最終更新日 2025-10-27

榊原康政
 ~密書を懐に敵陣を笑いながら通る~

徳川四天王・榊原康政の「十万石の檄文」事件を解剖。小牧・長久手の戦いで秀吉を激怒させた檄文の真実と、密書を懐に敵陣を通る逸話に隠された知略と胆力を描く。

榊原康政の胆力譚:その真実 ―「十万石の檄文」事件の徹底解剖

序章:対峙、小牧・長久手の膠着

天正12年(1584年)、日本の空は、二つの巨大な太陽が並び立つかのような緊張に満ちていた。一つは、本能寺の変(天正10年)以降、破竹の勢いで天下統一への階を駆け上がる羽柴秀吉。もう一つは、織田信長の盟友として東海に覇を唱え、着実に地歩を固めてきた徳川家康である 1 。信長亡き後の天下の主導権を巡り、両雄の激突はもはや避けられない運命にあった。

戦いの直接的な引き金は、信長の次男・織田信雄と秀吉の関係悪化であった。信雄を盟主として担いだ家康は、秀吉の野心を挫き、織田家の正統を守るという大義名分を掲げ、尾張の地で秀吉の大軍と対峙した。徳川・織田連合軍は小牧山城に、対する羽柴軍は犬山城に本陣を構え、総勢十数万とも言われる兵力が睨み合う。しかし、互いに相手の堅陣を攻めあぐね、戦は大規模な決戦に至ることなく、息の詰まるような膠着状態に陥っていた 2

このような状況下では、単なる武力の優劣以上に、兵の士気をいかに維持し、敵のそれをいかに削ぐかという心理戦、情報戦が決定的な意味を持つようになる 3 。力と力が均衡する中で、戦況を動かす次の一手は、戦場を駆ける槍働きではなく、人の心を揺さぶる「言葉」の刃に求められた。徳川四天王の一人、榊原康政が歴史の表舞台にその名を刻むことになる、世に名高い「十万石の檄文」事件は、まさにこの膠着した戦況の中から必然として生まれたのである。

さて、本題に入るにあたり、利用者様がご提示された『家康の密書を懐に忍ばせ、敵陣の中を笑いながら通ったという胆力譚』という逸話について触れておきたい。この記憶は、榊原康政の類まれなる胆力を象徴する逸話として、その本質を的確に捉えている。しかし、多くの史料が指し示す歴史的事件は、「密書」を「檄文(げきぶん)」に、「物理的な敵陣突破」を「言葉による心理的な突破」に置き換えることで、より鮮明かつ立体的に浮かび上がってくる。伝承の過程で、より英雄譚として分かりやすい形に変化した可能性が高い。この報告書では、その根源となった史実を徹底的に掘り下げることで、康政の胆力の真髄に迫る。

項目

利用者様のイメージ「密書を懐に敵陣を通る」

史実「十万石の檄文」

媒体

密書(秘密の書状)

檄文(天下に公開された声明文)

行動

敵陣を物理的に突破する

言葉(文章)で敵陣の結束を心理的に攻撃する

胆力の示し方

敵に捕まらない勇気、大胆不敵な態度(笑い)

敵の総大将を名指しで痛烈に批判し、自らの名を署名する覚悟と度胸

結果

(不明)

敵将・秀吉を激怒させ、自らの首に懸賞金がかけられるも、後にその忠義と勇気を賞賛される

この比較が示す通り、康政の行動の核心は、隠密行動ではなく、天下に己の名を晒し、正々堂々と敵将の非を鳴らすという、極めて大胆な精神性にあった。それは、敵陣を物理的に駆け抜ける以上の勇気と知略を要する行為だったのである。

第一章:一筆、戦況を動かすために

徳川本陣である小牧山城では、連日軍議が開かれていたが、秀吉の堅陣を前に有効な打開策を見出せずにいた。兵力で劣る徳川方にとって、長期戦は不利である。この状況を打破するため、徳川家康と重臣たちが着目したのが、敵の結束を内側から揺さぶる心理戦であった。そして、そのための武器として「檄文」を放つという策が練られた。

問題は、誰がその筆を執るかであった。檄文は、単に敵を罵倒するだけでは意味がない。味方の士気を高め、敵方の将兵、特に秀吉に従う旧織田家臣たちの心を揺さぶるだけの、論理と正当性、そして何より魂を揺さぶる力が求められる。その白羽の矢が立ったのが、当時37歳の榊原康政であった 4

康政は、本多忠勝と並び称される徳川四天王の一人であり、その武勇は広く知られていた。しかし、彼の真価はそれだけではなかった。幼少期に三河大樹寺で学問を修めた康政は、優れた能筆家としても知られ、主君家康の書状を代筆することも少なくなかったという 6 。武辺一辺倒の猛将が多い徳川家臣団の中で、彼は「文」の才を兼ね備えた稀有な存在だったのである。

さらに重要なのは、彼の性格であった。康政は、正しき道理を重んじ、不正や不公平を何よりも嫌う、剛直な気性の持ち主であった 8 。その剛直さは、時に主君である家康や、その嫡男・信康にすら臆せず諫言するほどであったと伝えられる 9 。この義を重んじる性格こそ、秀吉の「不義」を糾弾する檄文の筆者として、この上ない適任者たらしめていた。

家康の命を受けた康政は、静かに筆を執った。彼の脳裏には、ただ一つの目的があった。それは、秀吉が最も触れられたくない、しかし誰もが心の底で共有しているであろう「真実」を、天下に明らかにすることである。新井白石が後に編纂した『藩翰譜』などの史料には、その痛烈な内容が記録されている 10

「それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。」 4

書き出しは、秀吉の出自、その一点を容赦なく突くものであった。当時、出自を重んじる武家社会において、農民(あるいはそれ以下)の生まれであることは、秀吉が天下人への道を歩む上で最大のコンプレックスであった。康政は、その最も敏感な部分に、言葉の刃を突き立てたのである。

「しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘とともに虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。その大逆無道、目視する能わず。」 4

次に康政は、秀吉の行動を「恩義の忘却」と「主家への不義」という、武士として最も恥ずべき行為であると断じた 8 。信長によって身分の低い馬丁から大名にまで引き立てられた恩を忘れ、あろうことかその遺児たちを攻め滅ぼし、主家を乗っ取ろうとしているではないか、と。これは、秀吉陣営に数多く含まれる旧織田家臣たちの心に、「我々が従っている大将は、本当に正義なのか?」という疑念の種を植え付けるための、極めて巧妙な一節であった。

そして、檄文は徳川方の戦いの正当性を高らかに宣言して締めくくられる。

「我が主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして決起せり。」 12

この檄文は、単なる感情的な罵詈雑言の羅列ではなかった。康政の「武」の精神(剛直さ、死を恐れぬ覚悟)と、「文」の才(能筆、論理構成力、人の心理の急所を見抜く洞察力)が見事に融合した、知勇兼備の将たる彼だからこそ生み出せた芸術品であった。そして康政は、その激烈な内容の檄文の末尾に、臆することなく自らの名「榊原小平太康政」を堂々と署名したのである 7 。それは、この檄文に書かれた全ての言葉の責任を一身に負い、その結果として自らの命が狙われることも覚悟の上であるという、決死の表明に他ならなかった。

第二章:投下された言葉の爆弾

榊原康政によって書き上げられた檄文は、一枚の書状として密かに届けられるようなものではなかった。それは、戦場という劇場で、敵味方すべての観衆に向けて放たれる「言葉の爆弾」であった。徳川陣営は、この檄文を大量に複製し、あらゆる手段を用いて敵味方の陣中に拡散させる作戦を実行した 2

最も効果的だったとされるのが、高札(こうさつ)の設置である 7 。高札とは、街道筋や城門前など、人々の往来が多い場所に立てられる掲示板のことである。徳川方の兵は夜陰に乗じて敵陣近くまで忍び寄り、秀吉方の将兵が必ず目にするであろう場所に、康政の檄文を記した高札を次々と立てていった。達筆で知られる康政の文字で書かれたその内容は 7 、翌朝、日の光を浴びて戦場に晒され、瞬く間に人々の目に触れることとなった。

この戦国時代における前代未聞のプロパガンダ戦は、両軍に即座に、そして劇的な影響を与えた。

徳川方の陣営では、兵たちの士気が大いに高まった 2 。自分たちの戦いが、単なる領土争いではなく、亡き信長公への恩義を忘れ、主家を乗っ取ろうとする逆賊・秀吉を討つための「義戦」であるという大義名分が、改めて全軍に共有されたのである。康政の言葉は、兵たちの心に火をつけ、結束を一層強固なものにした。

一方、羽柴方の陣営は、静かな、しかし深刻な動揺に包まれた。秀吉の軍勢は、譜代の家臣だけでなく、旧織田家臣団や、秀吉の威勢になびいた諸大名たちの寄せ集めという側面が強かった 15 。彼らの多くは、信長に恩義を感じ、織田家への忠誠心を心のどこかに残していた。そこに突きつけられた康政の檄文は、彼らの心に突き刺さるには十分すぎる威力を持っていた。「秀吉は信長公への恩を忘れた不義者である」という糾弾は、彼らが目を背けてきた、あるいは薄々感じていた後ろめたさを的確に抉り出したのである 3 。陣中のあちこちで、兵たちが囁き交わす。

「榊原殿の言うことにも、一理あるのではないか…」

「我々は、本当に正しい戦をしているのだろうか…」

康政の狙いは、秀吉を単に挑発することだけではなかった。彼の言葉は、秀吉軍の結束という名の鎧を内側から腐食させ、その巨大な軍団を心理的に瓦解させることを目的とした、高度な情報戦術だったのである。物理的な戦闘を交えることなく、敵の戦意を削ぎ、戦況を有利に導こうとするこの試みは、戦国時代における極めて先進的な戦略であったと言えよう。言葉の爆弾は、見事に敵陣の真っただ中で炸裂したのである。

第三章:天下人の激怒と「十万石の首」

拡散された檄文は、時間の問題で羽柴秀吉本人の元へと届けられた。側近が恐る恐る差し出した高札の写し、あるいは陣中で出回っていた檄文そのものを手にした秀吉は、一読するや、凄まじい怒りにその身を震わせたと伝えられる。史料には「歯嚙みしながら激怒」 7 、「怒り狂い」 14 といった言葉で、その時の様子が記録されている。

秀吉の怒りは、単なる感情の爆発ではなかった。それは、彼の心の最も深い場所にある、決して触れられてはならないコンプレックスの源泉を、真正面から抉られたことによる魂の叫びであった。特に「野人の子」という出自への言及は、彼がその生涯をかけて乗り越えようとしてきた最大の障壁であり、それを天下に晒された屈辱は、筆舌に尽くしがたいものであっただろう 7 。さらに、信長への「恩義の忘却」という指摘は、彼の行動の正当性を根底から揺るがすものであり、論理的に反論することが極めて困難な「事実」であった。

冷静沈着な策略家であるはずの秀吉が、この時ばかりは冷静さを完全に失った 3 。彼は怒りのあまり、その場で全軍に向けて、常軌を逸した布告を発した。

「榊原康政の首を獲った者には、十万石を与える!」 2

「十万石」――この数字が持つ意味は、計り知れないほど大きい。当時、十万石といえば、小規模な大名一人分の領地に相当する。一介の武将の首にかけられる懸賞金としては、まさに前代未聞、破格中の破格であった。江戸時代の価値に大まかに換算すれば、年収にして数十億円から百億円規模の価値に匹敵するとも言われる 14 。この異常なまでの懸賞金の額こそが、秀吉の怒りの大きさと、康政の檄文が与えた衝撃の強さを何よりも雄弁に物語っていた。

しかし、この秀吉の激怒と破格の懸賞金は、別の側面から見れば、康政の仕掛けた心理戦が完璧に成功したことを示す「敗北宣言」に他ならなかった。本来、冷静な為政者であれば、このような挑発は黙殺するか、あるいは別のプロパガンダで対抗するのが常道である。だが、秀吉は感情的な反応に走り、敵の思う壺にはまってしまった。彼は言葉の戦いにおいて、榊原康政に完膚なきまでに打ち負かされたのである。「十万石」という具体的な数字は、檄文によって秀吉が受けた精神的ダメージを、彼自身が金銭に換算して天下に公表したようなものであった。

この布告により、「榊原康政」の名は敵味方を問わず、戦場に轟き渡った。「十万石の首」として、彼は一躍、時の人となったのである。しかし、康政もまた歴戦の勇士であり、その首を獲ることは誰にもできなかった 14 。結果として、この事件は康政の武勇と胆力を天下に示すとともに、秀吉が感情に動かされやすいという一面を露呈させることになったのである。

第四章:和睦、そして運命の対面

小牧・長久手の戦いは、長久手での局地的な戦闘において徳川方が池田恒興、森長可といった秀吉方の有力武将を討ち取る大勝利を収めるも、戦全体としては決定的な決着がつかなかった。最終的に秀吉は、武力での決着を避け、巧みな政治工作によって徳川方の盟主であった織田信雄を単独で講和に引き込み、戦の大義名分を失わせた。これにより、家康も秀吉との和睦を受け入れざるを得なくなり、戦は終結した 16

戦は終わったが、榊原康政と秀吉の因縁は終わっていなかった。天正14年(1586年)、家康が妹の朝日姫を秀吉の正室として嫁がせ、自身も上洛して臣従の意を示すという政治的な決着が図られる。この一連の交渉の中で、秀吉は家康に対し、使者としてある特定の人物を名指しで要求したとされる。その人物こそ、榊原康政であった 7

この指名は、明らかに秀吉による一種の「踏み絵」であった。自らの首に十万石の懸賞金をかけた男の前に、たった一人で赴けというのである。康政がこの命を受けた時、死を覚悟したことは想像に難くない 1 。秀吉が戦の遺恨を蒸し返し、その場で康政の首を刎ねる可能性も十分にあった。

主君である家康もまた、秀吉の意図を正確に理解していた。その上で、あえて康政を使者として送り出すことを決断した。これは、康政という家臣への絶大な信頼の証であると同時に、秀吉という人物の器量を試すという、家康自身の胆力をも示す行為であった 14

この対面は、もはや康政と秀吉という個人間の問題ではなかった。それは、戦で敵対した豊臣と徳川が、新たな主従関係を天下に示すための、極めて重要な政治的儀式であった。天下人となった秀吉が、かつて自分を最も激しく罵倒した徳川の家臣をどのように処遇するのか。その一点に、諸国の大名たちの注目が集まっていた。康政を許し、手厚く遇することで、秀吉は自らの度量の広さを天下に示し、家康に対して大きな「貸し」を作ることができる。逆に、私怨で康政を罰すれば、その器の小ささを露呈することになる。

死を覚悟した康政は、静かに旅支度を整え、京へと向かった。彼の双肩には、自身の命だけでなく、徳川家の未来をも左右する重責がのしかかっていたのである。

第五章:感服、敵将が見せた器

大坂城、あるいは聚楽第の一室。天下人となった羽柴秀吉の前に、榊原康政は静かに進み出た。息を呑んで成り行きを見守る周囲の緊張をよそに、秀吉は意外にも上機嫌であったと伝えられる 14

死をも覚悟した康政に対し、秀吉が発した第一声は、彼の予想を完全に裏切るものであった。秀吉は、あの檄文の件を怒りの表情一つ見せずに切り出し、真正面から賞賛してみせたのである。

「先の戦での檄文、あっぱれであった。敵を挑発するための見事な文言よ。」 12

「あの時は、何としてもそなたの首を刎ねてやろうと思ったものだが、今となっては、そなたの主君家康に対する忠節の篤さに感じ入っておるわ。」 16

秀吉の言葉に、康政は驚きを隠せなかったであろう。しかし、天下人の言葉はさらに続く。彼は、康政のような忠義の臣を持つ家康を羨むとさえ言った。

「そなたのような家臣を持つ家康殿が、実にうらやましい。」 12

そして、秀吉はさらに一歩踏み込み、敵であった康政との個人的な関係を築こうとするかのように、親しみを込めてこう問いかけた。

「わしも、そなたのことを『小平太』(康政の通称)と呼んでよいか。」 7

これは、秀吉が得意とする「人たらし」の真骨頂であった。罰する代わりに賞賛し、恐怖の対象から一転して敬意の対象へと相手を引き上げることで、その心を完全に掌握する。康政は、死を覚悟していたところを、命ばかりかその忠義と胆力までをも認められ、秀吉という人物の底知れぬ器の大きさに感服せざるを得なかったに違いない。

秀吉の演出は、言葉だけでは終わらなかった。彼は、康政の功を賞するとして、朝廷に働きかけ、陪臣(大名の家臣)としては異例中の異例である「従五位下・式部大輔」という官位を授けたのである 1 。これは、家康の家臣としては初の任官であった 7 。さらに秀吉は、康政のために盛大な祝宴まで開いたと伝えられる 12

この一連の対応は、秀吉が天下人たる所以が、単なる軍事力や経済力だけでなく、人の心を自在に操る圧倒的な能力にあったことを証明している。彼は康政を罰することで私怨を晴らすという小さな利益よりも、彼を許し、賞賛することで自らの度量を示し、徳川家臣団の心を掴むという、遥かに大きな政治的利益を選んだのである。康政の首にかけられた十万石の懸賞金は、こうして官位と祝宴という、全く逆の形の恩賞となって結実した。

終章:胆力譚の真髄

榊原康政の『家康の密書を懐に忍ばせ、敵陣の中を笑いながら通ったという胆力譚』。この逸話の真の姿は、本報告書で詳述した「十万石の檄文」事件にこそある。それは、物理的な敵陣突破という単純な武勇伝ではない。 言葉の刃で天下人の心の臓を貫き、その首に十万石の価値を付けさせ、最終的にはその胆力と忠義を敵将本人に認めさせた という、戦国史上類を見ない、知と勇が融合した物語なのである。

もし、康政が運んだものが秘密の「密書」であったならば、それは単なる諜報活動であり、成功か失敗かの二元論で評価されるに過ぎなかっただろう。しかし、彼が放ったのは、天下に公開された「檄文」であった。だからこそ、自らの命と主君の威信を賭けて天下の公論に訴えるという、極めて高度で精神的な「胆力」が問われたのである。それは、槍働きとは質の異なる、しかしそれに勝るとも劣らない勇気の表れであった。

この一連の出来事は、榊原康政という武将の多面性を鮮やかに描き出している。彼はただ槍を振るうだけの猛将ではない。主君への絶対的な忠義を胸に、自らが信じる「義」のためには命を賭けることを厭わない剛直な精神。そして、戦況を的確に読み、人の心理の急所を見抜く知略。さらには、その知略を具体的な言葉として紡ぎ出す文才。この逸話は、康政がこれら全てを兼ね備えた、稀代の「文武両道の将」であったことを我々に教えてくれる 3

同時に、この物語は、敵役である豊臣秀吉の器の大きさをも際立たせている。自らを最も激しく罵倒した敵の家臣を、戦が終わればその忠義を賞賛し、破格の待遇で迎える。敵対する者の中にも見るべき長所があれば認め、自らの糧とする度量。これこそが、彼を天下人たらしめた要因の一つであった 14

歴史の逸話は、語り継がれるうちに、より英雄的で分かりやすい形へと姿を変えていくことがある。言葉による高度な心理戦という複雑な物語が、やがて「密書を懐に敵陣を突破する」という具体的なイメージに置き換わっていったとしても不思議ではない。しかし、その根源にある史実を深く掘り下げた時、我々は単なる英雄譚を超えた、戦国武将たちの生々しい知略、覚悟、そして人間性に触れることができる。

榊原康政の胆力譚の真髄は、敵陣の中を物理的に駆け抜けたことにあるのではない。それは、天下の権力者の前でさえ自らの信義を曲げず、言葉の力で正義を貫き通した、その揺るぎない精神の強さにこそあるのである。

引用文献

  1. 文武に優れた「徳川四天王」榊原康政が辿った生涯|秀吉を本気で怒らせた家康の忠臣【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1108357/2
  2. (榊原康政と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/36/
  3. 歴史から学ぶビジネススキル|徳川家康の天下統一を支えた徳川四天王が残した教訓 - 野村證券 https://www.nomura.co.jp/wealthstyle/article/0069/
  4. 榊原康政、秀吉を悪口で挑発する〈十万石の激文〉(「どうする家康」129) https://wheatbaku.exblog.jp/33079613/
  5. 榊 原 康 政 公 ゆ か り 榊 原 康 政 公 ゆ か り - 館林市 https://www.city.tatebayashi.gunma.jp/s092/kanko/040/070/010/sakakibarayasumasamap.pdf
  6. 榊原康政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E5%BA%B7%E6%94%BF
  7. あの豊臣秀吉が激怒して懸賞金をかけた男!徳川四天王・榊原康政の「無」の境地とは? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/102916/
  8. 榊原 康政|武将コラム|豊田の歴史巡り - ツーリズムとよた https://www.tourismtoyota.jp/history/column/05/
  9. 榊原康政は何をした人?「達筆の挑発文で秀吉をキレさせ10万石の賞金首にされた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yasumasa-sakakibara
  10. 1584年の小牧長久手の戦いで、秀吉が榊原康政に激怒した理由とは? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/quiz/627
  11. 大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』第32回 - note https://note.com/taketak39460607/n/n0084dad96f59
  12. 榊原康政の檄文・羽柴秀吉激怒~小牧・長久手の戦い~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/komaki-nagakute-yasumasa.html
  13. 小牧長久手の激闘。榊原小平太筆「野人の子」と秀吉を誹謗中傷する ... https://serai.jp/hobby/1148031
  14. 秀吉に学ぶ憎い相手の対処法!榊原康政の10万石の檄文の逸話 https://sengokushiseki.com/?p=4020
  15. 「どうする家康」第32回「小牧長久手の激闘」 徳川家の覚醒と数正の孤独な懸念の理由 - note https://note.com/tender_bee49/n/nc0cdce405aaf
  16. 「榊原康政」あの秀吉を檄文で激怒させた勇将の生涯とは - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/558
  17. 関ヶ原に遅れた秀忠を榊原康政が懲罰覚悟でかばった深い理由…トップ継承の長期的ビジョンを持つ真の忠臣 徳川四天王で最もマイナーだが武勇にも知略にも優れていた (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/75841?page=2