最終更新日 2025-10-23

明智光秀
 ~農民に討たれ是非に及ばずと笑む~

明智光秀の「農民に討たれ是非に及ばず」逸話は創作。山崎敗走後、小栗栖で飯田一党に襲撃され致命傷を負い、辞世の句を詠み自刃。武士の理想像が伝説を生んだ。

明智光秀の最期に関する逸話の徹底検証:「農民に討たれ是非に及ばずと笑む」説の解体と再構築

序章:流布する逸話 ― 死の諦観譚の輪郭と解体

「敗走中、農民に竹槍で討たれたが『是非に及ばず』と笑んだ」― 明智光秀の最期として語られるこの逸話は、主君殺しの汚名を着た武将が、自らの運命を静かに受け入れたかのような、一種の諦観に満ちた美学を感じさせる。しかし、この簡潔ながらも劇的な物語は、歴史的事実をどの程度反映しているのだろうか。

本報告書は、この広く知られた逸話を「襲撃者」「凶器」「最期の言葉」「表情」「直接死因」という五つの構成要素に分解し、それぞれの真偽を徹底的に検証する。その過程において、『信長公記』のような同時代に近い史料、後世に編纂された軍記物、事件現場である小栗栖(おぐるす)の地に残る在地伝承、そして戦国時代という特異な時代の社会通念といった、多角的かつ重層的な視点から分析を進める。通説という名の霞を払い、史料の断片を丹念に繋ぎ合わせることで、明智光秀の最後の瞬間の歴史的実像を再構築することを目的とする。

第一部:敗走 ― 天正十年六月十三日、天下人の終わり

光秀が死の舞台である小栗栖に至るまでの道のりは、栄光の頂点からの急転直下であった。本能寺の変からわずか11日後、彼の運命は山崎の地で尽きようとしていた。この部では、その絶望的な状況を時系列に沿って再現し、光秀が置かれた物理的・心理的状況を明らかにする。

第一章:山崎からの潰走

天正十年(1582年)六月十三日、山崎の地で繰り広げられた羽柴秀吉との決戦は、光秀の運命を決定づけた。戦いは夕刻に始まり、わずか一刻半(約三時間)ほどで明智軍の総崩れという形で決着した 1 。中国大返しという驚異的な速度で帰還した秀吉軍の圧倒的な兵力と士気の前に、光秀の描いた天下統一の夢は脆くも崩れ去った。「三日天下」という言葉が象徴するように、彼の栄華はあまりにも短かった。

戦場から離脱した光秀は、敗残兵を率いて一時的に勝龍寺城へと逃げ込んだ 1 。しかし、この城は小規模な平城に過ぎず、秀吉の大軍を前にしては、もはや籠城戦を選択できる状況にはなかった 1 。城内には絶望的な空気が漂っていたであろう。

この窮地において、光秀は最後の決断を下す。夜が更けるのを待ち、家臣の中でも特に信頼の厚い溝尾庄兵衛(みぞおしょうべえ)ら、わずか十数騎の近臣と共に城を脱出。本拠地であり、妻子が待つ近江坂本城を目指すという、一縷の望みに賭けた逃避行であった 1 。この計画的な夜間脱出という行動は、完全な混乱状態に陥っていたわけではなく、光秀が最後まで理知的な武将として次善の策を講じようとしていたことを示唆している。彼の目指す先が、戦略的拠点であると同時に家族の待つ場所であったことは、この最後の旅路に個人的な悲壮感を色濃く添えている。

第二章:闇中の逃避行

勝龍寺城を抜け出した一行が選んだのは、山科盆地を抜け、小栗栖を経由して近江へ至る道であった 3 。この経路は、夜間の移動において追手の目を逃れやすい山間の隘路(あいろ)を含んでおり、一刻も早く坂本城へたどり着きたい光秀一行にとっては、危険を冒してでも進むべき最短ルートの一つであった。

折しも、空からは小雨が降りしきっていたと伝わる 5 。闇と雨が追跡を困難にする一方で、一行の体力と気力を容赦なく削っていく。疲労困憊し、秀吉軍の追手の影に怯えながら、彼らは馬を駆った。伝承によれば、一行は狭い山道で発見を避けるため、縦一列の隊列を組んで進んでいたという 5 。この隊列こそが、後に光秀一人のみを正確に狙うことを可能にし、彼の運命を決定づける悲劇の伏線となるのであった。

第二部:襲撃 ― 小栗栖の悲劇

光秀の逃避行は、小栗栖の地で突如として終わりを告げる。逸話の核心である「襲撃」の瞬間、その舞台となった場所、そして最大の謎である「襲撃者の正体」について、本章では対立する二つの主要な説を徹底的に比較検討し、より信憑性の高いシナリオを提示する。

第一章:運命の竹藪「明智藪」

襲撃の現場とされるのは、現在の京都市伏見区小栗栖に位置する「明智藪」と呼ばれる竹藪である 6 。この場所は、丘陵の襞(ひだ)に沿った狭い街道に面しており、鬱蒼と茂る竹林が見通しを悪くしていた 2 。身を隠す場所には事欠かず、少人数で大軍を奇襲することも可能なこの地形は、まさに待ち伏せ攻撃に最適の場所であった。天正十年六月十三日の深夜、丑の刻(午前二時頃) 2 、光秀一行がこの闇の隘路に足を踏み入れた瞬間、運命の時は満ちた。

複数の記録や伝承が一致して語るのは、一行が縦列で進んでいたところ、突如として竹藪の暗がりから突き出された一本の槍が、光秀の体を深々と貫いたという状況である 2 。この不意の一撃が、彼にとっての致命傷となった。

第二章:襲撃者の実像 ― 百姓か、武士か

光秀に最期の一撃を与えたのは誰だったのか。この点については、大きく分けて二つの説が存在し、長らく議論の対象となってきた。

【説A】農民による「落ち武者狩り」説

当時、合戦の敗残兵を襲撃し、その武具や金品を奪う「落ち武者狩り」は、戦乱の世において広く行われた社会慣行であった 9 。敗者は共同体の法秩序から外れた「法の外の人」と見なされ、その殺害や略奪は半ば公然と許容されていた 10 。農民にとって、落ち武者の高価な甲冑や刀剣は、困窮した生活を支えるための貴重な収入源であり、時には勝利した側の武将から懸賞金がかけられることさえあった 11

また、当時の農民は決して無力な存在ではなかった。地域の自衛組織である惣村(そうそん)の力が強く、中には「大人百姓(おとなびゃくしょう)」のように武装し、足軽として合戦に参加する者もいた 12 。彼らは地の利を熟知しており、組織的に行動するため、疲弊しきった落ち武者にとっては計り知れない脅威であった 11 。イエズス会宣教師ルイス・フロイスも、日本中で落ち武者狩りが横行していると記録している 10 。この観点に立てば、天下人から一転して最高級の「落ち武者」となった光秀が、格好の標的とされたことは想像に難くない。

【説B】飯田一党による「武士団の復讐」説

一方で、襲撃現場である小栗栖の地元には、より具体的で有力な伝承が残されている。それは、襲撃者は単なる農民ではなく、織田信長の近臣であった在地土豪・飯田(いいだ)一党の武士集団だったという説である 2

この説における彼らの動機は、金品目的の略奪ではなく、本能寺の変で主君・信長を討たれたことへの「仇討ち」であったとされる 13 。一族の飯田佐吉右衛門という人物が、信長に殉じて追腹を切ったという、動機の信憑性を高める具体的な話も伝わっている 13

この説を強力に裏付けるのが、地理的な証拠である。襲撃現場とされる「明智藪」のすぐ近くには、飯田氏の居城であった小栗栖城の跡が存在しているのだ 3 。光秀は、それを知ってか知らずか、信長の忠臣が治める本拠地の目と鼻の先に、自ら足を踏み入れてしまった可能性が極めて高い。

統合的解釈:武士団が主導した計画的襲撃

「農民説」と「武士団説」は、一見すると対立するように思えるが、必ずしも排他的なものではない。むしろ、両者を統合することで、より蓋然性の高い歴史像が浮かび上がる。すなわち、「 信長への復讐に燃える飯田一党が指導者となり、落ち武者狩りを目的とする在地の武装農民を組織・動員して、光秀を計画的に襲撃した 」というシナリオである。

『明智軍記』などの記述では、他の家臣ではなく光秀のみがピンポイントで狙われたかのような印象を受ける 8 。これは、金品を目的とする無差別な落ち武者狩りとは様相が異なる。もし無差別であれば、他の家臣も同様に激しい攻撃を受けたはずである。「飯田一党説」は、この「標的の明確さ」と「復讐」という動機を合理的に説明する。そして、その実行部隊として、地の利に明るい地域の農民を動員したと考えるのは、当時の土豪の行動として極めて自然である。飯田一党が「主君の仇である光秀が近くを通過する」という情報を掴み、報奨などを約束して地域の農民を動員し、待ち伏せを実行した。この統合的解釈によって、「武士の計画性」と「農民の実行力」という二つの要素が矛盾なく結びつき、小栗栖の悲劇の解像度は飛躍的に高まるのである。

第三部:最期 ― 逸話と史実の乖離

逸話の核心である「是非に及ばず」という言葉と「笑む」という表情は、果たして史実なのだろうか。本章では、これらの要素の史料的根拠を徹底的に検証し、物語として流布した逸話と、軍記物などが伝える「記録された最期」との間に存在する大きな隔たりを明らかにする。

第一章:「是非に及ばず」の源流

結論から言えば、明智光秀が最期に「是非に及ばず」と述べたことを記す、同時代の信頼できる史料は存在しない。この言葉の直接的な出典は、織田信長の家臣であった太田牛一が著した『信長公記』である。しかし、そこでこの言葉を発したのは光秀ではなく、本能寺で謀反を知った 織田信長 であった 18

「是非に及ばず」という言葉は、「もはや議論している場合ではない(戦うのみだ)」「仕方がない(諦観)」「善悪を論じるまでもない」など、文脈によって多様な解釈が可能な、含蓄の深い言葉である 21 。信長の言葉が、なぜ光秀の最期として語られるようになったのか。これは、後世の講談や読本といった創作物が、謀反人とその主君の最期に劇的な対比と皮肉な共通点を持たせるため、この印象的な言葉を意図的に光秀に「移植」した可能性が極めて高い。主君が発した運命を受け入れる言葉を、その主君を討った張本人が自らの最期に口にするという構図は、物語として非常に優れた効果を持つからである。

逸話と史料上の記述の乖離を明確にするため、以下の表にその比較を示す。

逸話の要素

① 通俗的逸話

②『信長公記』(参考:信長の最期)

③『明智軍記』等の軍記物

④ 在地伝承(飯田一党説)

⑤ 史料上の確実性

襲撃者

農民

郷人ども(詳細不明)

飯田一党(武士集団)

不明(説が対立)

凶器

竹槍

鑓(やり)

竹槍

槍状の武器

最期の言葉

「是非に及ばず」

「是非に及ばず」(信長の発言)

辞世の句を渡すのみ

光秀の発言としては記録なし

表情

笑む

記録なし

記録なし

直接死因

槍による刺殺

切腹(諸説あり)

自刃(介錯あり)

致命傷を負った後の自刃

第二章:武士の死生観と「笑み」の不在

光秀が最期に「笑んだ」という記述もまた、信頼できる史料には一切見当たらない。これも後世に付加された創作である可能性が極めて高い。では、なぜ「笑み」という要素が加えられたのか。それは、武士道における理想の死生観の投影と考えられる。

武士道では、死を目前にしても動じず、自らの運命を潔く受け入れることが美徳とされた 24 。『葉隠』に「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」とあるように、常に死を覚悟して生きることで、かえって生が輝くという思想があった 26 。この「潔い最期」という理想像を具現化する象徴的な表現として、「笑み」が用いられたのである。それは歴史的事実ではなく、後世の人々が武士の最期に求めた文化的理想像の表出であった。

第三章:記録された最後の刻

逸話が描く諦観の笑みとは裏腹に、『明智軍記』などが伝える光秀の最期は、より壮絶で、武士としての儀式に則ったものであった。

槍で脇腹を貫かれた光秀は、しかし即死はしなかった。彼はなおも馬を駆り、三百メートルほど進んだところで、ついに力尽きて落馬したとされる 2 。もはやこれまでと自らの死を悟った光秀は、傍らにいた家臣・溝尾庄兵衛に対し、静かにこう告げたという。「傷は深い。坂本までは無理だ。ここで自害する」 2

そして、鎧の間から一紙を取り出し、庄兵衛に手渡した。そこには、辞世の句が記されていた。

順逆二門無く、大道心源に徹す。

五十五年の夢、覚め来って一元に帰す。

この句には、仏教、特に禅宗の影響が色濃く見られる 27 。正道に従うことも逆らうことも、本質的には二つの門があるわけではなく、全ては大いなる道へと通じている。五十五年の人生は夢のようなものであり、その夢から覚めれば、すべては根源たる一つ(一元)に帰るだけだ、という深い死生観が込められている。これは、逸話の「是非に及ばず」という言葉よりも、はるかに光秀自身の教養と精神性を示すものと言えよう。

辞世を託した後、光秀は覚悟を決め、腹を一文字にかき切った。それを見届けた溝尾庄兵衛が、主君の苦しみを終わらせるべく、ただちに介錯したと伝えられる 2 。これは、農民に一方的に殺害されるという逸話とは全く異なる、自らの意志によって名誉を保つ、武士としての最期の儀式であった。

介錯の後、庄兵衛は光秀の首を布に包み、菩提寺である妙心寺に届けようとした。しかし、すでに周囲には敵兵が満ちており、やむなく近くの山中に主君の首を埋めると、自らもその場で自刃して後を追ったという 2 。主従の最後の絆は、悲劇的な結末をもって締めくくられたのである。

結論:再構築される明智光秀の最期

本報告書における徹底的な調査の結果、「農民に討たれ是非に及ばずと笑む」という明智光秀の最期に関する逸話は、史実とは大きく異なる、後世に形成された文化的産物であることが明らかになった。この逸話は、以下の三つの要素が複合的に絡み合って成立したと考えられる。

  1. 言葉の誤伝・転用 :『信長公記』に記された主君・織田信長の最期の言葉「是非に及ばず」が、劇的効果のために光秀の最期に転用された。
  2. 理想像の投影 :死に際に「笑む」という表情は、史料的根拠がなく、武士道における「潔い最期」という理想像を投影した創作である。
  3. 史実の単純化 :武士団が関与した可能性のある計画的襲撃と、その後の自刃という複雑な経緯が、「農民による一方的な刺殺」という単純な物語へと変容した。

これらの分析を踏まえ、史料と在地伝承を統合的に解釈した結果、現時点で最も確度が高いと考えられる明智光秀の最期の実像は、次のように再構築される。

「山崎の合戦に敗れ、本拠地・坂本城へ敗走する途中、天正十年六月十三日の深夜、小栗栖の竹藪において、主君・信長の仇討ちに燃える在地土豪・飯田一党に率いられた地域住民の集団による計画的な待ち伏せに遭い、槍で脇腹に致命傷を負った。その後、自らの死を悟り、近臣・溝尾庄兵衛に辞世の句を託した後、彼の介錯によって自刃し、武士としての名誉ある最期を遂げた」

一つの逸話を解体し、再構築する作業は、歴史的事実がいかにして伝説へと昇華されていくか、そのダイナミックなプロセスを浮き彫りにする。光秀の最期は、単なる敗者の死ではなく、後世の人々の記憶と想像力の中で、新たな物語として生き続けてきたのである。

引用文献

  1. 明智光秀の最期 - 大山崎町 http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/annai/kikakuzaisei/kannkou/kanko/machinokankosupotto/tenkawakemenotennozan/hideyosinomiti/929.html
  2. 小栗栖で明智光秀の首を取ったのは誰か? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4819
  3. 小栗栖 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/Geography/AreaOgurusu.html
  4. ① 風水による地形検証 - ふるさと醍醐(by醍醐の歴史と暮らしを学ぶ会) - エキサイトブログ https://furusatodaigo.exblog.jp/239952341/
  5. 明智藪 https://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0307/mm.htm
  6. 明智光秀ゆかりの地を巡る その5~伝説昇華編 - 月刊ぷらざ https://plaza-gifu.com/2021/02/23/densetsushohka/
  7. 山科の古代と近世を巡る - NOBUSAN BLOG http://19481941.blog.fc2.com/blog-entry-430.html
  8. 明智光秀生存伝説~ほんとうに小栗栖で死んだのか - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3999
  9. 戦国時代の真実 - テンミニッツ・アカデミー https://10mtv.jp/pc/content/genre_detail/detail.php?category_id=5&subcategory_id=78
  10. 落ち武者狩り - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E3%81%A1%E6%AD%A6%E8%80%85%E7%8B%A9%E3%82%8A
  11. 【ゆっくり歴史解説】 戦国時代 落ち武者狩りはなぜ許されていたのか?落ち武者狩りに遭った有名な武将のエピソードなども含めて簡単解説 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=mgSe8ZkbiNE
  12. 【歴史解説】悲惨すぎる?落ち武者の末路!【MONONOFU物語】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=e3Q_UUDRFxw
  13. 京都にもある明智光秀の首塚・胴塚と謎 - Leaf KYOTO https://www.leafkyoto.net/makai/2020/04/mitsuhide/
  14. 明智光秀の最後をたどる http://kvg.okoshi-yasu.net/activity/walk0152/walk0152.html
  15. 明智薮 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu008_frame.html
  16. 明智薮のある旧小栗栖街道を歩く・六地蔵から勧修寺へ - のら印BLOG https://norajirushi.hatenablog.com/entry/2025/04/26/092200
  17. 【京都史跡】NHK大河ドラマ『麒麟がくる』明智光秀最期ゆかりの ... https://kyotopi.jp/articles/0k1ga
  18. 是非に及ばず~織田信長最後の命令・本能寺の変~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/honnoji-nobunaga-kotoba.html
  19. oggi.jp https://oggi.jp/6723411#:~:text=%E3%80%8C%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89%E3%80%8D%E3%81%A7%E7%B9%94%E7%94%B0,%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
  20. 是非に及ばずとは? わかりやすく解説 - デジタル大辞泉 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%98%AF%E9%9D%9E%E3%81%AB%E5%8F%8A%E3%81%B0%E3%81%9A
  21. 「是非もなし」の意味とは? 語源は織田信長? 使い方や類語も紹介 | マイナビニュース https://news.mynavi.jp/article/20210830-1937358/
  22. 【家紋】”是非に及ばず” と言わしめた明智光秀の家紋「水色桔梗」は珍しいカラー紋だった! https://sengoku-his.com/838
  23. 「是非に及ばず」の意味とは? 本当に信長の最後の言葉?|使い方や英語表現も紹介 | Oggi.jp https://oggi.jp/6723411
  24. 美しく生き 美しく死ぬ 武士道の死生観 https://hiroshima.repo.nii.ac.jp/record/2037656/files/ReportJTP_21_103.pdf
  25. 切腹の流儀 : 武士としての潔さなのか、名誉を守る様式美なのか | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02268/
  26. 武士道から学ぶ「一瞬を生きる」ということ - 松下政経塾 https://www.mskj.or.jp/thesis/9509.html
  27. 辞世の言葉 | 臨済宗大本山 円覚寺 https://www.engakuji.or.jp/blog/35730/