最終更新日 2025-10-22

明智光秀
 ~愛宕百韻で胸中隠す用心深さ~

明智光秀は本能寺の変前、愛宕百韻で「ときは今 あめが下しる 五月かな」と詠んだ。これは謀反の決意か、後世の創作か。その真意は歴史の謎として議論される。

明智光秀と愛宕百韻:用心深き武将の胸中に隠された真実の徹底考証

第一章:序章:本能寺への序曲、愛宕山での一日

天正十年(1582年)五月、織田信長による天下統一事業は、まさにその頂点を迎えようとしていた。同年三月には甲斐の武田氏を滅ぼし、東国を完全に平定。残る強敵は西国の毛利、北陸の上杉、四国の長宗我部といった勢力に絞られ、信長の視線は西へと注がれていた。この壮大な事業の最終段階において、織田家中の宿老として重責を担っていたのが、明智光秀その人であった。

この時期、光秀は備中高松城で毛利氏と対峙する羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)への援軍を命じられていた 1 。表向きには、この中国攻めの成功を祈願すること、すなわち「戦勝祈願」が、彼が愛宕山に登った公式な目的であったとされている 3 。しかし、そのわずか数日後、日本の歴史を震撼させる「本能寺の変」が勃発することになる。この事実が、愛宕山での一日の出来事すべてに、深い謎と特別な意味合いを投げかけるのである。

光秀がこの重要な局面で選んだ舞台、愛宕山は、単なる景勝地ではなかった。古来より火伏せの神として庶民の信仰を集めると同時に、その本殿には軍神たる勝軍地蔵が祀られており、武士階級からは戦の守護神として篤い崇敬を受けていた霊山である 5 。さらに、愛宕山は光秀が治める丹波国の亀山城に隣接する地にあり 7 、彼にとっては地政学的にも、また精神的にも極めて重要な拠点であった。光秀自身が愛宕権現を深く信仰していたことは、彼が残した書状からも窺い知ることができる 6

この愛宕山で催された連歌会、後に「愛宕百韻」と呼ばれるようになるこの一会は、したがって、単なる出陣前の儀礼として片付けることはできない。それは、織田家の重臣として対毛利戦の勝利を祈願するという「公」の立場と、主君信長への複雑な感情や、あるいは既に兆していたかもしれない謀反の思案という「私」の葛藤が、聖なる空間で交錯した、極めて象徴的な舞台であった。この日に詠まれた一句一句、そして伝えられる逸話の一つ一つが、光秀の胸中に深く分け入るための貴重な手掛かりとなるのである。

第二章:愛宕百韻、その席の情景と参加者たち

連歌会が催されたのは、愛宕山に点在した五つの僧坊の一つ、威徳院西坊の座敷であった。静寂に包まれた山中の寺院で、これから歴史の奔流の中心に立つことになる人物たちが一堂に会したその場の空気は、穏やかながらも、どこか張り詰めたものであったかもしれない。

連歌という文化の深層

この会で詠まれた連歌は、和歌の上の句(五七五)と下の句(七七)を複数人で交互に詠み継いでいく、室町時代に最盛期を迎えた洗練された文芸である 8 。戦国の武士たちにとって、それは単なる風雅な遊びではなかった。連歌の席で優れた句を詠むことは、高度な古典教養、機知、そしてその場の空気を読むコミュニケーション能力を披露する場であり、武将としての必須のスキルとさえ見なされていた 8 。光秀自身も、この会以前から細川藤孝(幽斎)ら当代一流の文化人と共に連歌会に参加した記録が残っており、彼が優れた教養人であったことは疑いない 3

座を構成した人々

この歴史的な一日に威徳院に集ったのは、光秀を含め九名であったとされる 10 。その顔ぶれは、この連歌会が単なる私的な趣味の会ではなかったことを雄弁に物語っている。

参加者名

肩書/立場

詠んだ句数

役割/備考

明智光秀

主賓、織田家宿老

15句

発句を詠む。会の中心。

里村紹巴

連歌師(宗匠)

18句

当代随一の連歌の専門家。第三句を詠む。

昌叱

里村紹巴門下の連歌師

16句

専門家として句数が多い。

心前

里村紹巴門下の連歌師

15句

専門家として句数が多い。

兼如

猪名代家の連歌師

12句

専門家。

行祐

愛宕西之坊威徳院住職

11句

開催地の主。脇句を詠む。

宥源

愛宕上之坊大善院住職

11句

愛宕山の宗教的権威。

明智光慶

光秀の長子

1句

挙句(結びの句)を詠む。

東行澄

光秀の家臣

1句

光秀の側近。

この参加者リストを仔細に分析すると、三つの明確なグループの存在が浮かび上がる。第一に、光秀とその長子・光慶、家臣の東行澄からなる「明智グループ」。第二に、当代随一の連歌師である里村紹巴とその門弟たちからなる「連歌師プロ集団」。そして第三に、開催地の主である行祐をはじめとする「愛宕山の宗教者」である。

この構成は、極めて意図的なものと考えられる。光秀は主賓としてこの会を主導しており 10 、彼がこれらの人々を招いたことは間違いない。連歌師たちは文化的権威の象徴であり、僧侶たちは神仏からの加護を象徴する。そして、家臣と息子は、彼の決断を実行に移す、あるいは継承する存在である。このことから、この連歌会は、光秀がこれから起こそうとするかもしれない一大事業に対し、文化的、宗教的、そして軍事的な各方面の代表者を「証人」として集め、何らかの意思表示を行うための、高度に演出された舞台であった可能性が示唆される。光秀自身がプロの連歌師に引けを取らない15句もの句を詠んでいる事実は、彼が単なる招待客ではなく、この会を主体的に牽引していたことの何よりの証左である 10

第三章:時系列で辿る連歌会:発句から挙句まで

連歌会は、定められた作法に則り、厳粛かつ静かに進行する。百句(実際には九十九句)に及ぶ言葉の連鎖は、一座の者たちの精神を一つの世界へと誘っていく。ここでは、その流れを時系列に沿って再現し、その場の空気を追体験する。

始まりの一句(発句)

威徳院の座敷に静寂が満ちる中、主賓である明智光秀がゆっくりと口を開く。一座の注目が、ただ一人彼の上に集まる。この会の方向性を決定づける最初の一句、発句が詠み上げられる。

ときは今 あめが下(した)なる 五月かな 9

表向きの意味は、「季節はまさに、五月雨が降りしきる五月であることよ」という、目の前の情景を素直に詠んだ時候の句である 13 。この時点では、まだ誰もその句の裏に隠されたかもしれない意味に気づかず、穏やかな空気が流れていたであろう。

受けの一句(脇句)

光秀の句を受け、次に詠むのは開催地の主、威徳院住職の行祐である。彼は光秀の句の世界観を損なうことなく、巧みに言葉を繋ぐ。

水上(みなかみ)まさる 庭の夏山 3

光秀が詠んだ「雨」を受け、その雨によって川の水量が増し、庭に設えられた築山を流れ落ちる水の音が普段よりも高く響いている、という情景を描写した。これにより、五七五・七七からなる最初の短歌が完成し、連歌の世界が立ち上がる。

展開の一句(第三)

発句、脇句に続く第三句は、一座の中でも特に重要な役割を担う。この句を任されたのは、当代最高の連歌師と謳われた里村紹巴であった。

花落つる 池の流れを せきとめて 13

雨に打たれて散った花びらが、池を流れていくのを堰き止めている。その美しくも儚い情景は、先の句からさらに世界を広げ、深めていく。この最初の三句は「三つ物」と呼ばれ、百韻全体を象徴する特別な句として扱われる 13

百韻の展開と光秀の句

ここから、参加者たちは次々と句を詠み重ねていく。そのすべてを追うことはできないが、光秀が詠んだ他の句にも、彼の教養の深さや、あるいは秘めた心情を窺わせるものがある。例えば、百韻の中盤で詠んだ「 月は秋 秋はもなかの 夜はの月 3 という句は、『拾遺和歌集』にある源順の有名な和歌を踏まえたものであり、彼の高い古典知識を示している。また、「 葛の葉の みだるる露や 玉ならん 15 という句は、葛の葉が裏を見せることから「裏見(うらみ)」、すなわち「恨み」を連想させる掛詞として解釈されることもあり、信長への不満を暗示しているのではないか、という深読みもなされている 16

結びの一句(挙句)

長い言葉の旅路の終わり、締めくくりとなる挙句を詠む大役は、光秀の長子・光慶に与えられた。

国々は なほ長閑(のどか)なる 時 12

戦勝祈願の連歌の結びとして、戦乱が終わり、国々がさらに安寧な時を迎えることを願う、完璧な祝言の句である。しかし、この句が詠まれた数日後に父・光秀が起こす行動を知る後世の我々にとって、この句はあまりにも皮肉な響きを持つ。光慶が夢見た「長閑なる時」は、父の謀反によって永遠に失われることになるのである。

この一連の流れは、表面上は「戦勝祈願」というテーマに沿って完璧に進行している。しかし、その後の歴史というフィルターを通して見ると、句の端々に不穏な緊張感や多義的な解釈の可能性が浮かび上がってくる。愛宕百韻は、詠まれたその瞬間の意味だけでなく、後から振り返ることによって新たな意味が付与される、歴史の重層性を示す典型的な事例と言えよう。

第四章:光秀、発句に込めた真意:歴史的論争の深層

愛宕百韻を歴史的に有名たらしめている最大の要因は、光秀が詠んだ発句「ときは今 あめが下しる 五月かな」が、本能寺の変の決意表明であったとする解釈の存在である。この一句を巡る論争は、四百年以上にわたって歴史家や文学者を惹きつけてきた。

謀反の表明か、時候の句か

この句が謀反の句と解釈される根拠は、巧みに仕組まれた掛詞にある 3

  • とき 」は、光秀の出自とされる「 土岐 」氏を指す。
  • あめが下しる 」は、「雨が下知る」ではなく、「 天が下知る (天下を治める、天下に号令する)」と読む。

この二つの掛詞を組み合わせると、句は「 土岐氏であるこの私が、天下を治める時が来た、この五月に 」という、恐るべき意味に変貌する。もしこの解釈が正しければ、光秀は当代一流の文化人たちを前に、天下取りの野望を堂々と、しかし暗号のように詠み込んだことになる。

「下しる」 対 「下なる」:一文字が歴史を変える

この謀反の句という解釈を巡る最大の論点は、史料によって「あめが 下しる 」と記されるものと、「あめが 下なる 」と記されるものが存在することである 19 。この一文字の違いが、句の意味を根底から覆す。

  • 『惟任退治記』の記述と秀吉の意図
    本能寺の変の直後、勝利者となった羽柴秀吉の命により、御伽衆の大村由己が著した『惟任退治記』には、この句が明確に「天が下しる」と記されている。そして、「いまこれを推量するに、この句がまさしく謀反の兆しであった」と断定している 13。これは、光秀を「かねてから周到に謀反を計画していた大逆人」として描き出し、それを討伐した秀吉の行為を正当化するための、政治的プロパガンダであった可能性が極めて高い 22。秀吉は、自らの天下取りの物語を構築するために、光秀の句を意図的に解釈し、記録したのである。
  • 『信長公記』の記述と史料批判
    一方、信長の家臣であった太田牛一が記した、より一次史料に近いとされる『信長公記』では、事態はさらに複雑である。現存する複数の写本の中には、「下しる」と記すものと「下なる」と記すものが混在しているのだ 1。しかし、中でも信頼性が高いとされる池田家本の本文を詳細に調査すると、「下知る」と書かれた文字を削り、「下なる」に修正した痕跡が確認できるという指摘がある 19。これが事実であれば、太田牛一が最終的に正しいと判断した形は「下なる」であった可能性が高まる。もし「下なる」であれば、句の意味は「雨が降っている」となり、謀反の意味合いは消え失せる。

客観的証拠からのアプローチ

近年の研究では、この論争に新たな光を当てるアプローチが試みられている。それは、連歌会が開催されたとされる日の天候を、同時代の複数の日記から検証する手法である。

『惟任退治記』が開催日とする天正十年五月二十八日の天候を、京都の公家や奈良の僧侶が記した日記で確認すると「晴れ」であった記録が残っている 22。一方で、多くの史料が支持する五月二十四日は「雨」であった 22。

もし連歌会が雨の降る二十四日に行われたのであれば、「あめが下なる(雨が降っている)」と詠むことは極めて自然である。逆に、晴天の二十八日にこの句を詠んだとすれば、それは不自然であり、何らかの別の意図、すなわち「天が下しる」という掛詞を意図した可能性が高まる。この天候記録は、「下なる」説と二十四日開催説の信憑性を大きく補強する客観的証拠と言える。

この「下しる/下なる」論争は、単なる文献学上の問題ではない。それは、本能寺の変の直後から豊臣秀吉によって開始された「明智光秀」という歴史上の人物像をめぐる壮大な情報戦であり、それに対する後世の研究者による「史実」の再検証という、歴史解釈のダイナミズムそのものを映し出している。我々がこの一句と向き合う時、光秀の真意を探ると同時に、秀吉がいかにして歴史を「編集」しようとしたのかという、もう一つの視点を持つことが不可欠なのである。

第五章:逸話の検証:「札順を遅らせた用心深さ」は史実か

さて、本報告の主題である「明智光秀が愛宕百韻の席で自らの札順を遅らせ、胸中を悟らせぬよう座礼を装った」という、彼の用心深さを示すとされる逸話について、その真偽を徹底的に検証する。この逸話は、光秀の人物像を象徴するエピソードとして、しばしば語られてきた。

逸話の核心と史料上の探索

この逸話が描くのは、謀反の句という重大な発句を詠むにあたり、その緊張と決意を周囲に悟られまいとする光秀の、極めて慎重で計算高い姿である。しかし、本調査で参照した『信長公記』や『惟任退治記』といった同時代の史料、あるいは公家や僧侶の日記、さらには後世に成立した江戸時代の軍記物語に至るまで、この「札順を遅らせる」「座礼を装う」といった具体的な所作を記したものは、 一切見出すことができなかった

そもそも連歌の作法として、その会の主賓が最初の一句である発句を詠むことは定められたルールである 13 。光秀はこの会の紛れもない主賓であり、彼が発句を詠むことは最初から決まっていた。したがって、「札順を遅らせる」という行為自体が、連歌会の進行上、不自然であり、考え難い。

逸話の成立過程に関する考察

史料的な根拠が皆無である以上、この逸話は史実ではなく、後世に創作されたものである可能性が極めて高いと結論付けざるを得ない。では、なぜ、そしてどのようにしてこのような物語が生まれたのであろうか。

その背景には、江戸時代以降に形成されていった明智光秀のパブリックイメージが大きく関わっていると考えられる。講談や歌舞伎、読み物などを通じて、光秀は「理知的で教養深いが、陰湿で用心深い策略家」というステレオタイプな人物像として描かれることが多くなった。

「愛宕百韻で謀反の決意を詠んだ」という劇的な解釈が通説として広まる中で、物語の作り手たちは、その決定的な瞬間における光秀の心理的な葛藤や緊張感を、より具体的で視覚的な「所作」として表現する必要に迫られた。彼の内面にあるであろう動揺や覚悟を、観客や読者に分かりやすく伝えるための物語的装置として、「札順を遅らせる」「座礼を装って表情を隠す」といったディテールが創作され、付け加えられていったのではないか。つまり、この逸話は、光秀のキャラクターをより際立たせるために生み出された、「いかにもありそうな」フィクションなのである。

したがって、ユーザーが提示したこの逸話は、史実(Fact)と物語(Fiction)が混じり合う、歴史伝承の典型的な一例と言える。これは、光秀本人の行動を記録した史料としてではなく、「後世の人々が光秀という人物をどのように理解し、どのように物語として消費してきたか」を示す、貴重な伝承として捉えるべきであろう。我々が歴史に触れる際、史実そのものと、それが物語へと昇華される過程とを区別する、歴史リテラシーの重要性をこの逸話は教えてくれる。

第六章:周辺逸話との関連性:三度引かれた御神籤

愛宕百韻の連歌会と密接に関連し、光秀の決断に至る心理状態を解き明かすもう一つの重要な逸話が存在する。それは、連歌会に先立って行われたとされる、御神籤(おみくじ)の物語である。

決断を占う御神籤

『信長公記』などによれば、光秀は連歌会を催す前、愛宕神社の神前にて、これから起こすであろう一大事業、すなわち本能寺襲撃の吉凶を占うために、御神籤を引いたと伝えられている 5 。その結果は、彼の心を大きく揺さぶるものであった。

一度目に引いた籤は「凶」。これに納得できない光秀は、再度籤を引く。しかし、二度目もまた「凶」であった 26 。伝えられるところによれば、その籤には「忠義を尽くしてもその功は現れず、憂い悩む」「頼みとする者に裏切られるであろう」といった、後の光秀の運命を不吉に予言するかのような言葉が記されていたという 26

二度の凶という神意の拒絶に、光秀は深く苦悩したであろう。しかし彼は、なおも諦めなかった。そして、三度目にして、ようやく「吉」の籤を引き当て、ついに決行を決意したとされている 26

逸話が示す心理状態

この逸話の史実性を厳密に問うことは難しいが、それが事実であれ後世の創作であれ、光秀が謀反という大逆に臨むにあたり、いかに深い葛藤と精神的な不安の中にいたかを示唆している。一度ならず三度も引き直すという常軌を逸した行為は、彼の迷いの深さと、自らの決断を正当化してくれる神仏からの後押しを、いかに切実に求めていたかを物語っている。

連歌会との心理的連続性

この御神籤の逸話と、愛宕百韻の連歌会を並べて考察することで、光秀の行動原理の二面性が浮かび上がってくる。御神籤は、人知を超えた運命や神仏の意志に判断を委ねる、信仰と情念の世界の行為である。一方、連歌は、古典教養と知性を駆使して言葉を紡ぐ、論理と文化の世界の行為である。光秀は、本能寺の変という巨大な決断に至る過程で、この両方の世界において、自らの行動の正当性を求めようとした。

御神籤で神意を問い、連歌会で(多義的ながらも)その決意を表明する。この二つの儀式は、光秀にとって、決断を固めるための一連の精神的プロセスであったと捉えることができる。二度の凶という神仏からの「拒絶」を振り切ってまで行動に移したという事実は、彼の動機がもはや引き返すことのできない、強烈な個人的情念に基づいていたことを強く示唆している。論理と信仰の両方で自らを武装し、彼は運命のサイを投げる覚悟を固めたのである。

第七章:結論:愛宕百韻が物語る、明智光秀の胸中

本報告では、明智光秀にまつわる「愛宕百韻」の逸話について、その背景、詳細な経緯、そして歴史的解釈を多角的に掘り下げてきた。この分析を通じて、いくつかの重要な結論が導き出される。

第一に、「愛宕百韻」は、単に光秀が詠んだ発句一句の解釈に留まる問題ではない。それは、本能寺の変直前の緊迫した政治情勢、連歌という武士社会における高度な文化、意図的に選ばれた参加者たちの構成、そして百句にわたる一連の流れ全体を通して、複合的に理解されるべき歴史的事件である。光秀の発句が、謀反の意図を巧妙に隠した暗号であったのか、あるいは信長の下での苦境からの脱却を願う切実な祈りであったのか。その真意は、史料の限界もあり、今なお歴史の謎として我々の前に横たわっている。

第二に、本調査の核心であった「自らの札順を遅らせ、胸中を悟らせぬよう座礼を装った」という具体的な逸話は、同時代の史料には一切その根拠を見出すことができない、後世に創作された物語であると結論付けられる。しかし、これを単なる「偽史」として切り捨てるべきではない。むしろ、この逸話は、明智光秀という複雑な人物像が、後世の人々によってどのように理解され、解釈され、そして物語として語り継がれてきたかを示す、貴重な「伝承」として捉えるべきである。それは、史実そのものではなく、史実が人々の記憶の中で生き続ける過程を我々に教えてくれる。

最後に、この一つの逸話を深掘りする作業は、歴史解釈そのものの複雑性とダイナミズムを浮き彫りにした。勝者である豊臣秀吉が、自らの正当性を確立するために、いかに歴史を「編纂」したか。そして、天候調査のような科学的アプローチを含む後世の研究が、その作られた物語をいかに再検証しうるか。愛宕百韻を巡る論争は、その格好の事例である。

結局のところ、愛宕百韻は、本能寺の変という巨大な謎の中心に立つ、明智光秀という一人の武将の胸中を映す鏡である。と同時に、それは歴史そのものが持つ曖昧さ、多義性、そして解釈の無限の豊かさを我々に示してくれる、一級の歴史的テクストなのである。我々はその言葉の森を彷徨いながら、永遠に答えの出ない問いを、これからも問い続けていくことになるだろう。

引用文献

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  2. 本能寺の変① 明智光秀の謀反 - 城びと https://shirobito.jp/article/1165
  3. 愛宕百韻秘話 https://tourikadan.sakura.ne.jp/tetugaku/tanaka_4_1.html
  4. 明智光秀の「時は今天が下しる五月かな」の真相が明らかに・・・【山椒読書論(488)】 https://enokidoblog.net/sanshou/2014/09/11477
  5. 京都・愛宕山 ~本能寺の変の直前に、明智光秀が連歌を詠んだ山 - 富士が丘ポータルサイト https://sanda-fujigaoka.com/2020/04/30/12133
  6. 明智光秀「本能寺の変」前の行動を分析!謎の菩薩と日本一の大天狗に必勝祈願をしていた? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/109316/
  7. 京都・愛宕山から明智越え[前編] 山と歴史の道 (0003)|10zan - note https://note.com/10zan_info/n/na7abb9178df5
  8. 教養人・光秀と連歌 ~愛宕百韻は本能寺の変の決意表明だったのか? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/836
  9. 連歌の欠落 - 明星大学 人文学部 日本文化学科 https://www.jc.meisei-u.ac.jp/course/105/
  10. 4 『愛宕百韻』 | 逆説の本能寺『変は信長の自作自演であった』魔王信長と救世主イエス、その運命の類似と戦国乱世終結の謎 | 歴史・時代小説 | 小説投稿サイトのアルファポリス https://www.alphapolis.co.jp/novel/677567569/10264506/episode/1842096
  11. 第5回楽学楽座 明智光秀の謎に迫るー愛宕百韻の謎ーレポート - アメブロ https://ameblo.jp/oda-sha/entry-12294485967.html
  12. Q.愛宕百韻とは何ですか? | 一般社団法人 明智継承会 https://akechikai.or.jp/archives/mitsuhide-qa/57860
  13. 第122話 愛宕百韻 連歌会のルールと作られた記録 https://akechikai.or.jp/archives/oshiete/60671
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  26. Teishoin's Digital Photo Log: 明智光秀とおみくじ - 貞昌院 https://teishoin.net/blog/003164.html
  27. 【京都秘境】本能寺の変・明智光秀伝説おみくじ 愛宕山登山途中に訪れたい古刹「月輪寺」 https://kyotopi.jp/articles/RrblE