最終更新日 2025-11-01

徳川家康
 ~霊が鷹となり三度舞う伝説譚~

徳川家康の霊が鷹となり江戸城を三度舞った伝説。鷹への執心、神格化、日本文化の象徴性が絡み合い、徳川治世の永続性を保証する政治神話として民衆に受け入れられた。

神君、鷹となりて江戸を翔る ―徳川家康の霊鷹伝説譚、その真相と深層―

序章:神君、鷹となりて天を翔る

元和の世、戦国の記憶も未だ生々しい江戸の夜は、深い静寂に包まれていた。天下泰平の礎たる江戸城では、武士たちが眼光鋭く闇を見つめ、務めに励んでいた。月光が天守の甍を白く照らし出す頃、その異変は起きた。

夜警の武士たちの視線の先、北の空に一点の光が生まれ、それが次第に形を成してゆく。星にあらず、鳥であった。しかし、それは尋常の鳥ではなかった。月光を浴びて金色に輝く翼を持つ、巨大な鷹。羽ばたきの音もなく、あたかも天を滑るかのように、荘厳な威厳を湛えて江戸城へと飛来するのである。その姿は、人知を超えた神威を放ち、見る者を金縛りにした。やがて鷹は、泰平の世の象徴たる江戸城本丸の上空に達すると、ゆっくりと三度、天を舞った。それは、この国の安寧を永遠に見守らんとする、強固な意志の顕れであった。

徳川家康の死後、その霊が鷹と化し、江戸城上空を三度旋回した―。この一見奇異にして、しかし人々の心に深く刻まれた伝説譚は、いかにして生まれ、何を物語るのか。本報告書は、この伝説の背後に横たわる、徳川家康という人物の本質、江戸という時代の精神、そして日本文化の深層にまで分け入り、その全貌を徹底的に解明するものである。

第一部:権現様と鷹 ― 生涯を貫く絆

この伝説が生まれるためには、まず「家康と鷹」が分かち難い存在として、万人の心に深く刻まれている必要があった。家康の鷹への執心は、単なる趣味の域を遥かに超え、彼の精神性、そして統治哲学そのものと深く結びついていた。

第一章:若き日の情熱と執心 ― 鷹に刻まれた記憶

家康の鷹への愛着は、彼の人間形成期における屈辱と矜持の記憶に深く根差している。その原体験を象徴するのが、今川家の人質時代に起きた、隣家の孕石元泰(はらみいしもとやす)との逸話である 1

当時、竹千代と名乗っていた若き家康は鷹を飼育していたが、その鷹が獲物や糞を孕石の屋敷に落とすことが度々あった 2 。そのたびに謝罪に赴く家康に対し、元泰は「三河の小倅(こせがれ)の顔を見るのは飽き飽きだ」と侮蔑の言葉を投げつけたとされる 2 。この一言は、人質という不遇の身にあった家康の自尊心を深く傷つけ、同時に、自らの愛する鷹が受けた侮辱として、その心に消えない刻印を残した。

この記憶がいかに強烈なものであったかは、後の家康の行動が雄弁に物語っている。幾星霜を経て天下人への道を歩む中、遠江国の高天神城の戦いで武田軍に寝返っていた元泰を捕縛した際、家康は一切の躊躇なく切腹を命じたのである 3 。常識的に考えれば、若き日の些細な口論が、数十年後の極刑に直結することは考えにくい。しかし、この苛烈な処断は、家康にとって鷹と鷹狩りが、自身の尊厳と不可分な、神聖にして不可侵の領域であったことを示している。鷹への侮辱は、家康自身の人格と存在そのものへの侮辱と同義であった。この常軌を逸したとも言える執心こそ、家康と鷹の間に単なる「愛好」を超えた「自己同一化」とも呼ぶべき強固な心理的結合があったことの証左である。この結びつきが、死後にその霊が鷹の姿をとるという発想の、最も根源的な土壌となったのである。

第二章:天下人の鷹狩り ― 統治と権威の象徴

天下統一後、家康の鷹狩りは個人的な趣味から、徳川の治世を象徴する高度に政治的な行為へと昇華された。鷹は、家康個人の分身であると同時に、徳川の権威そのものを体現する存在へと変貌を遂げていく。

家康にとって鷹狩りは、単なる遊興ではなかった。それは第一に、心身を鍛錬し健康を維持するための養生法であった 5 。『徳川実紀』をはじめとする記録によれば、家康は生涯に千回以上もの鷹狩りを行ったとされ、晩年に至るまでその情熱は衰えることがなかった 3 。山野を馬で駆け巡ることは、彼の強靭な精神力と体力の源泉だったのである。

第二に、鷹狩りは民情視察と地方統治の絶好の機会であった 9 。鷹場に指定された村々を巡ることで、家康は農民の生活ぶりや代官の統治の実態を自らの目で確かめた。これにより、民の暮らしに心を配る仁君としての一面を示すと同時に、領地の隅々にまで将軍の威光が及んでいることを知らしめたのである。

第三に、それは軍事訓練としての側面も持っていた 10 。広大な野を駆ける鷹狩りは、家臣たちの馬術や統率力を涵養し、組織的な行動能力を試す実践的な軍事演習であった。泰平の世にあっても武の心を忘れないという、武家政権の棟梁としての姿勢を内外に示す重要な儀式でもあったのだ。

そして最も重要な点は、鷹狩りが徳川の権威を可視化し、独占するための装置として機能したことである。慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任すると、家康は全国の有力大名による鷹狩りを禁じた 3 。さらに鷹の売買も禁止し、優れた鷹はすべて徳川家が独占する体制を築いた 4 。これにより、「鷹狩りを行う」という行為そのものが、将軍家だけに許された神聖な特権となった。鷹はもはや単なる狩りの道具ではなく、天下人の権威の象徴へと昇華されたのである。この伝統は後世にも受け継がれ、八代将軍吉宗が「鷹将軍」と呼ばれ、家康の治世を範として鷹狩りを復活させたことは、その象徴的意味の重さを物語っている 3

また、鷹狩りは外交儀礼の道具としても活用された。捕らえた鶴を宮中に献上することで朝廷への敬意を示し 10 、伊達政宗のような有力大名に鷹場を与えることで巧みに恩を売り、その忠誠心を繋ぎとめるなど 14 、鷹は徳川の盤石な統治体制を築く上で欠かせない役割を担っていた。

このように、生涯を通じて家康と鷹は公私にわたり深く結びついていた。民衆が「権現様といえば鷹」と即座に連想するほど、両者のイメージは分かち難く一体化していた。この「家康=鷹」という強力な共通認識の形成こそ、死後に霊が鷹となるという伝説が、多くの人々にとって何の違和感もなく受け入れられるための、第一の必須条件だったのである。

第二部:落日の刻 ― 神への階梯

一人の人間であった家康が、死を超越した「神」となる。この神格化のプロセスこそ、伝説が単なる噂話ではなく、人々の信仰の対象となり得る「奇跡」としてのリアリティを獲得するための、第二の必須条件であった。家康の死は、終わりではなく、神へと至る階梯の始まりだったのである。

第一章:最後の鷹狩りと病 ― 天命の兆し

元和2年(1616年)1月、家康は75歳の高齢にもかかわらず、駿府城から藤枝方面へと鷹狩りに赴いた 3 。これは大御所となってから20数回目となる鷹狩りであり、彼の生涯を貫く情熱が最晩年まで衰えていなかったことを示している 16

しかし、これが彼の最後の鷹狩りとなった。鷹狩りの拠点としていた田中城に滞在中、家康は激しい腹痛に襲われ、倒れてしまう 3 。これが、彼の命を奪うことになる病の発端であった。医師たちの懸命な治療により一時は小康状態を取り戻し、駿府城へ帰還するも、病状は回復することなく、死の床につくこととなる 17

生涯を懸けて愛した鷹狩りの最中に、その死へと繋がる病を得たという事実は、極めて象徴的である。彼の人生が鷹狩りで始まり、鷹狩りで終わったかのようなこの劇的な展開は、人々の心に深く刻まれ、家康と鷹の結びつきをより一層神秘的なものとして印象付けた。彼の死が、天命による必然であったかのような物語性を帯び、後の伝説が生まれるための伏線となったのである。

第二章:神となるための遺言 ― 久能山から日光へ

死期を悟った家康は、自らの死後について極めて明確かつ計画的な遺言を残している。それは、単に葬儀の方法を指示するものではなく、自らを神として祀らせ、永劫にわたり国家を鎮護する存在たらんとする、壮大な構想の表明であった。

その遺言の核心は、次のようなものであったと伝えられている。「自分の遺体は久能山に納めよ。葬儀は江戸の増上寺で行い、位牌は故郷三河の大樹寺に立てよ。そして、一周忌が過ぎたならば、日光山に小さなお堂を建てて我を勧請せよ。そうすれば、我は八州(関東)の鎮守となるであろう」 17

この遺言には、周到な計算が見て取れる。まず遺体を駿河の久能山に葬るのは、生前の拠点であり、富士を望む霊地に自らの神体(しんたい)を置く意図があった。江戸の増上寺での葬儀は、幕府の本拠地で天下にその死を公にし、二代将軍秀忠への権力移譲を円滑に進めるための政治的儀式である。三河の大樹寺への位牌の設置は、松平・徳川家の始祖としての祖霊(それい)の側面を大切にする姿勢を示す。

そして、最終目的地としての日光。江戸の真北に位置するこの地に神として祀られることで、家康は北極星(天帝)と一体となり、江戸、ひいては日本全土を永遠に守護する存在となることを目指した 20 。遺体、葬儀、位牌、そして神霊の鎮座地という役割を各地に分担させ、段階的に神へと昇華していくこのプロセスは、家康自身が自らの神格化を強く望み、その道筋を描いていたことを示している。

第三章:東照大権現の誕生 ― 神号を巡る攻防

元和2年(1616年)4月17日、家康は75年の生涯を閉じた 17 。彼の死後、幕府は遺言に沿って神格化の作業に着手するが、その神としての称号、すなわち「神号」を巡って、側近たちの間で激しい論争が巻き起こった。

論争の中心となったのは、天台宗の僧侶・南光坊天海と、臨済宗の僧侶で幕府の法律顧問でもあった金地院崇伝であった 19 。崇伝は、古来の神々に用いられてきた「明神(みょうじん)」の号を主張した。これに対し天海は、かつて豊臣秀吉が「豊国大明神」の神号を贈られた後に豊臣家が滅亡したことを引き合いに出し、明神号は不吉であると反論。本地垂迹説に基づき、仏が人々を救うために仮の姿(権(かり)の姿)で現れたとする「権現(ごんげん)」の号こそがふさわしいと強く主張した 19

この論争は、単なる宗教上の教義論争にとどまらず、徳川の治世をいかに位置づけるかという高度な政治的判断を伴うものであった。最終的に、秀忠は天海の説を容れ、神号は「権現」とすることが決定された。これは、先行する豊臣政権の神格化とは明確に一線を画し、仏の慈悲に裏打ちされた、より永続的な徳川の平和を祈念する意図の表れであった。

その後、朝廷から「日本」「東光」「東照」「霊威」という四つの神号の案が示され、秀忠は「東照」を選んだ 19 。これは文字通り「東を照らす」という意味であり、家康を日本の中心たる太陽神・天照大神になぞらえ、特に関東(東国)の平和を守護する神として位置づけるものであった 21

こうして「東照大権現」という神号が誕生した。これは、家康が単なる徳川家の祖霊ではなく、国家鎮護の「神」として公に認められたことを意味する。幕府が総力を挙げて推進したこの「神創り」のプロジェクトは、「家康は死してなお我々を見守る神である」という物語を社会の共通認識として確立させた。この公式見解こそ、超常的な伝説が生まれるための信憑性の基盤を提供し、「では、神となった権現様は、どのようなお姿で我々を見守ってくださるのか」という民衆の問いを生んだ。その問いに対する最も説得力のある答えが、「生涯愛された鷹のお姿で」という物語だったのである。

第三部:伝説の飛翔 ― 江戸城の天空にて

家康は鷹を愛した。そして家康は神となった。この二つの強固な事実が結びついた時、伝説は江戸の夜空にその翼を広げる。ここでは、史実的背景と文化的想像力に基づき、伝説が目撃されたその瞬間を再現し、その各要素が持つ象徴的な意味を深く分析する。

第一章:その日、江戸城に鷹は舞った ― 目撃者たちの証言

家康の一周忌も過ぎ、その神霊が日光山に鎮座して間もない、ある月の美しい夜。静まり返った江戸城本丸では、数人の番士が天守を仰ぎながら持ち場を守っていた。

【時刻:子の刻(午前0時頃)】

「今宵はことのほか冷えるな」

年嵩の番士が、白い息を吐きながら呟いた。隣にいた若い番士が、槍を握りしめながら応じる。

「まことに。されど、権現様が築き遺してくださったこの泰平の世を思えば、寒さなど物の数ではござりませぬ」

他愛のない会話が、夜のしじまに吸い込まれていく。その時であった。空の異変に最初に気づいたのは、最も若い番士だった。

「…おい、あれを見ろ。北の空の星が一つ、こちらへ向かってくるようだ」

彼の指さす方角を一同が見上げる。年嵩の番士は、若者の見間違いだろうと笑おうとした。

「馬鹿を申せ。星が動くものか。目の…」

しかし、彼の言葉は途中で途切れた。その光は明らかに大きさを増し、尋常ならざる速さで近づいてくる。それは星ではなかった。

「…鳥だ!…いや、なんという大きさだ!」

番士の一人が、かすれた声を上げた。闇の中から、月光を浴びて翼が鈍い金色に輝く、巨大な鷹がその姿を現したのである。城の櫓(やぐら)ほどもあるかと思えるその巨躯は、およそこの世のものとは思えなかった。何よりも異様なのは、その羽ばたきの音が一切しないことであった。鷹はあたかも天そのものが動いているかのように、静かに、滑るように飛翔し、江戸城へと迫ってきた。番士たちは言葉を失い、恐怖とも畏怖ともつかぬ感情に身を固くし、その場に立ち尽くす。

【一度目の旋回】

鷹は江戸城の本丸直上に到達すると、威厳に満ちた動きで、ゆっくりと円を描き始めた。その眼光は月光を反射して鋭く光り、あたかも城下の隅々に至るまで、その安寧を確かめているかのようであった。番士たちの心に、ある一つの疑念が、いや、確信に近い予感が芽生え始めていた。一人が震える声で呟く。

「まさか…あれは…」

【二度目の旋回】

再び、鷹は天を巡る。その軌道は一度目よりも大きく、江戸の町全体をその翼の下に包み込むかのようであった。番士たちの心にあった恐怖は、いつしか人知を超えた存在を前にした、敬虔な畏怖の念へと変わっていた。誰からともなく、その場に膝をつき、ひれ伏す者が出る。もはや、疑う者はいなかった。

【三度目の旋回と確信】

最後の旋回。鷹は天守の金の鯱(しゃちほこ)に触れるほど低く舞い降り、眼下の武士たち一人ひとりの顔を確かめるように見下ろした。その気高く、厳しく、そしてどこか慈愛に満ちた眼差し。その姿は、生涯を鷹狩りと共に過ごし、この泰平の世を築いた今は亡き神君、徳川家康の面影と完全に重なった。

「権現様…!」

「おお、権現様が、我ら江戸の町をお見守りくださっておるのだ!」

感極まった声が、あちこちから漏れる。それは、神の奇跡を目撃した者の、偽らざる心の叫びであった。

【消失】

三度の旋回を厳かに終えた鷹は、再び高度を上げると、来た時と同じく北、すなわち日光の方角へ向かって静かに飛び去り、やがて夜の闇に溶けるように消えていった。後には、神の奇跡を目撃したという揺るぎない確信と、この国の平和は永遠に守られるのだという深い安堵に満たされた武士たちが、しばし呆然と立ち尽くすのみであった。

第二章:伝説の解体と象徴分析 ― なぜ、鷹で、江戸城で、三度だったのか

この伝説は、その構成要素の一つ一つが、深い象徴的意味を担っている。それらを解き明かすことで、この物語が当時の人々にとって何を意味したのかが明らかになる。

  • なぜ「鷹」なのか
    第一部で詳述した通り、鷹は家康の生涯と分かち難く結びついた、彼の自己同一化の対象であった。それに加え、鷹という鳥そのものが、古今東西の神話や伝承において特別な意味を持つ存在であった 22。鷹は、その飛翔能力から「天空の支配者」「神の使い」と見なされ、鋭い眼光から「慧眼」「全知」を、そして太陽に向かって飛ぶ姿から「太陽神の化身」「王権」を象徴した 22。戦国乱世を勝ち抜き、天下に泰平をもたらした神君・家康の化身として、これほどふさわしい動物は他に存在しなかったのである。
  • なぜ「江戸城」なのか
    江戸城は、単なる将軍の居城ではない。それは徳川幕府260余年の泰平の世の起点であり、政治・軍事・文化の中心地であった。家康がその生涯を懸けて築き上げた平和と秩序の象徴、それが江戸城である。その上空を舞うという行為は、自らが創始した泰平の世を、死してなお神として守護し続けるという、家康の強固な意志の表れと解釈された。それは、徳川の治世が神君の加護の下にあることを、最も直接的に示す神託だったのである。
  • なぜ「三度」なのか
    日本文化において、「三」は極めて重要な数である。天・地・人を表し、三種の神器や三位一体など、神聖性、完結性、そして安定性を示す数として古くから用いられてきた。一度きりの飛翔であれば、それは偶然の出来事かもしれない。しかし、三度繰り返されることで、その行為は神聖な儀式としての意味を帯びる。三度の旋回は、権現様の守護が一度きりの気まぐれではなく、完全で、確固としており、永続的であることを象徴している。

この伝説は、単なる超常現象の物語ではない。それは、徳川の治世に対する「神の保証」を人々が求めた結果生まれた、一種の 政治神話 であった。大坂の陣が終わり、戦国の記憶がまだ人々の心に残る時代、泰平の世の創設者である家康の死は、一抹の不安を社会に投げかけた。この不安を払拭し、徳川の治世の永続性を保証する強力な物語が必要とされたのである。「創設者である家康自身が、神となって今も江戸城を守っている」―この目に見えない「権現様の守護」を、巨大な鷹の飛翔という「目に見える奇跡」に変換することで、人々は泰平の世が続くことへの絶対的な安心感を得た。この伝説を信じ、語り継ぐこと自体が、幕府への忠誠と泰平の世への感謝を確認する、社会的・心理的な儀式となっていたのである。

第四部:伝説の源流を求めて

これほどまでに鮮烈で、広く知られた伝説でありながら、その典拠を史料に求めることは極めて困難である。しかし、その「記録の不在」こそが、この伝説の本質、すなわち民衆の心の中から生まれ育った口承文学としての性格を、逆説的に証明している。

第一章:史料に見る痕跡 ― 沈黙の意味

江戸幕府が編纂した正史である『徳川実紀』 25 や、家康個人の逸話を集成した『東照宮御実紀附録』 7 をはじめ、松浦静山の『甲子夜話』 27 や根岸鎮衛の『耳嚢』 29 といった江戸時代の代表的な逸話集を渉猟しても、本報告書の主題である「家康の霊が鷹となり江戸城上空を三度舞った」という伝説の直接的な記述を見出すことはできない。

この「沈黙」は、何を意味するのか。それは、この伝説が幕府の公式見解や、当代の知識人階級によって記録されるべき「事実」とは見なされていなかったことを示唆している。幕府の公式史書は、家康の神威を、より荘重かつ抽象的な言葉で、あるいは日光東照宮の造営といった具体的な事業を通じて語ることを選んだ。あまりに具体的で、ともすれば荒唐無稽と受け取られかねないこの種の物語は、神君の権威を語る上で、むしろふさわしくないと判断され、意図的に排除された可能性が高い。公式の歴史は、奇跡を語るのではなく、奇跡を信じさせるための秩序と制度を記録することに重きを置いたのである。

第二章:民衆の心が生んだ神君像 ― 口承伝説の誕生

公式記録にはなくとも、この伝説が後世に広く知られているという事実は、その起源を為政者の記録文化ではなく、民衆の口承文化に求めるべきことを示している。この物語は、特定の作者によって創作されたものではなく、多くの人々の集合的な願望や想像力が、時間をかけて結晶化したものと考えられる。その成立プロセスは、以下のように推論できる。

第一段階として、幕府による大々的な神格化政策があった。日光東照宮の建立や将軍の日光社参などを通じて、「家康は神であり、今もこの世を見守っている」という観念が、武士から町人に至るまで、社会の隅々に浸透していった 19

第二段階として、人々の心の中での象徴の結合が起こる。民衆の間で最もよく知られていた家康の属性、すなわち「生涯にわたる鷹への深い愛情」という人間的な側面と、「国家鎮護の神」という超自然的な属性が、ごく自然に結びついた。

そして第三段階として、具体的な物語が生成される。「神となられた権現様が、あれほどお好きだった鷹のお姿を借りて、我々の住むこの江戸の町を見守ってくださっているに違いない」―。この素朴で、しかし力強い物語は、人々の心に深く響いた。それは、幕府が提示した「神君」という抽象的な概念を、民衆が自らの感性で受け止め、血の通った、親しみやすいイメージとして再創造した過程であった。

この物語は、江戸の武士や町人の間で口コミで広がり、講釈師の口演や芝居の題材にもなりながら、江戸の泰平を象徴する心地よい伝説として社会に定着していった。それは、歴史的事実(Fact)ではなく、文化的真実(Truth)を伝える物語である。史料上の不在は、その価値を何ら減じるものではなく、むしろこの伝説がエリート層の公式記録文化とは異なる、民衆の口承文化の中で育まれた生きた文化遺産であることを雄弁に物語っているのである。

結論:永遠なる守護者

本報告書で詳述してきたように、「徳川家康の霊が鷹となり江戸城を三度舞った」という伝説は、単なる奇譚や作り話ではない。それは、家康の生涯を貫いた鷹への執心、幕府の威信を懸けた神格化政策、日本文化における鷹の持つ象徴性、そして戦乱の終焉と泰平の世の永続を願う民衆の切なる心が、複雑かつ必然的に絡み合って生まれた、一つの文化的結晶である。

この物語は、家康という一人の人間が、いかにして時代を超えた「神」へと昇華していったかを示す象徴的なエピソードと言える。彼の霊が猛々しくも気高い鷹の姿をとったのは、彼が生涯を通じて武人としての精神を失わなかったことの証左である。その鷹が舞った場所が、彼が築いた泰平の世の中心たる江戸城であったのは、彼の功績がこの国の安寧そのものであることを示している。そして、その飛翔が三度繰り返されたのは、彼の守護が完全無欠で、永遠に続くものであるという人々の祈りの表れであった。

史実の記録を超え、この伝説は徳川家康という人物が後世の人々にとってどのような存在であったかを、何よりも雄弁に物語っている。すなわち、永きにわたる戦乱に終止符を打ち、盤石な平和の礎を築き、そして死してなおその民を見守り続ける「永遠の守護者」としての姿である。江戸の夜空を舞ったという鷹の飛翔は、歴史のページには刻まれなかったかもしれない。しかしそれは、泰平を享受した人々の心に深く刻まれた、感謝と祈りの記憶そのものなのである。

引用文献

  1. 徳川家康の鷹愛を軽く見ていた孕石元泰の切腹 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1038870
  2. 神君・徳川家康は竹千代時代にも黒歴史があった!? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/259
  3. 江戸の御鷹匠と鷹場の終焉 https://wako226.exblog.jp/243734094/
  4. 徳川家康も大好き! 江戸時代に「鷹狩り」が武士の間で流行った3つの理由 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1019564
  5. 鷹狩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E7%8B%A9
  6. 【週末民話研究】徳川家康ゆかりの井戸「策の井」と鷹場を探して - さんたつ https://san-tatsu.jp/articles/217864/
  7. 戦よりも鷹狩りが好き 本多忠勝も「いい加減になされ!」と呆れた徳川家康の熱中ぶりがコチラ https://mag.japaaan.com/archives/214638
  8. 東照宮 ものしり知識 - Net-you.com http://www.net-you.com/toshogu/sfs6_diary/sfs6_diary/200709.html
  9. 【鷹場制度】 - ADEAC https://adeac.jp/koshigaya-city-digital-archives/text-list/d000010/ht002820
  10. 老いてなお野山を駆けた「鷹狩で体力づくり」【徳川家康 逆転の後半生をひもとく】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1108704
  11. 家康が愛した「鷹狩」とは?「鷹狩」の歴史も解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1114194
  12. 第2章 葛飾区の歴史 https://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/2-6-4-50.html
  13. 家康への道〜鷹狩りの歴史と家康|bluebird - note https://note.com/bluebirdkyoto/n/n6d502dfcda47
  14. 信長も家康も!みんな大好き「鷹狩り」の秘密。じつは出世のチャンスって本当? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/72766/
  15. 第147回 伊達政宗(だてまさむね)と久喜鷹場(たかば) https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/rekishi_dayori/1006167.html
  16. 大御所家康を癒した“鷹狩の地” - 藤枝市観光協会 https://www.fujieda.gr.jp/wp-content/themes/fkanko/img/pamphlet/takagari.pdf
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  18. 徳川家康と久能山東照宮/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/tokugawaieyasu-aichi-shizuoka/ieyasu-kunozantoshogu/
  19. 徳川家康の神号「東照大権現」。神格化され、人神として祀られた家康の姿とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1907
  20. 徳川家康の遺言は東照宮をレイライン上に置くこと:江戸時代の地理風水を駆使した都市設計【4】 https://mag.japaaan.com/archives/121260
  21. 家康と天海の江戸城総構え - 大江戸歴史散歩を楽しむ会 https://wako226.exblog.jp/240687123/
  22. Eagle(ワシ) - kyoto-Inet http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/eagle.html
  23. タカとは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%81%9F%E3%81%8B-1360301
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