松永久秀
~東大寺大仏殿焼き仏も戦背徳譚~
松永久秀による東大寺大仏殿炎上事件を検証。「仏も戦に巻き込まれる」と嘯いたとされる背徳譚の真偽、事件の史実、後世に創られた梟雄像の背景を探る。
松永久秀「東大寺大仏殿炎上」における背徳譚の史実的検証
序論:創られた梟雄像 ― 逸話への問い
戦国時代という激動の時代において、「梟雄(きょうゆう)」の名をほしいままにした武将、松永久秀。彼の人物像は、主君であった三好家を乗っ取り、将軍足利義輝を暗殺し、そして東大寺の大仏殿を焼き払ったという「三つの大悪事」によって、長らく極悪非道な裏切り者として定着してきた 1 。とりわけ、日本仏教の聖地ともいえる東大寺を炎上させたという一件は、彼の非道さを象徴する最大の汚点とされている。
この大仏殿炎上に際し、久秀は燃え盛る伽藍を前にして「仏も戦に巻き込まれるは必定よ」と嘯(うそぶ)いた、とされる背徳的な逸話が広く流布している。この言葉は、神仏をも恐れぬ彼の傲岸不遜な性格を鮮烈に描き出し、後世における松永久秀の人物評価を決定づける上で絶大な影響力を持ってきた。
しかし、このドラマティックな逸話は、果たして史実に基づいているのだろうか。あるいは、後世の人々が「梟雄・松永久秀」という物語をより魅力的にするために創り上げた虚像に過ぎないのだろうか。本報告書は、この特定の逸話に焦点を絞り、その真偽を徹底的に検証することを目的とする。そのため、事件と同時代に記された一次史料から、逸話が形成される江戸時代の編纂物に至るまでを横断的に分析し、炎上の「その時」、何が起こり、何が記録されたのかを再構築する。特に、利用者からの要請である「リアルタイムな会話内容」の存否を明らかにすることで、逸話の核心に迫る。
第一章:永禄十年十月十日、東大寺炎上 ― 「その時」の時系列再構築
利用者の「時系列でわかる形」という要求に応えるため、本章では信頼性の高い同時代史料、特に事件現場に近接していた興福寺の僧侶たちによる日記『多聞院日記』の記述を主軸として、事件当夜の状況を可能な限り詳細に再構築する。
第一節:戦闘前夜 ― 三好・松永の対立と東大寺の要塞化
東大寺が戦火に包まれる直接的な原因は、畿内における覇権争いにあった。三好長慶の死後、三好政権内では三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀との間で主導権を巡る対立が激化していた 4 。永禄8年(1565年)の将軍足利義輝暗殺(永禄の変)を経て、両者の溝は決定的となり、畿内を二分する大規模な抗争へと発展した 5 。
永禄10年(1567年)、戦いの舞台は大和国へ移る。三好三人衆は、大和の有力国人であった筒井順慶と結託し、松永久秀の本拠地である多聞山城への圧力を強めた 4 。この時、三好・筒井連合軍が多聞山城を攻めるための前線基地として選んだのが、他ならぬ東大寺であった 7 。彼らは大仏殿をはじめとする諸堂に陣を構え、兵を駐屯させたのである。
そもそも、東大寺のような巨大な宗教的権威の象徴が軍事拠点として利用されること自体が、戦国乱世の価値観を色濃く反映している。寺社が持つ広大な敷地と堅牢な建造物は、防衛拠点として極めて魅力的であった。しかし、この「聖域の要塞化」は、敵対勢力からの攻撃を誘引する極めて危険な行為であり、結果として悲劇の引き金となった。三好軍のこの選択が、松永軍による攻撃を必然のものとし、歴史的な大伽藍を戦場へと変貌させたのである。
第二節:子の刻、開戦 ― 『多聞院日記』に見る夜襲の実態
永禄10年10月10日の夜、膠着状態は突如として破られる。松永久秀は、東大寺に布陣する敵に対し、大胆な夜襲を敢行した。その生々しい記録が、『多聞院日記』に記されている。
「今夜子之初点より、大佛ノ陣ヘ多聞山より打入合戰及數度」 4
(現代語訳:今夜、子の刻の初め(午後11時頃)から、大仏殿の陣へ(松永方の)多聞山城から討ち入り、数度にわたって合戦に及んだ)
この記述から、戦闘が午後11時頃に始まったことがわかる。闇夜に乗じた松永軍の奇襲は、不意を突かれた三好・筒井連合軍に大きな混乱をもたらしたと考えられる 11 。聖域であるはずの境内は、瞬く間に鉄砲の轟音、鬨の声、そして刀槍がぶつかり合う凄惨な戦場と化した。同時代の記録が「数度にわたる合戦」と記していることから、夜襲が一過性のものではなく、極めて激しい攻防が繰り返し行われたことが窺える。
ここで注目すべきは、『多聞院日記』の記述スタイルである。この記録は、戦闘の開始時刻や場所、経過といった「現象」を客観的に記すことに徹しており、松永久秀の心情や特定の人物の発言といった「主観」に関する情報は一切含まれていない。これは、同時代の記録者がこの事件を、特定の誰かの責任を追及する「犯人捜し」の視点ではなく、目の前で起きた悲劇をありのままに記録するという姿勢で捉えていたことを示唆している。利用者が求める「リアルタイムな会話」が、最もリアルタイムに近い史料に全く存在しないというこの「記録の不在」こそが、本報告書の根幹をなす重要な事実である。
第三節:丑の刻、灰燼に帰す ― 大仏殿焼失のプロセス
激しい夜戦のさなか、最悪の事態が発生する。火の手が上がったのである。『多聞院日記』は、その出火から延焼、そして大仏殿焼失に至るまでのプロセスを克明に記録している。
「兵火の余煙ニ穀屋ヨリ法花堂ヘ火付、ソレヨリ大佛ノ廻廊ヘ次第ニ火付テ、丑剋ニ大佛殿忽焼了」 4
(現代語訳:合戦の火の粉により、穀屋(食堂や厨房があったとされる建物)から法花堂(三月堂)へ火が付き、そこから大仏殿の回廊へ次第に燃え移って、丑の刻(午前2時頃)に大仏殿はたちまち焼け落ちてしまった)
この記録によれば、火元は戦闘行為そのもの(兵火)であり、最初の出火場所は「穀屋」であった。そこから火は北側の法花堂へ、そして大仏殿を囲む回廊へと燃え広がり、ついに日付が変わった11日の午前2時頃、鎌倉時代に再建された世界最大級の木造建築物である大仏殿本体に燃え移り、瞬く間に崩れ落ちた 4 。
その破壊の凄まじさを、『多聞院日記』は次のような悲痛な言葉で伝えている。
「猛火天ニ滿、サナカラ如雷電、一時ニ頓滅了」 4
(現代語訳:猛火は天に満ち、さながら落雷があったかのようであり、一瞬にして消滅してしまった)
この火災により、大仏殿のみならず、本尊である盧舎那仏(大仏)も頭部や左手が溶け落ち、甚大な被害を受けた 13 。さらに戒壇堂や浄土堂など、多くの貴重な建造物も焼失し、東大寺は治承4年(1180年)の平重衡による南都焼き討ちに次ぐ、二度目の大悲劇に見舞われたのである 13 。
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時刻(和暦/推定西暦) |
出来事 |
『多聞院日記』の該当記述(原文) |
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永禄10年10月10日 子の初点(午後11時頃) |
松永軍が多聞山城から出撃し、東大寺に布陣する三好・筒井連合軍に夜襲を開始。数度にわたる激戦となる。 |
「今夜子之初点より、大佛ノ陣ヘ多聞山より打入合戰及數度」 |
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同夜 |
戦闘のさなか、「穀屋」から出火。 |
「兵火の余煙ニ穀屋ヨリ法花堂ヘ火付」 |
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同夜 |
火は法花堂、次いで大仏殿の回廊へと延焼。 |
「ソレヨリ大佛ノ廻廊ヘ次第ニ火付テ」 |
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10月11日 丑の刻(午前2時頃) |
大仏殿が炎に包まれ、瞬く間に焼失。本尊の大仏も甚大な被害を受ける。 |
「丑剋ニ大佛殿忽焼了、猛火天ニ滿、サナカラ如雷電、一時ニ頓滅了」 |
第二章:誰が火を放ったのか ― 諸史料が語る出火原因の真相
東大寺炎上という未曾有の悲劇は、後世、「誰が火を放ったのか」という問いを生んだ。本章では、炎上の原因について各史料がどのように記述しているかを比較検討し、それぞれの記述の背後にある意図やバイアスを分析することで、真相に迫る。
第一節:松永久秀による計画的放火説 ― 『信長公記』の記述とその意図
松永久秀を大仏殿炎上の張本人とする説の、最も強力かつ古くからの根拠とされてきたのが、織田信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』である。信貴山城で久秀が自害する場面を描写した巻十に、次のような一節がある。
「奈良の大仏殿、先年十月十日の夜、炎焼。偏に是れ、松永の云為(しわざ)を以て、三国に隠れなき大伽藍事、故なく灰燼となる」 10
(現代語訳:奈良の大仏殿は、先年(10年前)の10月10日の夜に炎上した。これはひとえに松永の仕業によって、三国(日本・中国・インド)に並ぶもののない大伽藍が、理由もなく灰燼に帰したのである)
『信長公記』は、久秀の「云為(しわざ)」、すなわち意図的な行為であったと明確に断定している。この記述が、後世における「松永久秀犯人説」を決定づけた。しかし、この記述を鵜呑みにすることはできない。歴史の記録は、常に客観的な事実のみを伝えるとは限らず、筆者の立場や政治的意図によって特定の「物語」を補強するために利用されることがある。『信長公記』は信長の一代記であり、信長を二度にわたって裏切った久秀を、秩序を破壊する極悪人として断罪する意図が働いていた可能性は否定できない。
特に、久秀が信貴山城で自害した天正5年(1577年)10月10日は、奇しくも大仏殿が炎上した日からちょうど10年後の同月同日であった 17 。この偶然の一致は、当時の人々に「春日明神の神罰」であると噂された 18 。『信長公記』の記述は、この天罰論という「物語」と結びつくことで、単なる事実報告を超え、久秀の悪行とその報いという因果応報の物語として、より強力に後世の久秀像を形成していったのである。
第二節:戦闘に伴う失火説 ― 『多聞院日記』と『大和軍記』の視点
『信長公記』の断定的な記述とは対照的に、事件直後に現場近くで記された『多聞院日記』は、異なる様相を伝えている。第一章で詳述した通り、その記述は「兵火の余煙ニ」というものであった 4 。これは、意図的な放火というよりは、戦闘行為に付随して発生した火の粉や残り火といった、偶発的な要因、すなわち「失火」であったことを強く示唆している。
この失火説を補強する史料は他にも存在する。例えば、軍記物である『大和軍記』には「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り」とあり、『足利季世紀』には「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき」といった記述が見られる 11 。これらの記録は、火元が松永軍ではなく、むしろ大仏殿に陣取っていた三好軍側にあった可能性すら示唆しており、久秀の単独犯行説に大きな疑問を投げかけるものである。
第三節:第三の視点 ― フロイス『日本史』が示す意外な可能性
日本の史料とは全く異なる視点を提供しているのが、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』である。フロイスは、この火災の原因について、「三好軍に所属していたキリシタンの兵士が放火した」という説を記録している 11 。
この説の背景には、偶像崇拝を厳しく禁じるキリスト教の教義があったと考えられる。彼らにとって、巨大な大仏は崇拝の対象ではなく、破壊すべき異教の偶像と映ったのかもしれない。この記述は、他の日本側史料には一切見られない孤立したものであり、その信憑性を判断することは困難である。しかし、戦国時代の日本が、国内の勢力争いだけでなく、海外から伝来した新たな価値観とも交錯する、極めて複雑な状況にあったことを示す興味深い一例と言えるだろう。
第四節:現代の研究における通説と評価
これらの諸説を比較検討すると、史料としての信頼性において、『多聞院日記』が最も優位に立つ。なぜなら、①事件発生直後に、②現場に最も近い場所で、③利害関係の少ない第三者(興福寺の僧侶)によって記録された、という三つの条件を満たしているからである。その客観的で淡々とした記述は、他の物語性の強い史料とは一線を画す。
そのため、現代の歴史学研究においては、松永久秀による意図的な焼き討ち説は支持されにくく、「東大寺に立てこもる三好・筒井軍に対する松永軍の夜襲という戦闘の過程で発生した、偶発的な失火」であったとする説が最も有力な通説となっている 1 。
さらに、松永久秀という人物の多面性も、この失火説を補強する。彼は単なる武将ではなく、当代随一の文化人であり、茶の湯を深く愛し、ルイス・フロイスが「天国に入りたるの感あり」と絶賛したほどの壮麗な多聞山城を築いた建築家でもあった 22 。そのような美的感覚と合理的精神を持つ人物が、軍事的には限定的な利益しかなく、むしろ畿内の人心を失うだけの国家的至宝である大仏殿を、感情的に破壊するとは考えにくい。この、彼の文化的側面と「焼き討ち」という野蛮な行為との間の著しい乖離は、意図的な放火説の不自然さを間接的に浮き彫りにしている。
第三章:「仏も戦に巻き込まれる」 ― 背徳譚の誕生と流布
本章では、報告書の主題である「仏も戦に巻き込まれる」と嘯いたという具体的な逸話そのものに焦点を当て、その言葉の典拠を追跡し、いかにしてこの背徳譚が誕生し、世に広まっていったのかを解明する。
第一節:逸話の源泉を求めて ― 『常山紀談』に見る久秀像の形成
松永久秀の「三つの大悪事」というイメージを決定づけたとされるのが、江戸時代中期に儒学者の湯浅常山によって編纂された逸話集『常山紀談』である。この書物には、織田信長が徳川家康に久秀を紹介した際の、次のような有名な逸話が収録されている。
「この老人が松永弾正(久秀)でござる。人のえせぬことを三つしている。公方様(将軍)を殺したこと、主人の三好に叛いたこと、大仏殿を焼いたこと。普通は一つでもようせぬことでござるが、それを三つもやってのけた老人でござる」 2
この信長の発言とされる逸話が、久秀の悪行をカタログ化し、「大仏殿焼き討ち」を彼の三大罪の一つとして後世に定着させる上で大きな役割を果たした 3 。しかし、この『常山紀談』という書物の史料的価値には、重大な疑問符が付く。成立したのは18世紀半ばであり、大仏殿炎上から実に150年以上も後のことである。歴史研究の世界では、武将たちの言行を伝える読み物としては面白いものの、史実を考証する上での史料的価値は極めて低いと評価されているのが一般的である 25 。したがって、この信長と家康の対面の逸話自体が、史実ではなく、久秀のキャラクターを際立たせるために江戸時代に創作されたものである可能性が極めて高い。
第二節:なぜ「極悪人」は創られたのか ― 江戸時代の価値観と物語の需要
では、なぜ江戸時代になって、松永久秀は絶対的な悪役として描かれる必要があったのか。その背景には、徳川幕府の下で確立された社会秩序と価値観がある。儒教的な忠孝の倫理が重んじられ、身分秩序が絶対とされた泰平の世において、主君を乗り越え、将軍を弑逆し、聖域を焼いたとされる久秀の生き様は、「下剋上」という戦国時代の混沌を象徴する、最も分かりやすいアンチヒーロー(悪役)であった 22 。
彼の物語は、講談や歌舞伎、浮世絵といった大衆文化の中で、より単純化され、増幅されていった。名器「平蜘蛛の茶釜」を抱いて爆死したという、史実とは断定できない派手な最期の伝説 28 と同様に、「大仏殿焼き討ち」は彼の悪逆非道なキャラクターを際立たせるための象徴的なエピソードとして消費され、定着していったのである。歴史上の複雑な人物像は、分かりやすい「悪役」というレッテルを貼られることで、大衆に受け入れられやすい物語へと姿を変えていった。
第三節:言葉の不在 ― 同時代史料には見られない「嘯いた」という記録
本報告書の核心に至る。松永久秀が炎上する大仏殿を前に「仏も戦に巻き込まれる」と嘯いたという、この具体的な言葉の記録は、果たして存在するのだろうか。
結論から述べれば、存在しない。『多聞院日記』、『信長公記』、ルイス・フロイスの『日本史』をはじめ、事件と同時代に書かれたいかなる一次史料を精査しても、松永久秀が炎上の際に何らかの発言をしたという記録は 一切見当たらない 。ましてや、これほど象徴的で背徳的な言葉を口にしたという記述は皆無である。
この事実は、歴史的事件の記憶が後世においていかに変容し、「物語化」されていくかを示す典型的な事例である。そのプロセスは、以下のように推論できる。
- 史実の発生 :戦闘のさなかに「偶発的な失火」によって東大寺が炎上する。
- 解釈の付与 :『信長公記』などによって、敵対者であった久秀の「意図的な焼き討ち」という単純な悪行の物語に変換される。
- 悪行の体系化 :江戸時代の『常山紀談』によって、「三つの大悪事」の一つとしてカタログ化され、彼の悪役としてのキャラクターが確立される。
- 象徴的セリフの創作 :その確立された「神仏を恐れぬ極悪人」というイメージに基づき、さらに後世の講談師や作家などが、そのキャラクター性をより鮮明に表現するため、「仏も戦に巻き込まれる」という象徴的なセリフを創作し、付与する。
つまり、この背徳的な言葉は、史実の記録ではなく、長い年月をかけて醸成された人物像に命を吹き込むために生み出された、文学的な創作の産物である可能性が極めて高いのである。
結論:史実の戦火と創作の背徳譚
本報告書における詳細な検証の結果、以下の結論が導き出された。
第一に、永禄10年(1567年)10月10日夜半の東大寺大仏殿の炎上は、松永久秀による計画的な焼き討ちではなく、彼の軍が東大寺に立てこもる三好・筒井連合軍に仕掛けた夜襲のさなかに発生した、偶発的な失火であった可能性が、同時代の信頼性の高い史料から強く示唆される。
第二に、松永久秀が燃え盛る大仏殿を前に「仏も戦に巻き込まれる」と嘯いたという逸話は、同時代の史料には一切根拠を見出すことができない。この背徳譚は、江戸時代以降、彼の「梟雄」としてのイメージが社会に定着する過程で、そのキャラクターを補強するために創られた文学的創作であると結論づけられる。
我々は、史実としての「東大寺炎上の夜」という戦乱の悲劇と、物語として創られた「背徳的に嘯く松永久秀」という虚像を、明確に区別して理解する必要がある。松永久秀という複雑で多面的な人物を評価する上では、後世に創られた極悪人のレッテルを一旦剥がし、同時代の多角的な史料からその実像に迫るという、冷静かつ批判的な歴史的視座が不可欠である。この逸話の解体は、我々がいかにして歴史上の人物像を形成し、物語として消費しているのかを再考する上でも、重要な示唆を与えてくれる。
引用文献
- 松永久秀 最期の言葉 戦国百人一首㊺|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/na925a3290a35
- 悪人松永久秀の伝奇 - 見本 https://www.umenoyaissei.com/akuninmatunagahisahide.html
- 『麒麟がくる』でようやく汚名を晴らせるか 松永弾正久秀「三大悪行」の誤解 - note https://note.com/maruyomi4049/n/n83f1b481045f
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- 東大寺大仏殿の戦い / 大仏殿炎上!松永久秀 VS 三好三人衆。梟雄たちの東大寺攻防戦 https://www.youtube.com/watch?v=LsWbfNOOWhQ
- 東大寺の歴史 https://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/hist_todaiji/hist_todaiji.html
- 日本史上最悪の男?~松永久秀 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/matsunagahisahide/
- <きちたび>奈良の旅 2019〜大仏の首が落ちた! 大仏殿が焼けた! 大きいだけじゃない東大寺の歴史に触れる | 吉祥寺@ブログ since 2016 https://kichijoji.blog/history/%EF%BC%9C%E5%A5%88%E8%89%AF%EF%BC%9E%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E3%81%AE%E9%A6%96%E3%81%8C%E8%90%BD%E3%81%A1%E3%81%9F%EF%BC%81-%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%8C%E7%84%BC%E3%81%91%E3%81%9F%EF%BC%81%E3%80%80/
- 東大寺大仏殿炎上 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon_ex02.html
- 東大寺大仏殿は、平清盛の命による南都焼討と 松永久秀の東大寺攻めで二度焼けています。 https://mazba.com/51774/
- 松永久秀(4) 東大寺大仏殿炎上 | 大河ドラマに恋して - FC2 http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-3337.html
- 江戸再興 - 東大寺 https://www.todaiji.or.jp/history/edoki/
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- クイズ!松永久秀が戦いで燃やしちゃったものって何?答えはなんと東大寺のアレ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/125546/
- 太田牛一『信長公記』に見る松永征伐 - note https://note.com/senmi/n/n7653e62c9da8
- 松永久秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
- 信長公記・10巻その3「松永久秀の謀反」 - 歴史ハック https://rekishi-hack.com/shincho_10_3/
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- 坪内(信長のシェフ)|三好氏のお抱え料理人だった坪内は - 美味求真 https://www.bimikyushin.com/chapter_4/04_ref/tsubouchi.html
- 常山紀談(ジョウザンキダン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E5%B1%B1%E7%B4%80%E8%AB%87-79241
- 松永久秀の最期と、その後のイメージなど(1) 久秀の最期について - note https://note.com/amakijiro/n/n5a01938d17f1
- 『 麒麟がくる』で「三悪」の汚名晴らした松永久秀 https://maruyomi.hatenablog.com/entry/2020/09/21/030800