最終更新日 2025-10-16

本多正信
 ~落魄時に行商巡り情報網を築く~

本多正信は三河一向一揆で家康に背き出奔。落魄時に行商巡りで諸国の情報網を築き、後に家康の謀臣として天下取りを支えた。その諜報譚は伝説として語り継がれる。

本多正信、落魄時に行商を巡り情報網を築く ― 謀臣の原点、その諜報譚の徹底解剖

序章:三河追放 ― 伝説の幕開け

徳川家康の天下取りを影で支えた謀臣、本多正信。彼の生涯には数多の逸話が残されているが、中でも特に異彩を放ち、その人物像の根幹を形成しているのが、落魄の身で諸国を行商して回り、密かに情報網を築き上げたという諜報譚である。この物語は、単なる敗残者の流浪記ではない。それは、後の大軍師がその知謀の礎を築き、乱世を生き抜くための爪を研いだ、戦略的潜伏期間の記録なのである。本報告書は、この逸話にのみ焦点を絞り、その背景、過程、そして歴史的意味を徹底的に解剖するものである。

永禄6年(1563年)~永禄7年(1564年):三河一向一揆の激化と終焉

物語の幕は、徳川家康(当時は松平元康)の生涯における三大危機の一つ、三河一向一揆から開く 1 。本多正信は、祖父の代から松平家に仕える譜代の家臣であった 2 。しかし同時に、彼は熱心な一向宗(浄土真宗本願寺派)の門徒でもあった 3 。この忠誠と信仰という二つのアイデンティティが、彼の運命を大きく揺さぶることになる。

永禄6年、今川氏から独立し三河統一を急ぐ家康は、支配を強化する過程で寺社の不入権を侵害し、上宮寺などから強引に兵糧を徴収した 3 。この行為は、一向宗門徒の信仰心に火をつけ、瞬く間に三河全土を巻き込む大規模な一揆へと発展した。徳川家臣団からも門徒が次々と一揆側に寝返り、家中は分裂の危機に瀕した 1

この時、本多正信は究極の選択を迫られる。そして彼は、主君ではなく、信仰を選んだ。妻子を三河に残し、一揆勢に身を投じたのである 2 。彼は単なる参加者ではなく、一揆勢の軍師的な役割を担い、その知略で幾度となく家康を窮地に陥れたと伝えられている 4

約半年にわたる激しい戦闘の末、一揆は鎮圧される。家康は、敵対した家臣たちに対して驚くほど寛大な処置を取り、多くの者の帰参を許した 1 。しかし、本多正信はその赦免を受け入れず、自ら三河を去る道を選んだ 4 。これは単なる「追放」ではなかった。家康が多くの者を許している事実を踏まえれば、これは正信自身の明確な意志に基づく「出奔」であった。彼がなぜ、主君の温情を拒絶してまで流浪の身を選んだのか。その胸中には、主君を裏切った罪悪感、信仰を貫いた矜持、そして何よりも、武功を第一とする三河武士団の中で、知謀を旨とする自身に未来はないという冷徹な自己分析があったのかもしれない 1 。この「自発的な落魄」こそ、彼の伝説の真の起点となるのである。

出奔の情景と心理描写

妻子との別離は、断腸の思いであったに違いない。後の帰参に尽力することになる盟友・大久保忠世が、正信の留守中にその家族の面倒を見ていたという伝承は、この時の正信の苦渋と、忠世との深い絆を物語っている 1 。槍働きが主流の家臣団の中で、異質と見なされがちだった正信の才を、忠世は誰よりも理解していた。

こうして正信は、一人の浪人として、あるいは信仰を共にする一向宗門徒として、未知の世界へと旅立った。その足取りは敗残者のそれではなく、明確な目的意識を秘めた、次なる戦場へ向かう者のそれであった。

第一章:闇を往く者 ― 浪人という現実と非凡なる器

主家を離れた正信が足を踏み入れた戦国時代の日本は、一所懸命の地を失った浪人にとってあまりにも過酷な世界であった。彼の前には、飢えと暴力、そして絶え間ない死の危険が待ち受けていた。

戦国時代の旅と浪人の生活

当時の旅は、現代のそれとは全く異なり、常に生命の危険と隣り合わせであった。街道には山賊や追い剥ぎが跋扈し、夜間の移動は物の怪の領域とさえ考えられていた 11 。また、各地に設けられた関所では厳しい盤問が行われ、身元の不確かな者は通行を許されなかった 12 。食糧は腰兵糧として干飯や味噌玉を携帯するが、それも尽きれば調達は困難を極めた 14

このような状況下で、主家という庇護を失った浪人の立場は極めて脆弱であった 16 。再仕官の道は狭く、黒田家を出奔した後藤又兵衛が旧主からの「奉公構(他家への仕官妨害)」によって長く浪人生活を強いられたように、一度「裏切り者」の烙印を押されれば、その汚名を雪ぐことは容易ではなかった 17 。正信もまた、主君に弓を引いた大罪人として、いつ追討の手に掛かってもおかしくない身の上であった。

松永久秀との邂逅

『藩翰譜』などの後世の編纂物によれば、三河を出た正信は京へ向かい、その後、大和国信貴山城の城主、松永久秀を頼ったとされる 2 。なぜ、当代きっての「梟雄」と名高い久秀だったのか。その理由は定かではないが、当時、三好三人衆と畿内の覇権を争っていた久秀にとって、三河で大規模な一揆を指導した正信の知見や、彼が持つ一向宗との繋がりは、利用価値のあるものと映ったのかもしれない。

この邂逅において、久秀は正信の本質を見抜いたとされる。伝えられるその言葉は、正信の人物像を語る上で欠かすことのできない重要な証言となっている。

「徳川家の武士は武勇の者が多いが、正信は強からず、柔らかならず、また卑しからず、世の常の人ではないようだ」 2

この評価の持つ意味は大きい。主家乗っ取り、将軍暗殺、東大寺大仏殿焼き討ちという「三悪事」で知られる久秀は、人の本質、特に権謀術数に通じる者の才覚を見抜く鋭い眼を持っていた 22 。その久秀が、一介の浪人に過ぎない正信を「ただ者ではない」と評したのである。これは、正信が単に忠義や武勇を重んじる三河武士の枠に収まらない、非情なまでの合理性と、目的のためには手段を選ばない策略家の資質を、この時点で既に備えていたことの客観的な証明と言える。

この時の二人の会話を、史料を基に再構成してみよう。

久秀: 「そなた、弥八郎(正信の通称)と申したな。三河で大層な一揆を仕掛けたと聞く。家康殿の赦しを蹴ってまで、何故わしを頼った?」

正信: 「弾正様(久秀)は、力のみでは乱世は渡れぬことを最もご存じのお方と拝察致しました。某(それがし)、今は槍働きよりも、智の働きで活きる道を求めております。」

久秀: (面白そうに笑い)「ふん、三河武士には珍しい男よ。強きにあらず、さりとて弱きにもあらず。その目に宿る光、常人のそれではないわ。面白い。しばらく側に置こう。」

久秀のもとに身を寄せた期間は長くはなかったようだが 26 、この出会いは、正信の「謀臣」としての潜在能力が、徳川家という閉じた世界を離れ、天下の舞台で初めて公に認められた瞬間であった。彼の浪人時代は、単なる雌伏の期間ではなく、その才能が世に知られ始める黎明期でもあったのだ。

第二章:薬売りの仮面 ― 諸国を巡る諜報譚

松永久秀のもとを離れた後の正信の足取りは、歴史の霧に包まれている。しかし、この空白の期間こそが、「行商に身をやつし、情報網を築いた」という伝説の舞台となる。彼はなぜ、数ある職業の中から「行商人」、特に「薬売り」を選んだのか。その選択には、極めて合理的かつ戦略的な意図が隠されていた。

なぜ「薬売り」だったのか? ― 諜報活動の隠れ蓑としての優位性

戦国時代において、「薬売り」という職業は、諜報活動を行う上で理想的な隠れ蓑であった。

第一に、 移動の自由 が挙げられる。当時、大名たちは領国経営と防衛のために街道に関所を設け、人々の往来を厳しく監視していた 13 。特に武装した武士の自由な移動は、謀反や間諜を警戒する観点から厳しく制限された。しかし、経済活動を担う商人は、社会の血流を維持するために必要な存在であり、比較的自由な通行が認められていた 28 。薬売りは、人々の健康を支えるという大義名分もあり、諸国を巡る上で都合の良い身分であった。

第二に、 情報の集積地 としての役割である。行商人は、土地から土地へと渡り歩く過程で、各地の産物、物価、人々の暮らしぶり、そして領主の評判といった生きた情報を自然と見聞きする。そのため、大名の中には御用商人を抱え、彼らを情報源として活用する者も少なくなかった 28

そして第三に、最も重要な点が、 民衆へのアクセス能力 である。特に薬売りは、顧客の病や健康という、人間の最も個人的で切実な領域に深く関与することができる。江戸時代に確立された富山の薬売りの「先用後利(せんようこうり)」という販売形態は、その好例である 31 。これは、まず薬箱を顧客の家に預けておき、後日訪問した際に使った分だけの代金を受け取るという画期的なシステムであった。この方法は、顧客との間に継続的な信頼関係を築き、定期的に家の中まで立ち入ることを可能にする。それは、家族構成、経済状況、近隣の噂話、領主への不満といった、外部からはうかがい知れない内部情報を収集する上で、またとない機会を提供した。

この「薬売り」の業務プロセスそのものが、諜報活動のフレームワークとして完璧に機能する。顧客台帳である「懸場帳」は情報ターゲットのリストであり、定期巡回は定点観測、そして先用後利は情報提供者との関係構築手法に他ならない。正信がこのシステムを理解し、活用したとすれば、彼は単に薬売りの「ふり」をしていたのではなく、当時最先端の巡回販売システムを、そのまま情報収集ネットワークの運用モデルとして転用したことになる。

本多正信、薬売りとなる ― 情景の再構築

桶狭間の戦いで負ったという足の傷を引きずりながら 6 、背には20kgもの柳行李を背負い、街道をゆく正信の姿が目に浮かぶ。その姿は、かつての武士の面影を消し去り、風雪に耐える一介の行商人にしか見えなかったであろう。

表1:本多正信の行商装備(推定)

装備品

史料に基づく描写・用途

諜報活動における役割・価値(推定)

関連情報源

柳行李(やなぎごうり)

薬や土産品を入れるための軽量で丈夫な籠。重さは20kgにも及んだ。

薬の他に、地図、密書、変装用の衣服などを隠す。外見からは中身を推察されにくい。

31

懸場帳(かけばちょう)

顧客の住所、氏名、家族構成、配置薬の使用状況を記録する台帳。

諸国の有力者、地侍、民衆の動向を記録する情報ファイル。人間関係、経済状況、不満などを把握。

34

薬種(やくしゅ)・反魂丹

腹痛や万病に効くとされる丸薬。行商の主要商品。

諸国の要人への贈り物や、時には毒としても使用可能な知識を持つ。薬の知識は人の生死に関わるため、相手に恩を売る手段ともなる。

32

売薬版画・土産品

顧客へのサービス品。江戸の文化を地方に伝える役割も果たした。

買収や情報提供者への報酬。あるいは特定の印や情報を盛り込んだ連絡ツールとして使用した可能性。

31

打飼袋(うちがいぶくろ)・兵糧

糒(ほしいい)や味噌玉などを入れ、襷掛けにする携帯食糧袋。

長期間の潜伏活動を可能にするためのサバイバルキット。目立たずに食糧を確保し、行動の自由度を高める。

14

関所での役人とのやり取りは、彼の知謀が試される最初の関門であった。

関所の役人: 「待て、その方、何者だ。その荷は何だ?」

正信(薬売り風に): 「へい、あっしは越中富山の薬売りでございます。これは反魂丹をはじめ、家伝の薬でして。先の村々で病に苦しむ方々にお届けに参る途中でございます。」

役人: 「ふん、薬売りか。近頃は物騒だからな。中身を改めさせてもらうぞ。」

正信: 「どうぞどうぞ。ですが、この薬草は湿気に弱いので、お手柔らかにお願いしますだ。これも民を救うためのものにございますれば。」

巧みな口上と卑屈すぎない態度で、彼は疑いの目を潜り抜けていったであろう。そして、顧客の家々では、薬を介して巧みに情報を引き出していく。

農家の主婦: 「まあ、薬屋さん、よく来てくだすった。この間の腹下しの薬、よく効いたよ。」

正信: 「それはようございました。して、ご亭主はお元気で?お子さん方も息災ですかな?(懸場帳に何かを書き込みながら)ああ、そういえば、最近この辺りではお侍様の動きが騒がしいと聞きますが、何か変わったことはございませんか?」

主婦: 「さあねえ。でも、お城のほうで何やら荷の出入りが激しいとか、見慣れない旗印の人が来ていたとか、うちの亭主が話してたかねえ…」

このような地道な活動の積み重ねが、やがて巨大な情報網の毛細血管を形成していく。彼は薬を配ることで人々の信頼を得、その信頼を糧に、乱世の深層を流れる情報の脈流を掴んでいったのである。

第三章:見えざる蜘蛛の糸 ― 一向宗門徒ネットワーク

本多正信の諜報譚が単なる一個人の活躍に終わらないのは、彼の背後に巨大な組織の影が見え隠れするからである。彼が築いたとされる「情報網」とは、彼がゼロから作り上げたものではなく、既存の巨大ネットワークを諜報目的に再編成したものであった可能性が高い。そのネットワークこそ、彼が身を捧げた「一向宗」の門徒組織である。

一向宗ネットワークの実態

戦国時代の一向宗は、単なる宗教団体ではなかった。本願寺を頂点とし、全国に張り巡らされた末寺と、強固な信仰で結ばれた門徒によって構成される、大名に匹敵するほどの力を持った社会・軍事勢力であった 7

その組織力は絶大で、織田信長という当代随一の権力者を相手に、10年にも及ぶ石山合戦を戦い抜いたことからも明らかである 7 。この戦いを支えたのは、門徒からの潤沢な寄進による経済基盤と、死をも恐れぬ強固な信仰心で結ばれた人的資源であった。

さらに特筆すべきは、その情報伝達能力である。全国の寺院は、情報の結節点として機能した。僧侶や門徒は、信仰を理由に諸国を往来し、各地の寺院を拠点として情報を交換することができた 7 。彼らは、大名が支配する「国」という単位とは異なる、信仰で結ばれた独自の広域コミュニティを形成していたのである。このネットワークは、特定の領主に縛られない、国境を越えた情報網として機能する潜在能力を秘めていた。

正信とネットワークの接続

正信の非凡さは、この宗教ネットワークが持つ潜在能力に気づき、それを「徳川家康の再起」という政治・軍事目的のために転用する着想を得た点にある。

三河を出奔した正信が、一向宗の勢力が最も強い「百姓の持ちたる国」加賀へ向かい、「一揆の将」として迎えられたという伝承は、彼が単なる一門徒ではなく、組織内で広く名を知られた指導者的人物であったことを示唆している 3 。彼は、三河一向一揆の指導者という「実績」を携え、一向宗ネットワークの中枢にアクセスする資格を持っていたのだ。

彼の計画は、二重構造になっていたと推察される。表の顔である「薬売り」として、彼は民衆レベルのミクロな情報を収集する。これは情報網の「末端の毛細血管」である。そして、その裏で、彼は各地の一向宗寺院を安全な拠点(セーフハウス)として利用し、現地の門徒を情報提供者(インフォーマント)として組織化する。寺院は情報の集積地となり、門徒の往来を通じて、集められた情報は他の地域へと伝達されていく。これが、情報を集約・伝達する「国家規模の動脈」の役割を果たした。

例えば、ある国で薬売りとして収集した敵対大名の軍備に関する情報を、国境近くの寺院で整理し、別の門徒に託して石山本願寺や、あるいは密かに三河の同志へと送る。そして次の目的地では、現地の寺院で新たな指令や他地域からの情報を受け取る。このようにして、正信はあたかも蜘蛛が巣を張るように、見えざる情報の糸を日本各地に張り巡らせていったのである。

この逸話は、無から有を生み出す創造の物語ではない。既存の巨大なリソースを、全く新しい目的のために活用する、卓越した着想とマネジメント能力の物語である。彼は発明家ではなく、天才的な編集者(キュレーター)であったのだ。

第四章:再起の時 ― 友の助けと蓄積された知見

十数年に及ぶとされる流浪の末、本多正信は再び歴史の表舞台に姿を現す。彼の帰参は、旧友の変わらぬ友情と、天下の情勢が新たな局面を迎えたこと、そして何よりも、彼自身が浪人生活で蓄積した知見が、徳川家にとって必要不可欠なものとなった結果であった。

帰参への道筋

正信が諸国を放浪していた間、徳川家康を取り巻く環境は激変していた。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い以降、今川家から独立し、三河を平定。織田信長と清洲同盟を結び、遠江へと勢力を拡大した 43 。しかしその一方で、西からは信長、東からは「甲斐の虎」武田信玄という二大勢力に挟まれ、常に緊張を強いられる立場にあった 44 。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、信玄に惨敗を喫するなど、その道のりは決して平坦ではなかった。家康はもはや三河の小大名ではなく、天下の動向を左右する重要人物となっていたが、それ故に、武力だけでなく、より高度な情報戦と外交戦略が求められるようになっていた。

このような状況下で、正信の才能を惜しんでいたのが、徳川四天王にも数えられる重臣・大久保忠世であった 1 。忠世は、正信の留守中、その妻子を庇護し続け、常に彼の身を案じていた 2 。そして、「弥八郎(正信)の才能は埋もれさせてしまうには惜しい」と、家康に幾度となく帰参を働きかけたのである 2

正信が正式に帰参した時期については、元亀元年(1570年)頃から天正10年(1582年)の本能寺の変直前まで諸説あり、判然としない 3 。しかし、いずれの時期にせよ、忠世の熱心な仲介がなければ、一度は主君に弓を引いた裏切り者が再び徳川家臣団に迎え入れられることはなかったであろう。

鷹匠からの再出発

帰参を許された正信に与えられた役職は、「鷹匠」であったと伝えられている 3 。石高もわずかであり、一見すれば冷遇とも取れる処遇である。しかし、この人事は家康の深謀遠慮を示す、極めて巧妙な一手であった。

まず、一度主君を裏切った人物をいきなり要職に就ければ、一揆と命がけで戦った他の家臣、特に本多忠勝をはじめとする武断派の猛烈な反発を招くことは必至であった 10 。鷹匠という低い身分から再スタートさせることは、家中の軋轢を避けるための緩衝措置として機能した。

しかし、この人事の真の狙いはそこだけではない。鷹狩りを生涯の趣味とした家康にとって、鷹匠は常に側に控え、直接言葉を交わす機会の多い、特別な存在であった 50 。公式な評定の場では話せないような機微に触れる話題や、大胆な策謀について、家康は鷹狩というプライベートな空間で、正信と密談を交わすことができた。これは、正信が浪人時代に得た諸国の生々しい情報を吸い上げ、同時に彼の人物と忠誠心を改めて見極めるための、絶好の「試用期間」兼「情報吸い上げ装置」であったと言える。

鷹匠という仕事自体も、謀臣の資質と無関係ではない。鷹の性質を見極め、地形を読み、風を捉え、獲物を狩るための最適な戦略を立てる能力は、人心を読み、情勢を分析し、敵を陥れる策を練る謀臣の思考法と通じるものがある 51 。正信は、家康の鷹を操りながら、天下という獲物を狩るための壮大な戦略を、主君の耳に吹き込んでいったであろう。

彼が「薬売り」として得た各地の地理、国情、有力者の人脈、そして民衆の生活実感は、城の中にいては決して得ることのできない、かけがえのない財産であった 53 。この情報こそが、他の家臣にはない正信独自の価値となり、やがて家康から「友」とまで呼ばれるほどの絶対的な信頼を勝ち得る源泉となったのである 3

結論:虚実の皮膜 ― 伝説として昇華された謀臣の原点

「本多正信、落魄時に行商巡り情報網を築く」―この逸話は、厳密な意味での一次史料によって裏付けられた確定的な史実ではないかもしれない。彼の十数年に及ぶ浪人時代の具体的な行動を記した記録は、極めて乏しいのが現実である 19

しかし、この物語が歴史的事実でないとしても、それは単なる作り話、絵空事として片付けられるべきものではない。むしろ、この逸話は、本多正信という人物の本質と、彼が徳川家康の天下取りにおいて果たした役割を、後世の人々が理解し、語り継ぐために生み出された、最も的確な「物語」=「もう一つの真実」なのである。

この伝説が生まれた背景には、正信の謎に満ちた経歴と、帰参後の謀臣としての目覚ましい活躍との間に存在する、大きな「空白」を埋めたいという人々の欲求があった。三河一向一揆で主君を裏切った男が、いかにして家康の「友」となり、関ヶ原の戦いにおける西軍諸将の調略 3 や、大坂の陣における豊臣家滅亡の策謀 3 を主導するほどの絶対的な信頼を得るに至ったのか。その劇的な飛躍の理由を説明する物語として、この諜報譚はあまりにも魅力的であった。

本多忠勝に代表されるような、戦場での武功によって立身した武将が大多数を占める徳川家臣団の中で、正信は知謀によってその地位を確立した極めて異質な存在であった 56 。彼の非凡なまでの先見性、人心掌握術、そして時に冷徹ともいえるほどの合理的な判断力は、一体どこで培われたのか。その答えを、人々は彼の流浪の時代に見出した。諸国を巡り、社会の底辺で人々の喜怒哀楽に触れ、裏切りと策略が渦巻く乱世の実態をその目で見た経験こそが、彼の知謀に深みと凄みを与えたのだと。

この逸話が我々に語りかける「真実」とは、以下の三点に集約される。

第一に、本多正信が戦国という時代において、情報戦の重要性を誰よりも深く、そして早くから理解していた人物であったこと。

第二に、彼が単なる敗残者ではなく、逆境をものともしない強靭な精神力と、それを飛躍の糧に変える卓越した知謀を兼ね備えていたこと。

そして第三に、徳川家康の天下泰平という大事業が、華々しい武功を立てた武断派の家臣たちだけでなく、正信のような歴史の影に生きた謀臣の、人知れぬ働きによっても支えられていたという、歴史の多層性である。

我々が本多正信のこの逸話を追うことは、単なる一人の武将の数奇な物語を知ることに留まらない。それは、戦国という時代が、武力のみならず、情報、組織、そして人間の知謀がいかに決定的な役割を果たしたかを理解する旅でもある。正信が背負った柳行李の中には、反魂丹や土産物の版画だけでなく、徳川三百年の平和へと続く、無数の情報の種が、確かに詰め込まれていた。この伝説は、そのことを我々に雄弁に物語っているのである。

引用文献

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  2. 徳川四天王 家康の頭脳として尽力した謀臣・本多正信 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10672
  3. 本多正信は何をした人?「政敵を封殺する陰謀の数々で晩年の黒い家康を創出した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/masanobu-honda
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  47. 本多正信 名軍師/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90092/
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  49. 本多正信|大河ドラマの登場人物 https://fact-web.com/taiga/honda_masanobu.html
  50. 信長も家康も!みんな大好き「鷹狩り」の秘密。じつは出世のチャンスって本当? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/72766/
  51. 家康が愛した「鷹狩」とは?「鷹狩」の歴史も解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1114194
  52. 鷹狩は、古代では天皇や貴族の遊びとして、中世では武士のたしなみとして古くから行われ、 - 一色地域文化広場 https://isshiki-ccp.jp/archives/001/202311/%E3%80%90%E9%85%8D%E5%B8%83%E8%B3%87%E6%96%99%E3%80%91%E5%90%89%E8%89%AF%E5%BE%A1%E9%B7%B9%E5%A0%B4_%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%88.pdf
  53. 三河一向一揆の後どこ行った?本多正信の徳川家出奔から再仕官に至るまでの放浪旅【どうする家康】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/194311/2
  54. 本多正信ってどんな人? 名言や逸話からその人物像に迫る - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/810
  55. 「三河一向一揆」の背景・結果を解説|家臣の裏切りで、家康を苦しめた戦い【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1113050
  56. 家臣団の嫌われ者・本多正信が辿った生涯|天下取りに欠かせない家康の盟友【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1110659/2