最終更新日 2025-10-27

武田信玄
 ~村焼かず民奪わず地を得ず仁政譚~

武田信玄の仁政譚は後世の創作であり、実際は冷徹な現実主義者。偽りの神託や法度を駆使し、民衆を統制し国益を最大化した経営者としての実像に迫る。

武田信玄「民を奪えば地を得ず」仁政譚の深層分析:神話の起源と戦国統治の現実

序章:語り継がれる仁政の逸話

日本の戦国時代を代表する武将、武田信玄。その人物像を語る上で、数々の逸話が引き合いに出される。中でも、彼の統治者としての器量を象徴するものとして広く知られているのが、『敵地の村を焼かず、「民を奪えば地を得ず」と命じた』という仁政譚である。この言葉は、信玄を単なる勇猛果敢な武将ではなく、民を慈しみ、国家経営の根本を理解していた「仁君」として描き出し、そのパブリックイメージの核心を形成してきた 1

しかし、この鮮烈な印象を与える逸話は、果たして歴史的事実として語りうるものなのだろうか。それとも、後世の人々が理想の君主像を投影し、時間をかけて創り上げた一つの「神話」に過ぎないのか。本報告書は、この一点の逸話にのみ焦点を絞り、その源流、歴史的背景、そして史実との乖離を徹底的に検証する。これにより、理想化された信玄像の奥に潜む、より複雑で多面的な統治者としての実像に迫ることを目的とする。

第一章:逸話の源流を探る ― 文献上の不在と意味論的考察

第一節:『甲陽軍鑑』の沈黙

武田信玄の言行や思想を後世に伝えた最も重要な文献は、江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』である 3 。この書物は、武田家の戦略・戦術から家臣団の逸話、信玄の日常の言動に至るまでを網羅的に記述しており、江戸時代を通じて甲州流軍学の聖典として広く読まれ、現代に至るまで信玄の人物像を決定づけてきた 4

したがって、件の仁政譚の典拠を求めるならば、まず『甲陽軍鑑』を精査するのが正攻法である。しかし、驚くべきことに、その全20巻にわたる広範な記述の中に、「敵地の村を焼かず」や「民を奪えば地を得ず」といった直接的な命令や言葉は、 一切記録されていない 。これは、この逸話の史実性を考察する上で、極めて重大な事実である。

『甲陽軍鑑』は、信玄を理想的な武将として描く傾向が強い書物である。その書物にすら直接的な記述が存在しないという事実は、この逸話が『甲陽軍鑑』そのものではなく、それを源流としてさらに派生した、後代の講談や創作物の中で、より分かりやすく、より理想化された形で形成された可能性を強く示唆している。つまり、信玄の統治思想の「エッセンス」とされるものが、物語として流布する過程で純化・先鋭化され、象徴的な言葉として結晶化したのではないかと考えられる。

第二節:「民を奪えば地を得ず」の思想的背景

この言葉が内包する思想は、戦国時代に信玄が独自に生み出したものではない。その源流は、古代中国の兵法書や儒教思想にまで遡ることができる。例えば、信玄が深く学んだとされる『孫子』には、民衆の支持を得ることの戦略的重要性が説かれている 6 。また、春秋戦国時代の思想書である『管子』には、「倉廩実つれば、則ち礼節を知り、衣食足れば、則ち栄辱を知る(穀物倉が満ちていれば民は礼儀を知り、衣食が足りていれば名誉と恥辱をわきまえる)」とあり、民生の安定こそが国家統治の礎であるという思想が明確に示されている 7 。さらに、『孟子』は一貫して王道政治、すなわち仁義に基づく民を第一とする統治を説いている 8

これらの古典思想は、武将としての教養の一部であった。したがって、「民を奪えば地を得ず」という言葉は、信玄自身の発言の正確な記録というよりも、後世の知識人や語り部たちが、信玄の行った善政(後述)を儒教的な徳治主義の文脈で解釈し、理想の君主像として語る際に、これらの古典思想を背景に信玄に仮託して創作した格言である可能性が高い。信玄の統治実績と、江戸時代に支配的イデオロギーとなった儒教思想が結びつき、「民を奪えば地を得ず」という、簡潔で教訓的な言葉に集約されていったと推察される。

第二章:戦国の常識「乱妨取り」― 仁政の対極にある現実

第一節:「乱妨取り」の機能と実態

信玄の仁政譚を歴史的文脈の中に正しく位置づけるためには、戦国時代の合戦における「常識」であった「乱妨取り(らんぼうどり)」、または「乱取り」について理解することが不可欠である。これは、敵地において兵士たちが村落や町屋を襲い、食料や金品、さらには住民(特に女性や子供)を略奪する行為を指す 9 。現代の価値観からは非道な蛮行と映るが、当時の戦争においては複数の合理的な機能を持つ、制度化された慣習であった。

  1. 兵士への恩賞機能: 正規の俸給制度が未発達であった当時、特に雑兵と呼ばれる下級兵士にとって、乱妨取りで得られる略奪品は、命を懸けて戦ったことへの唯一無二の報酬であった。大名はこれを許可することで、兵士の士気を維持・向上させていた 9
  2. 兵站の現地調達機能: 数千から数万の軍勢が長期間にわたり遠征を行う際、後方からの補給線(兵站)の維持は極めて困難であった。そのため、食料や物資を敵地で直接調達する「現地調達」は、軍事行動を継続するための生命線であり、乱妨取りはその主要な手段であった 12
  3. 敵国への戦略的打撃機能: 乱妨取りは、敵国の経済基盤である農村を破壊し、生産力を削ぐことで、相手の戦争継続能力を直接的に減退させる効果があった。さらに、住民に恐怖を与えて敵対心を挫き、領主への不信感を煽ることで、降伏や内応を促す心理戦・消耗戦としての一面も持っていた 13

この乱妨取りは、特定の悪逆な大名だけが行ったわけではない。「義将」として知られる上杉謙信でさえ、関東出兵の際にはこれを公認し、兵士たちの「出稼ぎ」の手段としていたことが指摘されている 9 。乱妨取りは、善悪の彼岸にある、戦国の戦争経済を支えるシステムそのものであった。

第二節:武田軍と「乱妨取り」

では、武田信玄の軍勢はどうであったか。信玄を理想化する『甲陽軍鑑』自身の記述が、その実態を雄弁に物語っている。例えば、越後への侵攻作戦に際して、武田軍が敵地で「火を放ち、女性や子どもを連れ帰った」様子が生々しく描かれている 13 。さらに同書は、乱取りによって「武田の家の者共、かせもの・小もの・ぶども迄はぎとり」「国の冥加つきはて申すべく候」と、略奪によって兵士の装備が充実し、国が豊かになったと、むしろ肯定的に記述している箇所すら存在する 13

ここに、「仁政譚」と「乱妨取り」の現実という、一見すると完全な矛盾が浮かび上がる。しかし、戦国大名の論理においては、これらは矛盾なく両立しうるものであった。その行動原理は、近代的な人道主義や普遍的な仁愛ではなく、あくまで自国の生存と拡大という、極めて現実的な国益に基づいていたからである。すなわち、自国の領民は税収と兵力の源泉、すなわち「国力」そのものであるため、手厚く保護する。一方で、敵国の民や財産は「敵の国力」そのものであり、これを奪い、削ぎ、破壊することは、自国の勝利に繋がる合理的な戦略となる。この冷徹なまでのリアリズムこそが、信玄の行動を理解する上での鍵となる。

第三章:もう一つの物語 ― 信濃侵攻における「偽りの神託」

利用者が求める「リアルタイムな会話」や「時系列」の要素を最も色濃く反映し、信玄の現実的な統治術を浮き彫りにする逸話が、江戸時代中期の編纂物である『名将言行録』に記録されている。これは、理想化された仁政譚とは全く異なる、しかし遥かに具体的で人間臭い信玄の姿を映し出す、極めて示唆に富んだ物語である。

第一節:状況設定 ― 天文十一年(1542年)信濃侵攻

物語の舞台は、信玄が父・信虎を追放し、家督を継いで間もない天文11年(1542年)10月の信濃侵攻である。この戦において信玄は、新たに味方に加わった国衆たちの士気を鼓舞し、その忠誠心を確かなものにするため、あえて「乱取り」を許可した。これが、予期せぬ事態の幕開けとなる 14

第二節:信玄の葛藤 ― 勝利への焦りと軍規の弛緩

  • 時系列①(乱取り許可後):
    信玄の許可を得た兵士たちは、本来の目的である戦闘そっちのけで、略奪行為に熱中し始めた。「下郎どもはもともと乱取りは大好きだから、夜も明けぬうちから走り出ていって、夢中になり、ようやく夕方になって帰ってくる」という有様であった 14。その結果、本来、敵の攻撃に備えるべき本陣は手薄になり、もし敵に急襲されれば一瞬で壊滅しかねない、極めて危険な状態に陥った。
  • 信玄の内心の会話(推察):
    この状況に、若き総大将である信玄は強い焦燥感を覚えたであろう。「諸卒が陣をよそにして走り出ていて陣が空っぽだということにでもなれば、どうやって敵にあたることができよう」 14。勝利のために許可した乱取りが、逆に敗北の原因になりかねない。このジレンマに、信玄は深く苦悩した。
  • 信玄のジレンマ:
    しかし、一度許可したものを一方的に禁止すれば、兵士たちの間に深刻な不満が鬱積し、士気は地に落ちるだろう。かといって、違反者を見せしめに厳しく処罰(誅伐)すれば、味方の結束を損ない、かえって軍を弱体化させかねない。「わしが乱取り禁止の命を下したとしても、こっそり人目をかすめ、夜に紛れて出かけてしまうと、誅伐するほかはない。陣中で人を誅するということは、主将たる者のなすべきことではない」 14。信玄は、直接的な強制力に頼るのではなく、兵士たちが自らの意志で非を悟り、略奪を自重するような状況を作り出すしかない、という結論に至る。

第三節:計略の策定と実行 ― 重臣たちへの密命

ここで信玄は、単なる武将ではなく、人心掌握に長けた策略家としての一面を見せる。彼は、兵士たちの強い信仰心を利用した、巧妙な計略を思いついた。実行役として白羽の矢が立てられたのは、武田軍の中核をなす先鋒の重臣たち、 甘利虎泰(あまりとらやす) 板垣信形(いたがきのぶかた) 、そして**飯富虎昌(おぶとらまさ)**の三名であった。信玄は彼らを密かに呼び寄せ、一世一代の芝居を打つよう密命を下した 14

第四節:「リアルタイムな会話」の再現 ― 三将軍、同じ夢を見る

  • 時系列③(天文11年10月21日夜):
    二日間の乱取りが許された翌日の夜。板垣信形の陣幕の中は、揺らめく篝火に照らされていた。そこへ、甘利虎泰が深刻な面持ちで訪れる。
    甘利虎泰: 「板垣殿、今宵、まことに奇妙な夢を見た。夢枕に、諏訪大明神の神使だと名乗る大山伏が現れてな。『このたび下郎どもが乱暴狼藉をしているのは、あるまじき非道である。早く止めさせよ』と、烈火のごとき形相で告げられた。そう言われるや否や、はっと目が覚めたのだ」 14
    板垣信形: 甘利の話を聞き、板垣は心底から驚いたという表情を作り、声を上げた。「なんと! 甘利殿、それはまことか! 実は、それがしが見た夢と寸分違わぬ!」
    まさにその時、飯富虎昌が慌ただしく陣幕に駆け込んできた。
    飯富虎昌: 「両名様! 大変なことにござる! それがしも今、全く同じ夢を……! 諏訪大明神様のお怒りに違いありませぬ!」 14
    三人の歴戦の将軍が、同じ夜に同じ神託を受けたと恐れおののく。この迫真の演技は、計略の成功を決定づけるものであった。

第五節:計略の成功と波及効果

  • 時系列④(翌朝):
    夜が明けると、甘利、板垣、飯富の三将は、それぞれの配下の兵たちに「昨夜、諏訪大明神の恐ろしい神託があった」と伝え、即刻、乱取りを厳しく禁じた。
  • 噂の拡散:
    「諏訪大明神様がお怒りだ」という噂は、兵士たちの間に燎原の火のごとく広がっていった。神仏への畏敬の念が現代とは比較にならないほど強かった時代、その効果は絶大であった。神罰を恐れた兵士たちは、誰一人として略奪に出ようとする者はいなくなった。
  • 結果:
    信玄は、一人の処罰者も出すことなく、また兵士の不満を招くこともなく、弛緩した軍規を回復させ、戦闘態勢を再構築することに成功したのである 14。

この逸話は、信玄が単なる理想論を掲げる「仁君」ではなく、目的達成のためには「偽りの神託」さえも利用する冷徹な リアリスト であり、人間の心理を巧みに操る 策略家 であったことを如実に物語っている。彼の行動原理は、抽象的な「民への慈悲」ではなく、「軍事目的の達成」と「組織統制の維持」という、極めて現実的なものであった。提示された仁政譚が理想化された静的な肖像画だとすれば、この物語は信玄の思考のプロセスまで追体験できる、生々しいドキュメンタリーと言えよう。


表1:二つの逸話にみる武田信玄像の比較

比較項目

仁政譚(伝承)

「偽りの神託」譚(『名将言行録』)

典拠

不明確(後世の講談・創作の可能性)

『名将言行録』 14

状況

敵地侵攻時

信濃侵攻時、乱取り許可後の軍規弛緩時

信玄の行動

焼き討ちや略奪を 最初から禁止

一度は略奪を 許可 し、後に 計略で停止 させる

発せられた言葉

「民を奪えば地を得ず」(とされる)

(重臣への密命と、その結果としての「神託」)

行動の動機

仁愛、民衆への慈悲

軍規の維持、戦闘準備の確保、組織統制

示される信玄像

理想的な仁君、道徳家

現実的な策略家、人心掌握の達人


第四章:統治者としての貌 ―『甲州法度之次第』に見る民衆観

第一節:法による領国経営

信玄の統治思想を解き明かす上で、軍事上の逸話と並んで不可欠なのが、彼が天文16年(1547年)に制定した分国法『甲州法度之次第(信玄家法)』である 16 。これは、信玄個人の感情や温情による場当たり的な支配ではなく、成文化された法に基づく、合理的かつ制度的な領国経営を目指したものであった 18 。戦国大名が領国を一元的に支配し、地域国家としての独立性を高めていく「大名領国制」の典型例である 19

第二節:条文に見る「民」の保護とその論理

『甲州法度之次第』の条文を詳細に分析すると、信玄の民衆に対する現実的な視座が浮かび上がる。例えば、法度の中には、国人や地侍といった中間領主が、理由なく農民から名田(みょうでん、耕作地)を取り上げることを禁じる条項が存在する 17 。これは一見すると、農民を保護する「仁政」そのものに見える。

しかし、その真の目的は、より多層的であった。第一に、中間領主層の経済的基盤を制限し、その力を削ぐことで、大名である武田氏への権力集中を徹底する狙いがあった 20 。第二に、農民の耕作権を安定させることで、彼らの生産意欲を維持し、国家の財政基盤である年貢の徴収を確実なものにするという、極めて経済合理的な目的があった 21 。民の保護は、それ自体が目的ではなく、国力を維持・増強するための手段として位置づけられていたのである。

さらに注目すべきは、「自分(信玄)が法度に違反することがあれば、誰でも投書で申し出るように」とし、「内容によっては自らも覚悟をする」と定めた条文である 16 。これは、信玄が「公平な仁君」であったことを示すと同時に、君主自身も法の支配に服するという姿勢を示すことで、法の権威を絶対的なものとし、家臣団と領民に対する統制を盤石にするという、高度な統治技術でもあった。

第三節:「人は城、人は石垣、人は堀」の再解釈

信玄の統治思想を象徴する言葉として、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」が広く知られている 25 。この言葉は、しばしば情愛や信頼の重要性を説く精神論として解釈されがちである。しかし、本章で見てきた信玄の合理的な統治術の文脈で捉え直すと、その意味はより深く、戦略的なものとなる。

この言葉の本質は、単なる情愛論ではない。むしろ、「国家の安全保障における最大の資源は『人』であり、その民衆の生産力と忠誠心を法と制度によって維持・管理することこそが、いかなる物理的な城塞よりも強固な国防となる」という、極めて高度な 国家経営戦略思想 の表明と解釈すべきである。敵地で略奪を行う一方で、自国の民は法によって保護し、その生産力を最大限に引き出す。この一貫した論理こそが、信玄の統治の根幹をなしていた。

提示された仁政譚が、信玄の民衆観を「個人的な慈悲」というミクロな視点で描いているのに対し、『甲州法度』や「人は城」の思想が示すのは、「統治システム」というマクロな視点での民衆管理である。信玄の真の偉大さは、個々の場面で見せる優しさではなく、国家全体の持続的発展を見据えた制度設計能力と、それを実現する冷徹なまでの現実主義にあったと言える。

結論:仁将の神話と実像の狭間で

本報告書における徹底的な調査の結果、利用者が提示した『敵地の村を焼かず、「民を奪えば地を得ず」と命じたという仁政譚』は、その典拠を一次史料に確認することができず、江戸時代以降、甲州流軍学の流行や講談などを通じて形成され、理想化された「神話」である可能性が極めて高いと結論付けられる 4 。戦国時代の戦争経済の実態である「乱妨取り」は、武田軍においても例外なく行われており、この仁政譚は史実とは相容れない。

これに対し、『名将言行録』に記された「偽りの神託」の逸話や、統治の根幹をなす『甲州法度之次第』の条文は、より史実性の高い、別の信玄像を我々に提示する。それは、神仏さえも組織統制の道具として利用する冷徹な 策略家 であり、人心の機微を読み解く 心理学者 であり、そして国益の最大化を至上命題とする合理的な 経営者 としての姿である。

武田信玄の真の偉大さは、後世に創られた清廉潔白な「仁君」のイメージの中にのみ見出されるべきではない。むしろ、戦国という過酷な時代において、清濁併せ呑み、時には非情な計略を用いながらも、法と制度という合理的なシステムによって領国と民に安定をもたらそうとした、その卓越した 現実主義(リアリズム)と統治能力 にこそ、その本質がある。この複雑で多面的な実像こそが、彼を単なる物語の英雄ではなく、戦国史上屈指の名将たらしめているのである。

引用文献

  1. 武田信玄 | GOOD LUCK TRIP - 好運日本行 https://www.gltjp.com/ja/directory/item/16843/
  2. 【解説マップ】武田信玄はどんな人?性格や生涯など図解でわかりやすく - マインドマイスター https://mindmeister.jp/posts/takedashingen
  3. 甲陽軍鑑 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91
  4. 令和6年度日本大学文理学部資料館展示会「『甲陽軍鑑』と軍学書・軍記物-酒井憲二旧蔵書-」をもっと楽しめる!おすすめ本5選|cumagus - note https://note.com/cumagus/n/nf053ad5fdaa0
  5. 川中島合戦はなぜ起こったのか、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは本当なの? - 額縁のタカハシ https://www.gakubuti.net/framart/why_happen.html
  6. 孫子の兵法:九地篇 - 長尾一洋 OfficialSite https://www.kazuhiro-nagao.com/suntzu/kyuchi.html
  7. 凡そ地を有ち民を牧ふ者は、務め四時に在り、守り倉廩に在り。… | 今日の漢文 | web国語の窓 https://kokugonomado.meijishoin.co.jp/posts/984
  8. 孟子 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90
  9. 『戦国時代の闇』大名たちが黙認した残酷な「乱妨取り」~雑兵の報酬は“略奪”だった https://article.yahoo.co.jp/detail/4771bad9c5a75cc3bfa47d15bb6ae09d63be31f2
  10. 論功行賞からの恩賞で貰える褒美と黙認された乱妨取りの闇 - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/reward
  11. 朝日選書 新版 雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り (新版) - 紀伊國屋書店 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784022598776
  12. 実はよくわかっていない、戦国合戦における「物資の補給と管理」その真相とは - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/76601
  13. 敗北を徹底的に拒絶し、清濁を併せ呑んで国を守ろうとした『甲陽軍鑑』の武士たち https://rensei-kan.com/blog/%E6%B8%85%E6%BF%81%E3%82%92%E4%BD%B5%E3%81%9B%E5%91%91%E3%82%93%E3%81%A7%E5%9B%BD%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%8E%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91%E3%80%8F/
  14. 武田信玄は元祖コント師!?人身売買など戦場の「略奪禁止」に ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/173041/
  15. 偏愛と義侠の武将・上杉謙信 | 天下静謐 – 乃至政彦Webサイト http://www.twinkletiger.com/2016/01/14/just_war/
  16. 父親追放を決断した信玄の「大義と規律」とは | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) https://president.jp/articles/-/3564?page=1
  17. 甲州法度次第 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E6%B3%95%E5%BA%A6%E6%AC%A1%E7%AC%AC
  18. 甲州法度次第 - 箕輪城と上州戦国史 - FC2 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E6%B3%95%E5%BA%A6%E6%AC%A1%E7%AC%AC
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  21. ビジネスの起源と日本史 1 https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/record/2395/files/SG57103.pdf
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  23. 武田信玄(たけだ しんげん) 拙者の履歴書 Vol.4~山岳に鍛えし甲斐の虎 - note https://note.com/digitaljokers/n/na75416384bfa
  24. 【計編】孫子の兵法と甲陽軍鑑 - note https://note.com/gunkan2222neco/n/n8231f47de4c1
  25. 戦国武将が生み出した名言/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/25593/
  26. 信玄公のまち 古府を歩く|「人は城」の国づくり 軍旗「風林火山」の戦略 - 甲府市 https://www.city.kofu.yamanashi.jp/shingenkou-no-machi/wartactics.html
  27. 戦国最強の上杉謙信が「義の心」貫いた深い理由 宿敵の武田信玄も「信頼していい人物」と評価 https://toyokeizai.net/articles/-/416733?display=b