最終更新日 2025-10-31

明智光秀
 ~討死後農民に転生光秀生存説譚~

明智光秀の「農民転生」生存説は史実ではないが、彼の悲劇的な最期への民衆の心情、史実の曖昧さ、そして地域の人々の郷土愛が融合し、生まれた物語である。

明智光秀、農民「荒深小五郎」転生譚:岐阜県山県市に伝わる生存説の深層

序章:小栗栖の竹藪、二つの運命

天正十年(1582年)六月、主君織田信長を本能寺にて討ち、天下にその名を刻んだ武将、明智光秀。しかし、その栄華は束の間のものであった。同年六月十三日、山崎の合戦において羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の軍勢に大敗を喫した光秀は、本拠である近江坂本城を目指し、僅かな供回りと共に落ち延びていく。

通説として語られる歴史の終着点は、京都・山科小栗栖(おぐりす)の竹藪である。ここで光秀は、落ち武者狩りをしていた農民の竹槍に脇腹を貫かれ、致命傷を負ったとされる。自らの最期を悟った光秀は、その場で自刃し、55年の生涯に幕を下ろした。信長を討ってからわずか十数日。そのあまりに短い治世は、後世「三日天下」と称されることになる。

しかし、この公式の記録には、いくつかの不可解な点が付きまとう。なぜ歴戦の将である光秀が、農民の不意打ちを察知できなかったのか。屈強な武者を護衛につけながら、なぜ光秀ただ一人が狙われたのか。そして、鎧の上からの一撃が、果たして致命傷となり得るのか。こうした疑問に加え、光秀の首がはっきりと確認されたという同時代の信頼できる文献資料が存在しないという歴史の空白は、後世の人々の想像力を掻き立てるに十分であった。

英雄の呆気ない最期を惜しむ民衆の心情、そして歴史の行間に存在する「余白」。これらが交錯する中で、数多の生存説が芽生えていく。徳川家康の側近となった南光坊天海こそが光秀であったという壮大な説もその一つである。だが、本報告書が光を当てるのは、それらとは一線を画す、より人間的で、土の匂いがする一つの物語である。それは、岐阜県山県市に今なお色濃く語り継がれる、『討死後、農民に転生して生きた』という伝承に他ならない。

この伝承は、光秀が「荒深小五郎(あらふかこごろう)」という一介の農民として第二の人生を送り、関ヶ原の合戦に向かう道中でその生涯を終えたと語る。それは、歴史の敗者が辿ったもう一つの運命の物語である。本章の冒頭で、通説とこの山県市伝承の核心的な違いを以下の表に示し、これから紐解いていく物語の全体像を明らかにする。

【通説と山県市伝承の比較】

項目

通説(一般的に知られる歴史)

岐阜県山県市に伝わる伝承

山崎合戦後の状況

敗走し、坂本城を目指す

敗走し、影武者を立てて美濃を目指す

最期の場所

京都・小栗栖の竹藪

岐阜・藪川(根尾川)の河中

死因

落ち武者狩りの農民に竹槍で刺され自刃

関ヶ原へ向かう道中、洪水に遭い溺死

没年

天正10年(1582年)

慶長5年(1600年)

享年

55歳(諸説あり)

75歳(伝承による)

その後の名

なし(明智光秀として死す)

荒深小五郎

墓所

不明確(各地に供養塔)

桔梗塚(岐阜県山県市)

この表が示すように、山県市の伝承は、光秀の死の状況、時期、そしてその後のアイデンティティに至るまで、通説とは全く異なる物語を紡ぎ出している。小栗栖の竹藪で絶たれたはずの運命は、この伝承の中で、さらに18年もの歳月を生き続けるのである。

第一章:敗走の果て、影武者の覚悟

山崎の合戦:天王山での潰走

天正十年六月十三日、午後四時。天王山(現在の京都府大山崎町)の麓では、降りしきる雨が戦場の喧騒を濡らしていた。備中高松城から驚異的な速さで引き返してきた羽柴秀吉の軍勢は四万余り。対する明智光秀の軍勢は一万数千。兵力差は歴然としていた 1

戦端が開かれると、勝敗は瞬く間に決した。光秀軍の主力であった斎藤利三隊が崩れると、戦局は一気に秀吉方へ傾く。わずか一刻半(約三時間)ほどの激戦の末、明智軍は総崩れとなった。光秀は、かつて自らが築いた勝龍寺城へと辛うじて逃げ込むが、そこもまた安住の地ではなかった。秀吉の大軍に包囲されるのは時間の問題であった。夜の闇が深まるのを待ち、光秀は少数の近臣と共に城を脱出し、最後の望みを託して本拠・近江坂本城への逃避行を開始した。

忠臣の進言:荒木山城守行信

しかし、その道はすでに秀吉の手によって固められつつあり、絶望的な状況に変わりはなかった。敗戦の色が濃くなる中、一人の武将が光秀の前に進み出たと、山県市の伝承は語る。その名は、荒木山城守行信(あらきやましろのかみゆきのぶ) 1

伝承によれば、この行信という人物は、かつて光秀が丹波攻略の際に滅ぼした八上城主・波多野氏の重臣であったという。旧主の仇であるはずの光秀に仕え、今またその命を救わんとする。この設定自体が、光秀が単なる「主君殺しの逆臣」ではなく、敵であった者さえも心服させるほどの徳を備えた将であったことを物語るための、重要な仕掛けとなっている。

行信は、馬上にあって疲労困憊の光秀に、決死の覚悟でこう進言したと伝えられる。

「御館様、もはやこれまでと存じます。なにとぞ、某に御館様の甲冑をお貸しくだされ。この行信、明智日向守光秀の影武者となり、敵を引きつけ、潔く討ち死に仕る所存。その間に御館様は、生まれ故郷の美濃へとお逃れください」1。

この申し出は、単なる作戦ではない。自らの命を主君の未来に捧げるという、武士の忠義の極致であった。

苦渋の決断と今生の別れ

光秀は当初、その申し出を峻拒したという。主君が生き延びるために家臣を身代わりに死なせるなど、武士の道に悖る、と。しかし、行信は重ねて説得する。「御館様こそが明智家の、そして美濃源氏土岐氏の血を引く最後の希望。御身がここで絶えることは、一門の終わりを意味します。どうか、我らの未来のために生き延びてくだされ」 1

行信の鬼気迫る覚悟と、一族の未来を思う言葉に、光秀はついに首を縦に振らざるを得なかった。彼は自らの甲冑を脱ぎ、愛馬と共に行信に託す。これが、歴史の表舞台における武将・明智光秀の最後の姿となった 1

光秀一行と別れた荒木行信は、主君の甲冑を身にまとい、あたかも光秀本人であるかのように振る舞いながら敵中へと向かった。そして、追手の目を引きつけた末、小栗栖の竹藪で壮絶な最期を遂げる。世に「明智光秀、討ち取られる」との報が駆け巡り、彼の「三日天下」は公式に終わりを告げた 1 。しかしその裏では、一人の忠臣の犠牲によって、光秀の命は密かに未来へと繋がれていたのである。この荒木山城守行信という人物は、残念ながら史料上でその実在を確認することはできない。しかし、彼の存在こそが、この壮大な生存譚を成立させるための、不可欠な礎となっているのである。

第二章:荒深小五郎、美濃の地に立つ

故郷への道:美濃国中洞

忠臣・荒木行信の犠牲を背に、光秀は追手の目を逃れ、一路東を目指した。その目的地は、栄華を極めた坂本城ではなく、自らの原点ともいえる地、美濃国武儀郡中洞村(現在の岐阜県山県市中洞)であった 1

この地が選ばれたのは、単に山深く、身を隠すのに適していたからだけではない。山県市の伝承において、中洞は光秀の生誕の地とされているからである。伝承によれば、光秀は美濃源氏の名門・土岐氏の血を引く土岐元頼の子としてこの地で生を受け、幼名を十兵衛といった。彼の母が懐妊中に「たとえ三日でも天下を取るような立派な男子を授けてください」と祈りを捧げたという「行徳岩」や、彼が生まれた際に産湯を汲んだとされる「産湯の井戸」が、今もなお地域に残り、光秀とこの地の深い結びつきを物語っている。

この物語は、光秀を単なる戦国武将としてではなく、地域の誇りである名門・土岐氏の末裔として位置づけている。斎藤道三や織田信長によってその地位を追われた土岐氏の血を引く光秀が、天下を揺るがすほどの栄達と、それに続く劇的な没落の果てに、再びそのルーツである故郷の土を踏む。これは、失われた名家の栄光を偲び、地域の歴史的正統性を再確認する物語でもあるのだ。

名の創造:荒深小五郎の誕生

故郷にたどり着いた光秀は、過去との決別と、未来を生きるための新たな儀式を執り行う。それは、自らの名を捨てることであった。彼の脳裏には、自らの身代わりとなって散った忠臣・荒木行信の姿が焼き付いていた。その忠義に報い、その名を永遠に留めるため、光秀は新しい姓名を自ら創り出した。

荒木行信の姓である「荒」の一字。

そして、その計り知れない恩義の「深」さ。

この二文字を合わせ、「荒深(あらふか)」という姓を名乗ることにした 2 。そして名は「小五郎」と改めた。この瞬間、明智日向守光秀という天下に轟いた名は歴史の闇に葬られ、一介の農民「荒深小五郎」がこの世に生を受けたのである 1 。これは、単なる偽名ではない。過去の犠牲の上に成り立つ新しい生への誓いであり、武将としての「死」と、人間としての「再生」を象徴する、極めて重要な行為であった。

潜伏の日々:土と共に生きる

こうして荒深小五郎となった光秀は、山深い中洞の地で、完全に世俗との関わりを断った。かつて天下の差配を夢見たその手で、刀ではなく鍬を握り、土を耕し、静かに日々を送ったと伝えられる。

この伝承における約18年間の潜伏生活は、まさしく「農民に転生して生きた」という逸話の核心部分である。具体的な生活の様子を伝える資料はないが、物語の骨子から、彼がかつての栄光も野心も全て胸の内に秘め、ただひたすらに時の流れに身を任せていたであろうことがうかがえる。それは、天下人からの逃避であると同時に、全てのしがらみから解放され、人間本来の営みに立ち返るための時間であったのかもしれない。この静謐な期間こそが、物語に深い奥行きと人間的な温かみを与えているのである。

第三章:天下分け目の烽火、そして無情の濁流

再起の時:関ヶ原への道

荒深小五郎としての静かな生活が18年の歳月を重ねた慶長五年(1600年)。光秀の齢が75を数えようとしていた頃、山深い美濃の里にも、天下の情勢を揺るがす大きな報せが届いた 1 。徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が、美濃国関ヶ原で天下分け目の決戦に臨もうとしている、と。

この報に、小五郎の内に眠っていた武士の魂が再び燃え上がった。彼は、徳川家康に味方するため、再び歴史の表舞台に立つことを決意する 1 。家康とは旧知の間柄であり、その天下取りに助力することで、かつて自らが果たせなかった泰平の世の実現を託そうとしたのかもしれない。小五郎は村人たちと共に軍備を整え、一人の老武者として、決戦の地・関ヶ原に向けて出陣した 1 。それは、天下への再挑戦という野心からではなく、最後の奉公という純粋な動機によるものであったと、伝承は示唆している。

悲劇の終幕:藪川の洪水

しかし、運命は皮肉であった。荒深小五郎こと明智光秀の最後の戦場は、関ヶ原の野ではなかった。関ヶ原の合戦前夜、この地域は激しい大雨に見舞われたことが史実としても知られている。伝承はこの史実を巧みに取り入れ、物語に悲劇的なリアリティを与えている。

関ヶ原へ向かう道中、小五郎一行は増水した藪川(やぶかわ、現在の根尾川)の渡河を試みた。折からの豪雨で川は濁流と化しており、渡るのは危険極まりない状況であった。老いた小五郎は、馬を駆って激流に乗り入れるが、凄まじい水の勢いに抗うことはできなかった。人馬もろとも濁流に飲み込まれ、彼の姿はあっという間に見えなくなったという。

天下の行方を見届けることも、旧知の家康に再会することも、そして再び戦場で采配を振るうこともなく、明智光秀の75年の生涯は、戦乱ではなく、自然の猛威の前にあまりにもあっけなく幕を閉じた 1 。戦場で華々しく散るのでもなく、畳の上で大往生するのでもない、「事故死」というこの結末は、英雄譚としては異例である。しかし、18年間を生き延び、ついに再起せんとした瞬間に天災によって命を落とすという運命の非情さは、この物語に深い悲哀と、それ故の強い説得力を与えている。それは、人の意志だけではどうにもならない、戦国の世の無常そのものを象徴する最期であった。

第四章:桔梗塚に宿る魂と、四百年の祈り

桔梗塚の建立

主君のあまりに悲劇的な最期を知った従者たちは、深い悲しみに包まれた。彼らは小五郎(光秀)の遺品を故郷の中洞村に持ち帰り、その魂を弔うために丁重に葬った 1 。そして、その地に墓を築いた。

その墓は、明智家の家紋であり、光秀の出自である美濃源氏土岐氏の象徴でもある桔梗紋にちなんで、「桔梗塚(ききょうづか)」と名付けられた 1 。現在、桔梗塚は中洞の白山神社に隣接する静かな林の中にあり、五輪塔と宝篋印塔が、訪れる人々に四百年の時の流れを静かに語りかけている。この塚は、単なる墓標ではない。歴史の敗者として非業の死を遂げたとされる光秀に、安らかな眠りの地を与えたいという、地域の人々の温かい願いが込められた場所なのである。

荒深一族による継承

この伝承が単なる昔話で終わらない、最も注目すべき理由がここにある。光秀が自らの再生の証として名乗った「荒深」という姓は、現代に至るまで、この山県市中洞地区に暮らす二十数名の人々によって、確かに受け継がれているのである。

この荒深氏一族によって、桔梗塚は光秀の死後400年以上にわたり、一度も途絶えることなく大切に守り続けられてきた。そして、年に二回(4月と12月、あるいは2月)、一族の手によって供養祭が執り行われ、光秀の魂を慰め続けている。この事実は、この物語が個人の創作や単なる噂話の域を超え、地域共同体のアイデンティティと深く結びついた「共同幻想」へと昇華していることを示している。荒深姓を名乗る人々にとって、この伝承は自らの出自を説明する根幹の物語であり、信じる者たちの間では真実として生き続けている。桔梗塚という「物」と、荒深一族という「人」、そして供養祭という「行為」が三位一体となり、物語に強力な説得力と永続性を与えているのだ。

地域に根差す記憶の装置

桔梗塚の周辺には、この伝承を補強するかのような「記憶の装置」が点在している。光秀の母が産湯の水を汲んだとされる「産湯の井戸跡」、母が子の将来を祈った「行徳岩」、そして光秀の位牌が祀られている阿弥陀堂。これらの史跡は、地域住民にとっては自らのルーツを再確認する誇りの場であり、この地を訪れる者にとっては、伝承の世界に没入するための重要な道標となっている。これら一連の伝承と史跡、そして儀礼は、歴史学的な真偽とは別の次元で、地域の結束を高め、世代を超えてアイデンティティを継承していくための、極めて価値の高い無形・有形の文化遺産であると言えよう。

終章:歴史の余白に咲く物語

本報告書で詳述してきた明智光秀の「農民転生譚」、すなわち荒深小五郎としての生涯は、専門的な歴史学の観点から見れば、残念ながら一次史料による裏付けがなく、史実として認定することは極めて困難である。物語の鍵を握る影武者・荒木山城守行信もまた、その実在は確認されていない。

ではなぜ、これほどまでに具体的で、人々の心を捉え、四百年以上もの長きにわたって愛される物語が生まれたのであろうか。その背景には、本報告書で分析してきた複数の要因が複雑に絡み合っている。

第一に、通説における光秀の最期があまりに呆気なく、非英雄的であったことへの不満と、悲劇の武将に生きていてほしいと願う民衆の判官贔屓の情がある。第二に、光秀の首が確認されていないという史実の曖昧さが、物語が自由に花開くための「余白」を提供した。第三に、光秀を単なる「逆臣」としてではなく、旧敵の家臣さえも心服させるほどの仁徳ある名君として、その名誉を回復したいという人々の願望があった。そして何よりも、美濃の名門・土岐氏の血を引く光秀を「郷土の英雄」として位置づけ、地域の歴史に輝きと誇りを与えたいという、山県市の人々の強い郷土愛が存在した。

明智光秀の生存説には、徳川家康の側近「南光坊天海」と同一人物であるとする、より壮大で政治的な陰謀論も根強く存在する。しかし、この「荒深小五郎」伝承は、それとは全く趣を異にする。権力闘争の中心から離れ、土と共に生き、最後は不運な天災によってその生涯を閉じるという、極めて人間的な物語である。これは、中央の政治史とは異なる、地方の、そして民衆の視点から生まれた「もう一つの歴史」と言えるだろう。

この物語の真価は、それが史実であるか否かという一点に集約されるものではない。歴史の敗者とされた人物に寄り添い、その人間的な苦悩や再生を描き出し、地域の誇りとして大切に語り継いできた人々の心の軌跡そのものに、計り知れない価値がある。それは、歴史の冷徹な事実だけでは決して掬い取ることのできない、豊かで温かい「記憶の遺産」なのである。桔梗塚に咲く桔梗の花のように、この物語はこれからも歴史の余白で、静かに、しかし凛として咲き続けるに違いない。

引用文献

  1. 山崎の戦いで死去したのは影武者!? 明智光秀生存伝説の謎を追う ... https://serai.jp/hobby/1017798
  2. 桔梗塚・行徳岩・産湯の井戸跡 | はじめての山県市めぐり https://www.kankou-gifuyamagata.jp/article/deatils/kikyoutuka