最終更新日 2025-10-20

徳川秀忠
 ~上田遅参も天の策と評された~

関ヶ原への遅参は秀忠の失態だが、家康は「天の策」と評し政治的に利用。この若き日の失敗が、秀忠を戦国の覇者ではなく泰平の世の堅実な統治者へと育てた。

徳川秀忠、上田遅参の真相 ―「天の策」と評された父子譚の徹底解剖

序章:天下分け目の刻、中山道を進む徳川本隊

慶長5年(1600年)、日本の歴史を二分する天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦が迫っていた。徳川家康は会津の上杉景勝討伐を名目に諸大名を率いて東国へ向かったが、その背後で石田三成が西軍を蜂起させる 1 。この報を受け、家康は下野国小山での軍議(小山評定)を経て、全軍を西へ反転させるという大決断を下した 2 。この壮大な戦略の中で、家康の後継者である三男・徳川秀忠には極めて重要な役割が与えられた。

家康自身が東海道を進む一方、秀忠は徳川家の主力部隊約3万8千を率いて中山道を進軍するよう命じられた 1 。この部隊は単なる別動隊ではなかった。参謀役として本多正信、そして徳川四天王の一人である榊原康政が秀忠を補佐し、酒井忠次や本多忠勝といった宿老たちの嫡男たちがそれぞれの軍を率いて参陣していた 2 。文字通り、徳川家の精鋭を結集した本隊であり、この軍勢を当時22歳で初陣に近い秀忠に預けたという事実は、家康の彼に対する期待と、この任務の重要性を物語っている 4

秀忠に与えられた表向きの任務は、中山道沿いで西軍に与した信濃上田城主・真田昌幸を討伐し、周辺の親西軍勢力を平定することであった 2 。しかし、この二路からの進軍には、より深い戦略的意図があった。それは、一種のリスク管理であった。東海道は比較的平坦で進軍速度は速いが、富士川や天竜川といった大河川が複数存在し、悪天候による増水で足止めされる危険性を常にはらんでいた 6 。万が一、家康の本隊が遅滞した場合でも、秀忠の率いる徳川本隊が西へ到達し、決戦に間に合うようにするための戦略的な冗長性確保の策でもあったのである。したがって、秀忠の進軍は単なる真田征伐という支作戦ではなく、家康の天下取り構想における重要な柱の一つであった。この壮大な計画の歯車が、信濃の小城、上田で狂い始めることになる。

本報告書では、この「上田遅参」の逸話について、その発端から結末、そして後世に語り継がれる「天の策」という評価の形成に至るまでを、時系列に沿って徹底的に解剖する。

年月日(慶長5年)

場所・出来事

秀忠軍の動向

家康・真田軍の動向

7月下旬

犬伏の別れ

-

真田昌幸・信繁は西軍へ、信幸は東軍へ味方することを決定 1 。昌幸・信繁は上田城へ帰還し籠城準備を開始。

8月24日

宇都宮

秀忠、約3万8千の軍勢を率いて宇都宮を出発 6

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9月2日

小諸

小諸に到着。真田昌幸に対し降伏を勧告 1

-

9月3日

上田

-

昌幸、降伏を申し出るふりをして時間稼ぎを行う 8

9月4日

上田

-

昌幸、態度を豹変させ籠城の意思を表明。秀忠を挑発 8

9月5日-8日

第二次上田合戦

上田城への攻撃を開始。昌幸の巧みな戦術に翻弄され、多大な損害を被り攻略に手こずる 8

昌幸・信繁、約3千の兵で徳川本隊を迎え撃つ 1

9月9日頃

小諸

家康からの使者が到着。「9日までに美濃赤坂へ参れ」との命令に愕然とする 4

家康、秀忠に西上を命じる使者を派遣するが、使者も悪天候で遅延 11

9月10日

小諸

上田城の包囲を解き、中山道を西へ急行開始 6

-

9月15日

関ヶ原

-

関ヶ原の戦い 。東軍が勝利。

9月17日

妻籠

妻籠宿にて関ヶ原の戦勝報告を受ける 6

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9月20日

近江 大津

近江大津にて家康と合流。しかし家康は面会を拒否 4

家康、大津城にて戦後処理を行う 12

9月23日

近江 大津

榊原康政らのとりなしにより、ようやく家康との対面が許される 13

-

第一章:上田城の攻防 ― 策士・真田昌幸との対峙

秀忠の運命を大きく左右することになる上田城での対決は、その前段、下野国犬伏における真田家の重大な決断から始まっていた。石田三成挙兵の報を受けた真田昌幸は、長男・信幸と次男・信繁(幸村)を呼び寄せ、一族の将来を協議する。その結果、信幸は徳川方に、昌幸と信繁は豊臣方に付くという、一族を二分する苦渋の決断を下した。これは、どちらが勝利しても真田の家名を存続させるための、老獪な策士・昌幸ならではの究極の保険であった 1

慶長5年9月2日、小諸に到着した秀忠は、眼前に立ちはだかる上田城の真田昌幸に対し、降伏勧告の使者を送った。この大役を担ったのは、皮肉にも昌幸の息子であり、徳川家臣として秀忠軍に加わっていた真田信幸と、本多忠勝の嫡男・本多忠政であった 1 。これに対し、昌幸は驚くべき応答を見せる。9月3日、使者を介して「剃髪して降伏する」と申し出たのである 8 。戦わずして敵将を降伏させられるという報は、初陣の若き総大将である秀忠にとって、これ以上ない吉報に思えた。

しかし、これは百戦錬磨の昌幸が仕掛けた巧妙な罠であった。降伏交渉と見せかけて時間を稼ぎ、その裏で籠城の準備を着々と進めていたのである 6 。そして9月4日、準備が整うや否や、昌幸は態度を豹変させる。「城は明け渡さぬ」と徳川方に通告し、籠城の意思を明確にした 8 。このあからさまな裏切りと挑発に、秀忠は激怒したと伝えられる。若き将軍後継としての自尊心を傷つけられ、父・家康への「手土産」として上田城攻略という手柄を立てたいという功名心に駆られた秀忠は、全軍による上田城総攻撃を決意する 4

こうして始まった第二次上田合戦は、徳川軍にとって悪夢のような展開となった。兵力では3万8千対3千と、徳川軍が圧倒的優位にあった 1 。しかし、昌幸の戦術はそれを補って余りあるほど巧みであった。まず、徳川方の牧野康成らが城下の田の稲を刈り取る「刈田」という挑発行為を行うと、昌幸は少数の鉄砲隊を出撃させる 8 。徳川軍がこれを追撃し、城際まで迫ると、それを待っていたかのように城壁から一斉に弓矢と鉄砲による猛反撃を浴びせた。

さらに昌幸は、第一次上田合戦でも用いた得意の戦術を展開する。城から打って出た真田軍は、徳川軍と少し交戦すると見せかけて、すぐに城内へと退却する。これを好機と見た徳川軍が深追いし、大手門に殺到した瞬間、城内に潜んでいた伏兵が側面から襲いかかり、城壁からは鉄砲隊が集中砲火を浴びせた 8 。完全に昌幸の術中にはまった徳川軍は混乱に陥り、撤退を余儀なくされる。さらに、退却する徳川軍に対し、昌幸はあらかじめ堰き止めておいた神川の堤防を切り、濁流を流し込んだ。これにより、多くの兵が川で溺死するという大損害を被ったのである 9

この戦いは、単なる軍事衝突ではなかった。それは、秀忠の「名誉」を求める心と、昌幸の「生存」を求める策略との心理戦であった。22歳の秀忠は、父の偉大な家臣たちが見守る中、自らの武威を示し、後継者としての器量を証明する必要があった。彼の目的は、城を落とし「勝利」という結果を手にすることであった。一方、昌幸の目的は勝利ではなかった。彼にとっての勝利とは、圧倒的な兵力を持つ徳川本隊をこの地に釘付けにし、時間を浪費させることであった 10 。秀忠の功名心と若さゆえの焦りこそが、昌幸が彼を操るために使った最大の武器だったのである。結果として、秀忠は昌幸の掌の上で踊らされ、天下分け目の決戦へ向かうべき貴重な時間を、信濃の山中で浪費してしまった。

第二章:遅参 ― 焦燥の行軍と届かなかった戦場

上田城の攻防に手こずり、秀忠が焦りを募らせていた9月9日頃、ついに父・家康からの使者が小諸の陣中に到着した 11 。使者がもたらした書状の内容は、秀忠に衝撃を与えるものであった。

「これを見よ、父上が本日までに美濃赤坂に参れと申されておる」

「なんと」

家臣の本多正信との間に、このような会話が交わされたと想像される 4 。書状を読み始めた秀忠の顔は、みるみるうちに青ざめていったという 4 。その命令は、物理的に不可能であった。小諸から美濃赤坂までは約275km、しかも険しい山道が続く中山道である。通常でも10日は要する道のりを、「本日中に」というのは到底無理な話であった 4 。記録には秀忠が「大いに驚かれ」とだけ記されているが、その胸中は絶望に近い驚愕と焦燥に満ちていたに違いない 4

この絶望的な状況は、単に秀忠が上田城攻略に固執した結果だけではなかった。実は、家康が派遣したこの使者自身が、道中の悪天候、特に豪雨による川の増水で足止めを食らい、到着が大幅に遅れていたのである 6 。つまり、秀忠は最新の命令を知らないまま、当初与えられた「真田を平定せよ」という任務を遂行していたに過ぎなかった。彼の判断の甘さは責められるべき点であるが、この致命的な遅延は、指揮官の判断ミスと、戦場における情報伝達の遅れという二つの要因が重なった複合的な失敗であった。

「すぐに出立じゃ!」

秀忠は直ちに上田城の包囲を解き、押さえの兵を残して全軍に西上を命じた 1 。ここから、徳川本隊の必死の行軍が始まる。遅参という不名誉を少しでも挽回すべく、昼夜兼行で中山道を突き進んだ 4 。しかし、彼らの行く手を阻んだのは、奇しくも家康の使者を遅らせたのと同じ、悪天候であった。降り続く雨で道はぬかるみ、川は増水して渡ることもままならない 14 。兵士たちの疲労は極限に達し、行軍速度は遅々として進まなかった。

そして9月17日、木曽路の妻籠宿にたどり着いた秀忠のもとに、決定的な報がもたらされる。関ヶ原での決戦が9月15日に行われ、父・家康率いる東軍が圧勝したという知らせであった 6

「ああーっ、大事な合戦に間に合わなかった。父上、お許しくだされ」

その瞬間の秀忠の心情は、このようなものであっただろう 4 。徳川家の後継者として、天下分け目の決戦に参加できなかったという事実は、彼の心に生涯癒えることのない深い傷を残した。安堵と、それ以上に巨大な屈辱と後悔が、秀忠と3万8千の将兵を包み込んだに違いない。戦いは終わったが、彼らにとっての本当の試練は、これから始まろうとしていた。

第三章:父子の対面 ― 近江大津での叱責ととりなし

関ヶ原での勝利から5日後の9月20日、秀忠率いる徳川本隊は、ようやく父・家康が滞在する近江国の大津に到着した 4 。しかし、彼らを迎えたのは、勝利の歓声ではなく、冷え切った沈黙であった。昼夜兼行の強行軍で疲弊しきった秀忠軍は、堂々たる隊伍を組むこともできず、三々五々とまばらに大津の町へ入ってきた 4 。この締まりのない有様は、規律を重んじる家康の怒りにさらに油を注ぐ結果となった。

家康の怒りは凄まじかった。秀忠からの面会の申し入れに対し、「気分がすぐれない」という理由でこれを拒絶したのである 4 。これは、徳川家の後継者に対する公の場での叱責であり、最大限の屈辱を与える行為であった。一部の記録では、家康が「信康(家康の亡き長男)ならば、このような失態はしなかっただろう」と嘆いたとさえ伝えられている 11 。父からの拒絶という現実に、秀忠は為す術もなく、ただただその叱責を受け入れるしかなかった。

この徳川家を揺るがしかねない父子の断絶という危機的状況に、一人の宿老が立ち上がった。徳川四天王の一人、榊原康政である 13 。剛直で知られ、主君に対しても諫言を厭わない康政は、このままでは徳川家の将来に禍根を残すと判断した。彼は家康に謁見を求めると、死を覚悟の上で、遅参の全責任は総大将である秀忠を補佐すべき自分たち家臣団にあると述べ、自らの首を差し出す勢いで陳謝した 17 。さらに、「深く反省している息子殿の弁明を聞こうともしないのは、父として、また主君としていかがなものか」と、家康の非を諭したと伝えられている 18

この康政の命を懸けたとりなしは、単なる感情的な嘆願ではなかった。それは、徳川家という組織の安定を最優先する、高度な政治的判断に基づく行動であった。家康の怒りは本物であったろうが、その怒りを公然と示すこと自体が、家臣団への示しをつけ、規律を徹底させるための政治的パフォーマンスという側面も持っていた。家康は、後継者である秀忠を罰することはできない。しかし、この大失態を不問に付すこともできない。そのジレンマの中で、康政は自らがスケープゴートとなることで、家康に怒りの矛先を収めるための「出口」を提供したのである。

康政の忠義と道理を尽くした諫言に、家康もついに折れた。9月23日、ついに秀忠との面会を許可したのである 13 。この一件で命を救われた形の秀忠は、康政に深く感謝し、後に「この御恩は子々孫々に至るまで決して忘れませぬ」という内容の書状を送っている 17 。こうして、近江大津での緊迫した対峙は、宿老の忠義によってようやく幕を閉じた。しかし、この遅参という事実は、秀忠の生涯に、そして徳川の歴史に、深く刻み込まれることとなった。

第四章:「遅れもまた天の策」― 逸話の真相と歴史的評価

徳川秀忠の関ヶ原遅参を語る上で、最も有名な逸話が、父・家康が後にこの失態を評して述べたとされる「遅れもまた天の策」という言葉である。この一言は、秀忠の致命的な失敗を、まるで天が徳川に味方した結果であるかのような、運命的な出来事へと昇華させる不思議な力を持っている。しかし、この逸話は史実をありのままに伝えているのだろうか。

この言葉の直接的な一次史料、例えば家康自身の手による書状などは確認されていない。その出典は、江戸時代に幕府によって編纂された公式史書である『徳川実紀』などに求められることが多い 19 。これらの書物は、徳川幕府の治世を正当化し、歴代将軍を顕彰する目的で書かれたものであり、そこには多分に政治的な意図が含まれている。つまり、「天の策」という言葉は、歴史的事実そのものというよりは、徳川の治世を盤石にするために後から構築された「物語」の一部と見るべきである。

この「天の策」という物語から派生し、より洗練された形で秀忠の遅参を正当化しようとする説が「兵力温存説」である 11 。この説は、秀忠の遅参は意図的なものであり、万が一、家康が関ヶ原で敗北した場合に備え、徳川本隊を無傷で温存しておくための深謀遠慮であった、と主張する。もし本戦で敗れても、秀忠の率いる精鋭部隊が健在であれば、江戸城を拠点に最後の抵抗戦が可能になるという、いわば保険としての役割を担っていたというのである 11

一見すると、この説は秀忠の汚名を返上し、家康の戦略眼の高さを称えるものに思える。しかし、軍事的な合理性から見れば、この説には大きな疑問符が付く。関ヶ原の戦いは、文字通り天下分け目の総力戦であった。このような決戦において、自軍の最強部隊を温存しておくという選択は、戦略的に極めて不自然である。戦いの勝敗は勢いによって大きく左右されるため、もし家康が敗北した場合、その敗走の勢いを温存された部隊だけで食い止め、戦況を覆すことはほぼ不可能に近い 11 。家康ほどの戦術家が、そのような現実味のない賭けに出るとは考えにくい。

では、なぜこのような逸話や説が生まれたのか。その答えは、徳川幕府が抱える政治的な脆弱性にある。江戸幕府の二代将軍となる秀忠が、その幕府の成立を決定づけた最大の戦いで、大失態を演じたという事実は、将軍の権威にとって看過できない汚点であった。家康は、この不都合な真実を、巧みな言葉で糊塗する必要があった。

家康が発したとされる「天の策」という言葉は、二重の意味を持つ。第一に、それは秀忠の個人的な無能さから責任を逸らし、天命や運命といった、人の力の及ばないものに原因を帰着させることで、彼を許すための口実となる。第二に、それは家康自身の偉大さを逆説的に強調する効果を持つ。「主力部隊が不在でも勝利できた。それは天が我に味方している証拠である」というメッセージを発信することで、徳川の支配の正当性を神懸かり的なものにまで高めることができるのである。

この家康によって蒔かれた「物語の種」が、後の徳川の世において、「兵力温存説」という、より精緻な理論へと発展していった。つまり、「遅れもまた天の策」という逸話は、父子の間の個人的な会話の記録ではなく、徳川幕府の安定した権力継承と、その支配の正当性を盤石にするために創造された、高度な政治的プロパガンダの根幹をなすものだったのである。

結論:凡庸な二代目に非ず ― 遅参の教訓と秀忠の治世

関ヶ原への遅参という一件は、徳川秀忠の人物像に「父に似ぬ凡庸な二代目」「戦下手」という、拭い去りがたいレッテルを貼ることになった 4 。歴史上、彼の名はしばしばこの「世紀の大遅参」と共に語られ、その失態は彼の治世における数々の功績を覆い隠してしまいがちである。しかし、この若き日の痛烈な失敗こそが、彼を平和な時代の統治者として完成させるための、不可欠な試練であったと見ることもできる。

上田城での屈辱と、父・家康からの激しい叱責は、秀忠の心に深い教訓を刻み込んだ。彼は、功を焦るあまりの猪突猛進がいかに危険であるか、情報伝達と兵站の確保がいかに重要であるか、そして信頼できる家臣の諫言がいかに貴重であるかを、身をもって学んだのである。この経験は、彼の性格に深い慎重さと、冒険的な賭けよりも安定を好む堅実さを植え付けた。事実、後の大坂の陣においても、秀忠が軍を急がせすぎて兵を疲弊させ、再び家康に叱責されるという出来事があったが 22 、これは彼が失敗から学び、常に自らを律しようと努めていた過程を示すものとも解釈できる。

秀忠の真価は、戦場での華々しい武功ではなく、江戸幕府という巨大な統治機構の礎を築いた点にある。彼の治世において、武家諸法度や禁中並公家諸法度といった基本法の制定が進められ、幕藩体制は制度的に確立された。それは、父・家康が戦乱の中で勝ち取った天下を、永続可能な「泰平の世」へと移行させるための、地道で、しかし極めて重要な作業であった。

彼の残した言葉とされる「人を用うるに、過失を以てこれを棄つることなかれ。よろしくその自新を許すべし(一度の失敗で部下を見捨ててはならない。反省し、再起することを許すべきだ)」という教えは、まさに関ヶ原で大失敗を犯しながらも、父と家臣によって再起の機会を与えられた彼自身の経験から生まれたものであろう 15

戦国乱世が必要としたのは、家康のような天賦の才を持つ英雄であった。しかし、その後に続く平和な時代が必要としたのは、英雄ではなく、堅実な行政官であった。関ヶ原での遅参という失敗は、秀忠が父のような戦国の覇者になるという道を、事実上閉ざした。しかし、皮肉にもその挫折こそが、彼を新しい時代の理想的な統治者へと鍛え上げたのである。それは、謙虚さ、慎重さ、そして人の意見に耳を傾ける度量を彼に与えた。

結果として、不運に見舞われた若き将軍後継者は、泰平の世を築く最も幸運な二代将軍となった。秀忠の上田遅参という逸話は、単なる一個人の失敗談ではない。それは、戦乱の時代から統治の時代へと移行する歴史の転換点において、一人のリーダーが如何にして新しい時代に適合する資質を身につけていったかを示す、象徴的な物語なのである。

引用文献

  1. 第二次上田攻め https://museum.umic.jp/sanada/sakuhin/uedazeme2.html
  2. 徳川秀忠、上田城攻めに手こずり、関ケ原の戦いに遅参する(「どうする家康」176) https://wheatbaku.exblog.jp/33146717/
  3. 関ヶ原合戦シリーズ1 - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page043.html
  4. 徳川秀忠。家康の息子が関ヶ原の戦いで「世紀の大遅参」をした ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/38089/
  5. 【徳川秀忠軍の上田攻め】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096320
  6. 上田城の攻防と徳川秀忠関ヶ原遅参の真相【前編】 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/3299
  7. 第二次上田合戦 http://ogis.d.dooo.jp/sanada3.html
  8. 「第二次上田城の戦い(1600年)」2度目の撃退!真田昌幸、因縁の徳川勢を翻弄する https://sengoku-his.com/465
  9. 《第5回 第二次上田合戦》真田軍が徳川の大軍を翻弄 その悲しい結末とは - LIVING和歌山 https://www.living-web.net/%E3%80%8A%E7%AC%AC5%E5%9B%9E-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6%E3%80%8B%E7%9C%9F%E7%94%B0%E8%BB%8D%E3%81%8C%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%BB%8D%E3%82%92%E7%BF%BB/
  10. 関ヶ原の役と上田籠城(第2次上田合戦) https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/090099.html
  11. 関ヶ原の『秀忠遅参』は実は狙い通り?その真相に迫る - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xX7l9U8L7lg
  12. 大津城跡|家康ゆかりの情報 http://www.ieyasu-net.com/shiseki/shiga/02otsushi/0002.html
  13. 秀忠遅参① (徳川将軍15代) : 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/17761067/
  14. 上田城の攻防と徳川秀忠関ヶ原遅参の真相【後編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/3318
  15. 第2代将軍/徳川秀忠の歴史 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38346/
  16. 秀忠遅参② (徳川将軍15代) : 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/17770553/
  17. 知勇兼備の勇将、榊原康政! - 武将隊一覧 - 岡崎市観光協会 https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/busho-profile/sakakibara
  18. 文武に優れた「徳川四天王」榊原康政が辿った生涯|秀吉を本気で怒らせた家康の忠臣【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1108357/2
  19. 徳川秀忠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0
  20. 「関ヶ原の戦い」で一番の功労者は…まさかのあの武将!?本多正信の答えがコチラ【どうする家康 外伝】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/211973/2
  21. 徳川秀忠、大坂の陣でまたも遅参?父・家康宛ての手紙に「途方に暮れております」 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/113520/
  22. 第50回「徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」 | 偉人・敗北からの教訓 - BS11+(BS11プラス) https://vod.bs11.jp/contents/w-ijin-haiboku-kyoukun-50