最終更新日 2025-10-17

松平広忠
 ~幼き家康を今川へ護符で無事祈願~

松平広忠は幼き家康を今川へ人質に出す際、小袖に三枚の護符を縫い込み無事を祈願。弱小領主の苦悩と父の愛情を示す逸話は、家康の神格化を語る。

父の祈り、天下人の黎明:松平広忠、幼き家康を護符に託した逸話の深層

序章:父子の別離、その刹那に込められた祈り

戦国乱世という、人の命が露と消える時代。武家の嫡男に生まれた者の宿命として、幼くして親元を離れ、人質となることは決して珍しいことではなかった。しかし、その冷徹な政治的決断の裏には、常に親子の情愛という、時代を超えて変わることのない普遍的なドラマが存在した。本報告書で光を当てるのは、後の天下人・徳川家康、その幼名である竹千代が、父・松平広忠と別れる際に交わされたとされる、一枚の小袖と三枚の護符を巡る逸話である。

この物語は、単なる美談として語り継がれるべきものではない。それは、弱小勢力であった松平家の当主が抱えた苦悩、父として抱いた切なる願い、そして後の徳川幕府の正統性を補強するために語り継がれた、幾重にも意味が込められた伝承である。本稿では、この逸話の細部に宿る歴史的背景と文化的意味を、史実の光と伝承の影の両面から徹底的に解き明かすことを目的とする。

第一章:天文十六年、岡崎城の情勢 ― 決断の背景

存亡の危機に立つ松平家

逸話の舞台となる天文十六年(1547年)、三河国岡崎城に本拠を置く松平家は、まさに絶体絶命の窮地にあった。西からは尾張の「虎」と称された織田信秀が、東からは駿河・遠江を支配する今川義元が、その領地を虎視眈々と狙っていたのである 1 。この二大勢力に挟まれた松平家は、さながら風前の灯火であった。

当主である松平広忠自身、その前半生は苦難の連続であった。天文四年(1535年)、父であり、松平家の勢力を飛躍的に拡大させた英雄・松平清康が、尾張攻めの陣中にて家臣に斬殺されるという悲劇(森山崩れ)に見舞われる 3 。わずか10歳で父を失った広忠は、家中の混乱の中で岡崎城を追われ、流浪の身となる辛酸を舐めた 4 。この経験は、彼に「力なき者は滅びる」という戦国の非情な現実と、強大な後ろ盾がいかに重要であるかを骨身に沁みて教えたはずである。

苦渋の決断 ― 今川への従属

織田信秀による三河への侵攻が激化する中、もはや独力での防衛は不可能と判断した広忠は、今川義元に救援を要請する 2 。しかし、その加勢には大きな代償が伴った。義元は、松平家の忠誠の証として、広忠の嫡男・竹千代を人質として駿府に送ることを要求したのである 2 。これは、松平家が今川家の完全な支配下に入ることを意味する、まさに苦渋の決断であった。

この決断は、単なる政治的取引ではない。それは、家と領民を守るため、我が子の未来を他国に委ねるという、一人の父親としての断腸の思いを伴うものであった 4 。広忠は、自らが経験したような、後ろ盾なく彷徨う苦しみを、愛する息子に味あわせたくないという一心で、非情な選択を下したのである。竹千代を人質に出すという行為は、過去の自身の苦しみを繰り返させないための未来への布石であり、単なる弱さや愚かさの表れではなかった。これは、後年の山岡荘八の小説などで流布された「愚かな人物」という広忠像 4 を覆す、重要な視点である。

逸話の背景にある史実の流れを正確に把握するため、竹千代の人質生活を巡る出来事を時系列で以下に示す。

表1:竹千代の人質生活を巡る時系列表

年月日

出来事

関係人物

関連資料

天文16年(1547) 8月

松平広忠、今川義元に服属。竹千代を人質として駿府へ送ることを決定。

松平広忠、今川義元

1

天文16年(1547)

竹千代(6歳)、岡崎城を出発。護送中に戸田康光の裏切りに遭う。

竹千代、戸田康光、金田正房

5

天文16年(1547)

竹千代、織田信秀に身柄を引き渡され、尾張で人質となる。

織田信秀

15

天文18年(1549) 3月

松平広忠、死去(24歳)。

松平広忠

15

天文18年(1549) 11月

安祥城の戦いで今川軍が織田信広を捕縛。人質交換が成立。

太原雪斎、織田信広

5

天文18年(1549)

竹千代(8歳)、駿府へ移り、今川家の人質となる。

今川義元、太原雪斎、華陽院

5

この表が示すように、広忠の祈りとは裏腹に、竹千代の運命は過酷な変転を遂げる。この悲劇的な史実こそが、父の祈りの切実さを一層際立たせるのである。

第二章:旅立ちの朝 ― 逸話の再構築

夜明け前、父の祈り

天文十六年のある秋の朝。岡崎城の一室で、広忠はまだ夜も明けきらぬうちから一人、座していたであろう。その手には、これから息子の小袖に縫い込む三枚の護符。それは、領主としての政治的決断とは全く別の、ただ一人の父親としての、声にならぬ祈りの象徴であった。城外の喧騒も、家臣たちの足音も、この時の広忠の耳には届いていなかったに違いない。

父子の対面と「リアルタイムな会話」の再現

やがて、旅支度を整えさせられた、わずか六歳の竹千代が広忠の前に通される。『三河物語』が伝える広忠の人柄は「慈悲深く情けも哀れみも深い」というものであった 4 。その人柄に鑑みれば、彼は決して威圧的な態度を取らず、幼い息子を膝元に呼び寄せ、穏やかな声で語りかけたであろう。

「竹千代、よいか。これよりそなたは駿府へ参る。今川様のお側で、多くのことを学ぶのじゃ。決して心細く思うてはならぬ。そなたは松平の嫡男。いずれこの岡崎へ戻り、我ら三河の民を率いる身じゃ。これは、そのための大切なお務めと思うて、達者で暮らすのだぞ」

幼い竹千代は、父の言葉の真意を完全には理解できなかったかもしれない。しかし、その真剣な眼差しと、いつになく優しい声の響きから、これがただの旅立ちではない、何か重大なことなのだと肌で感じ取っていたに違いない。

小袖に縫い込まれる三枚の護符

傍らには、母・於大の方(おだいのかた)も涙をこらえて控えていただろう。夫婦は言葉少なに、竹千代が纏う真新しい小袖の懐の内側に、三枚の護符を丁寧に重ねて縫い付けていく。一針、また一針と進むごとに、息子の無事と健やかな成長、そしていつか必ず再会できる日への切なる願いが込められていく。その指先は、戦国の武将らしからぬ、親としての愛情に満ち、微かに震えていたはずだ。

この「縫い込む」という行為自体が、当時の人々にとって特別な意味を持っていた。単に護符を渡すのではなく、衣服に縫い付けて身体の一部とすることで、神仏の加護を直接その身に宿らせ、常に一体化させようとする、極めて能動的な祈りの形であった。それは、現代人がお守りを鞄に入れる感覚とは異なる、より切実で呪術的な世界観の表れと言える。

出立の刻、無言の約束

やがて出立の刻が訪れる。城門では、家臣一同が整列し、主君の嫡男を見送る。竹千代の護衛には、忠臣として知られる金田正房ら二十数名が付き従った 5 。広忠は、護送役の手に我が子を委ねると、もはや言葉はなく、ただじっとその小さな後ろ姿が見えなくなるまで、城門に立ち尽くしていたであろう。それが、二度と生きて会うことのなかった父子の、最後の別れの瞬間となったのである 4

第三章:「三枚の護符」に込められた意味 ― 信仰と父情の考察

護符の由来 ― 松平家ゆかりの神仏たち

逸話は、その三枚の護符が具体的にどこのものであったかを伝えていない。しかし、松平家が代々篤く信仰してきた岡崎の社寺から、その候補を推察することは可能である。

  • 候補1:六所神社
    松平家の産土神(うぶすながみ)、すなわちその土地の守り神であり、家康生誕の際にも広忠が拝礼したと伝わる 6。「安産の神様」としても広く信仰されており、幼子の無病息災を祈る護符としては、最も相応しい神社の一つと言えよう。
  • 候補2:伊賀八幡宮
    松平家(徳川家)の氏神であり、武運長久・子孫繁栄の守護神として崇敬されてきた 8。家康自身も、大きな合戦の前には必ず参詣したといわれる 10。敵地へ赴く竹千代の武運を祈る護符として、これもまた有力な候補である。
  • 候補3:龍城神社
    岡崎城の本丸に鎮座し、家康生誕の朝に城楼上から金の龍が現れたという伝説が残る 11。竹千代の将来の「出世開運」を願い、その加護を祈る意味合いがあった可能性も考えられる。
  • 候補4:大樹寺
    松平家の菩提寺であり、先祖代々の墓所が置かれている 13。異郷の地へ赴く竹千代が、松平家の先祖からの加護を受けられるようにと、この寺の護符が選ばれたとしても不思議ではない。

なぜ「三枚」だったのか? ― 数に込められた祈りの重層性

逸話が「三枚」と伝えることにも、深い意味が込められている可能性がある。「三」という数字は、古来日本において三種の神器や三位一体などに見られるように、安定、調和、そして完璧さを示す聖数とされてきた。

広忠は、一枚の護符に全ての願いを託すのではなく、複数の神仏からの多角的な加護を願ったのかもしれない。例えば、「六所神社」で息子の息災を、「伊賀八幡宮」で武運を、「龍城神社」で未来の開運を、といった具合に、息子の人生におけるあらゆる局面での守護を意図した、重層的な祈りの表れであったと解釈できる。それは、親が子を想う心の複雑さと深さそのものを象徴しているかのようである。

父情の顕現 ― 逸話が語る広忠の実像

この逸話は、松平広忠という人物の実像を考える上で、極めて重要な示唆を与えてくれる。後年の創作物によって作られた「愚かで癇癪持ち」といったイメージ 4 とは全く異なる、深い愛情を持った父親の姿を鮮やかに浮き彫りにするからだ。

この父としての情愛は、後に竹千代が織田方に捕らえられ、「息子の命と引き換えに織田に付け」と脅された際の広忠の対応にも通底している。彼は「息子を殺したくば殺せ。我が一子のために隣国との信義を失うことはできぬ」と毅然として要求を突っぱねた 15 。これは一見、非情な言葉に聞こえる。しかし、その裏には、松平家当主としての公の覚悟と、いかなる状況でも道を違えぬであろう息子の器量を信じる父としての信頼が表れていた。護符に込めた私的な祈りとは対極にある、公人としての愛情の示し方であった。三枚の護符は、竹千代がどこにいようとも松平家の嫡男としての自覚と誇りを失わないための、アイデンティティの拠り所として機能することが期待された、象徴的な贈り物だったのである。

第四章:逸話の源流と史実の探求

逸話の源流を探る

この「護符の逸話」が、同時代の一次史料に記されているわけではない。提供された資料群にも、この逸話の直接的な出典は含まれていないことから、江戸時代以降に成立した軍記物や地誌、あるいは近代に入ってからの山岡荘八の小説『徳川家康』 16 などによって広く知られるようになった可能性が高い。特に、山岡荘八が特攻隊員の姿に家康の「泰平」への願いを重ねたように 16 、家康の物語には、後世の人々の平和への祈りや理想の人間像が投影されやすい。この父子の逸話も、そうした背景の中で育まれ、人々の心を打つ物語として定着していったと考えられる。

祈りの行方 ― 史実との乖離

史実は、時に物語よりも非情である。広忠の祈りが込められた竹千代一行は、目的地である駿府に辿り着くことはなかった。護送役であった田原城主・戸田康光(史料によっては宗光とも)の裏切りに遭い、銭千貫文で敵方の織田信秀に売り渡されてしまったのである 5

父の祈りは、短期的には完全に裏切られた形となった。竹千代は敵地で人質となり、父の死に目にさえ会うことができなかった 15 。そして広忠自身も、息子の安否も定かではないまま、二年後の天文十八年(1549年)に、家臣によって暗殺されたともいわれる謎の死を遂げる 15 。父子の再会は、ついに叶わなかった。

なぜこの逸話は語り継がれたのか

この悲劇的な史実こそが、皮肉にもこの逸話に深い感動と説徳力を与えている。もし竹千代が無事に駿府に到着し、手厚い庇護のもとで暮らしていたならば、この話は数ある「心温まる逸話」の一つとして埋もれてしまったかもしれない。

しかし、裏切りと父の死という過酷な運命を乗り越え、最終的に天下人となったからこそ、幼少期の父の祈りが「全ての始まり」として神話的な意味を帯びるのである。父が縫い込んだ護符は、目先の災厄を防ぐ直接的な力はなかったかもしれない。だが、それこそが後の神君・家康に与えられた最初の試練であり、父の祈りは見えざる力となって息子を守り続け、その強運の礎となったのだ、と後世の人々は解釈した。この逸話は、徳川家康の「神格化」のプロセスの一環として、その支配の正統性を幼少期にまで遡って補強するための、高度な物語装置としても機能したのである。

結論:語り継がれる父の祈り ― 松平広忠像の再評価

「松平広忠、幼き家康を護符で祈願す」という逸話は、史実としての確証は乏しいかもしれない。しかし、その物語の背景には、大国に翻弄された弱小領主の苦悩と、我が子を想う普遍的な父の愛という、紛れもない真実が存在する。

この物語は、松平広忠を単なる「家康の父」、あるいは「不遇の武将」としてではなく、『三河物語』が伝える通り「慈悲深く」、家臣に慕われた 4 一人の魅力的な人物として再評価するきっかけを与えてくれる。彼は、非情な政治判断を下す当主の顔と、神仏に息子の無事をただひたすらに祈る父親の顔を併せ持っていた。

最終的に、この逸話の価値は、史実か否かという次元にはない。それは、天下人・徳川家康という巨大な存在の人間性の原点に、父の深い愛情があったことを示唆し、二百六十年に及ぶ泰平の世の礎を築いた人物の物語に、温かい血を通わせる上で不可欠な一幕なのである。我々はこの逸話を通じて、戦国の世に生きた人々の息遣いと、時代を超えて変わることのない親子の絆の尊さを、改めて感じることができるのだ。

引用文献

  1. 徳川家康が生まれたころの松平家は今川と織田に挟まれた弱小勢力だったのか⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26830
  2. 松平広忠 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/matsudaira-hirotada/
  3. 松平広忠の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/79551/
  4. 【どうする家康 記念連載】第二回 岡崎を愛した苦難の人 徳川家康の父・松平広忠 https://pokelocal.jp/article.php?article=596
  5. 三河金田氏の実像3 ―竹千代人質事件 http://www.hatamotokaneda.jp/mikawa-kaneda/mk003/mk-history034.html
  6. 徳川家康の産土神で、安産祈願で有名な「岡崎・六所神社」 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/5658
  7. 徳川家康ゆかりの地【岡崎市の六所神社】 | 屋台家 千寿堂 お祭りのケータリングサービス https://yataiya-senjudo.com/blog/column/rokusho-shrine
  8. 伊賀八幡宮 - 岡崎市観光協会 https://okazaki-kanko.jp/point/477
  9. 伊賀八幡宮 | 【公式】愛知県の観光サイトAichi Now https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/2023/
  10. 徳川将軍家の守り神 「伊賀八幡宮」/愛知県岡崎市 - NIHONMONO https://nihonmono.jp/article/3562/
  11. 岡崎城本丸 龍城神社 https://www.tatsukijinja.or.jp/about
  12. 【2024年開運パワースポット】徳川家康に天下を取らせた“龍神の棲む城”!【辰年・金龍】 https://www.youtube.com/watch?v=-yrtqhEhmc4
  13. 家康公の『どうする?スポット』in岡崎市~その①大樹寺~ | 東海光学公式ブログ https://www.tokaiopt.jp/blog/t11020220902/
  14. 家康が再起を誓った「大樹寺」!"厭離穢土、欣求浄土"の教えと松平家代々の墓と https://favoriteslibrary-castletour.com/okazaki-daijuzi/
  15. 家康公の生涯 - 幼少時代の竹千代 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_01.htm
  16. 徳川家康 (山岡荘八) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7_(%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E8%8D%98%E5%85%AB)
  17. 山岡荘八の小説 徳川家康 全26巻を読んでみました - ディライト・グッズ https://delight-net.biz/archives/3880
  18. えっ?!竹千代は人質で駿府に来たんじゃなかったの? https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/kids/doc03_index.htm
  19. 人質となった竹千代~織田・今川の人質だった徳川家康~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/ieyasu-hitojiti.html