森可成
~息子守るため討死家門美談~
森可成は元亀元年、信長の窮地を救うべく宇佐山城で討死。その忠義に報いるため、信長は息子たちを破格の待遇で遇した。家門美談は、織田家の戦略、家臣統制、森家の存続が絡み合った力学の中で生まれた。
忠義の代償:森可成、宇佐山城に散る。そして息子たちへ託された信長の想い
序章:家門美談の核心
戦国乱世において、武将の死は日常の出来事であった。しかし、その死が単なる戦闘記録を超え、後世にまで語り継がれる「美談」として昇華される例は極めて稀である。本報告書で扱う「森可成~息子守るため討死家門美談~」は、その数少ない事例の一つに数えられる。
この逸話の骨子は、元亀元年(1570年)、織田信長の重臣・森可成が、主君の戦略的窮地を救うべく、圧倒的多数の敵軍に敢然と立ち向かい、壮絶な討死を遂げたことにある。その比類なき忠義に深く心を打たれた信長は、遺された息子たち、特に三男の森蘭丸(成利)を破格の待遇で遇し、その忠功に報いたとされる。
本報告書は、この逸話が単なる感傷的な物語ではなく、織田家の軍事戦略、家臣団統制、そして森家の家門存続という、極めて政治的かつ人間的な力学の中で生まれたことを解き明かすものである。可成の死の瞬間に至るまでの緊迫した状況を時系列で克明に再現し、その一人の武将の死が、息子たちの運命、ひいては織田家の歴史に如何なる影響を及ぼしたのかを、あらゆる角度から徹底的に考察する。
第一部:死闘への序章 ― 元亀元年の近江
第一章:信長の戦略的窮地と浅井・朝倉連合軍の南進
元亀元年(1570年)9月、織田信長の天下布武は、未曾有の危機に瀕していた。信長は三好三人衆を討伐すべく、主力を率いて摂津国(現在の大阪府北部と兵庫県南東部)の野田・福島に出陣していた 1 。しかし、この戦いは石山本願寺の蜂起という想定外の事態を招き、戦線は膠着。信長自身が摂津の地に釘付けにされるという、戦略的に極めて危険な状況に陥っていたのである 2 。
この信長不在という千載一遇の好機を「奇貨」として捉えたのが、北近江の浅井長政と越前の朝倉義景であった 2 。彼らは同年4月の「金ヶ崎の退き口」において、信長の同盟者であったはずの浅井が裏切り、信長を挟撃寸前にまで追い込んで以来、明確な敵対関係にあった 4 。信長にとっては、この浅井の裏切りは許しがたい屈辱であり、今度は自身が背後を突かれる形でその悪夢が再現されることとなった。浅井・朝倉連合軍は、総勢およそ三万という大軍を動員し、信長本隊が畿内に不在の隙を突き、手薄となっていた琵琶湖西岸を南下、京都奪取を目指して進軍を開始した 1 。これが、後に「志賀の陣」と呼ばれる一連の戦いの幕開けであった 1 。
この軍事行動は、単に浅井・朝倉両氏の判断だけではなかった。それは、将軍・足利義昭が画策し始めたとされる「信長包囲網」が、初めて物理的な脅威として信長に牙を剥いた瞬間でもあった 2 。畿内における信長の急速な台頭を快く思わない諸勢力が連動し始めたのである。したがって、この連合軍の南進を食い止めるという任務は、織田家全体の運命を左右する、極めて重大な意味を持っていた。もしこの最初の猛攻を防げなければ、信長は摂津と近江で挟撃され、天下統一の野望はここで潰えていた可能性すらあった。
第二章:湖西の孤塁、宇佐山城
浅井・朝倉連合軍が京都へ至る進軍ルートを扼する戦略的要衝、それが宇佐山城であった 1 。標高336メートルの宇佐山山頂に築かれたこの城は、琵琶湖の制水権と、京都へ通じる今道越・逢坂越といった主要街道を同時に監視できる、まさに湖西の喉元に位置していた 9 。
この城は、元亀元年3月に築城が開始され、わずか2ヶ月後の5月に完成したばかりの最新鋭の城郭であった 9 。特筆すべきは、信長が後に築く安土城に先駆けて、本格的な石垣を多用していた点である 10 。これは、単なる防御施設としての機能だけでなく、琵琶湖上からもその威容を望むことができ、織田家の権威と先進的な築城技術を天下に誇示する「見せる城」としての意図も含まれていたと考えられる 10 。
しかし、その構造を詳細に見ると、主郭部は比較的狭く、大軍が長期間籠城するには必ずしも適していなかった 10 。むしろ、標高差180メートルの急峻な地形、巧みに配置された竪堀や虎口(城門)は、敵の大軍の進軍速度を削ぎ、足止めすることに特化していた 12 。このことから、宇佐山城に与えられた真の役割は、敵を殲滅する拠点ではなく、信長本隊が主戦場に駆けつけるまでの貴重な「時間」を稼ぎ出すための、戦略的な遅滞拠点であった可能性が高い。城主は、自らが犠牲になることも覚悟の上で、敵をこの地に釘付けにすることが至上命題だったのである。
この絶望的ともいえる任務を託されたのが、織田家譜代の猛将・森可成であった。通称を三左衛門といい、その勇猛果敢な戦いぶりから「攻めの三左」の異名を取った槍の名手である 3 。彼がこの城に配置されたのは偶然ではない。信長が最も信頼する宿将の一人として、最も困難な場所に死守を命じられた結果であった。可成は、自らの運命を悟っていたのかもしれない。
第二部:宇佐山城の戦い ― 時系列による完全再現
可成が宇佐山城で直面した状況は、絶望的という言葉ですら生ぬるいものであった。以下の兵力比較がその過酷さを物語っている。
【表1】宇佐山城の戦い 主要人物と兵力比較
|
派閥 |
主要指揮官 |
推定兵力 |
典拠 |
|
織田軍(宇佐山城守備隊) |
森可成、織田信治、青地茂綱 |
約1,000~3,000 |
5 |
|
浅井・朝倉連合軍 |
浅井長政、朝倉景健、延暦寺僧兵 |
約30,000 |
5 |
10倍以上の兵力差を前に、籠城は緩慢な死を意味する。可成が選んだのは、彼の異名にふさわしい、あまりにも大胆な戦術であった。
第一章:元亀元年九月十六日 ― 緒戦、一千対三万の奇跡
浅井・朝倉連合軍三万が坂本の地に殺到したとの報を受けるや、可成は城に籠もることを潔しとしなかった。『信長公記』によれば、彼はわずか一千の手勢を率いて城から打って出ると、麓の街道を封鎖し、油断していた敵の先鋒に襲いかかった 3 。
宇佐山城の物見櫓からは、眼下の坂本にうごめく三万の大軍が蟻の大群のように見えたであろう。城内に動揺が走る中、可成はこう檄を飛ばしたかもしれない。「怯むな!信長様が摂津で奮戦しておられるのだ。我らがここで敵を食い止めずして、誰が京を守るのか!敵は数に驕り、油断している。我らには地の利がある。今こそ打って出て、奴らの鼻をへし折ってくれるわ!我に続け!」
可成は伏兵を巧みに配置し、大軍の利を活かせない足軽同士の乱戦へと引きずり込んだ 7 。この奇襲戦術は完璧に成功し、緒戦において連合軍の先鋒を撃退、複数の敵将の首級を挙げるという驚くべき戦果を上げた 7 。この勝利は、一時的に織田軍の士気を大いに高めると同時に、連合軍の進軍計画に最初の、そして貴重な遅延をもたらしたのである。
第二章:九月十七日~十九日 ― 包囲網の狭窄
緒戦の勝利は、しかし、戦況全体を好転させるには至らなかった。思わぬ反撃に憤激した連合軍は、力攻めへと戦術を転換する。さらに九月十九日、事態を決定的に悪化させる出来事が起こる。これまで中立を保っていた比叡山延暦寺の僧兵たちが、石山本願寺からの要請に応じ、連合軍に加勢したのである 3 。
これにより、宇佐山城は東西南北を完全に敵に囲まれ、外部からの救援は絶望的となった。可成と城兵たちは、四方の山々に翻る敵の旗を見上げながら、精神的にも肉体的にも極限状態へと追い込まれていった。
第三章:九月二十日 ― 「攻めの三左」最後の奮戦
『信長公記』は、この運命の日を「浅井長政、朝倉義景の大軍、短兵急に戦うによって、森可成、織田九郎防戦火花を散らし、九天九地の下を通り、終日合戦なり」と、その激しさを伝えている 3 。
この日、可成は信長の弟である織田信治、そして近江の国人・青地茂綱と共に再び城から出撃した 17 。午前中、彼らは朝倉軍の先鋒・朝倉景鏡の部隊を一度は押し返すなど、鬼神の如き奮戦を見せた 3 。しかし、昼を過ぎると戦局は暗転する。浅井対馬・玄蕃が率いる二千の別動隊が巧みに側面へ回り込み、横槍を入れたのである 3 。
これにより可成の部隊は統制を失い、混乱に陥った。その隙を逃さず、朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の部隊、さらには浅井長政の本隊までもが怒涛の如く殺到した 3 。もはや衆寡敵せず。泥と血にまみれ、全身に無数の傷を負いながらも十文字槍を振るい続けた可成であったが、四方から突き出される槍の穂先を捌ききることはできなかった。隣で戦っていた織田信治が敵刃に倒れるのを見たか、あるいは見なかったか。ついに可成も力尽き、信治、茂綱と共に下坂本瀬戸在家(しもさかもとせとのざいけ)の地にて、敵兵の只中で壮絶な討死を遂げた 3 。その最期の言葉を伝える記録はないが、「我が命と引き換えに、信長様のための時間は稼いだぞ…!息子たちよ、達者でな…!」という想いが胸をよぎったとしても不思議ではない。享年四十八であった。
第四章:主将を失えど、城は落ちず
大将・森可成討死の報は、宇佐山城を守る兵たちに絶望的な衝撃を与えた。しかし、彼らは屈しなかった。可成の家老である各務元正、肥田直勝らが残存兵力を巧みに指揮し、城に攻め寄せる連合軍の猛攻を何度も撃退したのである 3 。可成が命を懸けて示した忠義の魂は、確かに部下たちに受け継がれていた。
そして、可成とその部下たちが血で稼いだ数日間の時間は、ついに決定的な意味を持つこととなる。九月二十二日、摂津の信長のもとに近江の凶報が届く 2 。信長は即座に摂津からの全軍撤退を決断。驚異的な速度で軍を返し、九月二十四日、ついに信長の本隊が坂本に到着、宇佐山城に入城した 9 。これにより戦局は完全に逆転。連合軍は京への進撃を諦め、比叡山へと後退していった 21 。
森可成は死んだ。しかし、彼に課せられた「時間稼ぎ」という任務は、見事に完遂された。連合軍の京都進攻は阻止され、宇佐山城は最後まで落ちなかった 1 。後日、信長は城を守り抜いた各務元正と肥田直勝を賞賛したと伝えられている 3 。可成の死は、織田家にとって戦略的勝利の礎となったのである。
【表2】志賀の陣における宇佐山城攻防の時系列
|
年月日(元亀元年) |
出来事 |
主要人物 |
典拠 |
|
9月12日頃 |
信長、摂津にて三好三人衆と対峙(野田・福島の戦い) |
織田信長 |
2 |
|
9月16日 |
浅井・朝倉連合軍、坂本へ侵攻。可成、出撃し緒戦に勝利 |
森可成 |
3 |
|
9月19日 |
延暦寺僧兵、連合軍に加勢 |
- |
3 |
|
9月20日 |
坂本にて終日の激戦。森可成、織田信治、青地茂綱ら討死。宇佐山城は落城せず |
森可成他 |
3 |
|
9月21日 |
連合軍、宇佐山城を迂回し山科・醍醐へ放火 |
浅井長政 |
2 |
|
9月23日 |
信長、摂津より撤退開始 |
織田信長 |
2 |
|
9月24日 |
信長、坂本に到着。宇佐山城に入り、連合軍は比叡山へ後退 |
織田信長 |
9 |
第三部:忠義の遺産 ― 家門美談の誕生
第一章:信長の慟哭と憤怒
信長は、可成の死の報に接し、深く悲しみ、その死を惜しんだと伝えられている 15 。可成は信長がまだ若年の頃から仕えた宿老であり、単なる家臣という言葉では括れない、特別な存在であった 3 。
この深い悲しみは、やがて連合軍に加担した比叡山延暦寺への烈火の如き怒りへと転化した 15 。翌元亀二年(1571年)に行われた悪名高い比叡山焼き討ちは、旧来の宗教的権威への挑戦という政治的側面だけでなく、可成の弔い合戦という、信長の極めて個人的な動機が大きな要因の一つになったとされている 3 。
この時、一つの逸話が生まれている。坂本の聖衆来迎寺は、本来ならば比叡山と繋がりの深い寺院であった。しかし、時の住職・真雄は、敵将である可成の遺骸を夜陰に紛れて密かに引き取り、手厚く葬った 3 。この敵味方を超えた義侠心に感じ入った信長は、比叡山焼き討ちの際に坂本一帯を焦土と化す中、この寺だけには一切手を出さなかったという 3 。
この物語には、さらに深い歴史の因縁が隠されている。森氏の遠祖とされる源氏の武将・源義隆は、平治の乱の折、比叡山の僧兵が放った矢によって命を落としていた 3 。数世紀の時を経て、その子孫である森可成が、またしても比叡山が与同した敵によって討たれたのである。信長による比叡山の徹底的な破壊は、可成個人の仇討ちであると同時に、森家にまつわる数世紀にわたる宿命の連鎖を断ち切る、壮大な歴史的復讐劇としての側面をも帯びていた。この「因縁」は、信長の苛烈な行動を正当化する強力な物語となり、森家の逸話を歴史的報復の伝説へと昇華させた。
第二章:英雄の遺児たち ― 長可と蘭丸
森家にとって元亀元年は、まさに悲劇の年であった。九月の父・可成の戦死に先立つことわずか五ヶ月前の四月、長男の可隆も越前手筒山城攻めで陣没していたのである 5 。
父と兄という二本の柱を半年足らずで失い、次男の長可がわずか十三歳で家督を継ぐことになった 16 。戦国の常識でいえば、当主を相次いで失った家は取り潰されるか、他の重臣に吸収されてもおかしくない状況であった。しかし信長は、長可の家督相続をただちに認め、「可成の息子なら大丈夫だ」と述べ、自らが後見人となることを示したとされる 32 。これは、亡き忠臣への恩義に、信長が自身のやり方で最大限報いようとした強い意志の表れであった。
そして父の忠死から七年後の天正五年(1577年)、三男の成利、すなわち後の森蘭丸が、弟の坊丸、力丸と共に信長の小姓として召し出された 29 。父が命を懸けて守った主君の側に仕えることは、彼らにとって逃れられぬ宿命であり、またこの上ない名誉であった 34 。
第三章:殊遇の体現 ― 森蘭丸の逸話にみる信長の信頼
森蘭丸は、後世に伝わる美少年のイメージとは裏腹に、極めて有能で怜悧な側近であった。彼の才気と忠誠心を示す逸話は、江戸時代に成立した『鳩巣小説』や『朝野雑載』といった書物に数多く記録されている 35 。
- 障子の逸話: 信長に「開いている障子を閉めてこい」と命じられたが、実際には閉まっていた。蘭丸は、衆目の前で主君に恥をかかせぬよう、一度静かに障子を開け、わざと大きな音を立てて閉め直し、「閉まっておりました」と報告した 29 。
- 爪の逸話: 信長が切った爪を捨てるよう命じられた際、数が足りないことに気づき、呪詛などに使われぬよう残りの一本を探し出した 29 。
- みかんの逸話: 山盛りのみかんを運ぶ際、信長から「その持ち方では転ぶぞ」と声を掛けられた。蘭丸は、主君の予見を違えぬよう、あえて転んでみせ、信長の面目を保った 37 。
これらの逸話は、蘭丸個人の機転を示すものであると同時に、彼の置かれた特別な立場を浮き彫りにする。父の壮絶な死によって生まれた信長との絆は、蘭丸に完璧な奉仕を課した。彼の細心にして徹底的な気配りは、単なる有能さの証明ではなく、父が命で示した忠義を、自らは完璧な奉仕という形で主君に返し続けようとする、切実な「継承された忠誠の表明」であった。一方で、兄の長可は「鬼武蔵」と恐れられるほどの苛烈な武勇でその忠誠を示した。蘭丸の完璧な奉仕と、長可の完璧な暴力は、同じ忠義という名のコインの表裏であった。信長が両者の極端な振る舞いを許し、破格の待遇で報いたのは、彼らの奉公を通して、宇佐山で散った忠臣・可成の姿を常に見ていたからに他ならない。蘭丸への五万石という破格の加増 29 は、息子への褒賞であると同時に、父への死後も続く恩賞であった。
結論:一人の武将の死が織田家中に遺したもの
森可成の宇佐山城における討死は、戦闘単体で見れば戦術的敗北であった。しかし、その死がもたらしたものは、敗北という言葉では到底測れないほど大きい。
第一に、軍事的には、可成の命を懸けた四日間の抵抗が浅井・朝倉連合軍の進撃を決定的に遅らせ、信長本隊が危機を脱するための貴重な時間を創出した。彼の死は、織田家全体の戦略的勝利に不可欠な礎となったのである。
第二に、政治的には、可成の死と、その後の信長による遺児たちの破格の待遇は、「主君への忠義は、死してなお必ず報われる」という極めて強力なメッセージを、織田家臣団全体に示した。実力主義と厳罰主義で知られる信長の統治において、この一件は信賞の側面を象徴する「家門美談」として機能し、家臣たちの忠誠心をより一層強固にする効果があった。
最後に、この出来事は、森家が織田家中で特別な地位を築き、後の大名家として存続していくための礎となった。父の死は、息子たちにとって耐え難い悲劇であると同時に、彼らの立身出世を保証する最大の無形の遺産となったのである。この「森可成~息子守るため討死家門美談~」は、戦国という過酷な時代における、主君と家臣の間の情誼、そして死を超えて受け継がれる忠義の価値を、現代にまで雄弁に物語っている。
引用文献
- 其の四・隙をつかれた志賀の陣|歴史の旅・国内旅行のビーウェーブ https://bewave.jp/history/nobunaga/hs000104.html
- 志賀の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E3%81%AE%E9%99%A3
- 森可成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%8F%AF%E6%88%90
- 【解説:信長の戦い】姉川の戦い(1570、滋賀県長浜市) 信長、復讐に燃えた浅井討伐の第一戦で圧勝!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/482
- 歴史の目的をめぐって 森可成 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-35-mori-yoshinari.html
- 野田・福島の戦い (1570年) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E3%83%BB%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1570%E5%B9%B4)
- 「森可成」織田軍団をけん引、十文字槍の使い手 "攻めの三左"。 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/731
- 元亀元年の戦い - 天下は朝倉殿に(3)志賀の陣 http://fukuihis.web.fc2.com/war/war082.html
- 宇佐山城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/190/memo/4294.html
- 宇佐山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 傾奇者ノ歴史講話 宇佐山城の戦い、森可成 前田慶次 | 名古屋おもてなし武将隊オフィシャルブログ Powered by Ameba https://ameblo.jp/busho-tai/entry-12406178018.html
- 宇佐山城|信長の忠臣が死守した石垣づくりの山城 - お城カタリスト https://shiro1146.com/blog/usayama-03/
- 宇佐山城>森可成討ち死に後、比叡山焼き討ちに成功した”明智光秀”のお城に https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12840208284.html
- 森可成が使用した家紋一覧(2種) - 家紋のいろは https://irohakamon.com/sengoku/kamon_moriyoshinari.html
- 森可成~前田利家も称賛した猛将「槍の三左」 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4348
- 森長可の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/98721/
- 織田信治 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%B2%BB
- 青地城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.aochi.htm
- 森可成(もりよしなり)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E5%8F%AF%E6%88%90-142947
- 【滋賀県】宇佐山城の歴史 短命ながら、森可成・明智光秀が守った近江の織田軍重要拠点! https://sengoku-his.com/942
- 志賀の陣古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/shiga-no-jin/
- History4 知将・光秀の実像とゆかりの人々について - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1270.html
- 聖衆来迎寺(2)森可成の墓 - 大河ドラマに恋して - FC2 http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-3230.html?sp
- 宇佐山城 - 近江の城めぐり - 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 https://shiroexpo-shiga.jp/column/no28/
- 聖衆来迎寺 - びわ湖大津トラベルガイド https://otsu.or.jp/thingstodo/spot169
- 森可成とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%A3%AE%E5%8F%AF%E6%88%90
- G396 森 義隆 - 清和源氏 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/G396.html
- 森蘭丸の一族の子孫が住む江迎・鬼突を訪ねて https://sasebosengoku.com/report/onizuki.pdf
- 森蘭丸と名刀「不動行光」の逸話/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/anecdote-sword/moriranmaru-fudoyukimitsu/
- 『森長可』鬼武蔵と恐れられた戦国の猛将について - チキンのネタ倉庫 https://www.chickennoneta.com/entry/2023/09/09/163027
- 森蘭丸の兄の弱点は家族愛?「鬼武蔵」の異名を持つほど苛烈な性格とそのギャップに迫る https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/129278/
- 森長可(もり ながよし) 拙者の履歴書 Vol.298~主君亡き後の荒ぶる武神 - note https://note.com/digitaljokers/n/na7a82159a428
- 森成利 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%88%90%E5%88%A9
- 森蘭丸(もり らんまる/森成利) 拙者の履歴書 Vol.17〜信長公に捧げし十七年 - note https://note.com/digitaljokers/n/n2f3e6ea8f769
- 森蘭丸の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38367/
- 織田信長の小姓・森蘭丸の次のような逸話を聞いたことがあるが - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000295565&page=ref_view
- わざと転ぶ「森蘭丸」は超デキる有能秘書だった?気遣いの達人から学ぶこととは - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/102281/
- 森蘭丸の数々のエピソードをまとめてみました|株式会社アイセレクト - note https://note.com/aiselect0903/n/n7fed288d5a17
- 戦国時代イチ旦那にしたい男・森蘭丸くんへの愛を語る - 株式会社街クリエイション https://machicre.net/blog/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%A4%E3%83%81%E6%97%A6%E9%82%A3%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%84%E7%94%B7%E3%83%BB%E6%A3%AE%E8%98%AD%E4%B8%B8%E3%81%8F%E3%82%93%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%84%9B/
- 3.森家と戦国時代 - 【森氏家譜】森一族の歴史 http://www.mori-family.com/jp/rekishi/3.html