力者を祀るものであり、国家を永続的に守護する神としては機能しない」という、強力な反証となっていた。

天海は、豊臣の轍を踏むことを断固として避けようとした。彼が目指したのは、個人のカリスマに依存する神ではなく、より普遍的で、理論的に強固な神格モデルの構築であった。「権現」という神号は、そのための最適な解決策だった。それは、家康という一個人が神になったのではなく、「天下泰平」という普遍的な仏の慈悲が、衆生を救うために家康という姿を借りてこの世に現れた、という壮大な物語を可能にする。これにより、徳川の支配は個人の功績によるものではなく、仏法の摂理に適った、より高次の正当性を持つものとして位置づけられる。これは、徳川幕府を二百数十年先まで守護する神を創るための、天海の深謀遠慮に満ちた選択だったのである。

第二節:朝廷との交渉と「東照大権現」の誕生

神号を巡る論争は、二代将軍・徳川秀忠の裁定に委ねられた。秀忠は、天海の論理と構想を支持し、「権現」号の採用を決定する 14 。これを受け、天海は元和二年六月に京へ上り、朝廷との交渉を開始した。

幕府の要求は、徳川家の祖を、天皇家の祖である天照大神に匹敵する神として祀ることであり、朝廷側が当初、これに抵抗を示したのは当然であった 20 。それは、武家の権威が天皇家と同格、あるいはそれを凌駕することを公に認めることにつながりかねなかったからである。しかし、もはや幕府の力は朝廷が抗えるものではなかった。最終的に朝廷は幕府の要求を呑み、同年七月十三日、家康に「権現」の神号を与えることを勅許した 14

その後、具体的な神号の選定が行われた。朝廷からは「日本」「東光」「霊威」「東照」という四つの案が提示された 15 。この中から秀忠が選んだのが、「東照」であった。「東照」とは、文字通り「東(=関東・江戸)を照らす」という意味を持つ。まさに関東に本拠を置く徳川幕府の守護神に、これ以上ふさわしい名はなかった。

そして翌元和三年(1617年)二月二十一日、家康に「東照大権現」の神号が正式に贈られ、三月九日には神としての最高位である正一位の神階が追贈された 7 。ここに、徳川の世を永遠に守護する神が、公式に誕生したのである。

終章:創造された神話の行方

久能山で記録された「光」をはじめとする数々の奇瑞は、こうして「東照大権現」という神の降臨を証明する、揺るぎない「創世神話」として機能し始めた。それは、徳川家康の死という歴史的瞬間に、幕府の安泰と支配の正統性を永遠に担保するために創造された、壮大な宗教的・政治的プロジェクトの輝かしい序曲であった。

しかし、この神話を絶対的な権威へと昇華させ、完成させたのは、三代将軍・徳川家光であった。祖父である家康を深く崇敬していた家光は、幼少期に病に倒れた際、夢に現れた東照大権現(家康)に救われたという霊夢譚も伝わっており、その信仰は絶大なものであった 21

家光は、その莫大な財力と権力を注ぎ込み、「寛永の大造替」と呼ばれる大事業によって、日光の地に壮麗な社殿群を造営した。これは、久能山で生まれた「神話の種」を、国家の威信を懸けて、誰もがひれ伏す荘厳な「神話の森」へと育て上げる事業であった。狩野探幽らに描かせた『東照社縁起』絵巻は、家康の生涯と神格化の物語を鮮やかに視覚化し、その神話を全国の隅々にまで流布させるための、極めて効果的なメディアとなった 22

結論として、「没夜に東照宮上空に光が差した」という逸話は、孤立した不思議な出来事などでは断じてない。それは、天海ら当代最高のブレーンによって構想され、秀忠によって政治的に承認され、『奇瑞覚書』によって「事実」として記録され、そして家光によって壮麗に「完成」させられた、国家プロジェクトの第一幕であった。

久能山の夜空を照らしたとされるその光は、その後二百六十年にわたる徳川の世の行く末を照らし出す、計算され尽くした「神の光」だったのである。

引用文献

  1. 東照宮御実紀附録/巻十六 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE%E5%BE%A1%E5%AE%9F%E7%B4%80%E9%99%84%E9%8C%B2/%E5%B7%BB%E5%8D%81%E5%85%AD
  2. 「おかしん」 No.813 - 岡崎信用金庫 https://www.okashin.co.jp/image/local/pr_okashin/okashin813.pdf
  3. 徳川家康の遺体は久能山にあるのか!? | 静岡・浜松・伊豆情報局 https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/shizuoka/shizuoka-city/tosho-daigongen/
  4. 徳川家康公の墓|駿府ネット https://sumpu.net/
  5. 徳川家康の遺骸 01 - 日光所記 https://nikkohistories.info/ieyasu01/677/
  6. 日光東照宮 https://shujakunisiki.her.jp/m-68-2.html
  7. 久能山の歴史 https://www.toshogu.or.jp/about/history.php
  8. 日光東照宮 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE
  9. 家康公の生涯 - 隠居でなかった家康の晩年 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_07.htm
  10. 【二つの東照宮・久能山と日光】 江戸時代 https://s2cd1d5b762af3f37.jimcontent.com/download/version/1372490885/module/7111472615/name/%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE%E3%83%BB%E4%B9%85%E8%83%BD%E5%B1%B1%E3%81%A8%E6%97%A5%E5%85%8920130618.pdf
  11. The Regional Toshogu Shrines and the Deification of Ancestors in the Edo Period https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-18H00711/
  12. 久能山東照宮御奇瑞覚書 1冊 - 名古屋市蓬左文庫 https://housa.city.nagoya.jp/system/search/search.cgi?action=detail_view&m_bibliography_class=1&m_shelf_mark=129&m_data_mark=8&m_subno=%20%20%20%20%20%20&m_subno2=%20%20%20%20%20%20&m_subno3=
  13. 東照大権現という神号は、朝廷から示された四つの案のなかから秀忠が選んだもの(「どうする家康」222) - 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/33206451/
  14. 徳川家康の神号「東照大権現」。神格化され、人神として祀られた家康の姿とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1907
  15. 久能山東照宮御奇瑞覺書 - CiNii Research https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA62155928
  16. 山澤 学 (Manabu YAMASAWA) - マイポータル - researchmap https://researchmap.jp/read0163027
  17. 山澤 学(ヤマサワ マナブ) - TRIOS 筑波大学研究者総覧 https://trios.tsukuba.ac.jp/researcher/0000000088
  18. YAMASAWA Manabu - TRIOS Researchers Information - 筑波大学 https://trios.tsukuba.ac.jp/en/researchers/0000000088
  19. 【家康の城へ】最終章 「東照大権現」となった徳川家康(1) - たびよみ https://tabiyomi.yomiuri-ryokou.co.jp/article/001853.html
  20. 館蔵「日光東照宮参詣図屏風」について - 江戸東京博物館リポジトリ https://edo-tokyo-museum.repo.nii.ac.jp/record/166/files/kiyo02_01%201-33.pdf
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  22. 日本三大東照宮とは!? - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/toshogu-big3/