本多正信
~商人に化けて家康の動向を探った~
本多正信「商人に化けて家康の動向を探った」諜報譚を考証。史料の不在と「歴史の空白」、謀臣としての人物像、家康との関係性から、逸話の真相と歴史的意味を解明。
『空白の諜報譚:本多正信、商人に化けた二十年の謎を追う』
序章:語られる謀臣、記されざる逸話
徳川家康の天下統一を智謀の面から支え、「友」とまで呼ばれた謀臣・本多正信。彼の人物像を語る上で、しばしば引き合いに出される一つの逸話がある。それは、かつて主君に叛いて流浪の身となった正信が、「商人に化けて旧主・家康の動向を探った」という諜報譚である。この物語は、武骨な三河武士団の中にあって異彩を放った彼の面目躍如たるエピソードとして、多くの人々の想像力を掻き立ててきた。
しかしながら、本報告書の調査における最初の、そして最も重要な発見は、この逸話が『徳川実紀』をはじめとする江戸幕府の公式史書や、大久保彦左衛門による『三河物語』 1 、新井白石の『藩翰譜』 3 といった同時代に近い記録、さらには幕末に編纂された逸話集『名将言行録』 1 にさえ、具体的な記述として一切見出せないという厳然たる事実である。
この「記録には存在しないが、人々の記憶には存在する」というパラドックスこそが、本調査の出発点となる。本報告書は、単に逸話の有無を報告するに留まらない。なぜこの「史実ならざる物語」が生まれ、語り継がれるに至ったのか。その構造的背景と歴史的必然性を解明することを目的とする。逸話の「不在」そのものが、本多正信という人物の特異性を逆説的に物語っている。本多忠勝のような武功派の武将の武勇伝は数多く記録されているのに対し 7 、正信のような謀臣の活動は、その性質上、記録に残りにくい、あるいは意図的に残されなかった可能性が高い。この物語は、記録の隙間を埋める「想像力の産物」であると同時に、彼の本質的な役割を示唆する「象徴的な物語」なのである。本報告は、この諜報譚を巡る謎を徹底的に解剖し、史実の彼方に浮かび上がる本多正信の実像に迫るものである。
第一章:叛逆と流浪 ― 諜報譚が生まれる土壌
第一節:三河一向一揆と決別
諜報譚が生まれる背景には、本多正信の経歴における特異な「空白期間」が存在する。天文7年(1538年)、正信は三河国に生まれた。主君・徳川家康より4歳年長の譜代の家臣である 4 。桶狭間の戦いにも家康に従って参陣し、一説にはこの戦で膝を負傷し、生涯足を引きずるようになったとも伝えられる 9 。順調にキャリアを重ねるかに見えた彼の人生は、永禄6年(1563年)に暗転する。
この年、家康の支配に対する不満や宗教的な対立から、三河一向一揆が勃発した。これは、独立間もない家康にとって生涯三大危機の一つに数えられるほどの深刻な内乱であった。家臣団は、主君への忠誠と、信仰する浄土真宗への帰依との間で引き裂かれ、二分される事態に陥る 11 。熱心な一向宗門徒であった正信は、弟の正重と共に迷わず一揆方に与し、主君・家康に公然と叛旗を翻したのである 12 。この時、父の俊正と兄は家康方に留まっており、本多一族は骨肉の争いを演じることとなった 9 。
約半年に及ぶ激戦の末、一揆は家康によって鎮圧される。家康は、渡辺守綱や夏目広次など、敵対した家臣の多くを赦免し、家臣団の再統合を図った。しかし、正信はその赦しを受けず、あるいは自らそれを拒んだのか、妻子を三河に残したまま故郷を捨て、出奔の道を選んだ 1 。ここから、天正10年(1582年)に帰参するまでの約20年間、彼の足跡は歴史の表舞台から完全に姿を消すこととなる。
第二節:歴史の空白 ― 謎に満ちた二十年
正信の流浪期間の具体的な動向については、確たる史料が存在せず、いくつかの説が伝わるのみである。この謎に満ちた期間こそが、後世の想像力が入り込む余地を生み出した。
一つは、畿内に赴き、「戦国の梟雄」と恐れられた松永久秀に仕えたとする説である 1 。新井白石が著した『藩翰譜』によれば、久秀は正信を高く評価し、「徳川から来る侍は武勇の輩が多いが、正信だけは強からず、柔らかならず、また卑しからず、ただ者ではない」と評したと記されている 5 。中央の権力闘争の渦中に身を置いたこの経験は、三河武士であった正信の視野を大きく広げ、後の謀臣としての資質を涵養した可能性が考えられる。
もう一つは、一向宗門徒としての繋がりを頼り、加賀国(現在の石川県)に潜伏し、現地の加賀一向一揆に身を投じていたとする説である 1 。これは、彼の篤い信仰心と、一揆に与して出奔した経緯から、自然な推測と言える。
いずれの説も伝承の域を出ず、彼の具体的な活動を裏付ける一次史料は極めて乏しい。重要なのは、この「記録の欠如」という事実そのものである。正信が歴史から姿を消している間、彼が捨てた旧主・家康は、着実にその勢力を拡大していく。この対照的な状況が、「流浪中の正信は、果たして何を考え、何をしていたのか」という問いを生み、諜報譚という物語を紡ぎ出すための絶好のキャンバスとなったのである。
挿入表:『本多正信の「空白期」と徳川家康の動向対照表』
正信の経歴における空白期間と、その間の家康の目覚ましい躍進を視覚的に対比することで、「なぜ正信が家康の動向を気にかけざるを得なかったか」という状況を以下に示す。
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年代(西暦) |
本多正信の動向(通説・異説) |
徳川家康の主要な動向 |
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永禄6年(1563) |
三河一向一揆に与し、家康に敵対。 |
三河一向一揆の勃発。生涯三大危機の一つ 11 。 |
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永禄7年(1564) |
一揆鎮圧後、三河を出奔。流浪の身となる。 |
三河の統一をほぼ完了。 |
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元亀元年(1570) |
(松永久秀に仕官か?) |
姉川の戦い。浜松城へ拠点を移す。 |
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元亀3年(1572) |
(諸国を流浪か?) |
三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗。生涯三大危機の一つ 17 。 |
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天正3年(1575) |
(加賀に潜伏か?) |
長篠の戦いで武田勝頼に勝利。 |
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天正10年(1582) |
大久保忠世の仲介により、徳川家へ帰参 16 。 |
本能寺の変。神君伊賀越え。生涯三大危機の一つ 11 。 |
この表が示すように、正信が雌伏の時を過ごしている間、家康は存亡の危機を乗り越え、東海地方に確固たる地盤を築き上げていた。流浪の正信が、旧主の動向に全く無関心であったとは考えにくい状況であった。
第二章:戦国の情報戦 ― 商人という名の隠れ蓑
第一節:諜報が勝敗を分けた時代
本多正信が商人に化けたという逸話のリアリティを検証するためには、まず戦国時代における情報戦の重要性を理解する必要がある。この時代、合戦の勝敗は兵力や武勇のみならず、いかに正確な情報を早く、多く入手するかに大きく左右された。
甲斐の武田信玄は、広範な情報網を構築し、日本全国の情報を収集していたことから「足長坊主」の異名をとった 18 。敵の兵力、城の構造、家臣の動向から土地の風土に至るまで、多岐にわたる情報を集め、戦略立案に活用していた。また、織田信長も情報の重要性を深く認識しており、桶狭間の戦いでは、自ら偵察を出し、今川義元の本隊の位置を正確に把握したことが奇跡的な勝利に繋がった 18 。情報伝達の手段としても、複数の拠点間でリレー形式で情報を送る狼煙網が整備されるなど 19 、諜報活動は極めて体系的に行われていたのである。敵味方を識別するための合言葉(合詞)が毎日変更されるなど、情報の秘匿にも細心の注意が払われていた 20 。
このような時代背景を鑑みれば、大名が諜報活動に力を注ぐのは当然のことであり、流浪の身であった正信が、自らの再起の道を模索する上で、情報収集を試みたとしても何ら不思議ではない。
第二節:商人と諜報活動
諜報活動において、「商人」という身分は極めて有用な隠れ蓑であった。彼らは商売のために諸国を往来する自由を持ち、各地の関所も比較的容易に通過することができた。町や宿場では、人々とごく自然に言葉を交わし、噂話や世間話の中から貴重な情報を拾い集めることが可能であった 21 。その土地の産物や経済状況に詳しいことも、敵国の国力を測る上で重要な情報源となり得た。
この点において、徳川家康自身が商人の諜報能力を高く評価し、積極的に活用していた事実は見逃せない。家康は京都の豪商であった茶屋四郎次郎を御用商人に取り立て、上方における情報収集の任に当たらせていたのである 22 。四郎次郎は、京での商売を通じて得た政治・軍事の最新情報を浜松の家康に報告し、その活動は家康の戦略決定に大きな影響を与えた。
家康が茶屋四郎次郎という「プロの商人」を諜報員として活用していたという歴史的事実は、「本多正信が商人に化ける」という逸話の着想が、決して荒唐無稽なものではないことを示している。むしろ、当時の常識から見て、極めて蓋然性の高い設定であったと言える。正信の物語は、家康が実践していた諜報戦略を、より個人的でドラマティックな形で表現したものと解釈することができる。それは、組織的な諜報網とは別に、個人の才覚と胆力によって行われるインテリジェンス活動の可能性を示唆している。
第三章:歴史的再構築 ― もし諜報譚が事実であったなら
(注記)
本章は、史料的裏付けのない空白を埋めるための「歴史的想像力に基づく再構築」である。これは、利用者様の「リアルタイムな会話内容」「その時の状態」という要望に対し、専門家として誠実に応えるための試みであり、学術的推論による一つの可能性の提示であることを、ここに明記する。
【前段:再起への動機】
時期: 天正3年(1575年)、長篠の戦いの後。
織田・徳川連合軍が武田勝頼に大勝し、戦国のパワーバランスが大きく変動し始めた頃。家康は三方ヶ原の雪辱を果たし、その武名は着実に高まっていた。
正信の状況:
加賀、あるいは京の片隅で、正信(当時38歳)は息を潜めるように暮らしていた。松永久秀のもとで権謀術数の現実を目の当たりにし、あるいは加賀の門徒たちと共に戦う中で、三河という故郷がいかに小さな世界であったかを痛感していた。流浪の生活は10年を超え、心身ともに疲弊していたが、天下の情勢を見極める冷静な目は失っていなかった。旧主・家康の躍進を伝え聞くたび、彼の胸には複雑な思いが去来する。かつて自らが叛旗を翻した若き主君は、今や信長と肩を並べるほどの器量を示している。果たして、それは真実か。自らの再起の可能性は、徳川家にあるのではないか。正信は、己の将来を賭け、その真価を自らの目で見極めることを決意する。
【中段:浜松への潜入と情報収集】
変装と潜入:
正信は、越後産の青苧(あおそ、麻の原料)などを扱う行商人に扮した。遠国からの商人であれば、顔を知る者も少なく、怪しまれにくい。痩身で、苦労の滲む顔つきは、諸国を渡り歩く商人の風貌として不自然ではなかった。かつて桶狭間で負った古傷のせいで僅かに足を引きずる歩き方も、長旅の疲れを装うのに好都合であった。彼は、活気に満ち、様々な情報が行き交う家康の拠点、遠州・浜松の城下へと潜入する 17。
場面①:城下の酒場にて
夕暮れ時、正信は城下の一角にある木賃宿兼営の酒場に腰を下ろした。そこは、普請作業を終えた人足や、勤め帰りの足軽たちが一日の疲れを癒すために集う場所だった。彼は、周囲の者たちに気前よく濁り酒を振る舞い、自然と会話の輪に加わっていった。
- 想定会話:
- 商人A: 「いやはや、長篠では武田の赤備えも形無しだったと聞きやすぜ。これで我ら商人も、安心して浜松まで荷を運べますわい」
- 足軽B: 「ああ。だが、殿(家康)は少しも気を緩めておられんぞ。『信玄公亡き後とて、武田は侮れぬ。勝って兜の緒を締めよ』と、城中の見回りも一層厳しくなったくらいだ」
- 正信(商人風に): 「ほう、殿様は実に慎重なお方ですな。さぞかし、家臣の方々からの人望も厚いことでしょう。これだけの城下を築き上げておられるのだから」
- 足軽B: 「当たり前よ。俺たちみてえな末端の者のことまで、本当によく見てくださるお方だ。三方ヶ原で地獄を見たお方だからな。あの時、殿は糞尿を漏らしながらも、ただ一人生き残ったことを恥じ、我らを逃すために死んでいった者たちのことを決して忘れぬと誓われた。あの厳しさと、あの優しさがあるからこそ、我らは命を懸けられるんだ」
正信は黙って杯を傾けた。この足軽の言葉から、家康が単なる幸運や信長の威光だけで勢力を伸ばしているのではないことを悟る。敗戦という最大の屈辱を糧に変え、家臣の心を強く掴む、真の将器を身につけつつあることを、正信は肌で感じ取っていた。
場面②:鷹狩りの行列を遠望する
数日後、正信は城外の天竜川に近い街道筋で荷を広げていた。すると、遠くから近づいてくる一団があった。徳川の旗印、そして鷹を腕に乗せた鷹匠たちの姿。家康の鷹狩りの一行であった。正信自身も、かつては鷹匠を務めた経験がある 10。彼は咄嗟に身を隠し、松の木の陰からその様子を食い入るように見つめた。
家康は馬上で、傍らの榊原康政や大久保忠世と何か言葉を交わしている。その表情には、かつて正信が知る、今川家の人質であった頃の線の細い青年の面影はなかった。日に焼け、精悍さを増した顔には、幾多の修羅場を乗り越えてきた国主としての威厳と、深い思慮が刻まれている。一行の動きは統率が取れており、家康と家臣たちの間には、緊張感の中にも揺るぎない信頼関係が窺えた。
正信の胸に、熱いものがこみ上げる。(あのお方が、ここまで……。俺が三河を捨てた時には、想像もできなんだ姿だ。だが、あの眼の奥の深さ、人の心を見透かすような静かな光は変わらない。俺が本当に仕えるべきお方は、やはり……)。
【後段:帰参への決意】
浜松での数日間にわたる諜報活動は、正信に一つの確信をもたらした。徳川家康は、信長のような苛烈な天才ではない。しかし、忍耐と、人を惹きつける徳、そして敗北から学ぶしたたかさによって、いずれ天下を狙える器である、と。そして、その智謀の傍らには、まだ空席がある。武勇を誇る猛将は数多いるが、天下を見据えた大局的な謀略を献じる者が、決定的に不足している。
(俺の居場所は、やはりあのお方の傍らにしかない)。
この諜報活動で得た「確信」こそが、正信を動かした。彼は浜松を後にすると、旧知の仲であり、家康の信頼も厚い大久保忠世に密かに接触し、帰参の橋渡しを依頼する 5 。商人に化けて得た情報は、単なる状況報告ではなく、自らの半生を賭けた再起のための、何よりの「手土産」となったのである。
第四章:逸話の真相 ― なぜこの物語は生まれたのか
本報告書が明らかにしてきたように、本多正信の「商人に化けた諜報譚」は、史料上でその事実を確認することができない。したがって、この逸話は史実ではなく、後世に創出された「物語」である可能性が極めて高いと結論付けられる。では、なぜこのような物語が必然的に生まれ、語り継がれることになったのか。その構造を、以下に多角的に分析する。
理由①:「歴史の空白」を埋める物語的要請
第一章で詳述した通り、正信の経歴には、三河一向一揆による出奔から帰参までの約20年間にわたる「歴史の空白」が存在する。後世の人々、特に徳川の治世下で彼の功績を語り継ごうとした人々にとって、この空白期間は説明が必要な「欠落」であった。徳川創業の功臣が、20年もの長きにわたり主君のもとを離れていたという事実は、そのまま語るには都合が悪かった。
単に「諸国を放浪していた」とするのではなく、「旧主を忘れられず、商人に身をやつして陰ながらその動向を探っていた」という物語を挿入することで、彼の出奔期間は「不忠」や「逃亡」ではなく、来るべき帰参と忠節のための「準備期間」として、肯定的に意味付けられる。この物語は、彼の経歴の瑕疵を巧みに糊塗し、一貫した忠臣像を構築するための、極めて効果的な装置として機能したのである。
理由②:「謀臣・正信」の人物像を象徴するアイコンとして
徳川家臣団と言えば、本多忠勝や井伊直政に代表されるような、武勇を誇る猛将のイメージが強い 8 。その中で、正信は知謀と策略を武器とする異色の存在であった 14 。同族でありながら、「あの本多とは無関係」とまで言われた本多忠勝が「槍働き」で家康に尽くしたのに対し 28 、正信は「頭脳働き」で奉公した。
この対比を際立たせる上で、「諜報活動」は正信の役割を象徴する最も分かりやすいアイコンとなる。「商人に化けて敵情を探る」という行為は、彼の本質が武力ではなく、情報、分析、そして策略にあることを端的に示している。この逸話は、正信の「智」の側面を一つの物語に凝縮し、徳川家が武力と知力の両輪によって天下を取ったことを示す上で、非常に分かりやすい構図を提供した。それは、史実であるか否かを超えて、彼の本質を最もよく表す「真実の物語」として人々に受け入れられたのである。
理由③:家康との特異な関係性を説明する神話
一度は命を懸けて敵対した相手を、帰参後に「友」と呼び 29 、幕政の中枢を担わせた家康の判断は、戦国の常識からすれば極めて異例である。譜代の家臣たちからは「はらわたの腐った奴」とまで酷評された正信が 2 、なぜそれほどの信頼を得ることができたのか。この尋常ならざる関係性の背景には、合理的な説明を超えた物語が要請された。
「流浪中も家康を気にかけ、その器量を再確認した上で帰参した」という筋書きは、二人の絆が単なる主従関係を超えた、互いの才能を深く認め合う特別なものであったことを示唆する。正信は家康の将来性を見抜き、家康は正信の非凡な才覚を必要とした。この逸話は、二人の「水魚の交わり」 5 を運命的なものとして描き出すための、いわば「創世神話」の役割を果たしている。それは、徳川政権の根幹を成した家康と正信のパートナーシップが、いかに強固で必然的なものであったかを後世に伝えるための、巧みな物語的装置なのである。この物語は、江戸時代を通じて形成されていった「徳川史観」の一部として、家康の神君性と、それを支えた家臣たちの理想的な忠誠を補強する役割を担った可能性も否定できない。
終章:謀臣の遺産 ― 史実を超えた実像
本報告書が徹底的に調査した結果、本多正信の「商人に化けた諜報譚」は、史料上確認できない、後世の創作である可能性が極めて高いと結論付けられる。しかし、この物語は単なる作り話として片付けられるべきではない。それは、彼の人物像、活躍した時代の特性、そして主君・家康との比類なき関係性を見事に映し出した、極めて優れた「歴史的創作」なのである。
正信の真価は、関ヶ原の戦いにおける調略 9 や、大坂の陣における方広寺鐘銘事件の策謀 14 といった、記録に残る功績だけにあるのではない。むしろ、このような魅力的な逸話を生み出すほどに、彼の謎に満ちた半生と、一度は敵対しながらも絶対的な信頼を勝ち得たその生き様が、後世の人々の心を捉えて離さなかったという事実そのものに、彼の非凡さがある。
我々が歴史上の人物を理解しようとする時、確定された「史実」の断片を追うだけでなく、なぜ人々がその人物について特定の「物語」を語りたがったのかを問う視点が不可欠である。物語は、史実の行間を埋め、人々の願望や理想、そして時代の価値観を映し出す鏡となる。本多正信の諜報譚は、史実の探求と物語の読解が交差する地点にこそ、人物のより深い実像が浮かび上がることを教えてくれる好例と言えよう。この逸話は、史実ではないかもしれない。しかし、本多正信という謀臣の本質を、どの史料よりも雄弁に物語っているのである。
引用文献
- 本多正信ってどんな人? 名言や逸話からその人物像に迫る - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/810
- 本多正信 - 生得、姦人(しょうとく、かんじん)(橋本ちかげ) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054918964712/episodes/1177354055115842439
- About: 本多正信 http://ja.dbpedia.org/page/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E4%BF%A1
- 本多正信、登場(「どうする家康」17) - 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/32888942/
- 『どうする家康』本多正信の実像、家康を裏切る?本当は真面目で勤勉だった? 徳川家康と家臣たちのゆかりの地(第2回) (2/5) - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/74214?page=2
- 名将言行録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%B0%86%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2
- 戦国時代に神がかりの57戦無傷!徳川家康を支え続けた猛将、本多忠勝の忠義 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/74139/
- 本多忠勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E5%8B%9D
- 家康を天下統一に押し上げた謀将、本多正信「裏切り」の真意とは - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/223711/
- 本多正信〜天下人に友と呼ばれた男をわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/828/
- 栄光から転落へ。大事件で13年間身の潔白を主張し続けた徳川家康の側近、本多正純の人生 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/115967/
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- 現代にも役立つ「戦国の忍び」諜報活動の奥義 「忍者」でも「Ninja」でもない、その実像に迫る https://toyokeizai.net/articles/-/397626?display=b
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- 家康公エピソード 磯田道史のちょっと家康み | 浜松でペット同伴可能な飲食店 ドッグルハウス(ドッグレストラン&ドッグラン) https://doglle-house.jp/about/hamamatsu/ieyasu/
- 家臣団の嫌われ者・本多正信が辿った生涯|天下取りに欠かせない家康の盟友【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1110659/2
- 本多正信 - BS-TBS THEナンバー2 ~歴史を動かした影の主役たち~ https://bs.tbs.co.jp/no2/06.html
- 徳川四天王 家康の頭脳として尽力した謀臣・本多正信 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10672
- 裏切り者?『本多正信』家康の天下統一に最も貢献した名参謀 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/hondamasanobu/
- 本多正信の死因は老衰による大往生!謀臣正信が生き残った理由は無欲さ? https://hono.jp/sengoku/tokugawa-sengoku/masanob-death/
- 「どうする家康」本多正信論:家康に「友」と呼ばれた男の生涯 - Tech Team Journal https://ttj.paiza.jp/archives/2023/07/29/9833/
- 家臣団の嫌われ者・本多正信が辿った生涯|天下取りに欠かせない家康の盟友【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1110659
- 本多正信は何をした人?「政敵を封殺する陰謀の数々で晩年の黒い家康を創出した」ハナシ https://busho.fun/person/masanobu-honda