徳川秀忠
~上田で真田に足止めされ大敗~
徳川秀忠が第二次上田合戦で真田昌幸・幸村に足止めされ、関ヶ原に遅参した屈辱的な敗北譚。この経験が彼の成長と後の堅実な幕府統治に与えた影響を探る。
徳川秀忠「真田一族恐るべし」敗北譚の徹底解剖 ― 第二次上田合戦、その真実と伝説 ―
序章:語り継がれる敗北譚
徳川幕府二代将軍、徳川秀忠。その治世は、父・家康が築いた泰平の世の礎を固める堅実なものであったと評価される。しかし、彼の輝かしい経歴において、唯一無二にして最大の汚点として語り継がれる逸話が存在する。慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いに際し、徳川本隊を率いながら信州上田城で真田昌幸・幸村(信繁)親子に足止めを食らい、歴史的な大決戦に遅参したという屈辱的な敗北譚である。
この出来事は、秀忠の未熟さを象徴する逸話として、また同時に、寡兵をもって大軍を翻弄した真田家の武名を不滅のものとして、後世に強い印象を刻みつけた。そして、この敗北のさなかに、若き総大将の口から漏れたとされる「真田一族恐るべし」という一言は、伝説として今日まで語り継がれている。
本報告書は、このあまりにも有名な逸話の背景、戦闘の克明な記録、そして伝説の形成過程を多角的に分析し、その歴史的真実に迫ることを目的とする。秀忠はなぜ、わずか数千の真田勢に足止めされたのか。彼の決断の裏には、いかなる焦燥と計算があったのか。そして、彼の悔恨を象徴する「真田一族恐るべし」という言葉は、果たして史実として発せられたものなのか。これらの問いを、時系列に沿って詳細に解き明かしていく。
第一章:運命の岐路―関ヶ原前夜、徳川と真田の決断
慶長五年(1600年)夏の情勢
豊臣秀吉の死後、日本の政治情勢は急速に流動化していた。五大老筆頭の徳川家康が、同じく五大老の一人である会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして討伐の兵を挙げると、これを好機と見た石田三成が、家康打倒を掲げて挙兵する 1 。ここに天下は徳川率いる東軍と、三成を中心とする西軍に二分され、全国の大名を巻き込む一大決戦へと突き進んでいった。この全国的な動乱の渦は、信濃国小県郡を本拠とする一大名、真田家にも究極の選択を迫ることになる。
「犬伏の別れ」―一族存続のための賭け
当時、真田家は家康の命に従い、上杉討伐軍の一部として下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)に在陣していた。当主・真田昌幸、その嫡男・信幸(後の信之)、次男・幸村(信繁)の父子三人のもとに、石田三成からの密書が届く。ここで、真田家の未来を決定づける密議、世に言う「犬伏の別れ」が行われた 1 。
信幸は徳川四天王の一人、本多忠勝の娘・小松殿を妻とし、徳川家と深い縁で結ばれていた。一方、幸村の妻は石田三成の盟友である大谷吉継の娘であった 2 。この複雑な姻戚関係もさることながら、昌幸は冷静に天下の形勢を見極めていた。父・昌幸と次男・幸村は豊臣方(西軍)に、嫡男・信幸は徳川方(東軍)に、それぞれが与することを決断する。これは、感情的な対立による分裂ではなく、東軍と西軍のどちらが勝利しても、必ずや真田の家名を存続させるという、老獪な謀将・昌幸ならではの深謀遠慮に基づく、一族存続のための壮大な賭けであった。
徳川軍の二元戦略と秀忠の任務
西軍挙兵の報に接した家康は、下野国小山での軍議(小山評定)を経て、上杉討伐を中止し、全軍を西へ反転させる。その際、家康は軍を二つに分けるという決断を下した。自身は東海道を、そして嫡男である秀忠には、徳川譜代の精鋭を中心とした三万八千という主力部隊を預け、中山道を進軍させたのである 3 。
このルート分割は、単なる兵力の分散ではなかった。万一、敵勢力による妨害や、洪水などの自然災害によって一方の道が遮断された場合でも、全軍が足止めされる事態を避けるための、高度なリスク管理戦略であった 3 。しかし、秀忠に与えられた任務は、単に関ヶ原へ向かうことだけではなかった。家康の書状からも明らかなように、その進軍路に存在する西軍方の真田昌幸が籠る上田城を制圧し、信濃一帯を平定するという、極めて重要な軍事目標が含まれていたのである 7 。
この「信濃平定」という任務こそが、後に秀忠の判断を縛る重い足枷となる。家康が秀忠に徳川軍の主力を託した背景には、単なる軍事行動以上の意味合いがあった。これは、徳川の次代を担う後継者に対する「初陣」であり、その器量と統率力を試すための、父から子への壮大な試練であった 9 。秀忠が後に上田城攻略に固執したのも、単なる若さゆえの功名心からだけではなく、父から与えられたこの厳命を忠実に遂行しようとした結果であった。当初の計画では、関ヶ原での決戦に先立ち、背後の憂いとなる真田を叩いておくことは必須項目だったのである。しかし、岐阜城の早期陥落など、戦況が想定外の速さで進展したこと、そしてその情報伝達の遅れが、秀忠を「旧い命令」に固執させる悲劇を招くことになる。
第二章:若き総大将の焦燥―秀忠、上田へ
九月二日、小諸着陣と降伏勧告
慶長五年九月二日、徳川秀忠率いる三万八千の大軍は、上田城の東に位置する小諸城に到着した 1 。軍団には、家康の「友」とまで呼ばれた謀臣・本多正信、徳川四天王の一人・榊原康政、そして大久保忠隣といった、徳川家の屋台骨を支える重臣たちが傅役として付き従っていた 5 。若き総大将の初陣を万全の体制で支える布陣であった。
小諸に着陣した秀忠は、早速軍議を開き、眼前の敵である真田昌幸に対して降伏を勧告することを決定する。その使者として白羽の矢が立てられたのは、皮肉にも昌幸の嫡男であり、秀忠軍に属していた真田信幸と、徳川譜代の本多忠政であった 1 。肉親である信幸を派遣することで、昌幸の心を揺さぶり、無用の戦を避けようという狙いがあった。圧倒的な兵力差を背景に、秀忠陣営には戦わずして勝利できるという楽観的な空気が漂っていた。
昌幸の第一手―時間稼ぎという名の罠
九月三日、上田城下の国分寺において、両軍の使者が会見の席に着いた。信幸らの説得に対し、昌幸は驚くほど素直に「頭を剃って降伏する」という意向を示したのである 12 。戦わずして、あの真田が降伏する。この知らせは、秀忠陣営に大きな安堵と喜びをもたらした。後継者として、無駄な損害を出さずに勝利するという「理知的な戦功」を望んでいたであろう秀忠にとって、これは最も理想的なシナリオであった。
しかし、これこそが百戦錬磨の謀将・昌幸が仕掛けた最初の罠であった。この恭順の意は、城内の防備を固め、籠城の準備を万全に整えるための、巧妙な時間稼ぎに他ならなかった 11 。昌幸は、大軍を率いる若き総大将が抱くであろう「功を焦る心」と「無血開城への期待」を的確に見抜き、その心理を巧みに利用したのである。圧倒的な兵力によってもたらされた秀忠の心理的優位性は、昌幸が提示した「降伏」という甘い餌によって、早くも逆転の兆しを見せ始めていた。秀忠は即時攻撃の決断を躊躇し、昌幸に最も必要としていた貴重な「時間」を、自ら与えてしまう結果となった。
第三章:謀略の応酬―上田城攻防、その序盤
九月四日、態度の豹変と宣戦布告
降伏交渉によって稼いだ時間で籠城の準備を完璧に整えた真田昌幸は、九月四日、交渉の場でその態度を百八十度変える。使者として対峙する息子・信幸らの前で、「もはや返答に及ばず。城を枕に討ち死にする覚悟である」と、事実上の宣戦を布告したのである 12 。このあまりにも侮辱的な裏切りに対し、若き秀忠は激怒したと伝えられている 12 。
だが、この怒りこそが昌幸の狙いであった。昌幸の目的は、あくまで秀忠軍の主力をこの地に釘付けにし、関ヶ原への到着を遅らせることにあった 12 。もし秀忠が上田城を無視して西上してしまえば、その戦略は水泡に帰す。したがって、秀忠を挑発し、冷静な判断力を奪い、力攻めによる上田城攻撃へと誘導することこそが、昌幸の戦略の核心だったのである 14 。秀忠の怒りは、昌幸の描いた筋書きの通りに燃え上がった。
砥石城の無血開城という名の油断
激怒した秀忠は、全軍による上田城総攻撃を決意する。その前段階として、上田城の重要な支城である砥石城の攻略が命じられた。この城を守っていたのは、次男・真田幸村。そして攻め手には、兄である真田信幸が任じられた。真田家の兄弟が、敵味方に分かれて干戈を交えるという悲劇が、現実のものとなろうとしていた 12 。
しかし、九月五日、事態は誰もが予期せぬ形で決着する。幸村は兄・信幸の軍勢と戦うことなく、あっさりと城を明け渡し、兵を上田城へと合流させたのである 5 。これは、無用な兄弟間の消耗を避け、戦力を決戦の地である上田城に集中させるための、父子の阿吽の呼吸による見事な連携であった。
一方、この容易な勝利は、秀忠の心に致命的な油断と驕りを生じさせた。邪魔な支城をいとも簡単に手に入れたことで、「真田も恐るるに足らず。上田城も一気に落とせる」という誤った認識を抱かせた可能性は高い 15 。秀忠は砥石城の勝利を喜び、上田城を一望できる染屋原へと本陣を進めた 12 。この小さな勝利が、来るべき大敗北への序曲であることを、徳川軍の誰もがまだ知らなかった。昌幸は、砥石城という「餌」を差し出すことで、秀忠の警戒心を解き、より深く罠へと誘い込むことに成功したのである。
第四章:第二次上田合戦、刻一刻―神川に響く鬨の声
九月六日、戦端は開かれた
九月六日、ついに徳川軍による上田城への攻撃が開始された。先鋒の牧野康成・忠成父子らは、挑発行為として上田城下の田の稲を黄金色の穂ごと刈り取る「刈田」を始めた 5 。兵糧を奪うと同時に、城兵を挑発して誘き出すための常套手段であった。
この挑発に対し、昌幸は城から一部隊を打って出させ、刈田を阻止しようと見せかける。徳川軍がこれに応戦すると、真田の部隊は計画通りに敗走を装い、城へと退却を開始した 5 。功を焦った徳川軍の将兵は、これを好機と見て追撃に移り、逃げる真田兵を追って上田城の大手門前まで殺到した 14 。
大手門前の死地
しかし、それは昌幸が周到に準備した死地への誘いであった。敵兵を城壁の有効射程圏内まで十分に引きつけたその瞬間、城内から鬨の声が上がり、櫓や狭間から鉄砲や弓矢による一斉集中砲火が浴びせられた 12 。不意の猛反撃に徳川軍の先鋒は混乱に陥り、算を乱して撤退を開始する。だが、時すでに遅かった。混乱する彼らの背後から、城門を開いて打って出た幸村率いる真田の主力部隊が襲い掛かった 5 。
さらに、昌幸は自然の地形すらも武器としていた。徳川軍の退路となっていた神川は、あらかじめ上流の堤が切られていたためか、折からの雨のためか、急激に増水していた 17 。退路を断たれ、背後から真田兵の追撃を受ける徳川兵の多くが、濁流に飲み込まれて溺死したと伝えられる 12 。この戦術は、かつて天正十三年(1585年)に行われた第一次上田合戦において、同じく徳川の大軍を破った際の手法と酷似していた。秀忠と彼の家臣団は、過去の戦訓を全く学んでいなかったことを、甚大な犠牲をもって証明する形となった。
表1:第二次上田合戦における両軍の兵力比較
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軍勢 |
総兵力 |
兵力比 |
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徳川秀忠軍 |
約38,000人 5 |
約13~15倍 |
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真田昌幸軍 |
約2,500~3,000人 1 |
1 |
表1が示す通り、徳川軍は圧倒的な数的優位を誇っていた。にもかかわらず、昌幸は地の利を知り尽くした戦術と、敵の心理を巧みに突く謀略によって、この絶望的な兵力差を覆して見せたのである。これは単なる戦闘ではなく、敵軍の組織的崩壊を意図した、完璧な殲滅戦であった。
第五章:届かぬ報、そして父の激怒
九月九日、運命の使者
上田城での手痛い敗北の後も、秀忠は数日間にわたり城との小競り合いを続け、貴重な時間を浪費していた 16 。そして九月九日、ついに父・家康からの使者が、悪天候を乗り越えて秀忠の本陣に到着する 7 。その書状に記されていた内容は、秀忠を愕然とさせるものであった。「九月九日までに美濃赤坂(関ヶ原の目前)に着陣せよ」 3 。命令の期日は、まさにその日であった。自分が決定的に戦機を逸したことを、秀忠はこの瞬間に悟ったのである。
この遅参は、単に真田に手こずっただけが原因ではなかった。「信濃平定」という当初の任務への固執、昌幸の巧みな遅延工作、そして悪天候による情報伝達の遅延という、複数の不運と判断ミスが重なった結果であった。
断念と苦難の行軍
秀忠は上田城の攻略を断念し、真田信幸ら信濃の諸将に城の監視を命じると、全軍を率いて慌ただしく西上を開始した 1 。しかし、時すでに遅く、さらに追い打ちをかけるように、彼らが進む中山道・木曽路は険しい山道であり、悪天候も相まって行軍は困難を極めた。結果として、九月十五日、美濃関ヶ原で天下分け目の決戦の火蓋が切られた時、秀忠率いる徳川本隊はまだ木曽路を行軍中であり、ついに間に合うことはなかった 1 。
大津での父子対面と本多正信の諫言
関ヶ原の戦いがわずか半日で東軍の勝利に終わった後、秀忠はようやく家康との対面を果たした。三万八千もの主力を率いながら、天下分け目の決戦に遅参するという前代未聞の大失態を犯した息子に対し、家康は激怒。「汝の顔を二度と見たくない」とまで言い放ったと伝えられている 22 。徳川家の後継者として、廃嫡されてもおかしくないほどの状況であった。
この絶体絶命の窮地を救ったのが、傅役として従軍していた謀臣・本多正信であった。家康の怒声が響く中、正信は静かに主君の前に進み出て、その口を手で制し、こう諫めたという。「その御短気ゆえに、かつて三郎様(家康の嫡男・信康)を失われたではございませんか。まだお懲りになりませぬか」 22 。
この言葉は、家康の心の最も深い傷に触れた。かつて織田信長の圧力に屈し、短慮から我が子・信康を切腹させてしまった痛恨の記憶が、家康の脳裏をよぎった。正信は、論理ではなく家康個人の感情と後悔に訴えかけるという、極めて高度な手法で主君の怒りを鎮めたのである。この命を懸けた諫言がなければ、秀忠の運命は、そして徳川の世の未来は、大きく変わっていたかもしれない。この一件は、徳川政権がいかに家康個人の感情に左右されやすい、危うい段階にあったかをも示している。正信の介入は、単に秀忠個人を救っただけでなく、徳川家の内部分裂という最大の危機を回避させた、極めて重要な政治的行動であった。
表2:慶長五年九月における秀忠軍の行動時系列
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日付 |
秀忠軍の行動 |
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9月2日 |
小諸城に到着。真田昌幸に降伏を勧告。 |
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9月3日 |
昌幸、一旦降伏の意向を示し、時間稼ぎを行う。 |
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9月4日 |
昌幸、態度を豹変させ宣戦布告。秀忠、激怒し上田城攻撃を決意。 |
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9月5日 |
支城の砥石城が無血開城。秀忠、油断する。 |
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9月6日 |
上田城への攻撃を開始。神川の戦いで徳川軍が大敗。 |
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9月7日~8日 |
上田城と小競り合いを続け、足止め状態が続く 16 。 |
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9月9日 |
家康からの使者が到着。決戦への遅参が確定的になる 7 。 |
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9月10日頃 |
上田城攻略を断念し、中山道を西上開始。 |
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9月15日 |
関ヶ原の戦い。秀忠軍はまだ木曽路を行軍中。 |
第六章:「真田一族恐るべし」―逸話の源流と史実性の検証
徳川秀忠が上田での敗北に際し、悔しさと畏怖を込めて「真田一族恐るべし」と漏らしたとされるこの逸話は、あまりにも有名である。しかし、この象徴的な言葉は、果たして史実なのであろうか。
結論から言えば、秀忠がこの言葉を具体的に発言したという記録は、江戸幕府が編纂した公式史書である『徳川実紀』(『台徳院殿御実紀』) 14 をはじめ、信頼性の高い同時代の一次史料には見当たらない。
しかし、言葉として残されていなくとも、徳川家が真田家に対して並々ならぬ警戒心と、ある種の畏怖を抱いていたことは紛れもない事実である。後世の記録である『北川覚書』には、真田が「徳川の毒虫なりと世に沙汰せり」と評されていたことが記されている 24 。また、後の大坂の陣における真田幸村の鬼神のごとき活躍は、敵である徳川方からも「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称賛された 24 。これらの評価は、徳川家にとって真田がいかに厄介で、恐るべき存在であったかを物語っている。
では、「真田一族恐るべし」という言葉はどこから来たのか。この言葉は、江戸時代以降に成立した軍記物語や講談、さらには近代の歴史小説(池波正太郎の『真田太平記』など 25 )や映像作品を通じて、敗北した若き将軍の悔恨の言葉として創作され、大衆の間に広まっていった可能性が極めて高い。これは、英雄・真田の圧倒的な強さを引き立てるための、非常に効果的な物語装置として機能した。
この逸話は、史実(Fact)が物語(Story)へと昇華されていく典型的な事例と言える。重要なのは、具体的な発言の有無よりも、なぜ後世の人々がそのような言葉を「必要とした」のかを考えることである。それは、真田の驚異的な強さと、徳川の天下取りが決して順風満帆ではなかったという歴史の側面を象徴する言葉として、人々が求めたからに他ならない。史実ではないかもしれないが、この言葉は「老練な謀将が、大軍を率いた若き後継者を完璧に手玉に取った」という第二次上田合戦の本質を、これ以上なく的確に表現する言葉として、人々の記憶に深く刻まれているのである。
終章:敗北譚が遺したもの
徳川秀忠の上田における手痛い失敗は、彼にとって生涯消えることのない悔恨となった 22 。しかし、この屈辱的な経験こそが、彼を単なる武将から、慎重で堅実な為政者へと成長させた重要な契機であったことは否定できない。彼の治世は、派手な武功とは無縁であったが、武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定など、法制度の整備を通じて幕藩体制の礎を固めるという、地道な統治でこそ真価を発揮した 4 。その堅実な政治姿勢の根底には、若き日の失敗から学んだ教訓が生きていたのかもしれない。後年、秀忠は「一度の失敗で部下を見捨ててはならない」という趣旨の言葉を残したとされ、それはまさに関ヶ原での自らの経験を象徴しているかのようである 9 。
一方、真田家にとってこの一戦は、その名を日本の歴史に不滅のものとして刻み込む決定的な出来事となった。当主・昌幸を「表裏比興の者」と評される不世出の謀将として、そして次男・幸村を、後に大坂の陣で「日本一の兵」と謳われる伝説の武将へと続く序章として、その武名を天下に轟かせたのである。関ヶ原の本戦では西軍が敗北し、昌幸と幸村は高野山への配流という憂き目に遭うが、わずか数日の戦いで徳川の主力軍を翻弄したという事実は、彼らを敗者ではなく、局地戦における紛れもない勝者として歴史に記憶させた。
結論として、徳川秀忠の上田における敗北譚と「真田一族恐るべし」という言葉は、史実と創作が巧みに織り交ざった、歴史のダイナミズムを象徴する逸話である。それは、単なる一武将の失敗談ではない。徳川二百六十年の泰平の礎を築いた二代将軍の、人間的成長を促した試練の物語であり、同時に、戦国の世に咲いた真田という徒花の、鮮烈な輝きを今に伝える、不朽の伝説なのである。
引用文献
- 第二次上田攻め https://museum.umic.jp/sanada/sakuhin/uedazeme2.html
- 関ヶ原の役と上田籠城(第2次上田合戦) https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/090099.html
- 徳川秀忠。家康の息子が関ヶ原の戦いで「世紀の大遅参」をした理由とは? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/38089/
- 徳川秀忠(トクガワヒデタダ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0-19099
- 上田合戦(2/2)真田の勇ここにあり!対徳川で徹底抗戦 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/1028/2/
- www.rekishijin.com https://www.rekishijin.com/3318#:~:text=%E7%A7%80%E5%BF%A0%E3%81%8C%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%81%93%E3%82%92,%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E6%83%B3%E5%AE%9A%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
- 関ヶ原の『秀忠遅参』は実は狙い通り?その真相に迫る - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xX7l9U8L7lg
- わずか数時間で終わった決戦:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(中) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06916/
- 徳川秀忠の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38346/
- 偉大な父を継いだ苦悩…跳ねのけ、江戸幕府を不動のものとした名君「徳川秀忠」の人生とは⁉ https://www.rekishijin.com/31714
- 上田城の攻防と徳川秀忠関ヶ原遅参の真相【前編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/3299
- 「第二次上田城の戦い(1600年)」2度目の撃退!真田昌幸、因縁の徳川勢を翻弄する https://sengoku-his.com/465
- 2nd Battle of UEDA - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=V-wBHnJ2OKo
- 上田合戦とは/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16980_tour_061/
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- 徳川秀忠、関ヶ原への途上で小諸城に逗留 - ギャラリーまきの https://www.makino-mingei.jp/archives/6545
- 上田の歴史を学ぶ講演会 https://www.umic.jp/video/image/haihusiryo02.pdf
- 第二次上田合戦までの話(4):上田城の開城交渉 https://kennytata.hatenablog.com/entry/2019/10/09/001354
- 徳川秀忠とはどんな人?彼から学べる教訓【組織の二代目の役割】 https://www.kkenichi.com/entry/2021/11/23/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E4%BA%BA%EF%BC%9F%E5%BD%BC%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AD%A6%E3%81%B9%E3%82%8B%E6%95%99%E8%A8%93%E3%80%90%E7%B5%84%E7%B9%94%E3%81%AE
- 関ヶ原に遅参した秀忠を許す?どうする?家康を諫めた本多正信のエピソード【どうする家康】 https://mag.japaaan.com/archives/194901/2
- 「大坂の陣と真田幸村」 https://ueda.zuku.jp/katudou/salon-talk/2015.1.17.pdf
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- 真田昌幸 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8