最終更新日 2025-10-22

服部半蔵
 ~伊賀越えで家康導き追手惑わす~

服部半蔵は本能寺の変後、伊賀越えで徳川家康を導き、峠の火で追手を惑わした。この功績は伊賀組同心の誕生に繋がり、半蔵門として今に名を残す。

神君伊賀越えと服部半蔵:峠の火、その伝説の真相

序章:堺の静寂、そして絶望の凶報

天正10年(1582年)6月2日、早朝。国際貿易港として栄える堺の町は、活気に満ちていた。徳川家康一行は、織田信長からの丁重な饗応の延長として、この自由都市の喧騒の中にいた 1 。信長の家臣・長谷川秀一の案内のもと、家康は京、奈良、そして堺を見物し、豪商が催す茶会に招かれるなど、つかの間の平穏を享受していた 1 。しかし、その一行の構成は、徳川家の命運を左右する者たちが選りすぐられていた。酒井忠次、石川数正、本多忠勝といった宿老たちに加え、伊賀出身の武将、服部半蔵正成もその列に名を連ねていた。総勢わずか34名 1 。この時点では、半蔵は数多いる家臣の一人に過ぎず、後に彼の名が歴史に刻まれることになるとは、誰も予想していなかった。

一行が堺を発ち、京へと帰路につこうとしていた矢先、事件は起こる。河内国飯盛山(現在の大阪府四條畷市)付近まで差し掛かった時、後方から一騎の馬が砂塵を巻き上げて駆けてきた 4。京の豪商、茶屋四郎次郎である。彼の鬼気迫る表情は、尋常ならざる事態を物語っていた。息を切らしながら彼がもたらした報せは、一行の耳を疑わせるものであった。

「本能寺にて、信長様、並びに御嫡男・信忠様、明智日向守光秀の謀反により、ご自害なされました」 5。

一瞬の静寂の後、凄まじい混乱が一行を襲った。強大な盟友の死。そして何より、自分たちが完全に敵地、明智の勢力圏の真っただ中に孤立無援で取り残されたという、絶望的な現実。家康の脳裏には、今川家での人質時代から、信長との長い同盟を経てようやく手にした三河、遠江、駿河の領国と、そこに残してきた家臣や民の顔が浮かんだであろう。

「もはやこれまで。信長公に殉じ、ここで腹を切る」 7。

自刃を覚悟した家康に対し、家臣たちが必死に食い下がった。特に本多忠勝は、「御命あっての物種にございます!生きて三河へお戻りいただき、御家と領民をお守りくだされ!」と涙ながらに諫言したと伝わる。この説得は、単なる主君への忠義の発露ではなかった。それは、家康個人の命運を超え、「徳川家」という組織、共同体の存続を最優先する、極めて合理的な意思決定であった。家康という核を失えば、徳川家はたちまち瓦解し、領国は周辺勢力の草刈り場となる。家臣たちの脳裏には、その悪夢のような未来図が明確に描かれていたのである。

生き延びる道を探るべく、緊迫した軍議が開かれた。堺から海路で三河を目指す案も出たが、紀伊半島南方の海域は波が荒く、船が転覆する危険性が高かった 8 。さらに、明智方に与する水軍に拿捕される可能性も否定できない。堺の港はすでに不穏な空気に包まれ、自由に使える船の調達も困難であった 8

消去法的に残されたのは、陸路であった。最短距離で三河へ帰還するには、山城、近江、そして伊賀の国を突っ切るしかない。しかし、その道は「死線」に他ならなかった。特に伊賀は、わずか数年前の天正伊賀の乱で織田信長軍に徹底的に蹂躙され、信長への怨嗟と憎悪が渦巻く土地であった 9 。その信長の同盟者である家康が、わずかな手勢で通過することの危険性は、火を見るより明らかであった。それでも、彼らに他の選択肢はなかった。この絶望的な選択こそが、徳川家の存亡を賭けた、組織としての唯一の活路だったのである。

第一章:伊賀への道 ― 服部半蔵への密命

伊賀越えという九死に一生の道行きを決意した一行の中で、最初の亀裂が生じた。武田の旧臣であり、家康と共に信長に謁見していた穴山梅雪(信君)が、家康本隊との別行動を選択したのである 6 。彼は多額の金品を所持しており、少人数の家康一行と行動を共にすることに不安を感じたのかもしれない。この判断が、彼の命運を無情にも分かつことになる。梅雪の一行は、家康本隊が通過した直後の山城国で落ち武者狩りの一揆に襲われ、あえなく命を落とした 5 。この悲劇は、これからの道がいかに危険に満ちているかを、家康一行に改めて突きつける出来事となった。

一方、家康本隊は山城国の宇治田原を目指し、ひたすら東へと進んだ。道なき道、鬱蒼と茂る森、踏み固められていない落ち葉で滑る足元。馬も人も、疲労は刻一刻と蓄積していく 10 。そんな中、一行は木津川の「草内の渡し」を越え、ようやく最初の目的地にたどり着いた 4 。ここで彼らを待っていたのは、敵意ではなく、温かい支援の手であった。地元の豪族・山口秀康(甚助)が一行を迎え入れ、自身の居城である宇治田原城(山口城)で昼食と休息、さらには疲弊した馬の乗り換えの便宜を図ってくれたのである 5 。敵意と疑心暗鬼が渦巻く畿内において、この山口氏の協力は、乾いた土地に染み渡る水のように、一行の体力と士気を回復させた。

この宇治田原城での束の間の休息中、家康は一人の男を静かに呼び寄せた。服部半蔵正成である。この密談こそが、後世に語り継がれる「峠の火」の逸話の起点となる。

「半蔵、聞こえるか。そなたは伊賀の生まれと聞き及ぶ。この先の伊賀路、我らを無事に通す手立てはないか。そなたの一族や知己を頼れぬか」 9。

家康の問いかけに対し、半蔵の胸中は複雑であったに違いない。確かに服部家は伊賀の名門・上忍三家の一つに数えられる 12。しかし、それは過去の話であった。半蔵の父・保長の代に伊賀を離れ、三河の松平家(後の徳川家)に仕官した身である 12。伊賀本国における半蔵自身の知名度や直接的な影響力は、後世の伝説が語るほど強固なものではなかった可能性が高い 14。彼は「伊賀忍者の頭領」として君臨していたわけではなく、あくまで「伊賀に土地勘と人脈を持つ徳川家の武将」という立場であった。

家康が半蔵に期待したのは、伝説的な忍術ではなかった。それは、徳川家という組織の代理人として、伊賀・甲賀という在地勢力と交渉し、彼らを味方につけるという、極めて現実的な「調整役(コーディネーター)」としての役割であった。半蔵の持つ人脈と土地勘を頼りに、金銭や将来の恩賞を約束して協力者を募る。それは、徳川家の未来を賭けた、一世一代の交渉の始まりであった。

第二章:伊賀・甲賀の集結 ― 峠の火への布石

宇治田原を発った家康一行は、裏白峠を越え、近江国甲賀郡へと足を踏み入れた 5 。彼らが目指したのは、甲賀五十三家の中でも特に大きな影響力を持つ豪族、多羅尾光俊の居城・小川城であった。半蔵が先行したか、あるいは彼が放った使者が、多羅尾光俊と接触。徳川家からの協力要請と、この危難を乗り切った暁には多大な恩賞を約束するという家康の意思を伝えた。

多羅尾氏の決断は早かった。彼は家康の将来性に賭け、この要請を承諾。一行を小川城に迎え入れ、一夜の宿と警護を提供した 5 。この小川城は、単なる避難場所ではなく、伊賀越えを成功させるための作戦司令部となった。ここで半蔵は、多羅尾氏の全面的な協力を得て、甲賀衆、さらには国境を越えた伊賀国内の協力者たちへ、一斉に動員をかけたのである。

後世の記録によれば、半蔵は伊賀と甲賀の国境に位置する御斎峠(おとぎとうげ)で狼煙を上げ、協力者たちに集合を命じたとされている 12 。この狼煙こそが、後に語られる「峠の火」の逸話の原型となった可能性は否定できない。この呼びかけに応じ、伊賀者約200名、甲賀者約100名が、家康を護衛するために馳せ参じたという 12

しかし、この集団の現場指揮を執り、実際の道案内を務めた中心人物は、服部半蔵ではなかったとする説が有力である。伊賀の地侍である柘植三之丞清広こそが、その任を担ったとされる 16 。このことから、半蔵は全体の作戦を統括する司令官・調整役であり、柘植清広が現場の案内役という、巧みな役割分担がなされていたと推察される。

ここで一つの疑問が浮かび上がる。なぜ、伊賀・甲賀の人々は、信長の同盟者である家康に協力したのか。天正伊賀の乱の記憶が生々しい彼らにとって、それは裏切り行為にも映りかねない。その動機は、複雑な利害計算の上に成り立っていた。

第一に、現実的な利益である。徳川家康という男の将来性を見越し、この絶体絶命の窮地で恩を売っておくことは、乱で疲弊した彼らにとって、未来への大きな投資であった 11 。第二に、複雑な反信長感情である。信長を討ったのは明智光秀であり、その光秀から信長の同盟者である家康を逃がすことは、結果的に反信長・反明智の意思表示となり得た。信長によって破壊された旧来の秩序が崩壊した今、新たな時代の担い手として家康を擁立しようという思惑があったとしても不思議ではない。

つまり、伊賀越えにおける協力体制は、服部半蔵一人の功績や、彼らの忠義心だけで成立したものではない。それは、家康の「窮地」と、伊賀・甲賀衆の「乱後の再起への野心」という、双方のニーズが奇跡的に合致した結果生まれた「戦略的提携」であった。半蔵は、その利害を繋ぎ合わせ、不可能を可能にするための重要な仲介者として、その能力を最大限に発揮したのである。

第三章:【核心】峠の火、追手を惑わす ― 逸話の再現と徹底検証

この章では、本報告書の核心である「峠の火」の逸話について、物語的な再現と、史料に基づく徹底的な検証の二部構成で詳述する。

第一部:逸話の物語的再現

時刻は天正10年6月3日の夜。家康一行は、伊賀と甲賀の国境に横たわる峻険な峠道――桜峠、あるいは御斎峠と伝えられる難所――に差し掛かっていた 4 。月明かりもなく、手にした松明の頼りない光だけが、闇をわずかに照らし出す。昼間の強行軍で、一行の疲労は極限に達していた。張り詰めた空気の中、彼らの心を苛むのは、後方から迫り来るかもしれない追手の存在であった。それは明智の正規軍か、あるいは金品目当ての落ち武者狩りの群れか。その姿なき恐怖が、一行の足取りをさらに重くしていた。

この絶体絶命の状況下で、服部半蔵が静かに家康に進言した。

「殿、これより策を講じまする。追手の目を欺くための火計にございます」

家康が促すと、半蔵は闇の向こうを見据えながら続けた。

「伊賀・甲賀の者どもに命じ、この峠道の両脇に連なる尾根筋に、点々と篝火を焚かせます。その数、数百。あたかも大軍がこの地に野営していると見せかけまする。我ら本隊はその隙に、火の明かりが届かぬ別の間道を進み、一気に峠を越えます。追手は篝火の多さに警戒し、夜襲を躊躇うか、あるいは我らが大軍であると誤認し、섣불리近づくことはありますまい」

半蔵の号令一下、闇に潜んでいた伊賀・甲賀衆が動いた。彼らは獣のような身軽さで漆黒の斜面を駆け上がり、尾根の各所に手際よく薪を積み、次々と火を放っていく。火薬の知識を応用し、湿った木々でも効率よく火を熾す技術は、彼らが代々受け継いできた知恵の結晶であった 19

やがて、静寂に包まれていた闇の山中に、無数の火の点が灯り始めた。一つ、また一つと増えていく光は、やがて巨大な軍勢が陣を敷いているかのような壮大な光景を現出させた。もし追手がいたとすれば、彼らはその光景を遠望し、驚愕したに違いない。わずか数十人の逃亡者と思っていた相手が、いつの間にか数千の兵を擁する大軍勢と化している。その圧倒的な光景を前に、彼らは進軍をためらい、あるいは恐怖して退却したであろう。家康一行は、その壮大な陽動作戦に守られ、誰にも気づかれることなく、静かに闇の中へと消えていった。

第二部:逸話の徹底検証

この劇的な「峠の火」の逸話は、果たして史実なのであろうか。結論から言えば、この逸話が史実であると断定することは極めて困難である。

まず、出典の問題がある。家康の家臣・松平家忠が記した『家忠日記』のような、同時代の信頼性の高い一次史料に、この火計に関する記述は見当たらない。この逸話が登場するのは、主に江戸時代に入ってから編纂された『徳川実紀』や『三河後風土記』といった二次史料、あるいはそれ以降に成立した講談や軍記物語においてである 1

このことから、この逸話は後世に創出、あるいは誇張された可能性が非常に高いと考えられる。特に、江戸幕府に仕えた「伊賀組同心」たちが、自らの祖先の功績を喧伝し、幕府内での地位や既得権益を正当化するために、この物語を積極的に語り継いだと見られている 9 。徳川家康の生涯最大の危機を救ったという「名誉の働き」は、彼らにとって組織のアイデンティティそのものであり、その象徴として「峠の火」の逸話は磨き上げられていったのである。

しかし、逸話が創作であったとしても、その戦術自体が非現実的というわけではない。むしろ、当時の状況を鑑みれば、極めて合理的な作戦であったと言える。伊賀・甲賀の忍術には、放火や攪乱を目的とした火を用いた戦術が数多く伝わっており、偽の情報を流して敵を欺くことは彼らの得意とするところであった 22

さらに重要なのは、当時の「追手」の正体である。家康一行を追っていたのは、明智光秀が差し向けた統制の取れた正規軍ではなく、主を失った武士や、金品目当ての農民たちが寄り集まった「落ち武者狩り」や「土一揆」であった可能性が高い 5 。これらの烏合の衆に対して、「大軍がいる」と誤認させる心理戦は絶大な効果を発揮する。彼らは大きなリスクを冒してまで、統率された大軍に挑むことはしない。つまり、この火計は、想定される敵に対して最適化された、非常にクレバーな戦術であった。

結論として、「服部半蔵が峠に火を置き追手を惑わせた」という逸話は、史実としての確証はない。しかしそれは、①伊賀・甲賀の得意戦術を色濃く反映し、②当時の危機的状況下で極めて有効なものであり、③後に伊賀組同心の存在意義を示すための象徴的な物語として形成・伝承されていった、歴史の真実の一側面を映し出す、重要な伝説であると言えるだろう。

「神君伊賀越え」時系列・行程表

日時(天正10年)

場所(推定)

主な出来事

関係人物

根拠史料(例)

6月2日 昼頃

堺・妙國寺周辺~河内国飯盛山

本能寺の変を知り、自刃を覚悟するも家臣に説得され伊賀越えを決意。

家康, 茶屋四郎次郎, 本多忠勝

『信長公記』 1

6月2日 夕刻~夜

山城国草内の渡し~宇治田原城

木津川を渡河。山口秀康の支援を受け、休息と馬を乗り換える。

家康, 山口秀康

『石川忠総留書』 4

6月3日 昼頃

近江国甲賀郡信楽・小川城

多羅尾光俊の庇護下に入る。伊賀・甲賀衆の動員を開始。

家康, 服部半蔵, 多羅尾光俊

『徳川実紀』 5

6月3日 夜

伊賀・甲賀国境の峠(桜峠など)

【峠の火の逸話】 篝火による陽動作戦で追手を欺いたとされる。

服部半蔵, 伊賀・甲賀衆

『三河後風土記』など後世史料

6月4日 未明

伊賀国・加太峠

地元の土一揆の襲撃を受けるが、伊賀・甲賀衆の奮戦により撃退。

家康, 柘植清広, 甲賀郷士

『石川忠総留書』 5

6月4日 夜

伊勢国白子浜

角屋七郎次郎の手配した船に乗り、伊勢湾を横断。

家康, 角屋七郎次郎

諸説あり 5

6月4日 深夜

三河国大浜~岡崎城

無事領国に上陸。松平家忠らの出迎えを受け、岡崎城に帰還。

家康, 松平家忠

『家忠日記』 4

第四章:生還、そして伝説の始まりへ

伝説的な「峠の火」によって追手を欺いた後も、家康一行の試練は終わらなかった。伊賀国を抜け、伊勢へと至る最後の難関、加太峠(かぶととうげ)付近で、一行はついに現実の脅威と対峙することになる。地元の土民や地侍からなる一揆勢が、彼らの行く手を阻んだのである 5

まさにこの時、服部半蔵の呼びかけで集結した伊賀・甲賀衆が、護衛としての真価を発揮した。彼らは地の利を生かした戦術で一揆勢を巧みにあしらい、あるいは力で撃退し、家康本隊を死守した。この戦闘は、彼らの協力が単なる道案内に留まらず、命を賭した実戦であったことを証明している。

幾多の困難を乗り越え、一行が伊勢国の白子浜(現在の三重県鈴鹿市)に到着したのは、6月4日の夜であった 4 。陸路の旅はここで終わりを告げる。ここでもまた、一人の商人が家康の窮地を救った。伊勢の商人、角屋七郎次郎秀持が、迅速に船を手配し、一行の渡海を助けたのである 5 。京の茶屋四郎次郎に始まり、伊勢の角屋七郎次郎に終わる。この伊賀越えが、武士の力だけでなく、商人の持つ広範な情報網と経済力によっても支えられていたことは、特筆すべき点である。

角屋が用意した船は、夜の伊勢湾を静かに横断し、三河国大浜(現在の愛知県碧南市)の岸に一行を送り届けた 4 。ついに自国の土を踏んだ家康の安堵は、いかばかりであったか。そこには、主君の安否を気遣い、必死に情報を集めていた松平家忠らが、感涙にむせびながら出迎えていた。6月4日深夜、堺を出てからわずか三日にして、家康は本拠地・岡崎城へと奇跡の生還を果たしたのである。

この成功は、単に家康の「運」の強さだけがもたらしたものではない。それは、極限の危機的状況下において、彼が示した卓越したリーダーシップの賜物であった。彼は、伊賀越えという困難な課題に対し、服部半蔵という最も適した人材に現場の全権を委譲した。そして、山口氏、多羅尾氏、柘植氏、商人たちといった協力者に対しては、的確な恩賞を約束することで、彼らの協力を引き出した。伊賀越えとは、家康の「決断と委任」、半蔵の「交渉と組織化」、そして在地勢力の「現実的な利害計算」が完璧に噛み合った、高度な危機管理オペレーションの成功例だったのである。

終章:忠勇の象徴 ― 半蔵門に続く道

徳川家康の生還は、彼個人の運命を変えただけでなく、その後の日本の歴史の潮流を大きく変えた。もし家康が伊賀の山中で命を落としていれば、羽柴秀吉の天下統一はより容易に、そしてより早く達成され、二百数十年続く江戸幕府は存在しなかったかもしれない。神君伊賀越えは、徳川家の、ひいては日本の運命を決定づけた、歴史の巨大な分岐点であった。

岡崎城に帰還した家康は、論功行賞を行った。この危難における最大の功労者の一人である服部半蔵は、伊賀・甲賀衆200名を預けられ、彼らを率いる組頭に任じられた 15 。これが、後に江戸幕府の諜報・警備活動の中核を担う「伊賀組同心」の誕生である。半蔵自身も、最終的に8000石の大身となり、徳川家中で重きをなす存在となった 12

徳川の世が訪れ、泰平の時代が続くと、伊賀組同心たちは、自らの存在意義と誇りを内外に示すため、伊賀越えでの祖先の功績を語り継ぎ、喧伝していった 9 。その過程で、「峠の火」の逸話は、服部半蔵の類まれなる知略と、伊賀衆の揺るぎない忠勇を象徴する物語として、史実の枠を超えて磨き上げられていった。それはもはや単なる過去の出来事ではなく、「徳川創業の功臣」としての彼らのアイデンティティそのものとなったのである。

その伝説は、一つの地名として、今なお東京の中心に刻まれている。皇居、すなわち江戸城の西側に位置する「半蔵門」 25 。その名は、服部半蔵の屋敷がこの門の警護を担当したことに由来する 12 。将軍の非常時の脱出口とも想定されたこの重要な門の名は、かつて主君の絶体絶命の危機を救い、徳川の天下への道を切り開いた一人の武将とその仲間たちの功績を、永遠に記憶するために付けられたものであった。

堺の喧騒から始まった絶望的な逃避行。その道中で灯されたという「峠の火」。その一つの逸話が、史実の核から芽吹き、人々の記憶の中で「忠勇の象徴」へと昇華され、ついには江戸城の一角にその名を刻むに至った。その壮大な軌跡は、歴史が事実の記録であると同時に、人々の願いや誇りによって紡がれる物語でもあることを、我々に雄弁に語りかけている。

引用文献

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  2. 本能寺の変前夜の堺 徳川家康の足跡散策|体験プラン・ツアー - 堺観光ガイド https://www.sakai-tcb.or.jp/tourism/detail/161
  3. 伊賀越え - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E8%B6%8A%E3%81%88
  4. 神君伊賀越えとは?徳川家康はどのルートで危機を逃げ切ったのか - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/igagoe
  5. 家康伊賀越えの道 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/Geography/KaidouIgaGoe.html
  6. 茶屋四郎次郎、穴山梅雪、長谷川秀一、本多忠勝 ~「伊賀越え」で徳川家康の窮地を救った人々 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10527
  7. 神君伊賀越え秘話? 同行した坂東武士がいた? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/997
  8. 神君伊賀越えは家康の「影の軍団」の援助無くして成功しなかった?! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/290
  9. 『どうする家康』癒し系忍者?服部半蔵の知られざる実像とは - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/217186/
  10. 伊賀越えの道をめぐる〜徳川家康が立ち寄った伝承が残るまち・宇治田原町編 - KYOTO SIDE https://www.kyotoside.jp/entry/20221110/
  11. 定例勉強会「徳川家康伊賀越え逃走記」 - 星のまち交野 http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/10-2/takao.html
  12. 「服部半蔵正成」伊賀随一の忍者にして徳川家臣!? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/130
  13. 伊賀忍者 と 伊賀忍軍 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/iganin.htm
  14. どうする家康・第29回『伊賀を越えろ!』服部半蔵は本当に役に立っていなかったのか? https://sengokubanashi.net/history/dosuruieyasu-29-igagoe/
  15. 伊賀越え | 忍者データベース - 忍者オフィシャルサイト https://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=442
  16. 家康の伊賀越とは? その行程は? - 忍者オフィシャルサイト https://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=1098
  17. 戦国浪漫・忍者/異能者編 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sennin.html
  18. 家康の足跡|都の周辺から - 京都府観光ガイド https://www.kyoto-kankou.or.jp/ieyasu/episode01.html
  19. 徳川家康も重用した...伊賀、甲賀の「忍び」列伝 | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1178
  20. 【日本遺産ポータルサイト】忍びの里 伊賀・甲賀 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story042/
  21. 巻の二十六 神君伊賀越えについての雑感 | 高尾善希の「忍び」働き https://www.igaportal.co.jp/ninja/26549
  22. 伊賀忍者、服部半蔵の正体に迫る! - サムライ書房 https://samuraishobo.com/samurai_10014/
  23. 忍者の歴史 |忍びの館 https://ninja-yakata.net/history.html
  24. 家康の「伊賀越え」と甲賀・伊賀者 - 三重の文化 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail66.html
  25. 服部半蔵は何をした人?「じつは忍者じゃなかったけど伊賀衆を束ねる頭領だった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/hanzo-hattori