最終更新日 2025-10-23

明智秀満
 ~城に火を放ち忠義を果たす自刃~

明智秀満は山崎の戦い敗報後、安土城を放棄し坂本城へ。名宝を敵将に託し、家族を介錯後、城に火を放ち自刃。その忠義は後世に美談として語り継がれた。

天正十年六月十五日、坂本城燃ゆ―明智秀満、最後の忠義―

序章:天正十年六月十三日夜、安土城に届いた凶報

天正十年(1582年)六月、日本の歴史が大きく動いたその渦中で、一人の武将が忠義の何たるかをその生き様、そして死に様をもって示そうとしていた。その名は明智秀満、通称左馬助。主君・明智光秀が「本能寺の変」において織田信長を討ち、天下に号令をかけてからわずか十日余り。栄華の頂点にあるはずだった明智一族の運命は、すでに暗転し始めていた。

本能寺の変の後、秀満は光秀の命により、織田政権の象徴であり、新政権の首都となるべき安土城の守備を任されていた 1 。これは、彼が明智家中でいかに重要な地位を占めていたかを示す配置であった。しかし、その安土城の静寂は、六月十三日の夜、一人の伝令の到着によって無惨に引き裂かれる。山城国山崎の地で、羽柴秀吉率いる大軍と激突した光秀の本隊が、無残にも敗れ去ったという絶望的な知らせであった 1

主君の敗北、そしてその後の確かならぬ消息。この凶報は、秀満に冷徹な現実を突きつけた。主力を失い、秀吉の大軍が目前に迫る中、天下の堅城たる安土城といえども、もはや維持は不可能である。この瞬間、秀満の思考は、天下掌握という壮大な戦略目標から、一人の武士として、そして明智一族の一員としていかに最期を遂げるかという、極めて個人的な問いへと収斂していく。彼の決断は早かった。戦略的価値を失った安土城を放棄し、光秀の家族が待つ明智家の本拠地、近江・坂本城へと向かう。それは戦略的な撤退ではなく、一族の滅びの舞台、そして自らの忠義を完遂すべき死地を選ぶための、最後の行軍の始まりであった。この安土城からの退去は、明智光秀のクーデターが完全に失敗に終わり、組織的な抵抗から個人的な殉死へと、その局面が決定的に移行したことを象徴する転換点だったのである。

以下の時系列表は、秀満が凶報に接してから、その最期を遂げるまでの緊迫した二日間を、敵方である羽柴軍の動向と対比して示している。彼の行動が、いかに迅速な追撃という外部からの圧力の中で行われたかが、ここから見て取れる。

日時

明智秀満の動向

羽柴(堀秀政)軍の動向

6月13日 夜

安土城にて山崎の戦いの敗報を知る 1

山崎にて勝利を確定させ、敗残兵の追撃を開始する。

6月14日 未明

約1,000の兵を率いて安土城を出発し、坂本城を目指す 4

勝利に乗じ、近江方面へ迅速に進軍を開始する。

6月14日 日中

大津・打出浜にて、先回りしていた堀秀政軍と交戦し、大打撃を受ける 4

秀満軍を捕捉、交戦し、約300名を討ち取る 4

6月14日 日中~夕刻

敗走の末、小舟を用いて辛うじて坂本城へ入城し、籠城を開始する 4

坂本城を完全に包囲し、退路を断つ 1

6月14日 夜~15日未明

堀秀政の家老・堀直政を介し、城内の名宝を敵方に引き渡す 5

秀満からの申し出を受け、使者を派遣し、名宝を丁重に受け取る。

6月15日

主君の妻子らを介錯した後、城に火を放ち、燃え盛る天守の中で自刃を遂げる 7

坂本城の落城を見届ける。

第一章:死地への道―「湖水渡り」の伝説と史実

安土城を発った秀満の軍勢約1,000は、夜陰に乗じて琵琶湖の東岸を南下し、坂本城を目指した。しかし、彼らの行く手にはすでに羽柴秀吉の先鋒、堀秀政の軍勢が迫っていた。六月十四日、大津の打出浜において両軍は激突。山崎での勝利の勢いに乗る堀勢に対し、主君を失い士気の上がらぬ秀満軍は苦戦を強いられ、300名もの兵を失うという壊滅的な打撃を受けた 4 。もはや組織的な抵抗は不可能であり、秀満は残ったわずかな手勢とともに、坂本城へ落ち延びることしかできなかった。

この絶体絶命の状況下で、後世に語り継がれる一つの伝説が生まれる。「明智左馬助の湖水渡り」である。江戸時代初期に成立した軍記物語『川角太閤記』によれば、陸路を堀勢に阻まれた秀満は、狩野永徳が墨絵で雲竜を描いたと伝わる陣羽織をまとい、愛馬に鞭を当てて琵琶湖の湖水へと乗り入れた 8 。追っ手の兵たちが「あれはすぐに沈むだろう」と嘲笑するのを尻目に、秀満は巧みな手綱さばきで馬を操り、対岸の唐崎まで見事に泳ぎ渡って坂本城へ入ったという 2 。この英雄的で絵画的な情景は、浮世絵の題材としても好まれ、秀満の悲劇的な最期を彩る象徴的な逸話として広く知られることとなった 10

しかし、この劇的な伝説は、史実とは異なる可能性が高い。秀吉の家臣であった大村由己が変後まもなく記した『惟任退治記』などの、より一次史料に近い記録によれば、秀満は打出浜での敗戦後、「小船」に乗って坂本城へ入ったとされている 4 。また、実際には湖に乗り入れたのではなく、大津の町と湖水の間の狭い道を馬で駆け抜けたのが真相ではないか、という説も有力である 8

では、なぜ「湖水渡り」という超人的な伝説が生まれたのか。それは、秀満の最期が「美談」として後世に語り継がれる過程と深く関わっている。彼の死は、武士の忠義の鑑として称賛された 11 。この壮絶な最期という「結末」をより一層際立たせるためには、その直前の行動もまた、常人にはなし得ない英雄的なものである方が物語としてより効果的である。史実の「小舟での脱出」では、物語としての劇的さに欠ける。そのため、彼の忠義の物語を完成させるための英雄的なプロローグとして、馬で琵琶湖を渡るという壮大なフィクションが後世、特に物語性が重視された江戸時代に創作され、付加されたと考えるのが自然であろう。

第二章:絢爛たる死の舞台―包囲下の坂本城

秀満が命からがらたどり着いた坂本城は、単なる軍事拠点ではなかった。それは、明智光秀の栄光の象徴そのものであった。元亀二年(1571年)、信長による比叡山焼き討ちの功により近江滋賀郡を与えられた光秀が、信長の命で築城したこの城は、当時の日本において比類なき壮麗さを誇っていた 1

来日していたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、坂本城を「日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と絶賛している 13 。琵琶湖の湖水を引き込んだ水城であり、湖面にその威容を映す様は、さながら水上に浮かぶ宮殿のようであったと想像される 16 。吉田兼見が天正三年に訪れた際には、すでに「天主(天守)」が築かれており、その壮大さに驚嘆したと『兼見卿記』に記している 3 。これは信長の安土城天主よりも早く、当時の最先端を行く建築であった。

しかし、秀満が帰還したその城に、かつての栄華の面影はなかった。城内に残されていたのは、主君・光秀の妻である煕子(ひろこ)をはじめとする一族の女子供、そして山崎から逃げ延びてきた少数の敗残兵のみであった 1 。城には死を覚悟した者たちの、静かで張り詰めた、そして絶望的な空気が漂っていた。

秀満の入城後、間もなくして堀秀政率いる羽柴軍が城を完全に包囲し、最後の望みも断たれた 1 。城外からは勝利に沸く敵兵の鬨の声や罵声が聞こえ、城内では一族が静かに滅びの時を待つ。この城の壮麗さは、単なる背景設定ではない。それは、光秀と明智一族が築き上げた栄光と、そのすべてが灰燼に帰すという悲劇的な結末との間に、強烈なコントラストを生み出すための重要な舞台装置なのである。美しく輝かしい舞台で演じられるからこそ、その悲劇性は一層際立ち、観る者の胸を打つ。

第三章:武人の美学―天下の名宝、敵将に託す

落城と自刃を目前にした六月十四日の夜、明智秀満は戦国武将として、そして当代一流の文化人として、後世に語り継がれる驚くべき決断を下す。それは、主君・光秀が生涯をかけて収集した天下の名宝を、炎の中に失うのではなく、包囲する敵将・堀秀政に託すという前代未聞の行動であった。

秀満は城内から堀秀政の陣に使者を送り、次のように申し入れたと伝わる。「この城も我が命も今日限り。されど、主君光秀が収集した名宝の数々が、この戦火で灰燼に帰すのは天下にとっての損失であり、誠に忍びない。これらを貴殿に進呈するので、受け取っていただきたい」 2

この申し出は、単なる降伏の作法ではない。そこには、当時の武士階級が共有していた特有の価値観が色濃く反映されている。織田信長の時代、優れた茶器や刀剣といった「名物」は、単なる美術品ではなく、大名の権威やステータスを象徴する、極めて政治的な価値を持つ存在となっていた 18 。一つの名物が一国に値するとさえ言われ、その蒐集や披露は、大名たちの間で繰り広げられるもう一つの「戦い」であった 21

秀満が引き渡しを申し出た品々は、まさにその頂点に立つ至宝であった。史料によれば、そこには「不動国行」「二字国俊」といった天下に名高い名刀や、茶入の「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」、その他多くの書画などが含まれていたという 6 。これらの文化財の価値は、個人の命や一族の存亡すら超越するという美学が、秀満の行動の根底にはあった。

この異例の申し出に対し、敵将・堀秀政もまた、武人としての礼節をもって応えた。彼は秀満の意を汲み、家老である堀直政(なおまさ)を使者として城際に派遣し、丁重に目録とともに名宝を受け取らせた 5 。燃え盛る戦場のただ中で、敵味方を超え、文化を尊ぶ者同士の静かな敬意が交わされた瞬間であった。

この名宝引き渡しの逸話は、秀満が単なる忠勇の士ではなく、当代一流の教養と美学を兼ね備えた人物であったことを雄弁に物語っている。彼は、政治的・軍事的には紛れもない敗者となった。しかし、文化の守護者として、そして武士の美学を貫く者として、最後の最後に倫理的な勝利を収めようとしたのである。この行為こそが、彼の死を単なる犬死にや殉死から、後世に語り継がれる「美しい死」へと昇華させる、最も重要な要素となった。

第四章:炎の中の殉死―坂本城、落つ

天下の名宝を敵将に託し、武人としての最後の務めを果たした秀満は、いよいよ一族の最期を執り行うべく、静かに覚悟を固めた。彼の行動は、絶望による錯乱とは無縁の、恐ろしいほどに秩序立ったものであった。それは、当時の武士階級が理想とした「死の様式美」を完璧に体現する、一種の儀式であった。

まず、秀満は城内に残る一族の女性たちのもとへ向かった。敵の手に渡り、辱めを受けることのないように、主君・光秀の妻と子らをその手で介錯し、続いて自らの妻も刺殺した 1 。これは非情な行為に見えるが、武家の女性たちを待ち受けるであろう悲惨な運命から守るための、家長としての最後の慈悲であり、責任の果たし方であった。

家族との訣別を終えると、秀満は明智家の栄光の象徴であった城の中心、天守閣へと向かい、自らの手で火を放った 1 。燃え盛る炎が、かつてフロイスが絶賛した壮麗な城を舐め尽くしていく。そして、紅蓮の炎に包まれた天守の中で、秀満は静かに自らの腹を切り、主君の後を追った。

この壮絶な最期の様子は、史料によってその描写に濃淡がある。特に『川角太閤記』は、その場面を極めて劇的に描いている。それによれば、秀満は腹を十文字にかき切り、内臓を掴み出すと、かねて用意していた火薬に火をつけ、轟音とともに天守閣もろとも爆死したという 25 。一方、より同時代に近い『惟任退治記』は、秀満が光秀の妻子らを刺し殺し、天守に火をかけて自害した、と比較的簡潔に記している。しかし、その記述の末尾には「敵味方共に之を相感じけり(敵も味方も、その見事な様に感心した)」という一文が加えられている 27 。この一文こそが、秀満の最期の本質を捉えている。

なぜ、敵である羽柴軍の兵たちまでもが、彼の死に「感心」したのか。それは、秀満の死に様が、当時の武士たちが共有する倫理観と美意識の最高の発露と見なされたからである。彼の行動は、①名宝の引き渡し(文化的責任の遂行)、②一族の処置(家長の責任の遂行)、③自刃(武士としての責任の遂行)という一連の手順を、包囲する敵という「観客」の前で、冷静沈着に、そして見事に演じきった「パフォーマンス」であった。それは、自らの忠義と武士としての矜持を、死をもって天下に示すための、最後の自己表現だったのである。

なお、多くの戦国武将が死に際に辞世の句を残しているが、明智光秀本人と同様に、秀満にも確たる辞世の句は伝わっていない 28 。彼の生涯の最期を飾った一連の行動そのものが、何よりも雄弁な辞世であったと言えるだろう。

項目

『惟任退治記』(大村由己)

『川角太閤記』

成立年代

天正10年(1582年)直後

元和年間(1615-1624年)頃

立場

羽柴秀吉の事績を正当化する立場

武士からの聞き書きを元にした軍記物語

名宝の扱い

記述なし

堀秀政に引き渡す逸話を詳細に記述 6

自刃の方法

天守に放火し自害したと簡潔に記述 27

腹を十字に切り、用意した火薬で天守ごと爆死したと劇的に描写 25

周囲の評価

「敵味方共に之を相感じけり(敵も味方も感心した)」と、敵方からの称賛を記す 27

壮絶な最期として英雄的に描写する。

終章:逆臣の家臣、忠義の鑑となる

主君・明智光秀は、主殺しの大罪を犯した「逆臣」として歴史にその名を刻んだ。しかし、その家臣である明智秀満の最期は、不思議なことに、時代を超えて「忠義の鑑」「武士の理想」として称賛され、語り継がれることになった。この逆説的な現象こそが、この逸話の最も興味深い点である。

秀満の死が美談として定着した背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、彼の行動が持つ純粋性である。湖水渡りの伝説、名宝の引き渡し、そして燃え盛る城での壮絶な自刃という一連の行動は、主君・光秀の謀反という政治的な「大義」の是非とは切り離され、ただひたすらに家臣が主人に尽くすという「忠」そのものの、純粋で私心なき発露として人々の目に映った。

第二に、その物語性の高さである。彼の最期は、悲劇の英雄として人々の記憶に刻み込まれるに足る、あまりにも劇的な要素に満ちていた。この物語は、特に江戸時代に入ると、講談や浮世絵などを通じて広く民衆にまで浸透していった 11

そして最も重要な要因は、秀満の物語が、新しい時代の支配者である徳川幕府のイデオロギーと完全に合致したことである。泰平の世を築き、それを維持しようとする江戸幕府にとって、封建的な主従関係と、そこに根差した「忠」の倫理は、社会秩序の根幹をなす最も重要な徳目であった。秀満の物語は、主君の正邪を問うことなく、ただひたすらに忠義を貫き、見事に死ぬという、幕府が理想とする武士像、すなわち家臣像の完璧なモデルケースを提供した。彼は、主君への絶対的な忠誠を命がけで示した、最高の教材だったのである。

こうして、明智秀満の死は、単なる一個人の歴史的事実を超え、時代が求める「忠臣」像の結晶として昇華された。彼の最期は、戦国乱世の終焉と、新たな秩序の時代の到来を象徴する出来事の一つとして、今なお我々に多くのことを問いかけている。それは、一人の武将の死であると同時に、時代が作り上げた「忠義」という名の、美しくも悲しい物語なのである。

引用文献

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  2. 「明智秀満(明智左馬助)」坂本城と最期をともにした家老 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/843
  3. 坂本城(滋賀県大津市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/6157
  4. 1582年(後半) 西国 中国大返しと山崎の戦い https://sengokumap.net/history/1582-3/
  5. 堀秀政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%94%BF
  6. 明智光秀の刀剣とは/ホームメイト https://www.touken-hiroba.jp/blog/6144204-2/
  7. 坂本城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Kansai/Shiga/Sakamoto/index.htm
  8. 明智秀満 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E7%A7%80%E6%BA%80
  9. 明智光秀の家臣は琵琶湖を馬で渡った!?本能寺の変まで時を戻そう - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/109341/
  10. 世絵から知ろう!! http://www.kyouno.com/turezure/ohmi-sengoku-mushae-panf.pdf
  11. 画「大津坂本城落城之図 https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kusatsujuku/gakumonjo/gallery.files/R2.9.pdf
  12. 歴史 - 幻の水城 坂本城 http://www.sakamoto-jyoh.sakura.ne.jp/serviceindex1.html
  13. 【戦国武将と城】ルイス・フロイスも激賞 「築城の名手」明智光秀の真実 ——近江宇佐山城から坂本城へ《大河おさらい「光秀」基本の「き」》 https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/723580/
  14. 光秀が築いた名城・近江坂本城はどのような城だったのか - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/634
  15. 坂本城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/129/memo/713.html
  16. 近江 坂本城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/sakamoto-jyo/
  17. 坂本城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/sakamoto/sakamoto.html
  18. 戦国時代のたしなみ「茶の湯文化」と、信長様の外交戦略の要「名茶器」について! https://san-tatsu.jp/articles/242429/
  19. 御茶湯御政道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%8C%B6%E6%B9%AF%E5%BE%A1%E6%94%BF%E9%81%93
  20. 戦国大名や商人が熱狂した「茶器」|初花肩衝など有名な茶器を解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1143333
  21. 血で血を洗う戦国時代。織田信長ら武将たちが、茶の湯にはまった3つの理由 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/gourmet-rock/73672/
  22. 信長の茶器は「土地」を超えた!天下統一を裏で操ったブランド戦略とは?|De:partment - note https://note.com/department/n/n5d81f33a6b74
  23. え? あのウサギ耳のかわいいのは明智左馬之助の甲冑じゃないって⁉︎ - note https://note.com/hakubutsu/n/n6b9b09f20955
  24. 安土城天主焼失の謎 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/19/memo/823.html
  25. 光秀ゆかりのスポット | 【公式】びわ湖大津・光秀大博覧会 https://otsu.or.jp/mitsuhide/spot/
  26. 倶利伽羅江 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E5%88%A9%E4%BC%BD%E7%BE%85%E6%B1%9F
  27. 『惟任退治記』 秀吉側から描かれた「本能寺の変 ~ 山崎の戦い」をみてみる | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/629
  28. 著名人が遺した辞世の句/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/historical-last-words/
  29. Q.辞世の句を教えてください | 一般社団法人 明智継承会 https://akechikai.or.jp/archives/mitsuhide-qa/57815