最終更新日 2025-11-05

柳生宗矩
 ~剣は殺すためでなく将軍家指南~

柳生宗矩は徳川家光に「剣は殺すためではない」と説いた。それは剣術を殺人刀から活人剣へと昇華させ、泰平の世を治めるための統治者の心構えを教えるものだった。

柳生宗矩の教訓譚「剣は殺すためにあらず」の深層:『兵法家伝書』から徳川家光の「治国の剣」へ

序論:教訓譚の核心 —「活人剣」という時代の要請

柳生宗矩が徳川将軍家剣術指南役として、三代将軍・徳川家光に対し「剣は殺すためにあらず」と諭したとされる教訓譚は、戦国から江戸泰平の世へと移行する時代の精神を象徴する逸話として広く知られている。

しかし、この教訓譚は、単なる道徳論や、ましてや剣術の否定ではない。それは、宗矩の兵法思想の核心である「活人剣(かつじんけん)」 1 という概念の通俗的な表現であり、戦闘技術者集団であった「武士」が、いかにして「統治者」へと自己変革を遂げるべきかという、江戸幕府初期における最重要の政治的課題に対する回答であった。

本報告書は、この「剣は殺すためにあらず」という教訓譚を、単一のドラマチックな場面としてではなく、柳生宗矩が徳川家光に対して行った長期的かつ多角的な教育プロセス全体を凝縮したものとして分析・再構築するものである。そのために、史料に基づき、時系列で区分される以下の三つの「場面」を徹底的に解剖し、この教訓の真髄が「剣術の技術」から「治国の精神」へといかに昇華されたかを論証する。

  1. 【哲学的基盤】(寛永九年 / 1632年): 宗矩自身がこの思想を『兵法家伝書』に明文化した際の論理。
  2. 【精神的指導】(家光青年期): 家光の精神的未熟さを正すため、禅僧・沢庵宗彭を推挙した際の問答。
  3. 【政治的応用】(正保三年 / 1646年以降): 宗矩の死後、家光自身が宗矩の教えの真髄を回想した『徳川実紀』の記録。

哲学的基盤(寛永九年):『兵法家伝書』と「殺人刀」から「活人剣」への論理転換

柳生宗矩の「剣は殺すためにあらず」という思想の理論的骨格は、彼自身が著し、徳川家光にも伝授されたと目される兵法書『兵法家伝書』(寛永九年 / 1632年成立)に詳述されている 2 。この寛永九年という年は、二代将軍・秀忠が死去し、家光が名実ともに「公方」として親政を開始した、極めて重要な時期と重なる 3 。この書は、単なる剣術の秘伝書ではなく、新時代の統治者たる家光に捧げられた、兵法(統治)の指南書であった。

「殺人刀(せつにんとう)」の肯定義務

宗矩は、単純に「剣は悪である」とか「殺すなかれ」と説いたのではない。彼はまず、統治者として「剣(=力)」を行使する責任と、その正当性を明確に定義している。

『兵法家伝書』の「殺人刀」の巻の序文において、宗矩は「兵は不祥の器」という老子の言葉を引用しつつも、「やむを得ない時にこれを用いるのは天の道理に適っている」と断言する 4 。そして、その「やむを得ない時」の具体例として、こう記している。

「一人の悪が万人を苦しめているとき、一人の悪を殺して万人を生かす。これこそ、人を殺す刀は、人を生かす剣となろう」 4

これは、戦国時代の「悪を誅し、秩序を回復する」という論理、すなわち「殺人刀」の(限定的な)肯定である。徳川家が天下を平定するために行使した「力」は、結果として万民を(戦乱から)生かすための「活人剣」であった、と正当化する論理でもある。宗矩はまず、家光に対し、統治者としての「力の行使」をためらってはならない、という現実的な政治論を説いた。

泰平の世における「活人剣」への昇華

しかし、宗矩の真意はここからである。彼は、戦乱の世(殺人刀が必要な世)が治まった後、すなわち家光が統治する「泰平の世」においては、その「殺人刀」の論理は変質しなければならないと説く 4

戦国の世が終わり、もはや武士が戦場で刀を振るう機会がなくなった(実際、家光は戦場を経験していない 5 )。では、なぜ武士は剣術の修行を続けるのか。

宗矩の答えは明快である。それは、剣術の修行(小さき兵法)を通じて体得する精神や論理が、組織の運営・管理(=家臣の掌握、すなわち「大なる兵法」=政治)にそのまま有用であるからだ、というものである 4

ここにおいて、「剣」の目的は、「敵を殺すこと」から「組織を治め、人(家臣・領民)を生かすこと」へと完全に転換される。

つまり、「剣は殺すためにあらず」という教訓譚の哲学的基盤は、「(泰平の世においては)剣は もはや (物理的に)殺すためにあらず。(その修行の論理は)人を生かし、国を治めるためにある」という、高度な政治哲学への「昇華」の宣言であった。家光の親政開始 3 と『兵法家伝書』の成立 2 が同時期であることは、これが新将軍への統治マニュアルであったことを示している。

教授の時系列(一):『剣禅一致』— 沢庵宗彭の推挙

『兵法家伝書』が「理論」であるならば、これは「実践的指導」の第一歩を示す逸話である。ご要望の「リアルタイムな会話」に最も近い記録の一つが、この沢庵宗彭(たくあんそうほう)の推挙にまつわる逸話である。

状況:将軍の悩みと指南役の診断

時期は明確ではないが、家光が将軍職に就いて間もない青年期、剣術の稽古に熱心に取り組んでいた頃と推察される。家光は自身の剣術が一向に上達しないことに悩み、精神的に不安定な状態にあった 1

この状況下で、家光と宗矩の間で以下の趣旨の会話が交わされた。

徳川家光: 「余はかくも兵法(剣術)が好きで、日々自ら熱心に稽古に励んでいる。それにもかかわらず、なぜ一向に上達しないのか」 1

柳生宗矩: 「御(おん)稽古は十分でございます。ですが、上達なさらぬのは、兵法の技術の問題ではございません。上様(うえさま)の『心』の修練が足りておらぬからにございます。兵法の上達には、禅による心の修練が不可欠にございます」 1

分析:「殺す術」から「心の術」へ

この問答は、教訓譚の核心を突いている。家光の悩みは「(敵を)うまく殺せない(=上達しない)」という「技術(殺人刀)」のレベルに留まっていた。

それに対し、宗矩は「技術の問題ではない」と一蹴する。そして、処方箋として提示したのは「心の修練」すなわち「禅」であった。宗矩は、この問答を受けて、自身と親交が深く、また宗矩自身の柳生新陰流の完成にも思想的影響を与えた禅僧・沢庵宗彭を家光に推挙した 1

宗矩が説いた「剣禅一致」 1 の思想とは、まさに「剣は殺すためにあらず。(己の心を修練し、不動の精神を確立するためにある)」という教えそのものである。

家光の「技術が上達しない」という悩みを、「心の修練が必要である」という「活人剣」の領域へと巧みに誘導したこの逸話は、宗矩が「剣は殺すためにあらず」という教訓を、将軍に対し行動で示した最初の具体的な事例と言える。

教授の時系列(二):『無心の極意』—『徳川実紀』の回想

宗矩の教えが最終的にどのような形で家光に理解され、いかにして「治国」の道具となったかを示す、決定的な逸話が存在する。これは宗矩の死後、家光自身が宗矩の教えの真髄を回想したものであり、『徳川実紀』に収録されている 5

状況:宗矩の死後、家光の回想

時系列は、宗矩の死(正保三年 / 1646年)以降である 5。

三代将軍・徳川家光(当時43歳前後)は、亡き宗矩を偲び、「天下の政治は宗矩に学んでその大体が分かった」「宗矩がいれば相談するのに」と常々周囲に漏らすほど、彼に深い信頼を寄せていた 5。

ある時、家光は宗矩の三男であり、指南役を継いだ柳生宗冬(やぎゅうむねふゆ)に対し、父・宗矩の教えを懐かしむ形で、次のように語って聞かせた 5

会話内容(家光による宗矩の教えの回想)

『徳川実紀・家光篇』附録五に記されたこの逸話は、宗矩の教えの核心であり、以下の内容である。

徳川家光(宗矩の言葉を回想): 「(宗冬よ、そなたの父、宗矩は私にこう教えてくれた)」

徳川家光(同上): 「『(将軍たるもの)用があって目上の者(※ここでは将軍が家臣を召す場合など、対人関係の比喩)に召された時、「きっと、こういう用件をおおせ付けられるに違いない」と自分であれこれと憶測を立て、心を定めてから前に出るとします』」

徳川家光(同上): 「『(ところが)もし、思ったことと違う用件であった場合、思いが(一点に)詰まってしまい(=心が動転し)、すぐに返事が出来ないものです。これは良くないことです』」

徳川家光(同上): 「『(そうではなく)とにかく無心(むしん)で前に出れば、仰せられる事がすんなりと理解でき、速やかにお受けすることができるのです』」

5

教訓の核心的分析:「剣の極意」から「治国の極意」へ

この家光の回想こそ、「剣は殺すためにあらず」という教訓譚の最終的な到達点を示すものである。

一見すると、この逸話は剣術とは何の関係もない、単なる「君主の心構え」や「対人関係論」のように聞こえる。

しかし、この「無心」の教えこそ、柳生新陰流の極意そのものである 5 。剣術において、「敵はこう動くに違いない」と憶測を立てて構えれば(=心が詰まれば)、敵が想定外の動きをした瞬間に対応できず、敗北する。そうではなく、「無心」で敵と対峙して初めて、敵のあらゆる動きに自然と対応できる。

宗矩は、この剣の極意(=無心)を、家光の「本業」である「政治(=家臣と対峙し、国を治めること)」の場でいかに応用すべきかを説いたのである。

家光が「天下の政治は宗矩に学んだ」 5 と語ったのは、宗矩が「剣術」を「治国術」へと翻訳して家光に授けたからに他ならない。

家光にとって、柳生宗矩との剣術の修行は、敵を「殺す」ための訓練ではなかった。それは、「無心」という統治者(=万人を生かす者)としての最上の精神状態を涵養するための「活人剣」の修行であった。家光が宗矩の死後も「政治を学んだ」と回想した事実こそ、この教訓譚が単なる逸話ではなく、江戸初期の政治思想の核心であったことを証明している。

結論:「活人剣」から「治国の剣」への昇華

柳生宗矩の「剣は殺すためにあらず」という教訓譚は、単一のドラマチックな逸話ではなく、戦国の「殺人刀」の時代から、泰平の「活人剣」の時代へと移行する徳川幕府のイデオロギーそのものを体現した、長期的かつ高度な教育プロセスであった。

宗矩は、将軍・徳川家光に対し、以下の三段階のプロセスを通じて、この教えを授けた。

  1. 【哲学の提示】(寛永九年): まず「力(剣)の行使は、万人を生かす場合にのみ正当化される」という「殺人刀」の論理を示し、泰平の世においてはそれが「治国(=活人剣)」の論理に昇華されねばならないという哲学的基盤を『兵法家伝書』によって与えた 2
  2. 【精神の導入】(青年期): 次に、剣術の上達に悩む家光に対し、「技術(殺す術)」ではなく「心(禅)」の修練こそが重要であると説き、沢庵宗彭を推挙することで「剣禅一致」の道を示した 1
  3. 【政治への応用】(統治期): 最終的に、剣の極意である「無心」を、「政治(治国)」の場で家臣や政務と対峙するための統治者の心構えとして応用する道を示した 5

この教訓譚の真髄は、剣術指南役が、剣術の技術そのものを否定するのではなく、その論理を最高度に抽象化・昇華させ、一国の「治国(=人を生かす)」ための道具として将軍に授けたという点にある。柳生宗矩は、家光を「戦う者」から「治める者」へと導くことで、戦国の剣を、泰平の世の「治国の剣」へと変えたのである。

引用文献

  1. 柳生宗矩 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/yagyu-munenori/
  2. 兵法家伝書 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E6%B3%95%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E6%9B%B8
  3. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89#:~:text=%E5%AF%9B%E6%B0%B89%E5%B9%B4%EF%BC%881632%E5%B9%B4,%E5%85%89%E3%81%8C%E5%88%9D%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
  4. 兵法家伝書を読む(Ⅱ) – トオル先生の剣道談話室 - 大池剣友会 http://www.oikekenyukai.com/column/archives/67
  5. Untitled - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/72747151.pdf
  6. 柳生宗矩が七十六歳で死んだとき、家光は 四十三歳であり、それから五年間将軍として在位した https://kdu.repo.nii.ac.jp/record/272/files/KJ00000173794.pdf