最終更新日 2025-10-16

榊原康政
 ~密書を懐に敵中で焚書を装う~

榊原康政の「焚書」逸話は、小牧・長久手の戦いでの「檄文事件」。秀吉批判の檄文で戦局を動かし、和睦後には秀吉に称賛され官位を授けられた。

榊原康政「十万石の檄文」— 筆を以て天下人を揺るがした男の胆力 —

序章:逸話の核心 — 墨は血よりも濃し

徳川家康の家臣、榊原康政にまつわる逸話として「密書を懐に敵中で焚書を装い読み上げた」という物語が語られることがある。これは、絶体絶命の状況下で、書状という小道具を用いて敵将の意表を突き、己の胆力と忠誠心を示すという、まさに戦国武将の機知と度胸を象徴する物語である。しかし、この「焚書」の逸話は、より史実性の高い、そしてさらに劇的な別の出来事が後世に語り継がれる中で変容し、昇華された姿である可能性が極めて高い。

本報告書が徹底的に解明するのは、その源流となった「檄文事件」である。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、康政が自らの筆で天下人・羽柴秀吉を痛烈に批判する檄文を書き、敵味方の陣中にばら撒いたという一連の出来事だ。この行為は、秀吉の首に「十万石」の懸賞金がかけられるほどの激怒を買い、戦後の和睦交渉では当の康政が使者として指名されるという、数奇な運命を辿る。

「焚書」の逸話と「檄文」の逸話は、その舞台設定や細かな行動は異なるものの、「書状を武器とする」「敵将(秀吉)との対峙」「康政の絶大な胆力」という核心部分において軌を一にしている。公の場でのプロパガンダであった「檄文の頒布」が、物語として語り継がれる過程で、より個人的で緊張感の高い「焚書を装う対決」へと変化したと考えられる。つまり、「檄文事件」の全貌を解明することこそが、利用者様が求める「榊原康政の肝胆譚」の真髄に迫る道である。

康政がこの局面で選んだ武器は、槍や刀ではなく「書」であった。これは、彼が三河の浄土宗寺院の中核である大樹寺で学問を修め、知性を磨いた文武両道の将であったことの証左である 1 。達筆で知られ、時に主君家康の書状を代筆したとも言われる康政は 2 、戦の本質が物理的な衝突のみならず、大義名分や人心を巡る「情報戦」であることを深く理解していたのである。

以下の表は、二つの逸話の構成要素を比較し、その関連性を示したものである。

表1:逸話の比較分析

比較項目

焚書を装う逸話(伝承)

檄文事件(史料に基づく逸話)

舞台

敵陣内など、特定の閉鎖空間

小牧・長久手の戦いの戦場全域

使用された文書

家康からの「密書」

康政自身が起草した「檄文(公開文書)」

康政の行動

燃やすと見せかけ、内容を読み上げる

敵味方を問わず広範囲に頒布し、高札に掲げる

行動の目的

敵将を欺き、心理的に揺さぶる

敵将を挑発し、自軍の士気を高め、大義名分を世に示す

敵(秀吉)の反応

(逸話によるが)感嘆または困惑

激怒し、康政の首に十万石の懸賞金をかける

結末

機転により窮地を脱する

和睦後、秀吉に召し出され、逆に称賛・叙任される

この比較からも明らかなように、「檄文事件」は「焚書」の逸話の原型であり、より広範な戦略的意図と歴史的影響力を持つ出来事であった。本報告書では、この「檄文事件」を時系列に沿って詳細に再現し、その深層に迫る。

第一章:対峙の刻 — 小牧・長久手の戦雲

天正12年(1584年)、日本の覇権の帰趨を決する戦いの火蓋が切られた。本能寺の変で織田信長が斃れた後、その後継者の地位を巡り、信長の次男・織田信雄を擁立する徳川家康と、破竹の勢いで天下統一への道を突き進む羽柴秀吉が、尾張の地で直接対決することになったのである 3 。これが「小牧・長久手の戦い」である。

兵力において圧倒的に優勢な秀吉軍に対し、家康は小牧山に堅固な陣城を築き、巧みな防衛線を構築して迎え撃つ策を取った 5 。秀吉も力攻めを避け、両軍は互いに砦を築いて対峙し、戦線は膠着状態に陥った。このにらみ合いは、単なる軍事的な駆け引きに留まらず、両陣営の深い心理戦の様相を呈していた。

秀吉軍は、その多くが元は織田家の家臣たちであり、一枚岩の結束を誇っていたわけではなかった 6 。彼らにとって、信長の遺児である信雄を奉じる家康と戦うことには、心理的な抵抗があった。一方、兵力で劣る徳川軍にとって、長期にわたる対陣は兵站の面で不利であり、将兵の間に焦りが生まれる危険性をはらんでいた。両陣営ともに、この息の詰まるような状況を打破するための一手を渇望していたのである。

この戦いの本質は、領土の奪い合い以上に、どちらが信長亡き後の天下を担うにふさわしいかという「正統性」を巡る争いであった。家康は、あくまで信雄を助けるという「大義名分」を掲げることで、秀吉を主家をないがしろにする簒奪者という立場に追い込もうとした 3 。この「大義」こそが、数で劣る徳川軍が頼る最大の精神的支柱であり、武器であった。

このような軍事的な動きが封じられた膠着状態は、必然的に情報戦と心理戦の重要性を高める。敵の士気を挫き、味方の士気を鼓舞するための策謀が、戦局を左右する鍵となる。榊原康政が歴史の表舞台でその知略を閃かせるのは、まさにこの時であった。彼の放つ一手は、この特殊な戦況が生んだ、いわば「必然の一手」だったのである。

第二章:墨痕の刃 — 康政、檄文を放つ

膠着した戦況、そして徳川方が掲げる「大義名分」という無形の武器。榊原康政は、この二つの要素を最大限に活用し、戦局を動かすための一計を案じた。それは、物理的な力ではなく、一本の筆と一枚の紙を武器として、天下人・秀吉の最も触れられたくない心の深奥を抉るという、前代未聞の心理作戦であった。

康政は、秀吉を公然と非難し、その出自と行動の不当性を天下に知らしめるための「檄文」を起草した 2 。その内容は、極めて辛辣かつ扇動的であった。

「それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘と共に虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。その大逆無道、目視する能わず、我が主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして決起せり」 3

この檄文は、三つの痛烈な批判で構成されている。第一に、秀吉の出自が「野人の子」「馬前の走卒(馬の口を取る下僕)」と卑しいものであることを暴き、その権威の脆弱性を突いた。第二に、信長から受けた大恩を忘れ、その遺児である信孝を死に追いやり、信雄に弓を引くことは「大逆無道」であると断じた。第三に、それに対し家康の挙兵は、信長との旧交と思いやりに基づく「信義」の戦いであると、自らの正当性を高らかに謳い上げたのである 9

康政は、達筆で知られたその腕を振るい、力強い筆致でこの檄文を書き上げた 2 。そして、この危険極まりない文書の末尾に、彼は匿名ではなく、堂々と「榊原小平太康政」と自身の名を署名した 2 。この署名こそが、この心理作戦の神髄であった。それは単なる蛮勇ではない。第一に、檄文の内容に書き手である康政が全責任を負うという意思表示であり、文書の信憑性を格段に高めた。第二に、秀吉の怒りを徳川家全体ではなく、康政個人へと集中させる狙いがあった。そして何よりも、主君のためならば我が身の破滅も厭わないという、三河武士の強烈な忠誠心を敵味方双方に示す、壮大なパフォーマンスであった。

完成した檄文は、一枚や二枚ではない。大量に複製され、敵味方の陣営を問わず、まるで木の葉を撒くように広範囲に頒布された。さらに、街道筋や宿場など、人々の目に付きやすい場所には高札として掲げられた 2 。康政の放った「墨の刃」は、瞬く間に戦場を駆け巡り、やがて秀吉本陣へと届けられることになる。

第三章:天下人の激昂 — 十万石の首

榊原康政の放った檄文は、狙い違わず秀吉の逆鱗に触れた。文書に目を通した秀吉は、特に自身の出自を貶められた箇所で、歯噛みして悔しがり、烈火のごとく激怒したと伝えられる 2 。天下人への道を歩む秀吉にとって、その出自の低さは最大の劣等感であり、最も触れられたくない部分であった。康政の一筆は、その心の傷を容赦なく抉ったのである。

怒り心頭に発した秀吉は、直ちに全軍に向けて布告を発した。

「榊原康政の首を獲った者には、十万石の恩賞を与える」 3

十万石といえば、小大名一人分に相当する破格の懸賞金である。この布告は、秀吉の康政に対する個人的な憎悪の深さを示すと同時に、徳川軍全体への強烈な威嚇でもあった。これにより、「榊原康政」の名は「十万石の首を持つ男」として、一躍天下に轟くことになった。秀吉の怒りの一手が、皮肉にも敵将である康政の武名を最大限に高める結果となったのである。

しかし、康政の策の効果はそれだけに留まらなかった。この心理戦は、具体的な戦術的勝利へと繋がる重要な連鎖反応を引き起こした。秀吉の激怒は、彼の冷静な戦況判断を狂わせた一因とされる 2 。この状況下で、手柄を立てて叔父の歓心を買おうと功を焦ったのが、秀吉の甥であり、別働隊を率いていた羽柴秀次(後の豊臣秀次)であった。

秀次は、家康の本拠地である岡崎城を奇襲するという、大胆だが危険な作戦を実行に移す。この動きを徳川方は的確に察知。家康自らが率いる本隊が、長久手の地でこの別働隊を奇襲し、池田恒興、森長可といった秀吉軍の有力武将を討ち取り、秀次隊を壊滅させるという大勝利を収めた 12

この一連の流れは、康政の檄文が単なる精神的な揺さぶりに終わらなかったことを示している。①檄文が秀吉を激怒させ、陣中に焦りを生む。→ ②その空気が、秀次のような若武者の功名心を煽り、危険な突出行動を誘発する。→ ③徳川方がその隙を突き、戦術的勝利を収める。このように、「筆」による心理操作が、戦場の流れを決定づける「引き金」として機能したのである。康政の檄文は、敵の感情を操り、徳川方が望む戦術的状況を創り出すための、見事な「餌」だったのである。

第四章:和睦の使者 — 虎穴に入る小平太

長久手での戦術的勝利にもかかわらず、国力で圧倒的に勝る秀吉との全面対決を続ければ、徳川方の疲弊は避けられなかった。戦いの大義名分であった織田信雄が、家康に断りなく単独で秀吉と和睦を結んでしまうと 4 、家康も戦いを続ける理由を失い、ついに和睦交渉の席に着くこととなる。

戦後処理と和睦の最終段階において、秀吉から家康へ、驚くべき要求が突きつけられた。徳川家の使者として、重臣である本多忠勝か、あるいは榊原康政をよこすように、という指名であった 3 。自分をあれほどまでに罵倒し、怒りの頂点に立たせた張本人を、和睦の使者として呼びつける。その真意は測りかねたが、家康と徳川家中の誰もが、これが康政にとって死出の旅になる可能性を覚悟した。

しかし家康は、秀吉の性格と器量を見抜いていたのか、あえてその要求を受け入れ、康政を上洛させることを決断した 10 。主君の命を受け、康政は死を覚悟して京、あるいは大坂の秀吉のもとへと向かった 14 。道中、彼の胸中にはいかなる思いが去来したであろうか。「十万石の首」とまで言われた自分が、その首をかけた相手の本拠地に単身乗り込むのである。その緊張感は察するに余りある。

逸話によれば、康政が京の宿所に入った夜、公式謁見の前日に、予期せぬ出来事が起こった。なんと、秀吉自身が供をわずかに連れただけで、非公式にお忍びで康政の宿所を訪れたというのである 9 。そして、驚く康政に対して、秀吉はこう声をかけたとされる。

「お役目ご苦労。明日の面会が待ち遠しく思ったので、こうして忍んで参ったのだ」 8

この密会逸話は、秀吉の「人たらし」と称される人心掌握術の真骨頂を示すものである。公式の場で一方的に許しを与えるのではなく、まず私的な場で相手の警戒心を解き、人間的な興味を示すことで、相手の心をがっちりと掴む。この秀吉の行動は、翌日に控えた公式謁見が、単なる政治的セレモニーではなく、秀吉の寛大さと器量を天下に示すための、完璧に演出された舞台であることを予感させるものであった。

秀吉が康政を指名した意図は、単なる意趣返しではなかった。それは、①自分を罵倒した男すら許す度量があることを天下に示すための 器量の誇示 、②命のやり取りをした相手の胆力と忠誠心を自らの目で確かめたいという 人物の査定 、そして③徳川家が最も忠実な家臣を差し出すことで、完全な服従の意思を示させるという 家康への牽制 。これら複数の政治的計算が絡み合った、高度な駆け引きだったのである。康政は、その渦中へと足を踏み入れていった。

第五章:敵将の器量 — 称賛と叙任

公式謁見の日、聚楽第(あるいは大坂城)の大広間は、固唾をのむような緊張感に包まれていた。上座に座る関白・羽柴秀吉。その前には、死を覚悟した面持ちの榊原康政が平伏している。誰もが、秀吉の口からいかなる厳しい言葉が発せられるかを待っていた。しかし、秀吉は満面に笑みをたたえ、上機嫌で口を開いた。その言葉は、列席した諸将の度肝を抜くものであった。

「小平太(康政の幼名)、面を上げよ。あの檄文、見事であったぞ。敵を挑発するための文章として、実に天晴れな出来栄えであった」 3

処罰どころか、まさかの称賛であった。秀吉は続けた。

「そなたのような忠義の家臣を持つ家康殿が、実に羨ましいわ。わしも、そなたを小平太と呼んでよいか」 3

憎悪の対象であったはずの敵将を、親しみを込めて幼名で呼ぶ。それは、過去の遺恨を完全に水に流し、康政という人物そのものを高く評価するという、秀吉からの明確なメッセージであった。この一言で、広間の空気は一変した。秀吉は、康政の「敵対行為」そのものではなく、その根底にある「主君への揺るぎない忠誠心」という価値をこそ評価したのである。これは、「敵か味方か」という二元論を超え、「有能な人材か否か」という実用主義的な基準で人を判断する、秀吉ならではの価値観の表れであった。

秀吉の演出は、これだけでは終わらなかった。彼は、康政の功を賞すとして、朝廷に働きかけ、康政に「従五位下・式部大輔(しきぶのたゆう)」という高位の官位を授けたのである 10 。さらに、康政のために盛大な祝宴まで催した 3

この一連の行動は、単なる「寛大な許し」を遥かに超える、高度な政治戦略であった。敵対者であった康政を称賛し、朝廷の権威に基づく官位を与えることで、彼を秀吉が構築する新しい天下の秩序、すなわち豊臣政権の枠組みの中に「吸収」し、組み込んでしまうことを意味した。官位は天皇から与えられるものであり、それを取り次ぐ関白・秀吉の権威を、康政ひいては徳川家が公に認める形となる。これは、武力による支配だけでなく、権威による秩序構築を目指した秀吉の統治手法を象徴する出来事であった。

こうして、自らの首にかけられた十万石の懸賞金は、結果的に従五位下・式部大輔という栄誉へと姿を変えた。康政は、その類まれなる胆力と知略によって、最大の危機を最大の栄誉へと転化させたのである。

終章:逸話の虚実と榊原康政という武将

榊原康政の「十万石の檄文」にまつわる一連の逸話は、彼の人物像を語る上で欠かすことのできない、最も象徴的な物語として後世に語り継がれている。しかし、この物語の史実性を検証する際には、その典拠に注意を払う必要がある。謁見の際の具体的な会話など、詳細な描写の多くは、江戸時代に編纂された『名将言行録』や新井白石の『藩翰譜』といった書物に依拠している 15 。これらの書物は、歴史的事実を伝える一次史料というよりは、後世への教訓や武将の理想像を伝えるために編まれた逸話集としての側面が強く、脚色が加えられている可能性は否定できない 17

しかし、細部の真偽以上に重要なのは、この物語が「榊原康政とは何者か」という問いに対し、後世の人々の共通認識を形成したという事実である。人々は、複雑な歴史の事実そのものよりも、人物の性格や美徳を象徴する、分かりやすく魅力的な「物語」を記憶し、語り継ぐ。この逸話は、康政が単なる勇猛な武将(猛将)ではなく、知略に長け、主君のためなら死をも恐れない剛毅な忠臣、すなわち「知勇兼備」の将であるという人物像を決定づけた 1 。この人物像は、主君・家康やその息子である信康、秀忠に対しても、たとえ相手が激怒しようとも臆することなく諫言を行ったとされる他の逸話とも見事に整合性が取れている 7

そして、この物語は康政一人の英雄譚に留まらない。それは、戦国末期を彩った三人の傑出した人物の器量を、実に見事に描き出している。

第一に、自らの命を懸け、知略と筆一本で主君の正義を天下に示そうとした、榊原康政の「忠と智」。

第二に、そのような家臣の危険な献策を認め、絶体絶命の危機に瀕しても使者として送り出すという絶大な信頼を寄せた、徳川家康の「度量」。

第三に、自らを最も貶めた敵将の行為を怒りの後に許すだけでなく、その忠誠心を称賛し、自らの体制に組み込むことで天下に示す、羽柴秀吉の「器と謀」。

一人の家臣の胆力を描いた物語は、同時に、三者三様のリーダーシップを比較する優れた人物論としても機能している。だからこそ、この「十万石の檄文」の逸話は、その史実性の検証を超えて、時代を超えて人々を魅了し続ける普遍的な力を持つのだろう。康政が放った墨の一滴は、戦国の世に大きな波紋を広げ、今なお我々に多くのことを語りかけているのである。

引用文献

  1. 【徳川四天王物語③】知勇兼備の武将と称された「榊原康政(さかきばら やすまさ)」 - ぽけろーかる https://pokelocal.jp/article.php?article=746
  2. あの豊臣秀吉が激怒して懸賞金をかけた男!徳川四天王・榊原康政の「無」の境地とは? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/102916/
  3. 榊原康政の檄文・羽柴秀吉激怒~小牧・長久手の戦い~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/komaki-nagakute-yasumasa.html
  4. 1584年 小牧・長久手の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1584/
  5. 長久手古戦場物語 https://www.city.nagakute.lg.jp/soshiki/kurashibunkabu/shogaigakushuka/4/nagakutenorekisibunnka/3915.html
  6. 「どうする家康」第32回「小牧長久手の激闘」 徳川家の覚醒と数正の孤独な懸念の理由 - note https://note.com/tender_bee49/n/nc0cdce405aaf
  7. 榊原康政は何をした人?「達筆の挑発文で秀吉をキレさせ10万石の賞金首にされた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yasumasa-sakakibara
  8. 榊原康政、秀吉を悪口で挑発する〈十万石の激文〉(「どうする家康」129) https://wheatbaku.exblog.jp/33079613/
  9. 榊原 康政|武将コラム|豊田の歴史巡り - ツーリズムとよた https://www.tourismtoyota.jp/history/column/05/
  10. 秀吉に学ぶ憎い相手の対処法!榊原康政の10万石の檄文の逸話 https://sengokushiseki.com/?p=4020
  11. (榊原康政と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/36/
  12. 小牧・長久手の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  13. 小牧・長久手の戦い後、徳川家康が豊臣秀吉に屈服させられた経緯と事情 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2186
  14. 文武に優れた「徳川四天王」榊原康政が辿った生涯|秀吉を本気で怒らせた家康の忠臣【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1108357/2
  15. 榊原康政(杉野遥亮)が初陣で着ていた「ちぎれ具足」は実在した?『名将言行録』を読んでみる【どうする家康】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/204990/2
  16. 榊原康政、秀忠の遅参には家康にも非があると諫言する(「どうする家康」186) https://wheatbaku.exblog.jp/33155376/
  17. 名将言行録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%B0%86%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2
  18. 榊原康政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E5%BA%B7%E6%94%BF
  19. 知勇兼備の勇将、榊原康政! - 武将隊一覧 - 岡崎市観光協会 https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/busho-profile/sakakibara