最終更新日 2025-10-18

武田信玄
 ~夜城抜け出し市井の声を聞く~

武田信玄の「夜城抜け出し市井の声を聞く」逸話を分析。行動は創作だが、民情把握を重視し組織的情報網を構築した史実が、理想の為政者像として象徴化された歴史的創作。

武田信玄「夜城抜け出し市井の声を聞く」逸話の徹底解剖 ― 史実と伝説の狭間 ―

序章:甲斐の虎、民を聴く ― 逸話が描く理想の為政者像

戦国時代の甲斐国を治め、「甲斐の虎」と畏怖された武田信玄。その数多ある逸話の中でも、ひときわ異彩を放ち、後世の人々を魅了し続けてきた物語がある。「夜、城を抜けだし市井の声を聞いたとされる『忍び出歩き』。民情視察の先駆とされる逸話」である。この物語は、絶対的な権力者である大名が、その身分を隠して領民の中に分け入り、飾り気のない生の声に耳を傾けるという、時代を超えた理想の為政者像を鮮やかに描き出している。

この逸話が持つ魅力の根源は、統治者と被治者の間の隔たりを、信玄自らが越えていくという劇的な構図にある。家臣からの整えられた報告や、公式な訴えでは決して届くことのない、市井の片隅で交わされる本音、日々の暮らしにおける喜びや不満、そして領主への素朴な評価。それらを直接見聞きしようとする信玄の姿は、彼が単なる武勇に優れた覇者ではなく、民の安寧を第一に考える思慮深い統治者であったことを、何よりも雄弁に物語る。

しかしながら、歴史研究の厳密な視座に立つとき、このような英雄譚は慎重な検証を必要とする。人々の記憶に残りやすい逸話ほど、後世の脚色や理想化が加えられている可能性は否めない。本報告書は、この「忍び出歩き」の逸話にのみ焦点を絞り、その情景を歴史的蓋然性に基づいて再現することから始める。次に、逸話の源泉として最有力視される軍学書『甲陽軍鑑』を徹底的に分析し、史実としての根拠を探る。そして最終的には、この魅力的な伝説が、いかなる歴史的背景と人々の願望の中から生まれ、語り継がれてきたのかという、物語の核心に迫ることを目的とする。これは、単なる逸話の紹介ではなく、史実と伝説の狭間に横たわる武田信玄という人物の本質を解き明かす試みである。

第一章:逸話の情景再現 ― ある夜の甲府城下町

本章は、利用者からの「リアルタイムな会話内容」「その時の状態」という要望に応えるべく、歴史的蓋然性に基づき逸話の情景を物語として再構築する試みである。これは史実の記録そのものではなく、逸話が持つ精神性を具体的に描き出すための文学的再現である点を明記しておく。

第一節:月明かりの城下へ

時は永禄年間。越後の上杉謙信との激闘が繰り広げられた川中島の地から甲斐へと帰還し、束の間の静寂が躑躅ヶ崎館を包んでいた頃。深夜、館の主である武田信玄は、寝所を静かに抜け出した。側近の誰にも声をかけることなく、あるいは情報収集に長けた最も信頼の置ける供をただ一人だけ伴い、彼は闇に紛れる。その姿は、華美な着物を脱ぎ捨て、しがない商人か、あるいは故郷を離れた浪人を思わせる粗末なものであった。

信玄の居館である躑躅ヶ崎館は、天守閣を持つような堅牢な「城」というよりも、政庁を兼ねた広大な屋敷であった 1 。この構造的な特徴が、物々しい警備を掻い潜るというよりは、むしろ自然な形で館の外へと抜け出すことに、ある種 のリアリティを与えている。

なぜ彼は、危険を冒してまで自ら赴くのか。信玄の元には、「三ツ者」と呼ばれる隠密集団から、領内外の情勢が詳細に報告されている 2 。しかし、紙に記された文字や、部下によって整理された情報は、どこか血の通わないものであった。民がどのような顔で働き、どのような声で笑い、そしてどのような溜息をついているのか。その肌感覚、町の空気、報告書には決して現れない本音を知りたいという渇望が、この稀代の為政者を夜の闇へと駆り立てていた。

第二節:辻々の囁き

月明かりが照らす甲府の城下町は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。しかし、信玄が目指すのは、夜更けまで灯りが消えない場所であった。旅籠の隅にある小さな酒場、夜なべ仕事に励む職人の工房、あるいは夜警の詰所近くの井戸端。彼は身分を隠したまま、ごく自然にその場に溶け込んでいく。

とある酒場にて

信玄は酒を注文し、隅の席で他の客たちの会話に耳を澄ます。

商人A: 「また北信濃で戦支度が始まるとの噂だ。そうなれば、武具や兵糧の御用聞きで一儲けできるやもしれんが、その分、年貢もきつくなるのが常だからのう」

商人B: 「いや、それよりも塩の値が心配だ。越後の塩は相変わらず手に入りにくい。今川様との誼があるおかげで、駿河からの塩は安泰だが、万が一、今川家との仲がこじれれば、我らの暮らしは立ち行かなくなる」

旅の僧侶: 「お館様は治水事業には熱心で、釜無川の堤防のおかげで水害は減ったと聞く。それは誠に有り難いことじゃ。されど、戦が続けば、仏の慈悲も届きにくくなる…」

これらの会話は、武田家の軍事行動が民の経済活動に直結している現実、そして隣国との外交関係が彼らの生命線を握っているという事実を生々しく伝えていた。

職人の仕事場にて

通りすがりの旅人を装い、夜なべ仕事をする鍛冶師に声をかける。

信玄(旅人風に): 「夜遅くまでご苦労なこった。精が出ますな」

鍛冶師: 「ああ、旅の方かい。もうすぐまた大きな注文が入るんでね。槍の穂先を揃えておかにゃならんのだ。おかげで飯は食えるが、息子も来年には元服だ。いつ戦に駆り出されるかと思うと、気が気じゃねえ」

信玄: 「お館様は、領民思いだと聞くが」

鍛冶師: 「そりゃあ、法度はきちんとしておられるし、理不尽な取り立てはねえ。だが、戦に勝つということは、俺たちのような者の息子が血を流すことでもある。手柄を立てて侍になりてえと息巻いてはいるが、親心としちゃあ複雑なもんだ」

武士階級への憧れと、我が子を失うことへの恐怖。領主への敬意と、終わらない戦への疲弊。そのアンビバレントな感情こそ、家臣からの報告では決して掬い取ることのできない、民草の真情であった。

第三節:暁への帰還と省察

東の空が白み始め、一番鶏の声が聞こえる頃、信玄は館への帰路につく。道すがら、欠伸を噛み殺しながら巡回する足軽とすれ違う。一瞬、互いに視線が交錯し、緊張が走るが、足軽は薄汚れた旅人姿の男に特に注意を払うことなく通り過ぎていく。

館に戻った信玄の頭の中では、今宵見聞きした無数の言葉の断片が渦巻いていた。

「報告では『領民の忠誠心は高く、士気はおおむね良好』とあった。しかし、あの酒場の商人の顔は明らかに曇っていた。駿河との塩の道が、あれほどまでに民の不安の種になっているとは…」

「鍛冶師の息子か。若者たちの功名心と、それを案じる親心。手柄働きを奨励するだけでは、真の結束は生まれまい」

信玄は、持ち帰った生の情報を、諜報組織「三ツ者」からの整然とした報告と頭の中で照合し、その行間を埋めていく。報告書には現れない民の感情の機微、不満の小さな兆候を読み取り、それらを今後の政策へと繋げていく。それは、特定の物資の価格統制かもしれないし、戦で親を失った子弟への新たな手当かもしれない。あるいは、功を焦る若手家臣への厳しい訓戒となって現れるのかもしれない。この夜の「忍び出歩き」で得たものこそ、甲斐国を動かす、見えざる羅針盤となるのであった。

第二章:典拠を求めて ― 『甲陽軍鑑』に見る信玄の姿

逸話の情景を再現した上で、次なる課題はその歴史的根拠を探ることである。武田信玄に関する逸話の最大の源泉であり、その人物像形成に決定的な影響を与えたのが、軍学書『甲陽軍鑑』である。本章では、この『甲陽軍鑑』を徹底的に分析し、「忍び出歩き」の逸話がそこに記されているのか、そして記されていないとすれば、それは何を意味するのかを明らかにする。

第一節:『甲陽軍鑑』とは何か ― 史実と物語の交差点

『甲陽軍鑑』は、江戸時代初期に成立した全20巻(諸本により構成は異なる)に及ぶ長大な軍学書である 3 。その内容は、主に武田信玄・勝頼の二代にわたる事績、特に合戦の詳細を中心に、軍法や刑法、武士としての心得や理想が述べられている 3 。武田四天王の一人、高坂弾正昌信(春日虎綱)が口述した内容を、その家臣であった小幡景憲が編纂したと伝えられているが、近年の研究では、高坂の死後も甥の春日惣次郎ら複数の人物によって書き継がれたと考えられている 1

その史料価値については、古くから議論が絶えない。例えば、第四次川中島の合戦における信玄と謙信の一騎打ちの場面や、軍師・山本勘助の劇的な活躍など、『甲陽軍鑑』にしか見られない記述が数多く含まれている 3 。これらの記述は他の信頼性の高い一次史料では確認できないため、歴史的事実として扱うには慎重な史料批判が求められる 6

しかしその一方で、『甲陽軍鑑』は「武士道」という言葉が用いられた最も初期の文献の一つであり、戦国時代に形成された武士の精神性や倫理観を知る上で、他に代えがたい価値を持つことも事実である 3 。江戸時代を通じて甲州流軍学の教科書として広く読まれ、武家社会に絶大な影響を与えた 3 。近年の研究では、収録されている文書の中に、原本や良質な写しが確認できるものが多数存在することも判明しており、単なる創作物語として退けるのではなく、その記述を丹念に検証することで、戦国期の様相を解き明かす一級の史料となり得ることが再評価されている 4

第二節:『甲陽軍鑑』が語る信玄の統治 ― 逸話の思想的背景

『甲陽軍鑑』には、「忍び出歩き」の直接的な記述は見当たらない。しかし、この書物が描く信玄の統治哲学や人間観の中には、逸話を生み出すための思想的な土壌が豊かに存在している。

第一に、徹底した人材重視の哲学である。信玄の言葉としてあまりにも有名な「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という一節は、『甲陽軍鑑』が出典とされる 3 。これは、物理的な城郭よりも、家臣団の結束と人々の信頼こそが、国を守る最大の力であるという信玄の信念を象徴している。この思想は、為政者が常に「人」に関心を払い、その心を掴むことの重要性を説いており、「市井の声を聞く」という行動と精神的に深く結びついている。

第二に、多様な意見を尊重する姿勢である。『甲陽軍鑑』には、信玄が家臣の登用について語ったとされる、次のような言葉が記されている。「渋柿を切って甘い柿を継ぐのは、小身者のすることだ。中以上、特に国を持つような大名は、渋柿でその用を達することが多いものである」 8 。ここでいう「渋柿」とは、自分にとって耳の痛い、反対の意見を持つ家臣を指す。自分に都合の良い意見ばかりを聞くのではなく、あえて異見を持つ者を重用してこそ組織は強くなるという信玄の考え方は、家臣団内部にとどまらず、広く領民の声にも耳を傾けようとする能動的な姿勢の表れと解釈できる。

第三に、民衆の生活への細やかな配慮である。『甲陽軍鑑』には、家臣同士が些細なことで争い、刀を抜くに至らなかったことを信玄が厳しく叱責する逸話がある 7 。これは単なる尚武の精神の発露ではなく、武士の軽率な行動が領内の秩序を乱し、ひいては民衆に不安を与えることを戒める、為政者としての視点が含まれている。また、「下人に対し、寒熱風雨の時、憐憫すべき事」といった条項も存在し、社会の最下層にいる人々への配慮を説いている 7 。これらの記述は、信玄が単なる冷徹な戦略家ではなく、民の安寧を重んじる温和な一面も持ち合わせていたことを示唆している 8

第三節:逸話の直接的記述の不在 ― 決定的事実

国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開されている『甲陽軍鑑』の各種写本や版本 9 、あるいは原文の翻刻 12 、さらには長年にわたる専門家の研究成果を精査した結果、導き出される結論は明白である。武田信玄が「夜間に城(館)を抜け出し、町人の姿に変装して民の声を聞いて回った」という、具体的なエピソードを記した箇所は、『甲陽軍鑑』の中には一切存在しない。

この「不在」という事実は、逸話の起源を考察する上で極めて重要な意味を持つ。信玄に関する逸話の最大の宝庫であり、彼の「名君」としての側面を強調することに何のためらいもない『甲陽軍鑑』が、これほど劇的で為政者の鑑となるべき物語を収録しなかったのはなぜか。もしこの逸話が信玄の存命中に広く知られた事実であったならば、『甲陽軍鑑』の編者たちがこれを見逃したり、意図的に削除したりするとは考えにくい。

ここから一つの仮説が導き出される。すなわち、「忍び出歩き」の逸話は、『甲陽軍鑑』が成立した江戸時代初期よりも後、おそらくは江戸時代中期以降に、別の形で創作され、世に広まった可能性が極めて高いということである。そして、その物語が創作される際のインスピレーションの源泉となったのが、まさに『甲陽軍鑑』自身が描き出した「民を思い、多様な意見を求め、人材を何よりも大切にする」という信玄の理想的な為政者像であったと考えられる。

つまり、この逸話は『甲陽軍鑑』に「書かれていた」のではなく、『甲陽軍鑑』が作り上げた信玄のパブリックイメージを「下敷き」にして、後世の人々がより分かりやすく、より感動的な物語として具体化させたものなのである。逸話は、書物の中に直接的な記述がなくとも、その書物が醸成した思想的土壌から芽生えた、いわば「精神的な続編」であったと言えるのかもしれない。

第三章:逸話の真相 ― 「忍び出歩き」の歴史的実像

「忍び出歩き」の逸話が『甲陽軍鑑』に直接的な記述を持たない後世の創作である可能性が高いとすれば、次に問われるべきは、信玄が実際に民情をどのように把握していたのかという歴史的実態である。逸話が象徴する「民の声を聞く」という行為は、実際には一個人の偶発的な行動ではなく、高度に組織化された諜報・情報システムによって担われていた。本章では、その実像に迫る。

第一節:信玄の耳目「三ツ者」― 組織的民情把握システム

武田信玄が民情把握と敵情視察のために駆使したのが、「三ツ者(みつもの)」あるいは「透波(すっぱ)」と称される隠密集団であった 2 。彼らは単に敵地に忍び込む斥候や暗殺者のような存在ではなく、極めて専門化された役割分担を持つ情報機関であった。その名称が示す通り、主に三つの役割を担っていたとされる。

  1. 間見(かんけん): 諜報活動を主とし、敵地や自領内の情報を収集する役割。商人、僧侶、修験者、職人など、様々な身分に変装して諸国を渡り歩き、人々の会話や噂、物価の動向、兵の士気といった多岐にわたる情報を集めた 15 。逸話における「市井の声を聞く」という行為は、まさにこの「間見」の任務そのものであった。
  2. 見方(みかた): 謀略や調略を担当する役割。敵の武将に偽情報を流して内部分裂を誘ったり、寝返りを工作したりするなど、情報を用いた積極的な攪乱工作を行った 16
  3. 目付(めつけ): 監視を任務とする役割。敵の動向だけでなく、自軍の家臣や領民の不穏な動きを監視し、内部の結束を固めるための情報を収集した 16

この「三ツ者」の特筆すべき点は、その構成員が武士階級に限定されていなかったことである。百姓や町人など、様々な身分の者から能力に応じて登用されており、それゆえに市井の奥深くにまで溶け込み、生々しい情報を収集することが可能であった 16 。信玄は、彼らから集められた膨大な情報を自身の元で一元管理し、軍事作戦のみならず、内政の意思決定にも活用していたと考えられる。

第二節:「歩き巫女」と庶民の情報網

信玄の情報網は、「三ツ者」のような専門的な諜報組織だけではなかった。より民衆の生活に根差した情報収集手段として、「歩き巫女」と呼ばれる女性たちを活用したという説がある 14 。歩き巫女とは、諸国を遍歴しながら祈祷や口寄せ(降霊術)を行い、人々の悩みや相談に応じることで生計を立てていた女性たちである 14

彼女たちは、その職業柄、各地の村々に入り込み、特に女性たちの内密な話や家庭内の事情、地域の噂話などを自然な形で聞き出すことができた。女性であることから男性に警戒されにくく、また神仏に仕える者として、人々も心を開きやすかったであろう 18 。信玄は、この既存のネットワークに目をつけ、組織化することで、公式なルートでは決して得られないような、きめ細やかで深層的な情報を収集する手段としていた可能性がある。ただし、この歩き巫女組織を統括したとされる信濃国の望月千代女という人物については、その実在を証明する同時代の史料がなく、江戸時代以降に創作された架空の人物であるという見方が有力であることには留意が必要である 2

その他にも、武田氏は「かまり」と呼ばれる在地の人々を動員し、戦時には敵の進路妨害や伝令の阻止といったゲリラ的な活動を行わせていた記録がある 2 。これは、領内の隅々にまで情報網と支配体制が浸透していたことを示すものであり、信玄がいかに情報の重要性を認識し、多様な手段を用いて民衆を把握・動員しようとしていたかを物語っている。

第三節:結論 ― 個人の行動から組織的諜報へ

以上の史実を鑑みると、一つの明快な結論が浮かび上がる。武田信玄は、民情の把握を極めて重視していた。しかし、その手段は逸話が描くような、君主個人の偶発的でロマンティックな「忍び出歩き」ではなかった。それは、「三ツ者」や「歩き巫女」といった、多様な人材から成る高度な情報収集システムを構築し、組織的かつ継続的に運用するという、極めて合理的で先進的なものであった。

ここで、逸話が生まれたメカニズムについて、より深い考察が可能となる。史実として存在したのは、信玄が構築した「先進的な組織的民情把握システム」である。一方で、逸話が描くのは、信玄という「一個人の美徳に満ちた行動」である。この二つの間には、抽象的な「組織の機能」が、具体的な「個人の物語」へと変換され、象徴化されるプロセスが存在する。

なぜ、このような変換が起こったのか。その理由は、物語の持つ力にある。後世の人々、特に講談や読み物を楽しむ庶民にとって、「信玄は優れた諜報組織を駆使して民の動向を正確に把握していた」という説明は、無味乾燥で理解しにくい。それよりも、「心優しきお館様が、我々と同じ姿になり、自らの耳で我々の苦しみを聞きに歩いてくださった」という物語の方が、遥かに魅力的で、感情に訴えかけ、教訓としても分かりやすい 19

したがって、「信玄が夜城を抜け出した」という逸話は、史実ではない。しかし、それは全くの虚構でもない。この逸話は、 信玄が構築した先進的な組織的民情把握システムという歴史的事実が、後世の人々によって英雄譚として語り継がれる中で、「信玄個人の行動」として擬人化・象徴化されたもの なのである。逸話は、システムの功績をリーダー個人のカリスマへと帰結させる、英雄伝説が生まれる際の典型的な創造プロセスを経て誕生したと結論付けられる。それは、歴史の複雑な真実を、誰もが共感できる一つの美しい物語へと昇華させる、人々の集合的な創作活動の産物であった。

終章:伝説はなぜ生まれたか ― 武田信玄像の形成史

本報告書は、「武田信玄、夜城抜け出し市井の声を聞く」という逸話が、直接的な史実ではなく、信玄が構築した組織的な情報収集システムという史実が、後世に物語として象徴化されたものであることを明らかにしてきた。最終章では、この逸話がなぜ生まれ、人々によって広く受け入れられ、記憶され続けるに至ったのかを、文化的・歴史的背景から考察し、本報告全体の結論としたい。

逸話が形成された大きな要因の一つに、江戸時代における講談や軍記読みといった大衆芸能の隆盛がある。戦国の世が終わり、泰平の時代が訪れると、人々はかつての英雄たちの活躍を物語として楽しむようになった 19 。講談師は、「見てきたような嘘を言い」と揶揄されるように、史実を基にしながらも、聴衆を惹きつけるための dramatic な脚色をふんだんに加えた 19 。武田信玄は、徳川家康を唯一大敗させた武将として特に人気が高く、『三方ヶ原軍記』は講談の基本演目となるほどであった 19 。このような背景の中、信玄の偉大さや人間的魅力を分かりやすく示すためのエピソードが、数多く創作されていった。例えば、信玄が幼少期に妖怪古狸を退治したという話 20 や、野田城攻めの際に笛の音に誘われて狙撃されたという伝説 21 も、そうした創作の産物である。「忍び出歩き」の逸話もまた、信玄の「名君」ぶりを際立たせるための、格好の物語として生み出され、語られていったと考えられる。

さらに、この逸話が広く共感を呼んだ背景には、江戸時代の社会に根付いていた儒教的な価値観がある。儒教において、理想的な君主とは、天命を受けて民を治める者であり、常に民の声に耳を傾け、仁政を敷くことが求められた。信玄が身分を隠して民情を視察するという物語は、まさにこの「名君」の姿を完璧に体現するものであった。為政者にとっては自らを戒めるための教訓となり、庶民にとっては「自分たちの為政者もこうあってほしい」という願望の投影となった。この逸話は、信玄という一人の武将の物語であると同時に、時代を超えた理想の統治者像を映し出す鏡として機能したのである。

以上を以て、本報告書の結論とする。

「武田信玄、夜城抜け出し市井の声を聞く」という逸話は、その具体的な行動が歴史的事実であった可能性は極めて低い。その源泉とされる『甲陽軍鑑』にも、直接的な記述は存在しない。

しかし、この逸話は、信玄が実際に極めて民情に関心を寄せ、当時としては画期的な組織的情報収集システムを構築・運用していたという 歴史的本質 を、物語という凝縮された形で我々に伝えている。彼は、一個人の身体的な限界を超え、組織の力をもって領国の隅々にまで「耳」を届けようとした為政者であった。

したがって、この逸話は「史実ではないが、信玄という為政者の本質を捉えた 真実の物語 」であると評価することができる。伝説は、時に無味乾燥な事実の列挙よりも雄弁に、その人物の核心を後世に伝える力を持つ。武田信玄の「忍び出歩き」は、その最も優れた一例と言えるだろう。この物語は、甲斐の虎が、単なる武勇の覇者ではなく、民の心を知ろうと渇望し続けた稀代の統治者であったことを、今なお我々に語りかけているのである。

引用文献

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  3. 武田信玄と『甲陽軍鑑』 - 印刷博物館 https://www.printing-museum.org/etc/pnews/083_1.php
  4. 甲陽軍鑑 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91
  5. 武田信玄の名言・逸話49選 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/247
  6. 甲陽軍鑑の取り扱いについて - note https://note.com/gunkan2222neco/n/n71510971099a
  7. 戦国乱世の武士の在り方を記した『甲陽軍鑑』が、武士道の原型を伝えている - 煉誠館 https://rensei-kan.com/blog/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E4%B9%B1%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E3%81%AE%E5%9C%A8%E3%82%8A%E6%96%B9%E3%82%92%E8%A8%98%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%8E%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91%E3%80%8F/
  8. 信玄の『甲陽軍鑑』の教えはビジネスに生かせる|Biz Clip(ビズクリップ) - NTT西日本法人サイト https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-044.html
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  15. 武田信玄の忍者 〈透波・三ツ者・御師〉 https://ncode.syosetu.com/n2851cy/18/
  16. 望月千代女 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46542/
  17. 忍者とは?本来の役割や歴史に迫る。日本で最も有名な忍者は?忍術を体験できる場所もご紹介! | 株式会社アミナコレクション https://aminaflyers.amina-co.jp/list/detail/1515
  18. 武田信玄の忍者 歩き巫女/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/52395/
  19. 武田信玄公圧勝!「三方ヶ原の戦い」は講談師のお味方(ミカタ)!見方(ミカタ)がハラりと変わる講談のおはなし - 歴史人 https://www.rekishijin.com/16211
  20. 妖怪タヌキを斬り捨て御免!毛利元就と武田信玄、幼少期の大物伝説 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/174934/
  21. 『信玄鉄砲』あらすじ - 講談るうむ - FC2 http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/03-23_singenteppou.htm