最終更新日 2025-11-02

徳川秀忠
 ~真田籠城に足止め「小国恐るべし」~

徳川秀忠の「小国恐るべし」は史実でなく、真田に足止めされ関ヶ原に遅参した「敗北譚」の本質を捉えた後世の創作。秀忠の屈辱と真田の武勇を象徴する逸話の背景を解説。

徳川秀忠「小国ながら恐るべし」発言の逸話に関する徹底調査報告:第二次上田合戦の時系列再現と史料批判

I. 序論:逸話の定義と「敗北譚」の座標

本報告書は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに関連して生じた「第二次上田合戦」において、徳川秀忠が発したとされる『小国ながら恐るべし』という一言、およびそれに連なる「敗北譚」に焦点を絞り、その詳細を徹底的に調査・分析するものである。

ご依頼の核心は、徳川秀忠が真田昌幸・幸村(信繁)父子の籠城戦術によって上田城(長野県上田市)に足止めされ、天下分け目の決戦に遅参するという屈辱的な経験の最中、あるいは直後に、敵である真田を評したとされるこの発言の背景にある。本報告書では、徳川秀忠の人物像全体の解説 1 は意図的に排し、この「上田での敗北」という一点に限定し、ご要望にある「逸話のリアルタイムな会話内容」や「その時の状態」が「時系列でわかる形」で理解できるよう、合戦の推移の再現と、逸話そのものの史料的検証(史料批判)を行うことを目的とする。

この「敗北譚」の起点は、関ヶ原の戦いの約二ヶ月前、慶長5年7月21日に遡る。徳川家康による会津の上杉景勝討伐に従軍していた真田昌幸・信幸(後の信之)・幸村の父子三人は、下野国犬伏(現・栃木県佐野市)の陣中にいた 2 。この地で、父子は石田三成からの挙兵を促す密書を受け取る 2

近隣の新町薬師堂( 8 )で開かれたとされる軍議、世に言う「犬伏の別れ」において、真田家は苦渋の決断を下す。信幸は徳川四天王・本多忠勝の娘婿であることから東軍(家康方)に残り、昌幸と幸村(妻が大谷吉継の娘)は西軍(三成方)に加わることを決意した 2 。これは単なる家の存続をかけた分散投資ではなく、昌幸・幸村が西軍に与した時点で、彼らの本拠・上田城が、徳川軍の主要な進軍ルートである中山道の「栓」として機能することが運命づけられたことを意味する。

昌幸は、徳川の主力を率いて中山道を進軍してくるであろう秀忠軍を、上田城で可能な限り引きつけるという、西軍(三成・吉継ら)との軍事的な密約を帯びて西へ向かった 2 。徳川秀忠の「敗北譚」は、彼がまだ東国の軍勢を編成している段階で、既に稀代の謀将・真田昌幸によって仕掛けられていたのである。

II. 「敗北譚」のリアルタイム・シークエンス:上田城攻防 八日間の時系列再現

秀忠が「小国ながら恐るべし」と嘆息するに至った「その時の状態」を理解するには、慶長5年9月の上田城攻防戦の推移を詳細に追う必要がある。軍記物や戦況報告に基づき、戦闘の経過と秀忠の心理状態の変遷を時系列で再構築する。

【表1:第二次上田合戦 タイムライン(慶長5年9月)】

日付(慶長5年)

徳川秀忠軍(本隊)の動向

真田軍(昌幸・幸村)の動向

秀忠の心理状態・戦況

9月2日-4日

宇都宮より中山道を進軍。信州小諸城に本陣を設置 3

上田城・砥石城などで籠城準備を完了。兵力は約2,500 3

初陣の武功への焦り。「小城」への侮り 4

9月5日

昌幸に対し降伏勧告の使者を送る。

降伏を匂わせつつ時間を稼ぎ、最終的に勧告を拒絶・挑発 2

昌幸の返答に激怒。感情的に総攻撃を決定。

9月6日

上田城への総攻撃を命令。別働隊が砥石城(戸石城)を攻撃 5

城下町での誘引策を準備。

「一捻りで落とせる」という確信。

9月7日

【大手門の惨敗】 城下町深くまで攻め入る 5

徳川軍を誘い込み、幸村隊が奇襲。城下町に放火 5

当初の優勢報告が一転、大混乱と敗走の報に茫然。焦燥と屈辱。

9月8日

【砥石城(戸石城)の敗北】 別働隊が砥石城攻略に失敗 5

幸村(信繁)が徳川軍を「散々に打ち破る」 5

正面と側面の同時敗北。戦術的完敗を認識。

9月9日-11日

上田城を包囲するも攻めあぐねる(膠着状態) 5

徹底した籠城戦。徳川軍の疲弊を待つ。

家康本隊との合流の遅れに極度の焦燥。

9月12日頃

上田城攻略を断念。真田信幸らに押さえを命じ 5 、中山道を西へ急行。

勝利(足止め成功)。

屈辱と焦燥の中、悪路を強行軍 5


【8月21日~9月4日】小諸着陣と「侮り」の軍議

慶長5年8月下旬、徳川秀忠は父・家康の命を受け、徳川主力(譜代大名中心)と目される約3万8千の大軍を率いて中山道を進軍していた 3 。9月2日頃、秀忠は信州小諸城(あるいは近隣の海応院 3 )に本陣を設けた。

この時の秀忠は、これが実質的な初陣であり、父・家康や東海道を進む諸将に手柄を見せたいという武功への焦りがあったと推察される。本陣で開かれた軍議の焦点は、眼前の「真田の上田城」をどう扱うかであった。上田城の兵力はわずか2,500 3 。対する秀忠軍は3万8千。兵力差は歴然であった。

秀忠の本来の任務は、上田城を「攻略」することではなく、「迅速に西へ向かい、家康本隊と合流する」ことであった。しかし、父・家康から(東軍についた)真田信幸の兄・昌幸の「討伐」許可を得ていたこと、そして「たかが信濃の小城と見くびった」油断 4 が、この「小城」への固執を招いた。秀忠(あるいは全軍)には、西へ向かう前に、反逆者・真田を軽く一捻りにして武功を立てるという油断があったのである 5

【9月5日~6日】真田昌幸の「挑発」と開戦

9月5日、秀忠はまず昌幸に対し降伏勧告の使者を送る。これに対し、昌幸は稀代の謀将たる所以を見せつける。『改正三河後風土記』 2 など後世の軍記物が伝えるところによれば、昌幸は当初、降伏を匂わせる返答(例:城の清掃をしてお待ちする)を返し、徳川方を油断させた。

そして、徳川方が降伏の受け入れ準備を始めた頃合いを見計らい、「やはり籠城して戦う」と最終的な返答を突きつけた。これは秀忠の面子を徹底的に潰す挑発であった 2 。若き総大将であった秀忠は昌幸の策に乗り、激怒。感情的に上田城への総攻撃を命令する。これが「敗北譚」の序章であった。

【9月7日】大手門の惨敗と「リアルタイムな混乱」

9月7日(6日説もある)、徳川軍本隊による上田城総攻撃が開始された。

諸々の軍記物 5 が描く戦闘状況(その時の状態)は、まさに真田の戦術が冴えわたったものであった。

  1. 誘引(Lure): 真田勢は意図的に城門を開け、徳川勢を城下町深くまで誘い込んだ。徳川軍はこれを「敵が恐れをなして逃げた」と誤認し、大手門まで殺到した 5
  2. 奇襲(Ambush): 徳川勢が大手門付近で混乱し、隊列が伸びきったところを狙い、城内に潜んでいた真田幸村(信繁)率いる精鋭部隊が側面から奇襲をかけた 5
  3. 混乱(Chaos): 同時に、城下町の各所で真田方が仕掛けていた火の手が上がり、徳川軍の退路を塞いだ 5 。前方からは銃撃、側面からは奇襲、後方からは火の手という三方に阻まれ、徳川軍は「逃げ惑う」 5 大混乱に陥った。

この時、秀忠は小諸、あるいは上田近郊に設置された本陣の床几で戦況報告を受けていたと推察される。当初の「大手門一番乗り」「城内突入」といった圧勝の報は、瞬く間に「混乱」「奇襲」「敗走」という絶望的な報告に変わった。総大将である秀忠の目の前で、自軍が崩れていく様を見せつけられ、その心理は焦燥と屈辱に支配されたであろう。

この大手門での敗北は、徳川軍に多大な死傷者を出しただけでなく、秀忠の「総大将」としての権威と、3万8千という大軍の自信を粉砕した。第一次上田合戦に続き、またもや昌幸の戦術に徳川軍が「してやられた」 5 のである。

【9月8日】砥石城(戸石城)での第二の敗北

大手門での惨敗と並行し、あるいはその直後、秀忠軍は上田城の重要な支城である砥石城(戸石城)にも別働隊を差し向けていた 4 。この城は「武田信玄すら歯が立たなかった」 4 とされる要害であった。

この砥石城攻防戦においても、真田軍は徳川軍を完膚なきまでに打ち破った。関連する史料 5 は、この戦いで真田信繁(幸村)が徳川軍を「散々に打ち破った」と記述している。

これにより、秀忠軍は正面(大手門)と側面(砥石城)の両方で同時に敗北を喫した 5 。これは、秀忠の戦術的完敗を意味していた。

【9月9日~12日】膠着、焦燥、そして苦渋の撤退

大手門と砥石城での敗北により、秀忠軍は上田城を攻めあぐね、城を遠巻きに包囲するだけの膠着状態に陥った 5 。結果として、徳川軍は8日間( 3 )という貴重な時間を上田に釘付けにされた。

この間、父・家康の本隊は美濃(岐阜県)に入り、決戦の地・関ヶ原へと駒を進めていた。秀忠の本陣には、家康からの上洛を催促する使者が何度も訪れていた可能性が高い。

秀忠の状態は、想像を絶するものであったろう。目前の「小城」を落とせない軍事的な屈辱と、天下分け目の本戦に遅れるという政治的な焦り( 3 )の板挟みとなった。

9月11日頃、秀忠はついに上田城の攻略を断念する。彼は、兄である真田信幸(東軍)や信州の諸大名に上田城の押さえ(監視)を命じ 5 、自身は本軍を率いて中山道の「険しい山道」 5 を急ぎ西へ向かった。

撤退のタイミングについては、上田の資料館が参照する情報 5 では「関ヶ原の戦いが始まったことを知り、上田から引き上げていった」と示唆されているが、いずれにせよ、秀忠が上田を発った時点で、9月15日の本戦に間に合わせることは物理的に不可能であった。

III. 逸話の核心:『小国ながら恐るべし』発言の徹底分析

では、ご依頼の核心である『小国ながら恐るべし』という発言は、この時系列の中で、いつ、どのようにして発せられたのか。本章では、この逸話の史実性(リアルタイムな会話内容)と、その成立過程を徹底的に考証する。

史料的検証:同時代史料(一次史料)の沈黙

まず結論から述べれば、慶長5年(1600年)当時の書状、日記、あるいは合戦の参加者が残した信頼できる一次史料の中に、徳川秀忠が「小国ながら恐るべし」と「リアルタイムで発言した」という会話内容の記録は、 一切存在しない

例えば、真田信幸(信之)と秀忠の間には、合戦以前の慶長4年(1599年)に書状のやり取りがあり、真田氏が徳川氏へ接近していた様子がうかがえる史料 6 は存在する。しかし、これは合戦前の政治的な動向を示すものであり、第二次上田合戦における秀忠の具体的な述懐を記したものではない。

この事実は、この逸話が「史実(Fact)」としてではなく、「物語(Narrative)」として、後世どのように形成されていったかを検証する必要があることを示している。

発言のタイミングに関する(状況的)考察

仮に、史料には残らなかったものの、秀忠がこの発言(あるいはそれに近い心情の吐露)をしていたとして、それは「いつ」であった可能性が最も高いか。状況的に以下の4つの可能性が考えられる。

  • A案:9月7日(大手門惨敗直後)
    本陣にて、大手門 5 から敗走してくる自軍の惨状の報告を受け、茫然自失となりながら。わずか2,500の兵に3万8千が蹂躙される様に、傍らの本多正信や大久保忠隣ら側近に対し、敵への畏怖を込めて漏らした可能性。
  • B案:9月11日~12日(上田撤退決定時)
    8日間(3)攻め続けても落ちない城を前に、ついに攻略を断念し、全軍に撤退を命じる際の、自嘲と焦燥を込めた発言。「小城」と侮った 4 相手に完敗し、本戦に遅れるという最大の失態を犯すことへの屈辱から発せられた可能性。
  • C案:9月19日以降(関ヶ原遅参後)
    本戦に間に合わず、父・家康から対面謝絶 7 という屈辱を味わった後。「あの時、上田の小城に固執したばかりに...」という強烈な後悔と共に、真田昌幸の恐るべき謀略 2 を再認識した際の発言。
  • D案:後年(将軍就任後)の述懐
    治世が安定した後、側近たちに対し、自身の生涯における最大の失敗談 1 として、上田での手痛い教訓を回想した際の発言。「あの時の真田は、小国であったが実に恐ろしい相手であった」と。

これら全ての状況において、この発言は「ありえた」と感じさせる。それは、この『小国ながら恐るべし』という言葉が、第二次上田合戦という出来事の「本質」を完璧に捉えているからに他ならない。

逸話の出所(Source)と成立過程(Historiography)

この逸話が、同時代の一次史料にないにもかかわらず、なぜ現代にまで「秀忠の発言」として広く知られているのか。それは、江戸時代を通じて「敗北譚」が物語化されていく過程にある。

  1. 事実(Fact): 秀忠は上田で8日間足止めされ 3 、関ヶ原に遅参した 5 。これは動かしようのない史実である。
  2. 物語化(Narrativization): 江戸時代に入り、世情が安定すると、過去の合戦は講談や軍記物語の格好の題材となった。「徳川の失態」と「真田の武勇」という対比は、特に人気の高いテーマであった。
  3. ドラマツルギー(Dramaturgy): 物語には、状況を要約し、登場人物の心情を代弁する「決めゼリフ」が不可欠である。
  4. 創作(Creation): 「3万8千の徳川軍が、わずか2,500の真田勢に翻弄された」 3 という劇的な状況を、敗軍の将・秀忠の口から言わせる最も象徴的な言葉として、『小国ながら恐るべし』という発言が「創作」され、秀忠に「帰属(attribution)」させられたと考えられる。
  5. 史料的背景: この「敗北譚」が定着する上で、新井白石の『 藩翰譜 』や、それを基にした『 改正三河後風土記 2 、あるいは『 武徳編年集成 5 といった江戸中期の軍記物・史書の役割は大きい。特に、秀忠の遅参と家康の激怒、そして榊原康政の「とりなし」の逸話 7 が『藩翰譜』に由来するように、上田での敗北の詳細はこれらの二次史料によって劇的に脚色され、広まっていった。

この逸話の目的は二重である。第一に、真田の武勇(特に昌幸の謀将ぶり 2 )を称賛すること。第二に、徳川史観において、秀忠がこの「手痛い敗北」 1 を教訓として、後に慎重で堅実な第二代将軍へと成長していくための「必要な試練」であった、と位置づける役割を果たしたのである。

IV. 「敗北譚」の結末:関ヶ原遅参と叱責

『小国ながら恐るべし』と嘆息する(あるいは、そう嘆息させられた)秀忠の「敗北譚」は、上田撤退で終わりではなかった。

9月12日頃に上田を発った 5 秀忠軍は、中山道の険路と悪天候(台風)にも阻まれ、絶望的な行軍を続けた。しかし、時既に遅く、9月15日、関ヶ原の本戦は、秀忠の主力を欠いたまま家康(東軍)の勝利で終結した。

秀忠が家康の本陣(大津)に到着したのは、決戦の数日後であった。秀忠の遅参 1 に対し、家康は激怒し、対面を拒否した 7 。これは、徳川家の後継者としてあるまじき失態であり、秀忠にとっては後継者の地位を剥奪されかねない、生涯最大の危機であった。

この時、重臣・榊原康政が秀忠の「とりなし」を行った逸話が、『藩翰譜』や『改正三河後風土記』 7 に記されている。康政は、家康に対し「この勝利は誰のおかげでもなく、家康公の武威によるもの。しかし、将来を担う秀忠公が(上田での)僅かな失敗で対面も許されないのでは、徳川の将来が危ぶまれます」と諫言し、ようやく家康は怒りを解き、対面が許されたという 7

この「叱責」と「とりなし」の逸話 7 こそが、『小国ながら恐るべし』の逸話と対をなす「敗北譚」の結末である。真田に敗れた軍事的大失敗 5 が、徳川家内部の政治的危機(後継者失格の可能性)に直結した瞬間であり、秀忠の生涯における最大の屈辱となった。

V. 結論:逸話として語り継がれる「小国ながら恐るべし」の真意

徳川秀忠の『真田の籠城に足止めされ、「小国ながら恐るべし」と述べたという敗北譚』に関する徹底調査の結果、以下の結論に至る。

  1. 逸話の史実性(リアルタイムな会話内容):
    徳川秀忠が第二次上田合戦の折、あるいはその直後に『小国ながら恐るべし』と「リアルタイムで発言した」ことを直接証明する、慶長5年(1600年)当時の一次史料(書状・日記など)は存在しない。したがって、この発言を史実の「リアルタイムな会話」として特定することは不可能である。
  2. 時系列で見る「その時の状態」:
    しかし、一次史料が存在しないからといって、秀忠がそのような心境に至らなかったわけではない。「その時の状態」を時系列で再構築すると、秀忠は「小城」と侮った 4 真田に対し、9月7日の大手門での奇襲 5、9月8日の砥石城での敗北 5 という局地戦で真田昌幸・幸村の戦術に完敗した。結果、3万8千の大軍がわずか2,500の兵力に8日間も足止めされ 3、関ヶ原の本戦に遅参するという屈辱を味わったことは、動かしようのない事実である。
  3. 逸話の成立と真意:
    『小国ながら恐るべし』という言葉は、この秀忠の「手痛い敗北」 1 と「深い屈辱」 7、そして真田の「恐るべき強さ」を、後世(江戸中期以降)の人々が、軍記物 2 や講談を通じて凝縮し、象徴させた**「文学的・歴史的レトリック」**であると結論づける。
  4. 「敗北譚」の歴史的意義:
    この逸話は、史実の発言録としてではなく、二つの大きな歴史的「物語(ナラティブ)」を形成するために機能している。第一に、真田昌幸の「謀将」としての側面と幸村の武勇を神格化し 5、「真田は徳川を二度(第一次・第二次上田合戦)も破った」という伝説を確立させたこと。第二に、徳川史観において、秀忠がこの「最大の失敗」を乗り越え、慎重で堅実な第二代将軍へと成長するための「必要な試練」であったと位置づける役割を担ったことである。

この逸話は、史実(Fact)そのものではないが、史実の本質を誰よりも雄弁に物語る「真実(Truth)」として、今後も語り継がれていくであろう。

引用文献

  1. 関ヶ原合戦で歴史的な大遅参! 徳川秀忠は本当に「ダメな奴」だったのか? - note https://note.com/takamushi1966/n/na808142a1187
  2. 上田城の戦い ~真田昌幸の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/ueda.html
  3. 関ヶ原の役と上田籠城(第2次上田合戦) https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/090099.html
  4. 小松姫 (上月くるを) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054894432269/episodes/1177354054894432313
  5. 第二次上田攻め https://museum.umic.jp/sanada/sakuhin/uedazeme2.html
  6. NPO長野県図書館等協働機構-信州地域史料アーカイブ:4.地域の記録 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/texthtml/d100040-w000010-100040/w000010-100040/ht096290
  7. 榊原康政、秀忠の遅参には家康にも非があると諫言する(「どうする家康」186) https://wheatbaku.exblog.jp/33155376/
  8. 真田父子犬伏〔いぬぶし〕密談図 | 政治・文化情報2017 https://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress015/%E6%96%87%E5%8C%96%E6%B4%BB%E5%8B%95/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E6%9D%91%E3%83%BB/