最終更新日 2025-10-16

松平信康
 ~信長疑い受け切腹家康涙~

徳川家康の嫡男・松平信康が信長の疑いを受け切腹した悲劇。家中の対立、徳姫の訴状、家康の苦渋の決断が交錯。父子の絆と政治的思惑が織りなす戦国の物語。

専門家報告書:松平信康自刃事件の真相 ― 信長の疑い、家康の涙、その瞬間の再構築

序章:悲劇への序曲——岡崎と浜松、二つの城

天正七年(1579年)に徳川家を襲った未曾有の悲劇、すなわち嫡男・松平信康の自刃と正室・築山殿の殺害は、単なる家庭内の不和が引き起こした偶発的な事件ではない。その根源には、徳川家が構造的に抱えていた深刻な内部対立、いわば二つの政治的中枢の存在があった。この章では、事件の直接的な引き金となる以前から徳川家中に埋設されていた、悲劇への導火線を明らかにする。

徳川家中の構造的分断:二元政治の綻び

事件の遠因は、元亀元年(1570年)に徳川家康が下した一つの戦略的決断に遡る 1 。武田氏との攻防が激化する中、家康は対武田戦線の最前線として、本拠地を父祖伝来の三河岡崎城から遠江引間城(後の浜松城)へと移転したのである 3 。この遷府は軍事的には理に適っていたが、徳川家中に深刻な分断をもたらした。

家康に従い浜松に移った家臣団は、織田信長との同盟を基軸に対武田の最前線で戦う、いわば「浜松派」を形成した 4 。彼らは家康の直轄戦力であり、徳川家の主流派と目されるようになる。一方、旧来の本拠地である岡崎城は、元服した嫡男・松平信康に譲られた 2 。信康の周囲には、後方支援を担う三河譜代の家臣たちが残り、事実上の「岡崎派」が形成された 5

さらに、家康の正室であり信康の生母である築山殿も、夫とは不仲であったとされ、浜松には移らず岡崎に留まった 1 。彼女は今川義元の姪であり 8 、その存在は、旧今川家との繋がりを持つ三河の国人衆にとって、精神的な支柱となり得るものであった。こうして、徳川家は家康の「浜松」と信康の「岡崎」という、二元的な統治体制の様相を呈し始めたのである 2

外交路線の対立:親織田か、親武田か

この二元体制は、やがて外交路線を巡る深刻な対立へと発展する。家康率いる浜松派は、織田信長との同盟を絶対視し、武田氏との徹底抗戦を主張する強硬派であった 9 。しかし、長篠の合戦での勝利後も武田氏との戦いは一進一退を続け、徳川領国は疲弊の色を濃くしていた 9

こうした状況下で、岡崎派、特に信康の周辺からは、武田氏との融和や和睦を模索すべきだという声が燻り始める 9 。彼らは「戦争慎重派」とも言うべき立場であり、信康と築山殿は、その旗頭と見なされるようになっていった 9 。徳川家内部に、「親織田・反武田」の浜松派と、「親武田・反戦」の岡崎派という、明確な対立軸が生まれた瞬間であった。

伏線としての大賀弥四郎事件(天正三年、1575年)

この内部対立が初めて暴力的な形で噴出したのが、信康自刃の4年前に発生した「大賀弥四郎事件」である 10 。信康の家臣で岡崎町奉行であった大賀(大岡)弥四郎らが、武田勝頼に内通し、武田軍を岡崎城に引き入れようとしたクーデター未遂事件が発覚したのだ 2 。計画の詳細は諸説あるが、信康を新たな当主として徳川家を武田の傘下で存続させる、あるいは信康を殺害して三河を武田に売り渡すというものであったとされる 2

この謀反計画は、参加者の一人であった山田八蔵の密告によって露見する 2 。家康の対応は迅速かつ苛烈を極めた。弥四郎を鋸引きという残虐な刑で処刑し、その妻子や関係者を徹底的に粛清したのである 2

この事件は、単なる一家臣の暴走ではなかった。それは、徳川家中の深刻な亀裂が表面化した最初の兆候であった。そして、家康がこの重大な内通事件を、同盟者である信長に報告しなかったという事実は、極めて重要な意味を持つ 2 。同盟国(織田)の敵(武田)との内通は、同盟に対する重大な裏切り行為であり、これを主導者である信長に報告しないのは外交儀礼上、異例のことであった。家康は、徳川家の内部分裂という「恥部」を隠蔽すると同時に、事件の背後に嫡男・信康の影がちらついていたため、信長に知られることを恐れた可能性が考えられる。家康は「信康と築山殿の関与はなかった」ことにして事件を内部で処理することで問題を一時的に封じ込めたが 2 、この「隠蔽」こそが、4年後に徳姫の訴状という形で爆発する悲劇の導火線となったのである。

主要人物とその役割

人物名

立場・役割

事件における動機・背景

松平信康

徳川家康の嫡男、岡崎城主

勇猛な武将だが、粗暴な一面も伝えられる。岡崎派の旗頭と見なされ、父・家康との間に確執が生じる 16

徳川家康

徳川家当主、浜松城主

織田信長との同盟を重視し、対武田強硬路線を推進。家中の分裂に強い危機感を抱く 9

築山殿

家康の正室、信康の母

元今川家の縁者。家康と不仲で岡崎に留まる。武田との内通を疑われる中心人物 7

徳姫(五徳)

織田信長の娘、信康の正室

夫・信康や姑・築山殿との不和から、父・信長に「十二箇条の訴状」を送ったとされる事件の発端者 1

織田信長

織田家当主、家康の同盟者

娘婿である信康の不行状を知り、家康に厳しい判断を迫ったとされる通説の中心人物 1

酒井忠次

徳川家筆頭家老

家康の命で安土へ赴くが、信康を弁護せず、すべての嫌疑を認めたとされる謎多き人物 17

第一章:亀裂の顕在化——徳姫の訴状と信長の問い

天正七年(1579年)夏、一本の書状が安土城の織田信長のもとに届けられた。差出人は、徳川家康の嫡男・信康に嫁いだ娘、徳姫。この書状が、徳川家の運命を根底から覆す悲劇の幕開けとなった。

徳姫の「十二箇条の訴状」

信康と徳姫の間には、二人の女児(登久姫、熊姫)が生まれていたが、待望の男子が生まれなかった 7 。世継ぎを案じた姑・築山殿が信康に側室を勧めたことなどが引き金となり、夫婦仲、そして嫁姑関係は修復不可能なほどに悪化していたとされる 1 。積もり積もった不満と憤懣を、徳姫は父・信長への訴状という形でぶつけたのである 18

後世「十二箇条の訴状」と呼ばれるこの書状の正確な一次史料は現存しないが、『三河物語』や『松平記』などの編纂史料によれば、その内容は夫と姑に対する凄まじい告発で満ちていた 7

  • 信康の乱行 :
  • 領内で催された盆踊りを見物中、踊りが下手だという理由で、面白半分に領民を弓矢で射殺した 7
  • 鷹狩りの際、獲物が獲れないのは途中で僧侶に出会ったせいだと信じ、その僧侶を縄で縛り上げて惨殺した 16
  • 徳姫が女子しか産まないことに腹を立て、夫婦仲が冷え切っている 7
  • 築山殿の不貞と内通 :
  • 甲斐から唐人医師・減敬(げんけい)を呼び寄せ、密会を重ね不倫関係にある 7
  • さらに、この減敬を介して敵将である武田勝頼と密かに内通している 7
  • 謀反の企て :
  • 築山殿が武田と通じて謀反を企てており、息子の信康をもその計画に引き入れた 7

この訴状には、4年前に家康が信長に隠蔽した大賀弥四郎事件の件も含まれていたとされ、信長にとっては初耳の、そして許しがたい裏切り行為の告発であった 2

安土城での対審:酒井忠次の沈黙

訴状を受け取った信長は、ちょうどその頃、安土城を訪れていた徳川家の使者、筆頭家老・酒井忠次と大久保忠世を呼びつけた 1 。信長は忠次の前に訴状を広げ、その真偽を厳しく問いただした。

『三河物語』が伝える場面は、異様である。信長が訴状を一か条ずつ読み上げ、「これは真(まこと)か」と問う。しかし、忠次は一切の弁明をしなかった。それどころか、信長の問いに対し、ことごとく「その通りに御座います」と、すべての嫌疑を事実として認めたというのである 17

主家の嫡男を弁護するどころか、積極的に罪を認める筆頭家老の姿に、信長は激怒したとも、あるいは徳川家の内情の深刻さを確信したとも言われる。通説では、この忠次の対応が決定打となり、信長は家康に信康と築山殿の処断を厳命した、とされている 16

忠次のこの不可解な行動は、後世、長く非難の的となった。弁明の機会を与えられながら主君の嫡男を見殺しにしたとして、事件後に家康から冷遇されたという逸話も、この時の行動が原因とされている 17

しかし、この通説には大きな疑問が残る。徳川家宿老中の宿老である酒井忠次が、私情や判断ミスでこのような重大な局面に対応するとは考えにくい。彼の沈黙は、実は家康の「真の意図」を汲んだ上での、計算された行動だった可能性が指摘されている。

もし家康自身が、岡崎派の旗頭である信康を既に危険視し、その排除を決意していたとすれば、最大の障壁は「いかにして信長の娘婿である信康を、信長の了承のもとで処分するか」という点になる。この難題を解決するため、家康は忠次に密命を与えたのではないか。その密命とは、「信康を弁護すること」ではなく、「信長の面前で罪状を認め、信長から処分への『お墨付き』を得ること」であった。

事実、より信頼性の高いとされる『安"土"日記』や『当代記』といった史料では、信長は「信康を殺せ」と直接命じたわけではなく、徳川家の内情を酌んで「家康の思い通りにせよ」と、最終的な判断を家康に委ねたと記されている 16 。忠次が信長の面前ですべてを認めたことで、信長はこれを徳川家内部の問題とみなし、家康の裁量に任せるという形を取った。これにより、家康は信康粛清のための大義名分を手に入れたのである。

この観点に立てば、酒井忠次は「信康を見捨てた裏切り者」ではなく、「主君・家康の非情な政治決断を完遂させるため、自らが汚名を着ることも厭わなかった究極の忠臣」であったと再評価できる。彼が安土からの帰路、岡崎城に立ち寄らず浜松の家康のもとへ直行した 17 という行動も、信康派との接触を避け、主君の最終決断を直接伝えるための、理に適った行動と解釈できるのである。

第二章:父子の対峙——天正七年八月、岡崎城での激論

安土城からの報は、浜松の家康を動かした。酒井忠次が持ち帰ったのは、信長の裁可という名の、我が子を断罪するための「白紙委任状」であった。ここから、悲劇は一気に加速する。父子の絆が完全に断ち切られるまでの、緊迫した数日間が始まった。

八月三日:家康、岡崎城へ

天正七年八月三日、家康は浜松城を発ち、岡崎城へと向かった 24 。嫡男の罪を問うための入城であり、その行列には普段とは異なる、殺気にも似た空気が漂っていたことだろう。家康は、信康派による武力抵抗すら想定し、万全の備えで臨んでいたと考えられる 26 。岡崎城内に、尋常ならざる緊張が走った。

八月四日:運命の面談と追放

翌八月四日、家康は信康と直接対面した。この時の様子を、史料は「激しく言い争った」と簡潔に、しかし印象的に伝えている 24

その会話を再構築するならば、家康は信長からの詰問と徳姫の訴状の内容を突きつけ、信康の「不覚悟」を厳しく叱責したであろう。対する信康は、特に武田への内通という最大の嫌疑について、涙ながらに潔白を訴えたと想像される 27 。しかし、一度動き出した運命の歯車を止めることはできなかった。父子の間に横たわる溝は、もはや埋めがたいものとなっていた。

論争の末、家康は非情の決断を下す。この日、信康は岡崎城主の座を解かれ、城から追放されたのである 25 。これは、信康から軍事・政治の全権力を剥奪する決定的な処分であった 26 。信康は、家臣の城である三河湾に面した大浜城へと移され、事実上の幽閉生活が始まった 24

忠誠の証:起請文の徴収

信康を岡崎から物理的に引き離した家康は、さらに決定的な手を打つ。八月十日、家康は三河の家臣団に対し、「今後は信康と一切関わりを持たない」という旨の起請文(きしょうもん)を提出するよう命じたのである 25

起請文とは、神仏に誓う形式で書かれる、破ることのできない絶対的な誓約書である 29 。これを家臣に書かせるという行為は、単に信康を孤立させる以上の意味を持っていた。それは、信康を旗頭とする「岡崎派」という政治勢力を、精神的・社会的に完全に解体するための、極めて巧妙な政治的オペレーションであった。

家康の最大の懸念は、嫡男の処断が家中の分裂、すなわち内戦へと発展することであった 24 。岡崎派の家臣たちは、信康個人への忠誠心で結ばれている。家康は、その忠誠心を、より上位の概念である「神仏への誓い」と「徳川家当主への忠誠」によって上書きし、無力化しようとした。起請文を提出させられた家臣は、たとえ信康に同情的であっても、もはや公然と彼を支持することはできなくなる 31

この一連の流れは、激情に駆られた行動ではなく、周到に計画された政治的粛清のプロセスそのものであった。家康の冷徹な政治家としての一面が、ここに最も色濃く表れている。これにより、家康は信康を処断しても家中で大規模な反乱が起きるリスクを最小限に抑えることに成功したのである。

八月九日以降:幽閉先の移転

信康の身柄は、支持者による奪還計画を警戒してか、次々と移されていく。八月九日には大浜城から遠江の堀江城へ 24 、さらにその後、最終的な場所となる二俣城へと移送された 24 。いずれも家康の支配が完全に及ぶ場所であり、信康は完全に外部から遮断された孤立無援の状態に置かれたのである。

第三章:非情の決断——築山殿、佐鳴湖に散る

信康の処分と並行して、もう一人の断罪者、築山殿の運命も最終局面を迎えていた。徳川家康の正室でありながら、夫との長年の不和の末、謀反の首謀者という最大の汚名を着せられた女性の悲劇的な最期が迫っていた。

八月二十九日:最期の旅路

天正七年八月二十九日、築山殿は岡崎城から浜松城へ向かうよう命じられた。表向きは事情聴取という名目であったかもしれないが、それは事実上の、二度と帰ることのない死出の旅路であった 16

一行が遠江国に入り、富塚村の小藪(こやぶ)と呼ばれる地、佐鳴湖のほとりに差し掛かった時、護送の兵たちは足を止めた 19 。現在の浜松市中区富塚町および佐鳴台にあたるこの場所が、彼女の終焉の地となった 35

殺害の瞬間

佐鳴湖畔の静寂の中、悲劇は実行された。家康の厳命を受けた家臣、岡本時仲と野中重政らが、築山殿を輿の中から引きずり出し、その場で斬首したと伝えられている 16 。享年38歳。徳川家康の正室は、家臣の手によって命を絶たれたのである。

この殺害の生々しさを今に伝えるのが、「太刀洗の池」の伝承である。築山殿を斬った刀に付着した血を、野中重政らが近くの池で洗い流したとされ、その場所には後年、碑が建てられた 23

浜松城でこの報告を受けた家康は、「なんとも配慮に欠ける。女なのだから、もっと違うやりかたがあったのではないか」と、実行役の家臣を詰るように漏らしたという 23 。この言葉は、一見すると妻の非業の死を悼む夫の嘆きにも聞こえる。しかし、その真意は別のところにあった可能性が高い。

家康と築山殿が長年不和であったことは、多くの史料が示唆している 25 。今さら深い愛情からくる言葉とは考えにくい。戦国大名にとって、正室の処断は極めて重大な政治的行為であり、その方法には細心の注意が払われるべきであった。家康の言葉は、妻への同情ではなく、殺害方法の「政治的まずさ」に対する不満であった可能性が考えられる。彼は、築山殿の死が、あからさまな「処刑」ではなく、護送中の自害や不慮の事故として処理されることを望んでいたのではないか。あからさまな斬殺は、家康の非情さを内外に示し、後の統治に悪影響を及ぼすことを懸念したのである。したがって、家康の言葉は、実行犯の段取りの悪さ、つまり政治的配慮の欠如に対する叱責と解釈するのが、より合理的であろう。彼は、築山殿の死という「結果」は望んでいたが、その「プロセス」に不満だったのだ。

首と胴体の行方

築山殿の遺骸は、首と胴体が別々に葬られた。首は安土城に送られ信長の実検に供された後、岡崎に運ばれ、祐傳寺、のちに八柱神社に葬られたとされる 34 。一方、胴体は殺害現場近くの西来院に埋葬された 23 。その墓所は「月窟廟」と呼ばれ、今も静かにその悲劇を伝えている。

第四章:二俣城の最期——信康、自刃す

母・築山殿が佐鳴湖に散ってから半月後の九月十五日。ついに、松平信康にも最期の時が訪れた。遠江の山城、二俣城の一室で、徳川家の未来を嘱望された若武者は、父の命令により、自らの命を絶つこととなる。

九月十五日:運命の日

天竜川の渓谷に築かれた堅固な山城、二俣城 41 。かつては武田との激しい争奪戦が繰り広げられたこの城は、今や信康を外界から隔てる牢獄となっていた。この日、城に二人の使者が到着した。家康からの検使役、服部半蔵正成と天方(あまがた)通綱である 27 。彼らが携えてきたのは、父からの、そして主君からの非情な切腹命令であった。

信康の最後の言葉

命令を伝えられた信康は、取り乱すことなく、あるいは涙を堪えながら、検使役に向かって静かに語ったと伝えられる。

「いまさら何も申すべきことはないが、私は武田勝頼に内通して謀反など企んでいない。この事だけは、父上によくよく伝えてほしい」 27

これは、自らの死は受け入れつつも、武士としての名誉、個人としての潔白だけは後世に残したいという、悲痛な叫びであった。

また、別の伝承では、より政治的な意味合いを帯びた言葉も残されている。

「わが首を信長に届けよ。信康は見事に役目を果たしたと父に伝えよ」 42

この二つの最後の言葉は、一見矛盾しているように見える。しかし、そこには戦国武将としての彼の死生観が凝縮されている。前者は「個人としての潔白」の主張であり、後者は「徳川家の嫡男としての政治的責任」の受容である。彼は、個人としては無実であると信じつつも、徳川家の安泰という大義のために自らの死が不可欠であることを理解し、それを受け入れたのである。これは、彼が単なる粗暴な若者ではなく、大局を理解できる武将であったことを示唆している。「私は罪人として死ぬのではない。徳川家のために、潔白なまま政治的責任を取って死ぬのだ」という、極めて高度なメッセージを、彼は最後の瞬間に発しようとしたのであろう。

介錯の逸話:「鬼の半蔵」の涙

武士の名誉ある死として、切腹には介錯人が不可欠であった 43 。この大役を命じられたのは、伊賀忍軍を率い、その冷徹さから「鬼の半蔵」と恐れられた服部半蔵正成であった 26

信康は、傅役であった平岩親吉の脇差を抜き、自らの腹に突き立てたという 42 。苦しむ主君を楽にするため、半蔵は太刀を振り上げた。しかし、その刃が信康の首に届くことはなかった。

「三代にわたる御恩のある主に刃は向けられない」 46

そう叫ぶと、半蔵は号泣し、太刀を投げ捨ててその場に泣き崩れてしまったという 45 。この逸話を聞いた家康は後に、「さすがの鬼半蔵も主君の子は切れぬか」と呟いたと伝えられる 46

主君の介錯ができないという武士にあるまじき失態は、しかし、半蔵の深い忠義と人間性を示すものとして後世に語り継がれた。結局、見かねたもう一人の検使役、天方通綱が代わって介錯を務め、信康はその短い生涯を閉じた 12 。享年21。それは、あまりにも早すぎる死であった。

第五章:残された者たち——家康の涙と徳川の未来

松平信康の自刃をもって、徳川家を揺るがした一連の事件は終結した。しかし、その衝撃と悲しみは、徳川家と関係者の心に深く、そして長く刻み込まれることになる。天下人への道を歩む家康の胸中にも、消えることのない傷跡を残した。

家康の涙と後悔

事件の直後、家康は心労がたたって病に倒れたと記録されている 23 。我が子と妻を自らの手で葬った精神的打撃は、計り知れないものがあったであろう。彼の後悔と悲しみを伝える逸話が、後世にいくつか語り継がれている。

その最も有名なものが「鷹狩りの逸話」である。後年、家康が鷹狩りのために信康の旧領であった三河を訪れた際、土地の者が信康在りし日の思い出を語り始めた。側近は制止しようとしたが、家康はそれを遮ることなく静かに聞き入り、やがて人目を憚らずにらはらはらと涙を流したという。これは、家康が信康の死を深く悼み、父としての情を失っていなかったことを示す情話として、広く知られている。

また、事件から21年後の慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いに臨む際、家康はこう嘆いたと伝えられる。

「さてさて、年老いて骨の折れることかな。倅(せがれ)さえいれば、これほどにもあるまい」 12

側にいた者が三男・秀忠のことかと問うと、「あの倅ではないわ」と一喝したという 12 。これは、信康の武将としての非凡な器量を高く評価し、もし彼が生きていれば、この大戦も安心して任せられたのに、という痛切な後悔の念の表れとされている 28

しかし、これらの逸話が示す家康の「後悔」は、慎重に解釈する必要がある。それは「父親・家康」の悲しみであり、「政治家・家康」の後悔ではなかった可能性が高い。事実、家康は本能寺の変で信長が横死した後も、信康の名誉回復を一切行っていない 17 。もし信長の命令でやむなく殺したのであれば、信長亡き後に名誉回復を行うのが自然な流れであろう。それを行わなかったことは、処断が家康自身の最終的な意志であったことを強く示唆している。

また、家康は後年、六男・松平忠輝が「信康の幼い頃に似ている」として疎んじ、「信康は放任して育てたため、親を敬わなくなり悲劇を招いた」と語っている 17 。これは、育て方を悔いる言葉ではあっても、処断という政治決断そのものを悔いる言葉ではない。

家康の涙は、おそらく本物であっただろう。しかしそれは、非情な決断を下さねばならなかった自らの運命と、失われた息子の将来に対する、純粋な人間としての感情の発露であった。彼は、徳川家存続のために信康の排除は不可欠だったという政治的判断を、生涯覆すことはなかった。この「政治家としての判断」と「父親としての情」の二重構造こそが、この逸話の核心であり、徳川家康という人物の複雑さを最もよく表している。

関係者のその後

  • 徳姫(五徳) : 事件の発端を作ったとされる徳姫は、しばらく岡崎城に留まった後、父・信長のもとへ引き取られた。本能寺の変後は信長の次男・信雄に保護されたが、再婚することはなく、京都で隠棲し、寛永十三年(1636年)に78歳の長寿を全うした 28
  • 酒井忠次 : 安土城での不可解な対応の後、家康から冷遇されたという説が根強い。家康が関東に移封された際、徳川四天王らが10万石クラスの大名となる中、酒井家にはわずか3万7千石しか与えられなかった 17 。後日、忠次が子のために加増を願い出ると、家康は「お前でも子は可愛いか」と痛烈な皮肉を言ったと伝えられている 23
  • 徳川秀忠 : 信康の死により、彼の運命は大きく変わった。信康が自刃した天正七年、そのわずか5ヶ月前に生まれたばかりの家康の三男・長松(後の秀忠)が、徳川家の後継者となったのである 52 。この悲劇がなければ、彼が二代将軍となることはなかったであろう。

首塚と供養

信康の首は岡崎に運ばれ、若宮八幡宮に首塚が築かれた 26 。また、母・築山殿の首塚も岡崎の八柱神社にある 38 。故郷である岡崎に首だけでも葬られたことは、彼らが三河の象徴であったことを物語っている。

終章:歴史の法廷——信康事件、三つの真相

松平信康はなぜ死なねばならなかったのか。この問いは、四百年以上にわたり、多くの歴史家や愛好家を惹きつけてきた。事件の真相については、主に三つの説が提示されている。最後に、これらの説を比較検討し、総合的な結論を導き出す。

第一の説:信長主犯説(通説)

これは、『三河物語』などに描かれる、最もポピュラーな説である 7 。娘・徳姫の讒言を鵜呑みにした織田信長が、家康に信康と築山殿の処断を厳命。家康は、強大な同盟者である信長に逆らうことができず、泣く泣く妻子を犠牲にした、という筋書きである。

この説は、家康を「非情な決断を迫られた悲劇の君主」として描き、徳川幕府の公式見解としても都合が良かったため、江戸時代を通じて広く受け入れられてきた。しかし、信長が「家康の存分にせよ」と最終判断を委ねたとする、より信頼性の高い史料の存在から 16 、現在ではその信憑性は大きく揺らいでいる。

第二の説:家康主犯説(近年の有力説)

これは、『当代記』などの記述や、事件後の家康の行動(信康の名誉回復をしなかったことなど)を根拠とする説である 17

信康の粗暴な性格や、家康との深刻な父子不仲が根底にあり 10 、家康が徳川家の将来と家中の統一のために、信康の排除を自らの意志で決断した、という筋書きである。この説では、信長の存在は、その決断を実行するための「口実」あるいは「政治的承認」を得るための道具に過ぎなかったと見なされる。多くの状況証拠がこの説を支持しており、現在では最も有力な説の一つとされている。

第三の説:複合要因説(総合的考察)

犯人を一人に特定するのではなく、この事件を複数の要因が複雑に絡み合って発生した、いわば「必然的な悲劇」と捉える見方である。

  • 要因① 構造的問題 : 浜松派と岡崎派の対立、対武田外交路線の相違という、徳川家が抱える構造的な歪み 6
  • 要因② 個人的問題 : 家康と信康の父子確執、信康と徳姫の夫婦不和、築山殿と家康・徳姫の対立といった、家庭内の人間関係の破綻 7
  • 要因③ 外部環境 : 織田信長という絶対的な上位権力者の存在と、武田勝頼との熾烈な戦争という、外部からの強烈な圧力 9

結論として 、信康事件は、これら三つの要因が臨界点に達したときに発生した「システムの崩壊」であったと結論付けるのが最も妥当であろう。徳姫の訴状は、あくまで最後の引き金に過ぎず、たとえそれが無くとも、いずれ何らかの形でこの対立は爆発していた可能性が高い。

徳川家康は、この崩壊を最小限の犠牲で食い止めるため、冷徹な政治家として、自らの妻と子を組織存続のための「生贄」に捧げるという非情の決断を下した。そしてその記憶は、一人の父親として、生涯彼の心を苛み続けた。「鷹狩りの涙」は、その天下人の孤独と悲しみを象徴する、真実の涙であったに違いない。

信康事件・時系列表

年月日(天正七年)

出来事

関連人物

場所

根拠・考察

夏頃

徳姫が父・信長に「十二箇条の訴状」を送付。

徳姫、信長

岡崎→安土

『三河物語』等。通説の発端 19

7月

酒井忠次、安土城で信長の詰問に対し、信康の嫌疑を全面的に認める。

酒井忠次、信長

安土城

『三河物語』。忠次の行動が事件の鍵を握る 17

8月3日

家康、浜松城から岡崎城へ入る。

家康

浜松→岡崎

『徳川実紀』等。粛清の開始 24

8月4日

家康、信康と激しく論争の後、岡崎城から追放。大浜城に幽閉。

家康、信康

岡崎城

『徳川実紀』等。父子の決定的な決裂 24

8月9日

信康、堀江城に移送される。

信康

堀江城

幽閉場所の移転 24

8月10日

家康、三河家臣団から「信康に与せず」との起請文を徴収。

家康、三河家臣団

三河

『家忠日記』等。岡崎派の解体作業 25

8月29日

築山殿、護送中に佐鳴湖畔で家臣により殺害される。

築山殿、野中重政

遠江・小藪村

『徳川実紀』等。享年38 16

9月15日

信康、二俣城で自刃を命じられ、絶命。

信康、服部半蔵、天方通綱

二俣城

『徳川実紀』等。享年21 16

事件後

家康、心労で病に倒れる。

家康

浜松城

『徳川実紀』 23

後年

家康、鷹狩りの際に信康を偲び涙を流す。

家康

-

逸話として伝承。家康の父としての情を示す 12

引用文献

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  39. 【若き日の家康公の足跡をめぐる小旅行】家康行列をより楽しめる!!後編は、家康公の人生に大きな影響を与えた「言葉」と「人」にまつわるスポットをご紹介します - 岡崎市観光協会 https://okazaki-kanko.jp/news/10383
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