最終更新日 2025-11-04

榊原康政
 ~家康守るため、敵中を笑い駆け抜ける~

榊原康政の「敵中笑過」逸話を考証。三方ヶ原で家康を守るため、敵中で笑い駆け抜けた行動は、主君の精神的動揺を察し、剛胆さで鼓舞する戦略的パフォーマンスだった。

榊原康政「敵中笑過」胆力譚の時系列的・徹底的考証

— 三方ヶ原の敗走における「剛」の心理と戦略 —


I. 序章:特定された「胆力譚」の座標

1-1. 逸話の同定:三方ヶ原の戦い(元亀3年12月22日)

当該の「家康の命を守るため、敵中を笑いながら駆け抜けた」という逸話は、榊原康政の数多ある武功伝の中でも、その特異性と劇的な状況設定において際立ったものである。この逸話が歴史的座標のどこに位置するかを特定する作業は、本考証の第一歩である。

「家康の命が(最も)危険に晒され」、「敵中を突破」する必要に迫られた局面という二つの要素が合致する出来事は、徳川家康の全生涯を通じても、元亀3年(1572年)12月22日(西暦1573年1月25日)に発生した「三方ヶ原の戦い」における敗走をおいて他にないと断定できる。

この戦いは、甲斐の武田信玄と徳川家康が遠江(静岡県西部)の三方ヶ原台地で激突したものであり、結果は徳川軍の完膚なきまでの大敗であった。本逸話は、この合戦の「本戦」中ではなく、本戦の陣形が崩壊し、徳川軍が浜松城へ向けて全軍総崩れとなった「敗走」の渦中、その夕刻から夜陰にかけての極めて混乱した状況下で発生したものである。

1-2. 当時の榊原康政の「状態」

この決死の行動に出た当時、榊原康政(小平太)は25歳であった。家康が三河で独立して以来の譜代の臣であり、主君の身辺を警護する「旗本」の中でも、特に選抜された精鋭部隊「旗本先手役」の一翼を担う、血気盛んな若武者であった。

重要なのは、この時点ではまだ「徳川四天王」という呼称や、それに基づく序列・名声は確立途上であったことである。彼は、主君・家康の目前で、自らの「剛」の資質と存在価値を証明する必要性に駆られた立場にあった。

三方ヶ原の本戦において、康政の部隊は徳川軍の右翼(あるいはその一部)に配置されたと推定されるが、武田軍の「魚鱗の陣」による凄まじい中央突破と、側面からの山県昌景隊らの突撃により、徳川軍の戦線はわずかな時間で崩壊した。康政もまた、この敗走の渦中に巻き込まれ、主君の周囲を守る数少ない旗本の一人として、絶望的な状況下にあった。

1-3. 考証の核心的課題:「笑い」の真実性

本逸話の核心であり、同時に最大の謎は、極度のストレス下(自軍の壊滅、主君の危機、死の恐怖)における「笑い」という、常軌を逸した(あるいは非日常的な)行動である。通常の人間心理であれば、恐怖、絶望、あるいは怒りが発露する場面である。

したがって、本報告書の核心的課題は、この「笑い」が文字通りの「哄笑」であったのか、あるいは恐怖を押し殺した「苦笑」や「冷笑」であったのか、さらには何らかの心理的・戦術的意図(または後世の史料編纂における脚色)に基づく「パフォーマンス」であったのかを、時系列の再構築と史料批判(後述)を通じて、徹底的に解明することにある。

II. 緊迫の時系列(第一幕):浜松城への絶望的撤退

ユーザの「時系列でわかる形」「その時の状態」という要求に応えるため、合戦の崩壊から問題の「胆力譚」が発生する直前までの「リアルタイム」な状況を再構築する。

2-1. [PM 4:00-5:00頃] 徳川本陣の崩壊と「総崩れ」

三方ヶ原台地における野戦は、徳川・織田連合軍(織田の援軍は少数)の完敗に終わった。徳川軍は、武田軍の圧倒的な戦術と士気の前に戦線を維持できず、統制を失った「総崩れ(Rout)」の状態に陥った。これは、組織的な戦闘行動が不可能な、個々が生命の維持のみを目的とする逃走である。

この時、主君である家康自身の「状態」が、康政の行動の背景として極めて重要である。家康は、この生涯最大の敗戦に直面し、極度の狼狽状態にあった。恐怖のあまり馬上で脱糞したという逸話(『三河物語』が婉曲的に示唆し、後世に誇張される)や、後にこの時の戒めとして描かせた「しかみ像(顰像)」に繋がるほどの精神的打撃を受けていた。まさに、家康が「(精神的に)死に最も近づいた瞬間」であった。

康政の行動の重要性を理解するには、主君である家康が「通常の精神状態ではなかった」という前提が不可欠である。家康の「狼狽」と康政の「剛胆」(あるいは「笑い」)は、徳川の史料において、意図的な対比(コントラスト)として記録された可能性が高い。

2-2. 闇夜の逃避行と殿軍(しんがり)の壊滅

合戦の終結が夕刻(午後4時過ぎ)であり、季節は冬至に近い12月22日である。戦場から浜松城までの撤退路(約7-8km)は、日没とともに急速に暗闇に包まれた。視界は極めて悪く、冷たい遠州の空っ風(からっかぜ)が吹く、地獄のような状況であったことが推察される。

武田軍の追撃は苛烈を極めた。徳川軍は正規の「殿軍(しんがり)」(最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)として、大久保忠世や水野信元らを配置しようとしたが、総崩れの混乱の中で、追撃の勢いを食い止めることは事実上不可能であり、殿軍もまた壊滅、あるいは散り散りになっていた。

戦場には、敗残兵の阿鼻叫喚、馬のいななき、武具の擦れる音、そして勝利した武田兵の鬨(とき)の声が充満していた。

2-3. 家康への肉薄:武田騎馬隊の追撃

この混乱の中、家康の周辺には、わずか数名の旗本(康政、そして同じく「四天王」に数えられる本多忠勝らを含む)のみが残る、極めて危険な状態となっていた。

本報告書が対象とする「胆力譚」は、この逃走の「道中」で発生する。具体的には、武田の先鋭部隊(一説には馬場信春隊の一部、あるいは小山田信茂隊など諸説ある)が、家康の「馬印」(金扇の馬標)を見つけ、家康本人に追いつこうと肉薄してきた、まさにその瞬間である。

III. 逸話の核心(第二幕):「笑い」の瞬間と敵中突破

本逸話のクライマックスである。榊原康政が「笑った」とされる瞬間の具体的な行動、推察される「会話」や状況、そしてその心理状態を詳細に分析する。

3-1. [PM 5:30-6:30頃] 敵の肉薄と康政の決断

リアルタイムな状態:

闇の中、浜松城への道半ばで、ついに武田軍の追撃隊が家康一行の背後に迫る。家康の馬が疲弊し、あるいは家康自身が精神的動揺から馬速を緩めた可能性もある。後方から、勝利に湧く武田兵が「あれこそ家康」「討ち取れ」と叫びながら迫ってくるのが、肌で感じられる距離であった。

推察される会話(家康側):

この絶望的な状況下で、家康が「もはやこれまでか」「皆は(自分を捨てて)逃げよ」といった、弱気な発言、あるいは覚悟の言葉を漏らした可能性は、『常山紀談』など後世の逸話集でしばしば示唆される。

康政の行動(起):

康政は、この主君の肉体的危機と、それ以上に深刻な「精神的動揺」を即座に察知する。彼は、このままでは主君が討たれるか、あるいは(武士として最も恥ずべき)精神的な「死」を迎えると判断した。

康政は、家康を先に行かせ、自身が家康の「身代わり」あるいは「盾」となって敵の追撃を「一瞬でも」遅らせることを瞬時に決断する。

3-2. 「敵中笑過」の実行

康政の行動(承・転):

康政は、家康に「先へ」と促し、自らは馬首を返し、数騎(あるいは一説に単騎)で、迫りくる武田軍の先鋒に「あえて」真正面から突っ込む、あるいは「すれ違う」という常軌を逸した行動に出る。

「笑い」の発露:

ここで逸話の核心である「笑い」が発生する。『寛政重修諸家譜』などの徳川家の公式史書や、榊原家の家伝として伝わる逸話によれば、康政は「大声で笑いながら」(大(おおい)に笑(わらい)て)敵中を駆け抜けたとされる。

「会話」の再現(推察):

この「笑い」は、無言の笑いではなく、敵兵に対する「罵声」や「挑発」を伴っていた可能性が極めて高い。これは、混乱する敵の注意を自分一人に引きつけるための行動である。

  • (推察される台詞:対・武田兵)「徳川の武士を舐めるな!」「この程度で我が主君の首が取れると思うか!」「貴様らに家康公は討てぬわ!」
  • (推察される台詞:対・家康、あるいは味方)「殿、ご心配召されるな! この程度の敵、何するものぞ!」「皆、臆するな!」

3-3. 「笑い」の多角的分析:それは何だったのか?

この「笑い」は単一の感情ではなく、複数の戦略的・心理的要素が複合した「パフォーマンス」であったと分析するのが妥当である。

分析①(心理的):死の覚悟とアドレナリン(自己高揚)

死を目前にした極限状態において、人間の精神は時に通常ではありえない反応を示す。この「笑い」は、恐怖を振り払うための「開き直り」であり、自らの士気を極限まで高揚させる(アドレナリンの放出)ための自己暗示であった可能性である。武士として「(恐怖に)呑まれない」という意志の表れである。

分析②(戦術的):敵への心理的揺さぶり(限定的PsyOps)

戦術的観点から見れば、この行動は極めて効果的な「心理戦(PsyOps)」であった。

追撃する側の武田兵にとって、敗走する敵は「恐怖に顔を歪ませている」のが当然である。しかし、目の前の若武者は「笑って」いる。この異常な行動は、追撃兵に「予期せぬ動揺」を与える。「何か罠があるのではないか?」「あの男は正気ではない(=恐ろしい)」という一瞬の「ためらい」や「混乱」を生じさせる。康政は、この一瞬の「間(ま)」こそが、家康が逃げる時間を稼ぐために必要だと判断したのである。

分析③(対・家康):主君の鼓舞と忠誠心の提示

これが、本逸話における最も重要な目的である。康政の「笑い」の最大の「観客」は、他ならぬ家康本人であった。

「しかみ像」に象徴されるほど狼狽し、精神的に「死」にかけていた家康に対し、25歳の近臣が「笑って」死地に突入する姿を見せる。これは、「私はまだ余裕があります(=死ぬ覚悟はできています)」「だから殿も諦めないでください」という、言葉以上に強烈なメッセージとなった。家康は、この康政の「笑い(=剛胆さ)」を見て、我に返り、主君としての精神を取り戻したとされる。

3-4. 結果:浜松城への生還

康政のこの決死の行動(および、本多忠勝らの同じく鬼神の如き奮戦)により、武田軍の追撃の勢いはわずかに鈍った。家康は、康政らが稼いだ貴重な時間によって、辛うじて浜松城に逃げ込むことに成功する。

康政もまた、奇跡的にこの敵中突破から生還し、家康を無事に城内へ帰還させた。この「胆力譚」は、家康の九死に一生の経験として、徳川家中で強く記憶されることとなったのである。

IV. 史料考証:「胆力譚」はいかに語られてきたか

この逸話の「真実性」と、それが「どのように」形成され、語り継がれてきたのかを、史料批判の観点から分析する。

4-1. 逸話の源流と変遷

『三河物語』(大久保彦左衛門):

徳川初期の史料であり、家康の敗走の「無様さ」や「混乱」を比較的率直に描く傾向がある。家康の脱糞を示唆する記述や、家臣たちの必死の忠誠が記されている。ただし、『三河物語』は特定の個人の武勇伝よりも「三河武士団」全体の忠義を強調する傾向があり、康政個人の「笑い」まで詳細に記されている可能性は低い。しかし、この逸話が成立する「背景(家康の狼狽と家臣の奮戦)」のリアリティは、この史料によって担保されている。

『寛政重修諸家譜』(江戸幕府編纂):

徳川の治世が安定した江戸中期に編纂された、幕府の公式な「大名・旗本」の系譜・事績集である。この『寛政重修諸家譜』に記される榊原家の「家伝」として、この逸話が「公式記録」として採用・洗練された可能性が最も高い。

この種の史料は、各家の「武功」を顕彰し、その「家格」を裏付ける目的がある。そのため、康政の「剛」の側面を象徴するエピソードとして、この「敵中笑過」が(事実に基礎を置きつつも)よりドラマティックに「脚色」され、固定化されたと考えられる。

4-2. 「脚色」と「史実」の境界線

本逸話の史実性を考証する上で、以下の二点を切り分ける必要がある。

  1. 「敵中を駆け抜けた」こと(行動): これは史実である可能性が非常に高い。敗走戦においては、こうした局所的な戦闘や、主君を守るための殿軍的行動は頻繁に発生する。
  2. 「笑った」こと(心理・表現): これが核心である。可能性としては、①実際に康政が(上記分析の理由で)笑ったという「史実」と、②康政が「恐怖に顔を歪ませず、動じなかった」という事実を、後世の人間が「剛胆さ」の象徴として「笑い」という言葉で「文学的に表現」した、という可能性の両方が存在する。

重要なのは、彼が文字通り「アハハ」と笑ったかどうかではなく、彼が「恐怖に顔を歪ませていなかった」という事実、あるいは「恐怖を押し殺してでも主君を安心させようとした」という事実が、後世に「笑い」として伝承されるに足るほどの「異常な剛胆さ」であった、という点である。

4-3. 逸話の機能:「徳川四天王」イメージの確立

この逸話は、榊原康政という武将を「徳川四天王」の一角として「キャラクタライズ」するために、極めて重要な機能を果たしている。

  • 「井伊の赤鬼」と呼ばれる 井伊直政 は、その軍装と苛烈な戦いぶりから「武勇(猛)」を象徴する。
  • 「蜻蛉切」の 本多忠勝 は、生涯無傷という伝説から「武勇(強)」を象徴する。
  • 最年長の 酒井忠次 は、諸軍の指揮を執る立場から「指揮(統率)」を象徴する。

では、 榊原康政 は何を象徴するのか。彼は「剛」—すなわち「剛胆さ」「精神的な強さ」「動じない心」—を象徴する存在として位置づけられた。三方ヶ原の絶望的な状況下での「笑い」は、彼のこの「剛」の資質を象徴する、これ以上ないエピソードであった。

V. 結論:逸話が証明する榊原康政の「本質」

5-1. 逸話の総括:単なる武勇伝を超えて

榊原康政の「敵中笑過」胆力譚は、単なる「若武者の無謀な武勇伝」として片付けられるべきものではない。それは、元亀3年の三方ヶ原における徳川軍の「総崩れ」という、主君・家康の最大の精神的・肉体的危機において発揮された、極めて高度な「忠誠心」と「心理的戦略」の表れであった。

5-2. 「笑い」の最終解釈

その「笑い」が、史実として声に出したものであったか、あるいは後世の文学的表現であったかにかかわらず、榊原康政が示した「動じない(あるいは、動じていることを主君に悟らせない)態度」こそが、この逸話の本質である。

康政は、自らの命を盾にすることで、敵の物理的攻撃を遅延させると同時に、主君・家康の「精神的な死(諦め)」を防いだ。この「主君の精神の保護」こそが、康政がこの瞬間に果たした最大の功績であり、彼の「剛」の本質である。

5-3. 後世への影響

この逸話は、江戸時代を通じて「徳川の忠臣」の理想像の一つとして語り継がれ、榊原康政の「剛」の評価を不動のものとした。家康が最も信頼した「武」の側面が、この時わずか25歳の若武者の「笑い」によって精神的に支えられたという事実は、徳川の治世が「主君の弱さ」と「家臣の強さ」の相互補完によって成立したという、徳川幕藩体制の「礎」の一つとして、公式の歴史観に組み込まれていったのである。